2012年5月25日 (金)
問題解決と鍋の蓋
現実世界とは実に複雑であり、人間も自分を含め実に複雑精密であり、しかも人それぞれ多種多様である。
だから世界を「ありのまま」に見ようとすればするほど、本当の意味での問題解決などあり得ず、世界には絶望しか存在しない。
世界に対し、正直に、誠実に向き合うと、そこには絶望しか存在しない。
その絶望に、真正面から向き合うことが、アートであり、哲学なのだ。
だから世界を「自分の分かる言葉」に置き換え、納得することで問題解決を図る方法論は、一種の詐術にすぎない。
しかし人間は誰でも《想像界》という詐術の世界に生きるので、詐術としての問題解決は(逆説的だが)現実的に有効なのである。
つまりあらゆる問題解決の方法は、デザインにしろ、現代思想にしろ《想像界》において作動する。
これに対しアートや哲学は《想像界》の外部で作動する。
世界認識とは《想像界》の否定であり、それが般若心経の「色即是空」なのである。
そして、アートとは実に、《想像界》の否定という逆説の上に成立している。
例えば、仏教もキリスト教も「偶像の否定」を明確に説いているが、後の時代に仏教美術もキリスト教美術も発生し公認され、そのような矛盾の上にアートは成立し、その矛盾に向き合う事が「世界認識」としてのアートなのだ。
あるいは古代ギリシアの大哲学者ソクラテスはアートを「一段低いものである」と説いたが、ルネッサンスの大芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチはそれを踏まえながらアートを「一段高いもの」へと押し上げたのだ。
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相手が自分に対し、どれだけの量の嘘をついているのかをよく観察すること。
そうすれば、自分が相手に対し誠実に接することが、必ずしも相手のためになるわけではないことが、了解できる。
「いかに考えるか?」と「いかに考えないか?」を同時進行させ、「いかに真実を語るか?」と「いかに嘘をつくか?」を同時進行させること。
「真実」は《想像界》の内に存在しない。
「誠実さ」も《想像界》の内に存在しない。
それらは《想像界》を打ち破るものであり、《想像界》を「現実」と思いなして生きる人は、誰もそれを望んではいないのである。
《想像界》の精神のみに生きる人たちに対し、《象徴界》の言葉を投げかけることは無意味であるばかりでなく、無用なトラブルの元になる。
《想像界》の精神に生きる人に対しては《想像界》の言葉だけを投げかける事が有効で、しかも《想像界》の言葉とは、「嘘」であり「詐術」であり「真実」ではないのである。
孫子は『兵法』で「敵に勝つためには、まず相手のことをよく調べる事」と述べているように、問題解決のためには対象物を調べ良く認識することが重要である。
しかし物事を真面目に認識すればするほど、あらゆる問題解決は詐術に過ぎない事が明らかとなる。
世界を詳しく調べれば、調べた分だけ問題は解決する。
しかし調べた分だけ、問題が解決不可能であることも明らかになる。
あらゆる問題解決は鍋の蓋のようなもので、鍋の中身の問題そのものは決して消去できない。
例えば、人間は自分を変えることはできても、世界そのものや他人を変えることはできない。
自分にしても、可能な範囲内でしか変えることができず、せいぜい「鍋の蓋」でしかないのだ。
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あらゆる苦悩は《想像界》との対決にあり、《想像界》の内部での苦悩はたとえそれが自殺に至ったとしても、真の苦悩とは言えない。
《想像界》の中で悩んだフリをして、自己満足の内に自殺する人がいる。
少なくとも自分の父親がそうであり、その意味では幸せな人だったと言える。
自分への死刑宣告を甘んじて受け入れた、ソクラテスやキリストと比べるべくもない。
つまり自分の「小さな都合」で自殺するのと、ソクラテスやキリストのように「大きなものを背負って」死を選ぶのは、意味が違う。
ソクラテスについては、プラトンの著書を読めばわかるとおり、積極的に死を選んだのではなく、「逃げない」ことを決意した結果、死刑を受け入れたに過ぎない。
だから「逃げる」ことの結果としての自殺は道場に値しないし、実に大したことでもないのである。と、考えることもできる。
「逃げる」という結果として自殺したり、「逃げる」という結果として死から逃れることがある。
また「逃げない」という結果として自殺を思いとどまったり、「逃げない」という結果としてしを受け入れる場合もある。
「弱い人」についての解決策は「強い人になる」と「弱い人のまま保護される」の二種類がある。
「弱い自分」についてもまたしかり。
自分の場合は、大嫌いだった父親が自殺したせいもあって、自殺者や、まして自殺をほのめかして気を引こうとする人に対しては、非常に冷たい。
『天才バカボン』で「自殺する!」と口走った後輩にパパが「だったら死ぬとこ見てみたい、すぐ死ね!」と迫る話があったが、それに同調する自分も病気だ。
デザインと問題解決
@Stakesh: デザインとアートの違いとは何か? http://t.co/ZjsIEvJJ デザインとは問題解決であり、アートとは自己表現である
これを「デザインとは問題解決であり、アートとは世界認識である」と言い換えると、さらに「自己表現とは世界認識である」と言い換えることができる。
「自己」とはとてもちっぽけなもので、だから「アートとは自己表現である」というようなちっぽけなものではない。
そうではなく、アートとは、自己がどのように世界という大きなものを認識したのか?その反映であり、表明なのである。
アートには、アーティストの世界認識そのものが現れている。
世界を深く捉えているアーティストの作品は深く、世界を浅く捉えているアーティストの作品は浅い。
「問題解決:世界認識」という対比は、デザインとアートだけではなく、現代思想と哲学の関係にも当てはまる。
高田明典さんによると、現代思想は現実の問題解決を目指し、形而上の思索に耽る哲学とは袂を別けた。
つまり現代思想はデザインなのである。
ぼくは高田明典さんの影響で、自分の思索を問題解決の方法として自覚していた。
しかし彦坂尚嘉さんには「糸崎さんは何でも自分のわかる言葉に置き換えてしまう」と非難された。
つまり、難解な概念や複雑な現実問題を「自分の分かる言葉」に置き換えると、それはデザイン化であり、だからこそ具体的な問題解決に結びつく。
結局のところ《現実界》を「身体」という別の言葉に置き換えたこと自体、彦坂尚嘉さんに非難されたのだが、しかしまず自分のやりたいようにやって失敗してみないと、理解できないこともある。
それだけ《現実界》という概念は、自分にとって現実離れして難しい。
《現実界》が「身体」の領域であれば、産業革命以後は「身体の拡張の時代」であり、だから《現実界》の台頭なのであり、《現実界》の精神だけの人間が現れてもおかしくない。
それは産業革命によってもたらされた「拡張された身体」に見合った精神のありかたと言えるかもしれない。
あらゆる生物は「種」に別れている。イヌなイヌであり、エンマコオロギはエンマコオロギであり、キンポウゲはキンポウゲであり、ヒトはヒトなのだ。
だからどれだけ自分が嫌いで問題があると思える他人でも、どれだけ凶悪な犯罪者でも、どれだけのキチガイでも、全部「自分自身」の問題でしかない。
…などといろいろ考えてみたのだが、ともかく、言葉とは光のようなものである。
光を当てると「そのもの」が何であるか認識できるが、同時にそれは「光の反射」に過ぎず、何ら実態を認識したことにはならない。
だからこそ、様々な角度から見て、様々な種類の光を当て「そのもの」を認識せざるを得ない。
言葉と「そのもの」の関係もまた同じ。






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