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2007年4月

2007年4月28日 (土)

■原稿やっと完成

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6月にアートンさんから発売予定のフォトモ作品集『フォトモの物件(仮)』の原稿が、やっと書きあがりました。
ぼくの作品集はいつも巻末に「解説ページ」が付くのですが、今回は特に書くのに時間が掛かってしまい、本当に締め切りのギリギリです。
これまでとなるべく内容が重ならないようにして、例えば「超芸術・トマソン」には一切触れずに、そのかわり別の概念を導入したりとか、とにかく苦労しました。
とりあえず、編集者が「面白い」といってくれたので一安心です。

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2007年4月23日 (月)

■アウトサイダー・アート

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だいぶ前から売られていた本ですが、突然気になって買ってしまいました。
アウトサイダー・アートとは正規の美術教育を受けていない人によるアートで、伝統や流行に左右されず、自身の内的衝動からのみ描かれているところが素晴らしいのです。
アウトサイダーアートで一番有名なのはヘンリー・ダーカーで、日本人で有名なのは山下清でしょうか。

しかし、現代のアートは表現が多彩ですから、アートをやるのに必ずしも正規の美術教育は必要ありません。
ですので、アウトサイダー・アートと正規の美術を区別するのは、「本人が美術のつもりで描いたかどうか」と言うことです。
アウトサイダー・アートは、スラム街の老人とか、精神病患者とか、引きこもりの交霊術師とかが、アートのつもりもなく描いた作品を、美術の素養のある第三者がアートとして発見することで生じるのです。
アウトサイダー・アートは英語読みで、フランスでは「アール・ブリュット」と呼ばれ、これは「生の芸術」という意味です。
何が生(なま)なのかと言うと、アートのつもりがない人が描いたものは、そのままではアートにはなり得ないということです。
知識のある第三者がそこにアートの価値を認めることで、美術館に展示されたり、画集になったりと「調理」されるようになるのです。

アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)は、デュシャンのレディ・メイドと同じく「アートはそれを価値付ける人によって創造される」という事例のひとつであって、ぼくはそういうのをちょっと探していたのです。

あと、欧米は階層社会ですから、社会階層が不明瞭な日本とはアウトサイダー・アートの捉えかたも違うはずです。
例えばオタクの作家の絵がアートとして取り上げられることがありますが、あれがアウトサイダー・アートなのかどうかはかなり微妙です。
オタクは学歴は決して低くなく、アカデミックなデッサン力も身につけていますら、その意味でアウトサイダーではありません。
しかしアートのつもりがなく、アート以外の目的にものすごい情熱をつぎ込んで製作し、それが作品に異様な迫力を与えているところは、アウトサイダー・アートと共通してるのではないでしょうか?

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2007年4月20日 (金)

『金と芸術』

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副題に「なぜアーティストは貧乏なのか?」とある割りに、カバーの文字が半透明だっりと贅沢で、どうせならもっと安い本にして欲しいですw
まだ一章しか読んでないですが、芸術にまつわる欧米の階級社会について書かれてます。
欧米の上流社会の人たちから見ると、階級のない日本は、社会全体が下流でイナカモノの国に見えるのかも?と、ふと思ってしまいました。

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2007年4月19日 (木)

■自分が間違っている可能性

自己主張のハッキリした人は、自分が間違っているかもしれない可能性を検討しようとはしません。
しかしあらゆる「考え」について、「その考えが間違っているかもしれない」ことも含めて考えないと、考えたことにはなりません。
他人の考えについては「間違っている可能性」も考えに含めるのに、自分の考えについてそれをしないのは、いかにもフェアーではありません。

なんていうことが、内田樹さんの本に書いてありましたが、そう言われると、ぼくも自分が間違っている可能性について考えざるを得なくなります。

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■写真の見方が分からない人

ぼくは自分自身が写真を使った表現をしているのにもかかわらず、自分以外のいわゆる写真作家の作品がどうもよく分かりません。
よく分からないというのは、端的に言って、どれも同じに見えてしまうのです。
どれも同じに見えるというのは、言い方を変えればぼく自身が「違いの分からない人」なわけです。

実際、写真表現の分野は「微妙な差異が決定的な違いになる」と言われてます(確か後藤繁夫さんの本だったか)。
また、ポストモダニズムの本によると、「ポストモダン時代のアートは、鑑賞者に多くの選択肢を提供する」というようなことが書いてあります。
とすれば、写真家が提供する「微妙で差異」は、鑑賞者にとって「数多くの選択肢」になり得ます。
この場合、数多く示されるのはあくまで選択肢であり、鑑賞者はそのうちのどれか一つを「自分の価値」として選択しなくてはいけません。
これが「微妙な差異が決定的な違いになる」ということで、ほかの人にとってどうでもいいと思えるアート作品が、その人にとって「かけがえのないもの」になるのです。

だとすると、ぼくは写真作品の間にあるそうした「微妙な差異」を感じ取ることが出来ない、大雑把なセンスの持ち主と言う事が出来ます。
微妙な際がわかるのは大人のセンスだとすれば、大雑把なのは子供っぽくて稚拙なセンスでしょうか。
大人のセンスがない人は「微妙な差異が作り出す写真表現の世界」に入っていくことはできないのかもしれません。
実際ぼくの作品を見て「子供の視点を感じますね」と感想を言う人は少なくありません。
ぼく自身は子供の視点を意識しているわけではありませんが、「他の作家との差別化」は意識してますので、それが結果として「子供っぽい」印象としてあわられるのかもしれません。

ぼくが好きな他人の写真というのは、例えば「虫の姿がハッキリ写った」写真です。
この場合、虫の姿がハッキリとさえ写っていれば、正直なところ誰が撮った写真でもかまいません。
誰が撮ったか、どう撮ったか、という微妙な差異より「虫そのもの」が見たいのです。
早い話、ぼくは写真を通して「虫そのもの」を見ているのであり、決して写真を見ているわけではないのです。
またぼくは、街角を雑然と撮ったようなスナップ写真も好きですが、それも写真を見ずに「街そのもの」を見て喜んでいます。
だからモノクロ写真は「実物は色があるのに何でそれをなくすんだ」とガッカリしてしまいます。
虫や街などの実物を愛でるのは子供のセンスで、それを抽象化した「写真」を愛でるには大人のセンスが必要なのかもしれません。

結局ぼくは「写真の見方が分からない人」なので、本当のところ皆さんがどういうつもりなので分かりませんが、とりあえずの仮説です。

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『「美しい」ってなんだろう?』

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以前読んだ、橋本治さんの「人はなぜ「美しい」がわかるのか」と似たタイトルですが、他人が「美しい」とか「芸術」をどう捉えているかに、最近興味があります(これまで我流で突っ走ってきたので)。

森村泰昌さんのセルフポートレート作品は、ぼくのセンスではよく分からなくて、それはこの本を読んだ後もあまり変わらないのですが、この本の内容には非常に納得が出来ます。
ポストモダン時代(という言葉は出てきませんが)のアートのあるべき姿が、簡潔にわかりやすく示されています。
森村さんのほかの著作も読んでみたくなりました。

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2007年4月18日 (水)

■借り物をブレンドする

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自分の言葉や考えが借り物だとしても、一冊の本からすべてを借りることは出来ません。
何冊か本を読んで、その良いところだけをピックアップしブレンドすることで、たとえ借り物でもオリジナルっぽい考えになるのです。
だから例えば、自分の言葉に何となく勢いが足りないと感じた場合、岡本太郎など適度にブレンドしてやるといいのです。
ブレンドといっても、その言葉をどこにどのように配置するか、頭の中で論理的に考えることは出来ません。
そこで、もともと自分というものがないのだから、岡本太郎の影響を受け、岡本太郎になったつもりで文章を書くのです。
ここであまりに岡本太郎になり切りすぎると、岡本太郎そのままのパクリのようになってしまいます。
だから自分の中でさまざまな本の作者をブレンドさせると、パクリだけど誰のパクリかわからないような、オリジナルっぽい文章になります。
その意味で、久々に「今日の芸術」をブレンドし、文に勢いをつけたらどうかな?と思ったわけです。

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2007年4月17日 (火)

他人の言葉、考え

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ぼくはオリジナリティがないので、他人の言葉や考えを借りないと、自分が語れません。
自分と言うもの自体が、いわば借り物なわけです。
しかし他人の本をただ書き写すだけでは原稿にはなりませんので、自分なりに内容を咀嚼してアレンジする必要があります。
この作業をゼロから始めると時間が掛かります。
何せパクリを巧妙に隠蔽する必要がありますからw
でもフォトモの解説を、ポストモダニズムの本のパクリで書くって言うのは、相当に隠ぺい力が強いはずです。

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2007年4月16日 (月)

「記憶の位相」 アーティストトーク

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写真家のグループ展のアーティストトークに行ってきました。
フォトモ作品集の原稿を書かなければならないので、行くかどうか迷ったのですが、やはり書くためには他人の話も聞いたほうがいいかなと。

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「記憶の位相 - Aspects of Memory」
糸井潤 黒田康夫 小島佳典 福居伸宏 湊雅博

会場:UP FIELD GALLERY(東京・水道橋)
http://www.upfield-gallery.jp/
会期:4月6日(金)~22日(日) 会期中無休

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2007年4月12日 (木)

佐野陽一「vessel」

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昨年開催したグループ展「写真の蓋然性」で一緒だった、佐野陽一さんの個展。
ピンホール写真に分厚いアクリルガラスをマウントした小品で、この手法は初公開だそうです。
ちょっと、ミニチュアの模型のようにも見える、ふしぎな視覚効果があります。

http://www.switch-point.com/

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2007年4月11日 (水)

『「爆心地」の芸術』

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椹木野衣さんの本はなかなか読めなかったのですが、最近ポストモダンの概要がちょっと分かるようになって、その文脈でやっと読めるようになりました。
分析の切れ味が非常に鋭くて面白いです。

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2007年4月10日 (火)

アートフェア東京2007

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友人の松山賢氏http://blog.pineart.lolipop.jp/が出品してることもあって、見に行きました。
各ブースを端から丹念に見たので、かなり疲れてしまいました。
場内は撮影禁止だったので、各ブースで配布してたパンフの写真です。
韓国のKim, Chang Youngという人のこのシリーズが印象的でした。
http://amkorea.com/cgi-bin/news/board/ttboard.cgi?act=read&db=reply&page=7&idx=17
砂で描かれた砂の絵で、写真でも立体でもありません。

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2007年4月 6日 (金)

『ゲーム的リアリズムの誕生』

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オタク文化でメタゲームやメタ小説のようなものが出現してるとは知りませんでした。
ぼくはある分野内で表現を模索するより、その分野を外側から見つめるメタな立場の表現に惹かれてしまいます。

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2007年4月 5日 (木)

『ふしぎ盆栽 ホンノンボ』

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哲学と言うのは、世の中にすでにある問題に答えるのではなく、今まで誰も意識していなかった問題を創り出すことだ、とどこかの本に書いてありました。

で、宮田珠己さんは「ホンノンボ」というこれまで誰も問題にしていなかったものに対し「こいつは問題だ!なんだろう?!」と言うことを、世間に問うているのです。

いや、軽快な文章で読みやすく、非常に面白い本ですw

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2007年4月 2日 (月)

「現実」の素晴らしさを表現するための写真技法

ぼくは「フォトモ」や「ツギラマ」などという、一風変わった手法で写真を撮っている。でもまず理解して欲しいのは、これらの手法は「被写体の良さを引き出すためにある」ということだ。
被写体とはすなわち「現実世界」のことで、実はぼくは写真よりも現実世界が好きなのだ。

現実が好きなぼくはよく散歩をする。
散歩といっても気晴らしなどではなく、散歩を目的とした散歩のための散歩である。
これは「日常世界の探検」と言い換えても良い。
日常で探検なんてできるのか?と思われるだろうが、例えば自宅周辺であっても、自分が歩いたことのない道は意外に多いはずだ。
そうしたところにふと足を踏み入れると「近所なのに見たことのない風景に出会う」というフシギな体験ができる。
 
こうした視点を周辺地域にまで拡大すれば、歩いたことのない道が無数にあることに気付くだろう。
知らない路地を歩き角を曲がると、さらに知らない風景が広がる……このワクワクした気分が「日常世界の探検」の醍醐味なのだ。
しかしこうした感覚を、写真で表現するのはとても難しい。
単純に言うと、現実は立体なのに写真は平面であり、写真で表現できるリアリティはごく一面でしかない。
だからぼくは、自分が感じたリアリティーを何とかして写し取ろうと思い、フォトモやツギラマなどの手法を導入したのだ。
もちろんこれらの手法も「現実の全て」を表現できるわけではない。
しかしそうした前提があるからこそ、現実とのギャップを埋め合わせるための、さまざまな創意工夫が生まれてくる。
 
どうも現代日本では、現実や日常といったものは否定的に捉えられる風潮がある。
現実より夢や想像の世界が、日常より観光地や海外旅行が、現在より懐かしい過去の時代が、より素晴らしいと考えられている。
それは実にもったいないことで、身の周りの現実にあらためて目を向ければ、そこは新鮮な発見の宝庫となるのだ。
 
だから写真の初心者や、自分の写真に行き詰まりを感じている人は、ぜひとも自分の日常世界に目を向けていただきたい。
現実の素晴らしさを知れば、「それをどうやって写真で再現するか?」という思考につながり、そこからその人独自の「良い写真」が生まれてくるはずだと、ぼくは思う。

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初出:デジタル写真生活 Vol.2(ニューズ出版)

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