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2007年2月13日 (火)

『オレ様化する子供たち』

『オレ様化する子供たち』 諏訪哲二 中公新書ラクレ

タイトルで期待した以上に面白い本で、いろいろ刺激を受けました。
「オレ様化」したのはイマドキの子供と言うより、すでに自分がその先駆けの世代だったのかと、反省させられます・・・
あとこの本は構造主義の手法を使って書かれているようで、「農業社会・産業社会・消費社会」とか、「贈与・等価交換」などの概念(構造)はわが身と関連するいろんな分野に応用できる気がします。

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「農業社会・産業社会・消費社会」は社会の推移をあらわしていて、これは『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』 で示された「プレモダン・モダン・ポストモダン」に対応してると言えるのかもしれません。
つまり人々の価値観が多様化したポストモダン状況が、子供たちが「オレ様化」した消費社会というわけです。
価値観が多様化するということは、各自が責任を持って自分の価値観を選び取る(構築する)と言うことで、それが社会の状況なのは仕方がありません。
しかし子供の多様な価値観は大人のそれと違って動物的であり、人間同士の営みである近代社会を成立させる要素にはなりえません。
だから子供の教育はモダン的手法により一律で規範的な価値観を押し付け、それに対して異なる価値観を大人になってから選択するのが無難ではないか、と『オレ様化する子供たち』 では主張されているように思います。
この構造は『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』 に、「この本はポストモダンについてモダン的手法で書かれている」とあったのと似ているような気もします。

「贈与・等価交換」について『オレ様化する子供たち』 では「教育や愛情は本来「贈与」として一方的に与え見返りは求めないものなのに、それを商品とお金のような「等価交換」と考え見返りを要求すべきと考える人がいるから、話がややこしくなる」と言うようなことが書かれています。
で、これとはまったく別のことですが、ぼくは芸術を「贈与」にふくめて定義してるんだと、改めて思いました。
芸術は商品として流通している側面があるけれど、それでも商品と何となく違うと思えるのは、芸術は作者の製作物というより、作者を通して個人を超えた自然力のようなものが現れていると受け取られるからです。
自然と言うのは人間にとって圧倒的な「贈与」で、芸術は人間の行いと自然の中間に位置しているようなもので、優れた芸術ほど自然的な「贈与」の側面を多く含んでいると言えます。
そんな芸術に商品的価値が付いているのは、芸術家も食っていかねばならないとか、いろいろと事情があります。
芸術は「贈与」と「等価交換」の二つの局面に引き裂かれ、それで悩んでいる芸術家は少なくないと思います(ぼくもそうですが)。

それに対し、芸術の「贈与」の部分を思い切り縮小し、「等価交換」として割り切って突き進んだのが村上隆さんのコンセプトと言えるのかもしれません。
いや、以前読んだ『芸術企業論』と合わせて思い付いたことですが。
村上隆さんの作品は、いかにも芸術らしいものすごい値段が付いていますが、本人はお金儲けのためにそれをしているのではないような気がします。
芸術が商品として流通するのは、それが市場で「動く」ということです。
作品にものすごい値段が付くのも、大きく変化する=動き、です。
村上隆さんは、芸術のこのような「動き」を問題にしたのではないでしょうか?
芸術家が作品を作ったとして、その贈与を受ける相手がいなければ、それは「動きがない=死」と捉えることも出来ます(死蔵と言う言葉もあるし)。
現在のような消費社会では、芸術家が贈与をしても受け取る人がおらず、それで芸術が動かずに死んでしまう。
だから芸術に法外な(通常の商品とは別ランクの)値段を付けて、それを贈与の代わりとし、消費社会の中で動かせば芸術が生き返る、というわけです。
村上隆さんがお金儲けよりも作品を「動かす」ことを優先的に考えているならば、それは芸術的行為と言えるのかもしれません。
以上はぼくの想像でしかなく、実際は全く違うかもしれませんのでお間違いのないように・・・

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