2009年12月12日 (土)

ドールハウスその後

前回の記事を書いた後、ドールハウスについて調べてみたのだが、デュシャンの友人キャリー・ステットハイマーのドールハウスの本が出ていることが判明。
amazonで購入できるようだ。
http://www.amazon.co.jp/Stettheimer-Dollhouse-Sheila-W-Clark/dp/0764948024

51b9xmx58l_sl500_aa240_

Flickrに、その内部写真が出てた。
http://www.flickr.com/photos/88544224@N00/1372795586

1372795586_f0ee0cd6d4

ドールハウスと言うと、重厚なヨーロッパ調をイメージしてたのだが、意外にすっきりとモダンな感じだ。

1372795808_2926a7a245

素人写真で不鮮明だが、写真真ん中に見える絵が、デュシャンから贈られた『階段を下りる裸体』の複製ミニチュア(約5×7.5cm)らしい。
手前の彫刻も名のある作品なのだろうが、まさにミニチュア美術館であって、ここからデュシャンが『トランクの中の箱』のアイデアを着想したことは、容易に想像できる。

ところで、ぼくが高松市美術館で『トランクの中の箱』を見たとき、ぼくが似ていると思った、子供のころ妹が持っていた『リカちゃんハウス』も特定できた。
「リカ年表」と言うのがあったので、これで当たりをつけて検索したのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ellen/a/doll_097.htm

Okaisuto2

それがこれなのだが、『ハウス』ではなく『お買い物ストアー』だった。
以下の画像は、「ドウニモトマラナイ」というコレクターのサイトからの引用。
http://lovelovelicca06.web.infoseek.co.jp/index.html

Okaisuto7

家にあったのは、確かこのパンやさんだったような気がする。

Okaisuto1

閉じるとこんな感じのバッグになる。
ちなみに蓋=床はブリキ製で、リカちゃんの靴の裏の磁石がくっつくという、驚くべきシステムが採用されている。
しかしこうして改めて確認してみると、このアイテム自体は『トランクの箱の中』にあまり似てるとはいえない。
むしろ自分が知らなかった『リカちゃんハウス』のほうがソックリだったことが意外だ。

Youfukud02

そのほかにこのタンスとか・・・

Benkyou02

この勉強机とかも家にあった気がする。
ぼくは特にままごとはしなかったが、こういうミニチュアの感覚は、プラモデルとともに「フォトモ」に少なからず影響を与えているのではないかと思う。
取っ手のメッキの質感とか、イスの形とか、妙なところがリアルに思い出される。

と言うわけで、デュシャンとの類似はともかく、リカちゃんのアイテムも独特で面白いと思い、サイト内をいろいろ見回ってしまった。
その中で、ぼくとしては究極の逸品といえるのがこれである。

Nt001

『リカちゃんトリオハウス』。
リカちゃんハウスの豪華版のようで、これは家にはなかった。

Nt007

で、何が凄いかと言えば、内装の何もかもがとにかく凄すぎる・・・
前回紹介したリカちゃんハウスもなかなかだったが、大幅に凌駕している気がする。

Nt004

空間畏怖的に、どこもかしこも「芸術」でびっしり埋め尽くされている・・・
ツッコミどころ満載だが、キリが無いのでノーコメント(笑)

Nt015

「照明用ガス」ならぬ電気スタンドが絵で表現。

Nt012

芸術のある暮らし。
風景画も素晴らしいけど、それ以外の何もかもが芸術尽くしの家。
楳図かずおの『ダリの男』という短編に、不気味な芸術だらけの「ダリの家」(本家ダリより不気味)が出てきたが、決してそれに引けをとらないと思う。

Nt005

これは付属品の家具で、チープなバキュームフォーム製。
そして何もかもが芸術にしか見えない。
もはや『トランクの中の箱』の類似性を越えて凄すぎる。
いやこれが芸術じゃなかったら、一体何を芸術と呼べばいいのか?
まぁ、そう思うのはあくまで「非人称芸術」のロジックの延長でしかないのだが・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月10日 (木)

アートと類似

マルセル・デュシャンの伝記をようやく読み終えたが、けっきょく2週間もかかってしまった。
分厚い上に文字が二段組なので確かに量は多いのだが、取り立てて読みにくい本でもないので、これはちょっとかかりすぎかもしれない。
地頭の悪いのはいかんともし難いが、ともかく読んだ分だけの知恵は付いたのだろうと思う。
長い伝記だけあって、いろいろな事柄について具体的かつ詳細に書かれていて、かなり勉強になった。

44875

例えばレディメイドのひとつ「ビン掛け」なのだが、これがデュシャンによって購入された1914年当時、フランスの一般家庭ではワインを買うときに空きビンを酒屋に持って行き、樽からワインを入れてもらうのが普通だったそうである。
その空きビンを掛けておくための器具が「ビン掛け」で、どこの家にもあるようなごく当たり前の日用品だったのだ。
ここまでの情報は他のどの本にも書いていないので、深く納得してしまう。

また、実は「ビン掛け」を購入した当時は「レディメイド」の概念を思いついておらず、その証拠にレディメイドにつき物のタイトルが書かれていない。
そこでデュシャンは、2年後にニューヨークからフランスにいる妹のシュザンヌに手紙を書き、アトリエ「自転車の車輪」と「ビン掛け」に自分が指示するとおりの文字を書いてくれるように頼んだ。
ところがそのとき妹は、それらの品物は当然不要のゴミだと思って捨ててしまった後だったのだ。
この手紙は最後のほうの文字が不鮮明で、デュシャンがこれらのレディメイドにどんな文を書けと指示したのかが不明のままで、デュシャン自身も思い出せないと言う。
それで後年に作られたこれらのレディメイドのレプリカ(上記写真もそのひとつ)には、タイトルもサインも書かれていないのだ。

このエピソードは「ゴミ」と「アート」の関係を考察する上での格好の素材と言えるかもしれないが、その他に、レディメイドの概念が天啓の様に一気に見出されわけではないことが分かり、なかなか興味深い。
その後もデュシャンはレディメイドが何なのかを定義できずにいて、終生それについて考察し続けたようだ。
と言うよりも、デュシャンは「理論」と言うものを信用していなかったようなので、「定義できない」がレディメイドの定義なのかも知れない。
だからこそ、レディメイドとは何か?は誰がどう解釈しても自由なのだ。
実際、デュシャンはあらゆる他人による解釈を、決して否定しなかったらしい。
たとえ自分の作品について書かれていたことであっても、それが「他人の文章」である以上、自分とは無関係と言うことなのかもしれない。

ともかくぼくは、デュシャンと違って、大して頭が良くない割りに(だからこそ?)理屈が好きで、しかもいくら理屈付けしても「芸術の神秘」がスポイルされないための「ツボ」を心得ていると勝手に思っているので、とりあえずそういう感じで行きたい。

ところでデュシャンの「トランクの中の箱」なのだが、ぼくはこの作品と自分の「フォトモ」とを組み合わせると言う、まことに大それた展示を、高松市美術館の企画展の一部として来年2月に開催する予定である。
この作品についても伝記に詳細が書かれており、かなり参考になった。
「トランクの中の箱」は1938年に着想された、デュシャンのそれまでの絵画作品の複製印刷や、レディメイドなどの立体のミニチュアや写真などを箱に収めた作品である。
いわば個人美術館のミニチュアのようなもので、しかもマルチプル(複製芸術)として300部あまりが作られた。
製作はデュシャンによって細々と、長期にわたって行われ、最後のエディションはデュシャンの死後、助手の手によって1971年に作り終える。
高松市美術館にコレクションされた、外装に赤い羊皮紙が使われたものは、この最後のエディションらしい。
ちなみに最初のエディションの一部は、外装の製作を「箱」の作品で有名なジョセフ・コーネルが請け負ったらしいのだが、どれがコーネル作なのかは区別がつかないそうだ。

この作品の着想の20年前の1918年、デュシャンはニューヨークでフランス語を教えていた女友達に、代表作の絵画『階段を下りる裸体』の複製のミニチュアをプレゼントしている。
彼女はドールハウスに非常に凝っていて、その一室に飾ってもらうためのものである。
伝記には、そのことと後の『トランクの中の箱』の結びつきは特に書いてはいないが、そういわれるとこの作品はドールハウスに似ている。
いや実は、ぼくが高松市美術館で初めて『トランクの中の箱』を見せてもらったとき、あるものに非常に似ていると感じたことを、改めて思い出したのだ。
そこでその「あるもの」と『トランクの中の箱』がどれくらい似ているのか、改めて確認することにした。
比較対象は、ネットの検索によって得られた画像である。

Mia_10297c_fsz

まずは『トランクの中の箱』。
もとのページに「1935-41」とあったので、最初のエディションなのだろう。
トランクに入れられた「箱」の蓋を開け、レールに仕組まれた衝立を左右に引き出す構造になっている。
箱の中央には、セルロイドに印刷された『大ガラス』のミニチュアがしつらえられている(小ガラス?)。
中央左にはレディメイドの立体ミニチュア、上から『パリの空気』、『旅行用折りたたみ品』、『泉』が並んでいる。
右の衝立は上から『きみはぼくを』、レディメイド『櫛』(写真の切り抜き)、『九つの雄な鋳型』(セルロイドに印刷)。
左衝立は右が『俊敏な裸体に囲まれた王と女王』、左が『花嫁』。
箱の下部の奥に『ローズ・セラヴィよなぜくしゃみをしない?』(フォトモ!)、開けられた蓋の内側に『チョコレート挽き器』。
そのほか複製画や写真などの平面が大量に納められている。

Boite_en_valise1966

これは「箱」を開いただけの状態で、赤い羊皮紙仕上げは高松市美術館と同じエディションだろう。
下部の蓋の表には『ソナタ』、右には『3つの停止原器』(写真印刷)が折りたたまれている。
さて、次は肝心の「似たもの」を見ていただこう。

A517b149b1

『リカちゃんハウス』なのだが・・・どうだろうか?
正確には『リカちゃんハウスデラックス』(二代目リカちゃん用)なのだが、ぼくとしては思った以上にソックリだったのでコーフンしてしまった(笑)
いや、人によってはぜんぜん似てないと思われるかもしれないが、いろいろと類似点は指摘できるのだ。

まず目が釘付けになってしまうのが、レディメイドのミニチュア!である。
イス、テーブル、ハンガー、シャンデリア?、などのレディメイドのミニチュアが、確かに入っているのだ。
次に目を引くのが「ガラス」であるところの鏡である。
さらに「窓」にも目が行ってしまうのだが、トランクの中の箱』にも『フレッシュウィドゥ』と『オステルリッツの喧騒』という窓のレディメイドの印刷複製が入っている。
絵画の複製も何点か入っており、それぞれが実に味わい深い作品である。
「説明書」に描かれたイラストは「機械的な描線」で、これはデュシャンが『チョコレート挽き器』などで試みた描法である。
また活字文字による作品は、デュシャンにも『日曜のランデヴー』があり、これも『トランクの中の箱』に含まれている。
そして何と言ってもが外装がトランク状で持ち運び可能で、赤色なのも同じだ(これはエディションによるが)。

実は、高松市美術館で『トランクの中の箱』をはじめて見たとき、子供のころ妹が持っていたリカちゃんハウスを思い出したのだ。
それは時代的に初代ではないだろうし、確かハウスではなく何かのお店だったと思うのだが、改めて画像検索してみると、この『初代リカちゃんハウス』が思った以上に『トランクの箱の中』に似ていて驚いてしまったのである。

Fd046b

上記サイトに『二代目リカちゃん ファッションハウス』も掲載されていたので、ついでに見ていただくが、これも良く似ている。
こちらは『泉』ならぬ『シャワールーム』が完備されているのがポイント高い。

Fd046c

これは同じサイトから内容物を紹介したもので、こういう並べ方をするといかにも「作品」と言う感じで、さらに類似性が強調される(笑)。
イスのレディメイドも素晴らしいが、仕切り用の「紙箱」の無意味さ加減も『旅行用折りたたみ品』を髣髴とさせる。

で、ぼくが何を言いたいのかと言うと、「リカちゃんハウスはデュシャンの影響を受けている」、のようなことでは断じてない。
常識的に考えて、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
デュシャンの『トランクの中の箱』の源泉は友人のドールハウスにあったのかもしれないが、それが同じくドールハウスの流れを汲む『リカちゃんハウス』と似るのは当たり前のことである。

実は、『リカちゃんハウス』の原型となった「折りたたみ式ドールハウス」が欧米にあったのかと思い、いろいろ検索してみたのだが、さしあたりそういうものは見付からなかった。
いずれにしろ、デュシャンの友人宅にあったドールハウスはお金持ち用の立派なものだったはずだから、それは折りたたみ式では無いだろう。
「リカちゃんハウス」が折りたたみ式なのは、狭い家に住む日本の中家庭に合わせたのであって、旧タカラのオリジナルアイデアなのかもしれない。
デュシャンが『トランクの中の箱』を折りたたみにしたのは、ドールハウスよりも中世の祭壇を参考にしたと言われるが、これが『リカちゃんハウス』と似たのも単なる偶然だろう。
だから普通に考えると、『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』がちょっとくらい似ていたとしても、両方は何の関係もなく、従って類似性を指摘することに何の意味も無いのである。

しかし、ぼくとしては本来的に無関係だからこそ、「似ている」という事実に過敏に反応してしまうのだ。
『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』はアートとトイというまったく別物であって、だからこそこの両者が「似ている」ことに興奮してしまうし、「重要」だと感じてしまうのだ。
これに限らず、ぼくは何事においても同一(ホモロジー)よりも、類似(アナロジー)に反応してしまう。
例えば生物の分類学はホモロジーだが、生物の擬態(コノハムシと木の葉など)や、収斂進化(魚類とイルカなど)はアナロジーであって、そちらの神秘性に興味が惹かれてしまう。

そもそも、アートの本質はホモロジーではなくアナロジーにある。
「絵画」というのは本質的に立体物のアナロジーとして、平面に描かれる。
そしてデュシャンのレディメイドは、アートの類似物であってアートではないところが、まさに「アート」なのである。
対して、現代に至るデュシャン以外のアーティストのほとんどは、アート作品の「同一物」を製作している。
アートの本質が「類似物」なのであれば、アートの同一物はアートと言えるのか?と言う疑問も生じる。

もちろん、「非人称芸術」もアートの類似物であり、その点でぼくは非常に自信を持っている(ほとんど誰も認めてくれないが)。
ちなみに「フォトモ」は「非人称芸術」の類似物であって、だから反転してアートの同一物になり、ギャラリーで展示可能となる。
そのような観点で『リカちゃんハウス』を見ると、これは確かに『トランクの中の箱』の類似物であり、だから「レディメイド」であり「非人称芸術」であると解釈できるのだ。
「リカちゃんハウス」はデュシャンのことなどまったく意識せずに作られたからこそ、まさに「非人称芸術」であり、しかもかなり素晴らしいのであって、見てるだけでドキドキしてしまう。
ただ、デュシャンは晩年レディメイドについて以下のように語っている。

「考え方としては、美的な面からはいかなる魅力も無い品物を見つけ出そうと言うことだった」

そうなるとぼくの「素晴らしい」と言う感情はデュシャンの思いからズレる(後退する?)ことになる。
だからぼくとしては、このズレが後退なのか、それとも違う何かなのか、引き続き考える必要があるだろう。

少なくとも言えることは、この『リカちゃんハウス』のアンティークトイを、気に入ったからと言って数万の値段で購入すると、「こんなガラクタを高い金で買って・・・」と後悔する可能性大である(笑)。
あんなに欲しかったのに、いざ買ってみるとどうにもつまらないものにしか思えない、と言うことは大いにあり得る。
それは恐らく、購入あるいは所有することで、アートの「類似」だったものが、限りなくアートの「同一」へと近づいてしまうせいかもしれない。
「類似」と言うのは何らかの実態を指すわけではなく、「同一」との関係において成り立っている。
だから関係が変わってしまえば、アートを成立させていた「類似」もまた消えてしまうのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 9日 (水)

RING CUBE ツギラマワークショップ(2日目)

Sr8488263

遅ればせながら、12月5日に行われたRING CUBEでのツギラマワークショップでの続き。
皆さんには宿題としてツギラマを撮影してきてもらったのだが、どれも大作ばかりで驚いてしまった。
ツギラマは枚数が多くなると、写真を張り合わせる順番を考えないと収拾が付かなくなってしまう。
その順番はセオリーがあるようで作品ごとに異なるので、教えるほうもかなり頭を使う。
作業は結局予定時間を大幅にオーバーしてしまったが、皆さんには充実して楽しんでいただけたようだ。
実際、どれもすばらしい作品に仕上がり、ぼく自身も大変に刺激になった。
また、生徒作品はRING CUBE内で展示することになったので、ぜひご覧いただければと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 4日 (金)

『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』

Sr8480081
(デュシャンの分厚い伝記・・・)

Sr8480086
(高いのでちゃんと読まないと・・・)

高松市美術館で来年2月20日から開催される企画展『コレクション+(プラス) メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート』に出展することになっている。
この企画展で、ぼくは美術館のコレクションのうちマルセル・デュシャンの作品を、自分のフォトモとを組み合わせた展示空間を、自らキュレーションすることになっている。
それで先日、企画展のチラシを入稿することになり、自分の展示コーナーのタイトルを『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』というふうに決めてしまった。
企画意図は、ぼくが提唱する「非人称芸術」は、デュシャンの「レディ・メイド」の概念を、「構造主義」と絡めて発展させたものであることを、分かりやすく示すことにある。
幸いにも、高松市美術館のコレクションにはデュシャンの作品がいくつかあり、中でも『トランクの中の箱』は、自分の「フォトモ」と関連付ける上でうってつけなのである。
そこで、自分の作品は「フォトモ」だけに絞り、デュシャンの『トランクの中の箱』を中心に対比させるように展示し、壁面には、「レディ・メイド」と「非人称芸術」の関係を解説したパネルを並べようと考えている。
壁面のパネルは、ぼくがいつも公演で行なう内容を、アレンジするつもりだ。

このプランを何人かの友人知人に話したところ、「思い切ったことするね」とか「無謀だね」というような反応が、当然のごとく返ってくる。
デュシャンと言えば、20世紀のもっとも偉大なアーティストであり、その作品や思想は「現代アート」のあり方に決定的な影響を与えたとされ、多くの専門家によってさまざまな解釈がされている。
だから普通に考えれば、ぼくのように生半可な知識しか持たない人間が、何か語ろうとしても恥をかくだけでしかないのだ。

ただ、ぼくが知る限りでは、デュシャンのレディ・メイドを「非人称芸術」のような文脈で語った人は、どうもいないようである。
いや、赤瀬川原平さんが「超芸術トマソン」の源流として語っているのだが、しかしその流れの後に続けてコンセプトを発展させた人はいないのだ。
だからまぁ、これは自分がやるしかないのである。
もちろん、ぼくの解釈の何もかもが「間違い」である可能性はゼロではないが、それをズバリ指摘してくれる人も今のところおらず、そもそも自分の考えを形にしないことには、批判もしてもらえないのだ。

しかし、それにしても自分はデュシャンについての知識をあまりに欠いているから、秋ごろからあわてて本を読んで勉強している。
最近はデュシャンの長い伝記を読んでいて、これはずいぶん時間がかかってようやく2/3位まで読み進んだところだ。
この本は分厚いだけあって、いろいろなことが具体的かつ詳細に書かれていて、なかなか面白い。
これを読み終えたら、ぜひ他の本もいろいろ読まなくてはいけないのかもしれないが、そろそろ展示の時期が近づいているから、適当なところで切り上げなくてはいけない。
まぁ言ってみれば「研究の中間報告」みたいなつもりで、自分の考えをまとめ、展示を構成するしかないだろう。

それにしてもあらためて思ったのは、勉強したぶんだけいろいろとデュシャンのことが分ったにもかかわらず、デュシャンに対する自分の解釈は基本的に変わらない、ということだ。
これは考えようによっては、何も学んでおらず、まったく進歩がないと言えるかも知れない。
一方では、結局のところ「はじめの直感」が正しかったことの証だと考えることも出来るだろう。
もちろん、自分は後者として解釈したいが、いずれにしろいくら直感が正しくとも、説明に必要な知識を欠いたままでは説得力が無い。
例えるならば、ある犯罪を目撃した人が「あいつが犯人だ!」と名指ししたところで、証拠がなければ誰にも信じてもらえないのと似ている。

ぼくのデュシャンの解釈は当初から偏りがあって、作品のうち「レディ・メイド」のみを重視し、しかもそれにかなり独自の解釈を加え「非人称芸術」と結び付けている。
一方でデュシャンには通称「大ガラス」と呼ばれる代表作があるが、自分としてはこの作品はさして重要視していない。
また、多くの人を惹き付けて止まない、デュシャンによる謎めいた言葉の数々も、ぼくにとっては理解の範囲外で価値が見出せないでいる。
もちろん、勉強したぶんだけ理解は進んだと言えるが、しかし自分にとって意味があるのは「レディ・メイド」である点であることに変わりはない。
それも自分独自の解釈を与えた上で意味のあることに過ぎない。

このような手前勝手な解釈は、当然のことながらデュシャンの意図から外れている可能性が大である。
しかしながら、デュシャン自身は、自作に対する明確な「答え」を用意しようとはせず、むしろそれを意図的に回避するように、曖昧かつ謎を秘めた言葉を断片的に残している。
「レディ・メイド」についても、「自分はこれをどのように定義していいか分からない」というように語っている。
これに対し、当時からさまざまな人々がさまざまな解釈を与えたが、デュシャンはそのどれも肯定することも、否定することもなく「誰がどのように解釈しようとも自由だ」というふうに述べている。

だから、ぼくが「レディ・メイド」についてどう解釈しても、少なくとも「デュシャンの意図から外れてるから間違いだ」と誰に言われる筋合いもないのだ。
つまりぼくは「レディ・メイド」に対し「解釈の一例」を示そうと強いているに過ぎない。
もっと言えば、ぼくは「非人称芸術」の自説のために、「レディ・メイド」をダシに使ってるだけなのだ。
でもそれは、多くの人が行なっている「考えを発展させる」ということなので、そのこと自体も非難の対象にはならないだろう。
問題はあくまで「「内容」であって、テーマがデュシャンなだけにみんなから「大丈夫?」と心配されているのだが、やると決めた以上は当たって砕けるしかないだろう(笑)

ちなみに「構造主義」については、タイトルの「変身は言葉から」に引っ掛けてあるつもりだ。
「ポスト構造主義」などといわれる現在、「いまさら」感が強いのかもしれないが、「構造主義」は自分の中では一番使いこなせているつもりの「考える道具」なので、当面これを外すことはできないだろう。
ただ、今回は展示という特性を考えると解説は出来るだけ短い言葉で済ませる必要があり、なおかつ「中学生にも分かる」レベルを目指そうと思っているので、「構造主義」という言葉そのものは示すことを控えようと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 1日 (火)

11月末の日記

11月27日は、銀座のツァイトフォトサロンで開催の「佐藤時啓 作品展 『 Tree 』 光ー呼吸シリーズより」のオープニングパーティーへ。
長時間露光と手鏡を使用した、非常に手間のかかった作品だが、その中の一枚に「先生の心霊写真が写ってる!」と佐藤さんの教え子の芸大生たちが大喜びしていた。
芸大、美大の先生でも「作家活動」をしてる人は少ないようなので、その意味で佐藤さんは学生たちに信頼されているのではないかと思う。
ぼくもこういう先生に教わっていたら、もっとちゃんとした写真家になっていたかもしれない(笑)

このあと友人写真家たちと飲みに行き、その中のS君がウィトゲンシュタインを読んでいるというので、その辺の話をちょっと聞く。
ぼくの場合、本を読んで勉強するのは自分のアートのコンセプトに結びつけるためなのだが、S君は特にそういうことは意識せず「ただ面白いから」と言う理由でウィトゲンシュタインなんかを読んでるらしい。
もちろん興味を持って読んだからには、何らかの形で自分の作品に反映される可能性はあるだろうが、あらかじめその効果を期待して読書をしているわけではないそうだ。

彼の読書は良い意味での「趣味」であって、おそらくぼくよりは地頭がいいのだろう。
それに比べてぼくは基本的に読書は苦手なので、「せっかくだから役立てよう」と思ってガツガツしてしまう。
その場にいた「別のS君」からは、「糸崎さんはツマラナイ作品を、理屈でカッコ付けようとしてるだけなんだよ」と言われてしまったが、それは単に本当のことなので腹も立たず(笑)、つまりそれが「コンセプチュアル・アート」なのである

そして11月29日は、深川ラボで開催された「行儀の悪い額縁展」のギャラリートークへ。
この展覧会は、リンク先を見ていただくと分かるのだが、中国製のキッチュな額縁を素材に、それぞれのアーティストが独自の作品に仕上げると言う、ユニークな企画展だ。
今後はアーティストを増やして規模を拡大して開催されるかも知れず、「そうなったら、ぜひ糸崎さんも出してくださいよ」と彦坂尚嘉 さんに言われてしまった。

ただ、「非人称芸術」のモードで考えると、このようなキッチュな物件はもうそれだけで完成されているから、それ以上何か「意図」を加える必然がない。
もし、ぼくがこの企画展に参加し「課題」に望むとすれば、それは一度捨て去った「アーティスト」の立場に戻ることであり、そうなると「アートの才能の無い自分」に再び対峙することになり、考えただけでも冷や汗が出る。
まぁしかし、「普通の写真」の実験もしてることだし、たまにはそういう「悪い汗」をかいてみると何か発見があるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«RING CUBE ツギラマワークショップ(1日目)