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2007年4月19日 (木)

■写真の見方が分からない人

ぼくは自分自身が写真を使った表現をしているのにもかかわらず、自分以外のいわゆる写真作家の作品がどうもよく分かりません。
よく分からないというのは、端的に言って、どれも同じに見えてしまうのです。
どれも同じに見えるというのは、言い方を変えればぼく自身が「違いの分からない人」なわけです。

実際、写真表現の分野は「微妙な差異が決定的な違いになる」と言われてます(確か後藤繁夫さんの本だったか)。
また、ポストモダニズムの本によると、「ポストモダン時代のアートは、鑑賞者に多くの選択肢を提供する」というようなことが書いてあります。
とすれば、写真家が提供する「微妙で差異」は、鑑賞者にとって「数多くの選択肢」になり得ます。
この場合、数多く示されるのはあくまで選択肢であり、鑑賞者はそのうちのどれか一つを「自分の価値」として選択しなくてはいけません。
これが「微妙な差異が決定的な違いになる」ということで、ほかの人にとってどうでもいいと思えるアート作品が、その人にとって「かけがえのないもの」になるのです。

だとすると、ぼくは写真作品の間にあるそうした「微妙な差異」を感じ取ることが出来ない、大雑把なセンスの持ち主と言う事が出来ます。
微妙な際がわかるのは大人のセンスだとすれば、大雑把なのは子供っぽくて稚拙なセンスでしょうか。
大人のセンスがない人は「微妙な差異が作り出す写真表現の世界」に入っていくことはできないのかもしれません。
実際ぼくの作品を見て「子供の視点を感じますね」と感想を言う人は少なくありません。
ぼく自身は子供の視点を意識しているわけではありませんが、「他の作家との差別化」は意識してますので、それが結果として「子供っぽい」印象としてあわられるのかもしれません。

ぼくが好きな他人の写真というのは、例えば「虫の姿がハッキリ写った」写真です。
この場合、虫の姿がハッキリとさえ写っていれば、正直なところ誰が撮った写真でもかまいません。
誰が撮ったか、どう撮ったか、という微妙な差異より「虫そのもの」が見たいのです。
早い話、ぼくは写真を通して「虫そのもの」を見ているのであり、決して写真を見ているわけではないのです。
またぼくは、街角を雑然と撮ったようなスナップ写真も好きですが、それも写真を見ずに「街そのもの」を見て喜んでいます。
だからモノクロ写真は「実物は色があるのに何でそれをなくすんだ」とガッカリしてしまいます。
虫や街などの実物を愛でるのは子供のセンスで、それを抽象化した「写真」を愛でるには大人のセンスが必要なのかもしれません。

結局ぼくは「写真の見方が分からない人」なので、本当のところ皆さんがどういうつもりなので分かりませんが、とりあえずの仮説です。

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コメント

分からないのではなくて、単に自律した写真が好きではないというだけではないでしょうか?そういう人の方が多いと思います。

投稿: 南條 | 2007年4月19日 (木) 06時55分

僕は、趣味で写真を撮っています。僕も人が撮った写真が良くわからないのです。特にキレイな風景写真全く判らないのです。僕がシャッターを押すのは、自分の目の前に面白い事があった時、それを記録しているのです。ブログにそういった写真を載せていますが、さまざまなコメントを頂きとてもありがたく嬉しく思っています。まあ面白いから撮っているだけで深い事は考えていないので、時々コメントに返す言葉が見つからず困ってしまいます。簡単に言えば、写真をあまり考えず撮っているという事でしょうか?何だか良くわからなくなってしまいました。

投稿: OIKAWA | 2007年4月19日 (木) 08時11分

ある作品に対し「好きじゃない」とか「嫌い」とか言ってたのを、発想を変えて「分からない」と言ってみたのです。
そこで見えてきたのが「大人のセンス・子供のセンス」という対立軸ではないかということです。

写真のことが分からなくて、我流で撮ってると言うのは、その人の独創的表現につながる可能性があります。
写真のことが良く分かっていて、好きな写真家がいっぱいいれば、自分が写真を撮る必要はなくなるかもしれません。
同じ理由で、ぼくは絵を描く事をやめてしまいました。

投稿: 糸崎 | 2007年4月19日 (木) 11時29分

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