2014年4月23日 (水)

「反省芸術2.0・糸崎公朗blog3.2」に移行します

2007年2月10日 (土)から始まったこのブログですが、下記のブログに移行することにしました。

ココログさんには以前あったサービス「ココログセレブ」にも登録していただいて、たびたび記事を取りあげてもらったりと、お世話になりました。
またココログは無料にもかかわらずアクセス解析が充実していて、単なる数字以外に細かいデータまで表示してくれて、その点は大変に便利でした。
が、一方ではいろいろ使いにくい面も気になってきて、どういうわけか、ある時からテキストの行間を空けて書くことが非常に難しくなってしまい・・・自分の設定方法が間違っているのかも知れませんが、色々やっているうちに疲れてしまいました(笑)
というわけで、このブログは2014年4月分から「はてなブログ」に移行しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014年4月21日 (月)

存在と証拠

現実が存在する証拠が不足し、現実を完全に取り逃がすと、人はそこで死ぬ。
目が見えなくなると、人はその分だけ現実が存在する証拠を失う。が、耳や鼻や手触りなどを使って別の証拠を集めることもできる。
寒いと感じることは、気温が下がったことの証拠であると同時に、自らの生命が脅かされている証拠でもある。
自分がこの作品を「好きだ」と思うことが、この作品が優れている証拠となり得るのか?
自分がこの店のラーメンを「美味い」と判断することが、この店のラーメンが本当に美味いことの証拠になり得るのか?
自分がこの温泉の湯を「熱い」と感じることが、この温泉の湯が本当に熱いことの証拠になり得るのか?
さまざまな自分の記憶が、世界が存在する証拠となる。人はあらゆる自分の記憶を証拠として、世界が存在すると信じる。
自分が毎日会社に行っているという記憶が、会社が存在する証拠となる。
この道の先に駅があるという記憶が、駅が存在する証拠となる。
吉野家で牛丼を食べた記憶が、吉野家の牛丼が存在する証拠となる。
人は何事も証拠だけで判断し、そのための証拠集めをしている。
経験的直感に逆らって諦観することが本質把握。
現象学の領域。
現実と思えるものは、様々な意味によって組み立てられている。それらの意味を解体すること。
目の前にあるものが、本当に存在すると、自然に信じる気持ちに依拠するのが自然主義。
自然主義者は疑うことを知らない素朴な人。
疑う心は邪悪な心、素朴な心はピュア心。
自然主義的に自己観察や反省をしても、現象学的には意味が無い。
「目の前にあるものが、本当に存在するわけでは無い」と知識として知っていることと、そのような見方を徹底することは異なる。
個体は本質では無いが、本質を持っている。
単独者は永久に限りが無い。

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自己保身と自己犠牲

「貧すれば鈍する」からこそ「痩せ我慢」が意味を持つ。

貧して鈍するのは「文明性」であり、貧すごとに人は「自然性」に還る。

自分の身を守るのが「自然性」だとすれば、その反対の「文明性」とは自分の身を呈することにある。


自己保身は生物に共通の自然性であり、自己犠牲は反自然的な文明性なのである。


生物にも自己犠牲的行動は見られるが、リチャード ドーキンスによればそれは遺伝子を守っているのである。

遺伝子を守るのが自然性なのだとすれば「遺伝子を外在化した言語による行動プログラム」を守るのが文明性だと言える。

例えば、我が子を戦地に送り、統治者としての誇りを守る王や貴族のように。


自己保身は身を滅ぼし、自己犠牲は身を助ける。

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2014年4月20日 (日)

鏡のアフォーダンス

<p><p><p>Untitled Page</p></p></p>

私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。

「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。

「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る写真に写る物」を見ることと、「目に映る写真に写る写真に写る物」を見ることとの違い。

人間はミラーマンであり、その他の動物はミラーマンではない。

水を飲用としてのみならず、鏡として利用するのは人間だけ。

鏡のアフォーダンス。

人の身体は、人の身体のみで完結しておらず、身体外部に存在する「鏡」もまた、人間ならではの身体の一部なのである。

進化論的に、鏡は生物身体のどの部位に発生したか?一つは眼球の光量増幅のための反射鏡として存在する。

またある種の昆虫は、鏡を擬態として利用する。

また、イカやタコの身体構造が鏡だとすれば、これも擬態に利用される。

いや違うのだ。動物の目は本質的に鏡なのであり、外部にもう一枚の鏡を見出す人の目だけが「合わせ鏡」になっている。

鏡は本質的に合わせ鏡なのである。

本質認識は事実認識ではない。

事実を事実として見ない人は、事実が存在する証拠を隠蔽しているに過ぎない。

知覚するのではなく、知覚を知覚すること。

すなわち、見るのではなく、見ることを見ること。

そして、写真を撮るのではなく、写真を撮ることを撮ること。

見るだけの人と、見ることを見る人とがいるように、写真を撮る人と、写真を撮ることを撮る人とがいる。

絵描きにも、絵を描く人と、絵を描くことを描く人とがいる。

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2014年4月19日 (土)

犯人と証拠

世の中には、本当に偉い人と、偉そうにしてる人の二種類がいて、その区別はなかなか難しいのですが、本当に偉い人は偉そうにしている人を見分けるので、偉そうにしてる人は本当に偉い人を嫌うのです。
何事もためらうごとに反復するチャンスを失う。
世の中を渡ってゆく上で「性格の悪さ」は問題にならない。
素朴で自然的認識には魅力があり、そこから目を逸らすことは非常に困難。
現象を現象として捉える視点が本質諦観。
人間の視界は、光学的スクリーンと、心理的スクリーンの、二つのスクリーンが重なっている。
我々はいつでも「証拠」と「犯人」を取り違える。なぜなら、原理的に「犯人」を特定することは出来ない状況であるにもかかわらず、人はその原理に背き、いつでも「功を焦っている」からである。
素朴な人は功を焦って、証拠と犯人を取り違え、見てもいない現実を「見た」と言い張る。
つまり、デジカメの撮像素子には「ローパスフィルター」や「IRカットフィルター」が装着され、専門技術を修めた人はそれを分解し取り外すことが出来る。同じように、人の精神に備わった種々の認識フィルターを、専門技術を修めることにより分解し取り外すことが出来る。そのためにフッサールを読む!
実のところ多くの人は「人を見る目が無い」のであり、優れた人も、邪な人も、聖のオーラも、負のオーラも、見分けることが出来ない。従って、世の中を渡ってゆく上で性格の悪さは問題にならず、さらに言えばまともな人ほど無視される。
随伴的思念を少しも含んでいない純粋直覚(フッサール : 厳密な学としての哲学)
デジカメで写真を撮るのではなくデジカメを分解してその構造を解析するように、目で「見る」のではなく「現象」を解析する本質直覚。
人はそれぞれに適合した「歪んだ鏡」を求めているのであり、完全なる平面鏡は避けられる。
歪んだ人は、自らの歪みを矯正する「歪んだ鏡」を必要とし、歪みを映す「平面鏡」を忌み嫌う。
人気者は自ら進んで「歪んだ鏡」となり、多くの人はそれを選ぶ。
微妙な色と色、微妙な音と音を区別くるのは難しいが、色と音とを区別するのは簡単だという不思議…我々は騙されている??
色は音かも知れず、音は色かも知れず、なぜなら色のリズムや音色が存在する。
とは言え、人は光と音とを取り違えることは無い!
光と音の取り違えのない絶対的な相違が《本質》となる?
知覚、想像、回想、判断、感情、意志、並びにそれら一切の無数の特殊形態といったようなあの周知のタイトルに対応している自我。(フッサール : 厳密な学としての哲学)
知覚と、意志と、感情移入。
見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。
物があってそれを見るのではなく、見ることによって物が生じるのでもなく、見ることがすなわち物なのである。
物があってそれを撮るのではなく、撮ることによって物が生じるのでもなく、撮ることがすなわち物なのである。

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