2009年7月 6日 (月)

積極的に誤読する

Sr8455283

積極的に誤読する

ぼくなりの「バカのための読書術」を解説したすぐに忘れる読書術イキナリ応用しながら読むの続き。

読書をする場合「何のために読書するか」と言う動機が重要であり、それによって読書法は変わるだろう。
小谷野敦さんの『バカのための読書術』では、「自分がバカなのはわかっているが、しかし自分なりに知識や教養を身に付けたい」というような動機を持つ人を対象に書かれている。
確かにぼくにもそのような動機があるが、しかしぼくの主な動機は別なところにある。

ぼくが本を読む一番の目的は、「非人称芸術」やその上位概念の「鑑賞主義(仮)」とは何か?を知るためである。
しかし「非人称芸術」も「鑑賞主義(仮)」も、ぼくが適当に思いついた概念なので、それについて書かれた本はこの世に存在するはずもない。
ところが、いろいろな本を読んでいると「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について、断片的に書かれていることが「発見」出来るのである。
一見、そういうこととは無関係な記述のようでいて、しかし解釈の仕方によると、それは確かに「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について書かれている。
そういう記述を探しながら、ぼくは読書をするのである。

ぼくが関係のない文章をそのように読めてしまうのは、ありていに言えば「勘違い」であり「誤読」である。
しかしそのように積極的に、あるいは意図的に「誤読」することで、自分なりのコンセプトを構築するのが、アーティストとしてのぼくの方法論なのである。

例えば、ぼくの作品集『フォトモの物件』の巻末テキストは、高田明典さんの『ポストモダン再入門』がベースになっている。
ぼくはこの『ポストモダン再入門』を、「非人称芸術とその可能性」について書かれた本であると、意図的に誤解しながら読み、そして自分が「分かった」つもりのことを「自分の考え」として書いたのである。
もちろん、『ポストモダン再入門』だけでなく、『今日の芸術』(岡本太郎)や『はじめての構造主義』(橋爪大三郎)や『現代思想の冒険』(竹田青嗣)など、これまでさまざまな本を「誤読して得られた知識」がこのテキストには盛り込まれている。

また、『フォトモの物件』の出版後に読んだ中島義道さんや、宮台真治さんや、内山節さんや、日高敏隆さんの本にも、「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」についての非常に重要な記述が発見できる(気がする)。
そのように、自分のコンセプトに役立つ部分を拾い読みしながら、いろいろな分野の読書をするのである。
このような読書法もまた、「器用な素人」ならではの「ブリコラージュ」だと言えるだろう。

ただし前途したように、このような「ブリコラージュ」は「トンデモ理論」と紙一重の危険性がある。
方法論としての「積極的誤読」は、「ノストラダムスの大予言」や、雑誌「ムー」や、「オウム真理教」などの「トンデモ理論」の常套手段でもあるのだ。
しかし「ブリコラージュ」は必ずしも「トンデモ理論」になるわけではない。
両者の違いは、ブリコラージュが「機能する」のに対し、トンデモ理論が「機能しない」点にあり、これはかなり大きい相違点だ。

「ブリコラージュ」という言葉の本来の意味は、「既製品の断片を組み合わせ、新たな機能を持つ道具を作ること」というようなことである。
つまりどんなに凝った工作をしたところで、実際に「機能」しなければそれは単なるガラクタであり、「ブリコラージュ」とは言えない。
そして現代思想の分野では「ブリコラージュ」という言葉が拡大解釈され、「既成概念の断片を組み合わせ、新たな有用性を持つ概念を生み出すこと」という意味で使われている。
有用性=機能であるから、何の有用性も機能もない概念はガラクタであり「トンデモ理論」である。
例えば、1999年7月になっても世界は滅亡することはなく、だから「ノストラダムスの大予言」は「トンデモ理論」なのである。
または「水だけを燃料に走る自動車」や、「スピリチアル」なども、実際の機能がないから「トンデモ理論」である。

しかし逆に考えれば、いかに粗雑に組み立てられた理論であっても、それが何らかの機能をもたらすのであれば、それは「トンデモ理論」とは異なる「ブリコラージュ」だということになる。
そして事実、ぼくの提唱する「非人称芸術」は、「フォトモ」や「ツギラマ」などの作品を生み出す「機能」に結び付いている。
また、ぼくは普通の人が退屈でつまらないと思っている日常世界を、「新鮮で驚異に満ちた世界」として楽しむワザを身に付けているのだが、これも「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」である。

しかし厳密に考えると、「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」は、どれもぼく自身の主観的経験でしかなく、従って客観的な証明ができない。
ぼく自身は、フォトモやツギラマなどの作品を「非人称芸術」のコンセプトと不可分に結び付いていると捉えている。
しかし実際は、「非人称芸術」のコンセプトを理解していないワークショップの生徒でも、フォトモやツギラマの「なかなか良い作品」を作ることが出来るのだ。
だから方法論的に自分にイジワルく考えると、「非人称芸術」は実は何の機能もない「トンデモ理論」であり、フォトモやツギラマ作品が良い理由はまったく別のところにある、という可能性もある。

しかし闇雲に自分を疑ってばかりいても、何も前には進まない。
自分に対する疑いを頭の隅に置きながら、当面は「非人称芸術」の有効性を信じ、さらに「鑑賞主義(仮)」としての可能性を追求して行くしかないだろう。
もし、「非人称芸術」のコンセプトに「本当の有効性」があるのなら、ぼくよりもっと頭の良い専門化がそれを証明してくれるかもしれない。
その反対に「非人称芸術」が「トンデモ理論」だとすれば、やはりそれも誰か頭のいい人が指摘してくれるに違いない。
それまでぼくは勝手な方法で読書して、勝手なことを書き散らすのみである。

(写真は本文と関係ありません RICOH GR DIGITAL Ⅲ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イキナリ応用しながら読む

Sp6073861

すぐに忘れる読書術」の続き。

ぼくはとにかく「単純記憶」が苦手で、そういう意味での「知識」を身に付ける事がなかなかできない。
そのかわり、自分が心底「分かった」と思えることを中心に覚えようと努力している。
ぼくの場合「分かる」ことは、ある概念を知識として記憶することではなく、その概念を「応用して使える」ということである。
つまり本に書かれていた概念を、自分の身の回りの具体的事例に当てはめて考えることが出来たり、本の説明とは異なる自分なりの言葉に置き換えて説明できれば、それが「分かった」ことになる。

以前の記事にも書いたことがあるのだが、ぼくはこのブログに本の感想を書く場合、書かれていた文をそのまま書き写すのではなく、なるべく自分の言葉や事例に置き換えながら書くことにしている。
だからぼくのブログの本の要約を書いているような箇所でも、実は本に書かれていない、まるっきり違うこと書かれていることが多い。

例えば、以前の記事で『バカのための読書術』(小谷野敦/洋泉社新書)を紹介した際に、

>「歴史」というものは、地域、文化、分野、文脈が異なるさまざまな出来事を「時間」という「同じ基準」で一括整理する働きを持つ。
>つまり「歴史」には、さまざまな学問分野に対して「知識の整理箱」としての機能があるのだ。

と言う文を書いたが、実はこの表現はもとの『バカのための読書術』に書かれていない、ぼくが適当にデッチ上げた「例え話」である。
実際には小谷野敦さんは「歴史は諸学問の中核である」と書いていたのだが、この教えをそのままの言葉として記憶することは難しい。
そこで自分なりに「歴史は知識の整理箱である」と言う例え話に置き換えてやっと「分かった」のである。
ちなみに「知識の整理箱」と言う概念は、もとは高田明典さんの『難解な本を読む技術』に書いてあった、

>棚見では、自分の頭の中に「知識の容器」を作ることを目的としています。知識の容器とは、たとえるなら弁当箱のようです。(P.38)

と言うことの応用だったりする。
ぼくはそのようにさまざまな概念を応用しながら理解し、そのように理解したことだけは何とか覚えられる。

また、「難解な本を読む技術」の記事で、ぼくが「同化読み」について解説した以下の文、

>「入門書」とは「天井知らずの頭のいい人」が地上(常識)世界に下りてきて、地上に何らかの変革をもたらすためのものだと解釈できる。
>なぜならいかに「天井知らずの頭のいい人」であっても、結局は地上(常識)世界に根ざして生活している限り、やはり「普通の人」と同じように「地上世界のよりよい変革」を望んでいるのだ。

これも元の本に書かれた言葉ではなく、同じく高田明典さんの『世界をよくする現代思想』などに書かれていることを、自分なりの言葉に置き換えて書いたものである。
元の文はほとんど覚えてないが、自分の言葉で適用に書くことが出来れば、その概念を「覚えている」と言えるのではないか。

実は、このような「応用」は読書法として「高等テクニック」なのだと高田明典さんの本には書かれている。
しかしぼくの場合は、基礎(正確な記憶と理解)が圧倒的に不足しているから、学問的な「高等テクニック」には程遠い。
本来は、基礎の上に応用があるのであり、しかしぼくは基礎を飛ばして「イキナリ応用」しながらの読書なのである。
これはつまり、専門家とは異なる「器用な素人」ならではの「ブリコラージュ(断片の切り貼り)」なのだ。

ブリコラージュについてはこのブログに何度か書いたのだが、自分はどう考えても専門家になれるはずがなく、だから「やっぱりブリコラージュで行こう!」とあらためて誓った次第である。
ブリコラージュの欠点は、一歩間違えると「トンデモ理論」になることだが、これについては次回に述べてみようと思う。

(*写真は本文と関係ありません OLYMPUS E-3 KIRON 105mm F2.8 Macro)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

すぐに忘れる読書術

Sr8457660

ぼくはこれまでずっと、自己流のデタラメな読書をしていたように思う。
しかしいろんな本を読んでいるうち、ちゃんとしたことを書くには、ちゃんとした読書法(勉強方)を身に付ける必要があることが分かってきた。
ところが、ぼくはもともとそれほど頭がよいわけではなく、しかもすっかり頭の固いオヤジになってしまったので、今更ちゃんとしたかたちで学問に取り組むことは不可能だ。
だからやっぱり腹を据えて、これまでの「我流」をやり通すしかない。
バカにはそれぞれの「バカ」に見合った読書法が必要で、それは自分なりに開発するしかない。
と言うわけで、誰かの参考になればと言うより、自分の考えの整理のために自分の読書法について書いてみようと思うのだが、長くなってしまったので3回に分けて投稿することにする。

「記憶力がないので何度でも楽しめる」とは土岐小百合さんの「TOKIのことば」のひとつだのだが、ぼくはとにかく物覚えが悪く、自分でも驚くほどだ。
例えば最近、ブログ記事を書くために部屋の本棚にあった小谷野敦さんの『バカのための読書術』を再読してみたのだが、まるで初めて読む本のように楽しく読めてしまった。
この本は数年前に自分で買って読んだはずなのだが、あきれたことに内容の記憶がほぼゼロだったのである。
これに続いて読んだ小浜逸郎さんの『頭はよくならない』も、数年前に買ったものの再読なのだが、こちらはけっこう影響を受けただけあって、大筋は覚えていた。
しかし細かい箇所ではいろいろな「発見」があり、それだけ記憶を失っていたのだ。

忘れっぽい人はノートをとりながら読めばいい、と言うことでそれを実行したこともあった。
しかしあとで自分のノートを読み返しても、何がどういうつもりで書かれたのかが分からなかったりしてしまう。
ぼくは自分で書いたブログの文章も、書いた端から忘れてしまう。
たまに読み返すと、「自分は案外いいこと言ってるな」と思ったりするが、実のところそれを書いた記憶自そのものがないのだ。
また、自分がこれからブログに書こうと思ってたことが、もうすでに自分のブログに書かれていることもある。

何が言いたいのかと言うと、記憶力のない人は、そのこと自体を楽しめばいいということである。
「発見」とは、あくまで「現在の自分」にとっての発見なのだから、発見をその都度忘れてしまえば何度でも「発見」が楽しめる。
いや少なくとも、自分に記憶力がないことを自覚していれば、それを他人に指摘されて意固地になって「バカをこじらせる」ことは防ぐことは出来るだろう。

まぁしかし、これだけでは「読書法」としてはあまりにオチャラケてるので、次回はもうちょっとマシなことを書いてみようと思う。

(*写真と本文は関係ありません RICOH CX1)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 4日 (土)

難解な本を読む技術

Sr8458434

つい最近、高田明典さんの『難解な本を読む技術』(光文社新書)を読んだ。
この本で取り上げられる「難解な本」とは、ラカン、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ、ジシェク・・・のような、哲学や現代思想の専門書を指している。
しかしぼくは、このような「難解な本」を読めるようになるために、この『難解な本を読む技術』を買ったわけではない。
「難解な本」を読むにはまずそれ相応の「頭のよさ」が必要で、ぼくのような「バカ」はたとえ読み方の技術を教わったところで、どうにかなるはずもない。

ではどうしてこの本を読もうと思ったのかというと、それは「頭のいい人」とはどういう人なのか?を知りたいと思ったからである。
頭はよくならない」というブログ記事に書いたとおり、「バカな自分」と「頭がいい人」とはどれだけの差があるのか?をより具体的に知ることは、限られた能力を最大限に生かすために必要なことだといえる。
別な言い方をすれば、自分には「何ができないか」を把握すれば、自分にとっての「できること」や「すべきこと」がより明確になるのである。
また、この本はぼくのような「バカ」が、やさしく書かれた「入門書」を読むための技術としても、応用可能だろう(もとよりこの本自体が入門書である)。

■「同化読み」

さて、この『難解な本を読む技術』では、本の読み方を「同化読み」と「批判読み」の二通りに分けている。
「同化読み」とは、その著者の頭になって、その著者が考えるように「読む」という方法である。
哲学や現代思想の本には、世間の常識や人々の持つ先入観とは、「かけ離れた」概念が提示されている。
だからそういう本を理解するには、自分の持つ常識や感性を「カッコに入れる」、もしくは「棚に上げる」ようにしながら読む必要がある。
もちろん、著者と自分の頭が完全に「同化」することはありえないが、「同化」するつもりでそれを目指すのが「同化読み」である

しかしそう考えると、ぼくは「同化読み」がほとんどできないことに思い当たる。
難解な専門書は言うに及ばず、やさしく書かれた「入門書」でさえ、ぼくは「同化読み」はほとんどできないのではないかと思う。
具体的にどういうことなのかというと、ぼくは自分が「分からない」本は全然読めないのである。
「分からない」とは、自分には当面役に立ちそうに無い、自分とは無関係な概念ということである。
ぼくはこうした概念についていくら親切に判りやすく説明されても「読めない」し「分からない」のだ。

自分に無関係の概念であっても、「自分の常識」をカッコに入れながら読めば、書かれた内容を「知識」として理解することはできるだろう。
しかしぼくにはどうしてもそれが出来なくて、例えば中島義道さんの本は好きでも「時間論」についての記述はどうしても分からないし、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』は多くの人が「入門書に最適」と勧めてるにもかかわらず、どうしても読み進めることが出来ない。
ぼくはどうしても自分の「常識」に沿ってしか読むことが出来ず、それだけ「異なる世界」に触れる可能性に閉じられてしまっている。
入門書からの「雑学」レベルであっても、「同化読み」ができる人は広い分野にわたって知識を蓄えることができ、いわゆる「博学」タイプなのだろうと思う。
逆にぼくは、どうしても自分の興味に偏った「オタク」タイプになってしまうのかもしれない。

もちろん、ぼくは自分の常識に固執するわけではなく、むしろ積極的にそれを変えたいと思っている。
しかし「まるっきり異なる常識」を、丸ごと理解することだけはどうしてもできない。
だから自分の常識の延長で書かれていながら、その常識の「部分変更」を促すような本を求めているわけで、それが「入門書」なのだ。
「入門書」とは「天井知らずの頭のいい人」が地上(常識)世界に下りてきて、地上に何らかの変革をもたらすためのものだと解釈できる。
なぜならいかに「天井知らずの頭のいい人」であっても、結局は地上(常識)世界に根ざして生活している限り、やはり「普通の人」と同じように「地上世界のよりよい変革」を望んでいるのだ。

■「批判読み」

「同化読み」に対する「批判読み」は、その本の「間違い」や「不足」などを批判しながら読むということである。
しかし学問の初心者がイキナリ「批判読み」をしようとしても、その「批判」が妥当なものなのか、それとも「初心者ならではの認識不足」なのかの判断が付きにくい。
だからまず「同化読み」をある程度マスターしてから、「批判読み」を始める事を薦めている。
そもそも、思想や哲学上の新しい知見は、既成の書物の「批判」から始まるわけで、その意味でも「批判読み」は相当に高度な読書法だといえる。
もちろんぼくは、先に述べたように「同化読み」のレベルに達することはできないから、本当の意味での「批判読み」も不可能である。

しかし「入門書」レベルの場合、「バカ」である自分にとっても批判的に読める本というのはあり、そういう「批判読み」は一概に否定されないだろうとは思う。
ただその場合に避けたいのは、「自分の常識」に固執した立場で、本の内容を批判することで、これはいかにも安直である。
例え「入門書」であっても、哲学や思想の本を読むのは「自分の常識」を少しでも変えることが目的なのだとすれば、単に意固地なだけの批判をしても意味がない。
だからバカのための「批判読み」とは、「自分のバカな常識を批判しながら読む」ことだといえるかもしれない。
いや、それだと「批判読み」の意味からズレるかもしれないが・・・(笑)

■「読書ノート」をとりながらの「詳細読み」

「難解な本」は「頭のいい人」にとっても1回読んだだけでその内容を把握するのは困難で、場合によっては難解も繰り返し読む必要がある。
そのための効率の良い読書法として「通読」と「詳細読み」の2段階に分ける方法が紹介されている。
まずはじめに、本の構成や趣旨を把握する目的で「通読」をし、二度目から部分的にきっちり理解するための「詳細読み」をする。
また「通読」の場合も、「詳細読み」の場合も、「読書ノート」をとりながら読む。
まず「通読」しながら「読書ノート」を大雑把な項目に分け、次に「詳細読み」する際にさらに詳しい理解を書き加えてゆく。
そのように、いかに「頭のいい人」であっても「難解な本」ともなれば実に丁寧に取り組まなければ理解不可能であり、そのこと自体に恐れ入ってしまう。

実は、ぼくもノートをとりながら本を読んでいたこともあり、抽象的な概念を図に置き換えながら理解しようとしたこともあった。
学校の勉強がそうであったように、何事かをきちんと勉強して理解するにはノートをとるのは当たり前だと言える。
しかし、ぼくの場合はただでさえ本を読むのが遅く、その上何度も読んだりノートをとったりすればさらに時間がかかるだろう。
ノートをとることは確かに有効だが、それができない場合は「それができない自分」のバカさ加減を自覚しなければならない。

■本の「棚見」

この本では、「本を読む準備」として、自分が読むべき本を選ぶための「棚見」を勧めている。
「棚見」とは書店で本の並んでいる棚を見ることである。
書店の棚に並ぶ本のタイトルだけをぼうっと眺めてるだけでも、世の中にはどんな学問があって、その学問がどのような分野に分かれているのかが分かってくる。
そうした「棚見」を習慣化して繰り返せば、やがて学問全体の構成が把握できるようになり、そうなると自分が読むべき本もだんだん分かってくる。
この本では「読書は本選びから始まる」と書かれており、その出発点が「棚見」なのだ。

実のところ、ぼくはこれまで本選びのために「棚見」を積極的にしてこなかった。
ぼくの本選びは、自分の気に入った著者の本を続けて買うか(高田明典さんもその一人)、入門書の巻末に記された「お勧めの本」を参考にしている。
この方法はそれなりに有効なのだろうが、しかし本選びの方法としては偏っている。
「棚見」の利点は何よりも「全体が見渡せる」点だろうと思う。
例え自分の興味のある分野でなくとも、本や全体にどんな本が並んでいるかを「棚見」をすることは、「本の並びを通して、世の中を知る」事になり、自分の「立ち位置」の把握にも役立つかもしれない。
などともっともらしいことを言いながら、ぼく自身は「棚見」をぜんぜんマスターしてないのだが・・・

『難解な本を読む技術』には、他にもいろいろな読書テクニックが書かれており、それは「バカのための読書術」にも応用可能だと思う。
ともかく、ぼくは自分に「出来ないこと」を自覚しつつ、そろそろ自分ならではの「読書に臨む姿勢」を決めなくてはならない。

(写真と本文は関係ありません RICOH CX1)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 2日 (木)

バカのための読書術

Sp4290105

前回の記事「頭はよくならない」では、「ちゃんと勉強したかったら、まずは自分の頭の程度を把握したほうがいい」というようなことを書いた。
とすると、ぼくのような「頭のよくない」人間は、いったいどういう勉強をすればいいのか?
などと思っていたら、『バカのための読書術』(小谷野敦/洋泉社新書)というおあつらえの本を見つけた。

この本でいう「バカ」とは、「哲学とか数学などの抽象的なことを理解するのが苦手」というようなごく一般的な人を指している。
そして「自分がバカなのは分かっているけど、しかし何か本を読んで勉強をしたい」と思っているような(この意味では単なる「バカ」ではない)読者を想定している。
そういう人に対し小谷野さんは、まずは「歴史」の本を読むのがいいと勧めている。
抽象的なことが苦手な人でも、歴史を「おもしろい物語」として理解し学ぶことは可能であり、それはその人の「知的バックボーン」として非常に有力な武器になる、というのだ。

実をいうとぼく自身は、小学校時代は五科目のうち「社会」がもっとも苦手で「歴史」にも興味が持てず、中学高校と進学した際にも「日本史」と「世界史」ともきちんと学び損ねてしまった。
そうすると、自分が大人になってから興味を持って勉強した「哲学」や「思想」などについても、必然的に覚えが悪くなってしまう。
なぜなら哲学や思想は「哲学史」や「思想史」としての流れで把握する必要があり、基本的な「歴史」の知識が欠如していると、知識がどうしても断片化してしまうのだ。
「美術史」だって、その他の歴史の流れをきちんと抑えているのといないのとでは、理解の程度が違ってくるだろう。

「歴史」というものは、地域、文化、分野、文脈が異なるさまざまな出来事を「時間」という「同じ基準」で一括整理する働きを持つ。
つまり「歴史」には、さまざまな学問分野に対して「知識の整理箱」としての機能があるのだ。
それをして小谷野さんは「歴史は諸学問の中核だ」と表現している。

しかも「歴史」はそのような重要性を持つにもかかわらず、諸学問の中では最も「敷居が低い」のが特徴だ。
哲学や数学は、日常的な感覚を改変したり破壊したり、妙な頭のひねり方をしなければ理解できず、これは一種の特殊能力である。
しかし、「歴史」というのは「おもしろい物語」というかたちの「日常感覚の延長」で理解可能であり、特に頭をひねったりする必要がない。
また、歴史的知識は積み重ねで覚えればいいだけだから、その気になればいつからでも(年をとってからでも)はじめることができる。

小谷野さんは、歴史はまずは「概略」を知ればいいのであって、そのためには難しい専門書や、つまらなくて興味の持てない本は読む必要はなく、歴史小説や歴史マンガから始めれば十分だ、というように書いている。
特に現代の「若い世代」は、教育の弊害その他のせいで、「歴史」についての基礎知識を驚くほど欠いている者が多い。
だから「歴史」をほんのちょっと勉強するだけでも、それは自分にとってかなり大きな武器になるはずなのだ。
例えば、テレビに出てるような「文化人」が歴史についてウソや間違いを言っているのが分かれば、その人の「インチキ度合い」を見抜くこともできるかもしれない。

ぼくはこの『バカのための読書術』を数年前に読み、さっそく「歴史年表」を買ったのだが、A4サイズで持ち歩きがいまひとつ不便で、そういえば本棚で眠ったままだ。
そういう具合にぼくはまだ「歴史」の勉強をちゃんと始めてないから、そろそろどうにかしなくてはいけない。

もちろんこの本には「歴史」以外のさまざまな分野についての読書術(勉強法)も、なかなかユニークな切り口で分かりやすく解説されている。
とは言え、この本の「読書術」が全てそのまま自分の勉強法に使えるとは限らない。
一口で「バカ」と言ってもいろんな種類のバカがいるだろうし、バカなりに勉強する目的も人それぞれのはずだから、いろいろな読書術を参考にしながらも、結局は自分に適した「バカのための読書術」を開発しなければならないだろう。

(*写真は本文と関係ありません)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«頭はよくならない