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2007年5月

2007年5月29日 (火)

■威張ってる人

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「あなたは威張っている」と他人を非難する人は、自分が他の誰よりも威張り散らしていることに、決して気付く事はない。

ザロス・ナマロフ

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2007年5月28日 (月)

■自分の愚かさを知る者

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「自分の愚かさを知る者は、真に賢い。」と信じている者は、自分が思いもよらない理由で、他人から蔑まされていることを知らないのだ。

マグリナ・マクラーレ

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2007年5月25日 (金)

『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論』

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日高敏隆さんの本は、ページ数が住むないのに内容が濃いので素晴らしいです。
遺伝的プログラムというのは、どういうものかというと・・・

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例えば、このコガタスズメバチはヒノキの樹皮を齧り取り、巣材を集めています。
「樹皮を齧りとって巣材にする」というのは、コガタスズメバチに書き込まれた「遺伝的プログラム」で、このハチもそれに従って行動しています。
しかし、具体的にどこに生えている何の木の樹皮を巣材にするのか、というところまでは遺伝的プログラムでは決まっていません。
だから、このハチも気まぐれとか成り行きによって、「この場所に生えている木」で巣材を集めています。
こうした生物の行動は「遺伝的プログラムの具体化」と呼ぶそうです。

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これは種類が違うムモンホソアシナガバチですが、樹皮ではなく、木の葉の表面の繊維を巣材にします。
これも遺伝的プログラムに決まっていることで、だからスズメバチのように樹皮を巣材にすることは、絶対にないのです。
でも、どこに生えているどの木の葉を使うかという具体的なことまでは、遺伝的プログラムでは決まってません。
遺伝的プログラムは大まかな枠組みであり、遺伝的プログラムの具体化は、その時々の環境に左右されるわけです。

で、人間も同じように、人間固有の絶対普遍の遺伝的プログラムを、様々な形で具体化しながら生きている・・・そういう風に考えると、いろいろ見えてくるものがあるんじゃないでしょうか?とか、そんな感じです。

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2007年5月23日 (水)

■読書感想文

まぁね、こういうのが典型的な都会人のタイプだな。口だけは達者なんだが、それだけ。映画を語らせるとうるさいけど、うるさいだけ。趣味が映画です、なんてヤツはたいていコレで、映画は黙って座れば白痴でも脳足りんでも鑑賞できるわけだ。知的な意味で貧しい人の趣味だ。

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と、このように書いた人がおられるのですが、確かに映画は受動的に鑑賞できて、誰でももっともらしい感想が言いやすい。
それに比べて読書は能動的な行為で、特にぼくみたいに字を読むのが苦手な人にはタイヘンです。
しかもぼくが読みたいと思うような思想とか科学の本は、例え平易に書かれた入門書であっても、自分が現在採用している「考えの枠組み」を変化させながら読むことになり、大変に骨が折れます。
まして、そうした本を読んで「ボクはこんなふうに思いました」なんてブログに書くなんてことは、それがどれだけ浅はかで的を外した内容であっても、自分では検証し得ないことなので、恥をかく可能性大なわけです。
ですから分をわきまえた人は、本を読んでもブログに書名を書くだけで感想は書きません。
書名を書くだけなら誰からも突っ込まれるリスクはないし、読んだ本のリストからその人がどんな人か大体想像してもらえるような効果もあるでしょう。
いや、こんなこと書くほど、このブログでたくさんの「読書感想文」を公表したわけじゃないし、そうする予定があるかどうかも未定なのですが。

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2007年5月22日 (火)

『動物と人間の世界認識』

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この本でぼくが便利だと思って覚えた言葉に「環世界」があります。
この本で環世界はイリュージョンと言い換えられてますが、ぼくにはその必然性がどうもよく分からなかったので、とりあえず「環世界」でいきます。

ぼくなりの仕方で説明すると、環境というのは、例えば人間の眼球に光学的に写る世界です。
人間の目のレンズ(水晶体)を通った光が、スクリーン(網膜)に物理的に映し出す像のことです。
人間の目はトリの目やカエルの目と同じ構造をしてますから、そこに光学的に写る世界=環境も同じです。
ヒトとトリとカエルが同じ場所にいれば、見えている環境は同じということです。
ところがこの「見る」ということは認識するということで、それは各動物によってだいぶ違います。
動物は目玉に映る「環境」の中から、生存に必要な情報だけを選び出し、不必要なものは認識から除外して、他の動物とは異なる独自の世界観を形成しており、それを「環境」から区別する意味で「環世界」というのです。
つまりヒト、トリ、カエルは同じ環境にいても実際に見えている環世界は異なるのです。

生物の環世界はどのように異なるか?というのはこの本を読んでもらうとして、この環世界というのは人間同士でも大きく異なります。
人間は生物学的に同じ構造の目玉を持ち、同じ構造の認識の枠組みを持ちます。
しかし、人間は生物学的に共通の枠組みを超えて、それぞれ独自に環世界を築きます。
それは、人間は「意味づけ」によって物事を認識するからで、物事の意味は人によって違うのです。
例えばぼくのように、「虫」に特別な意味を見出し、虫を探しながら路上を歩いていると、それは普通の人とはだいぶずれた環世界にいると言えます。
でも人間の環世界の枠組みはある程度共通してますから、ぼく独自の環世界を「写真」というメディアに変換し、ある程度リアルなものとして見せることが出来るわけです。

「環境と環世界」は、「養老孟司の逆さメガネ」という本に書かれていた、人間にとって現実とは何か?ということと関連付けて理解しても面白いと思います。
養老さんはこの本で、「現実と知識は違う」と書いてます。
現実とはその人の「行動に影響を与えるもの」であり、知識とは単に知ってると言うだけで、行動には影響しないものです。
ここで養老さんは、100円玉とヒゲボソゾウムシの写真を出して「あなたにとって現実はどちらか?」と問うてます(書き引用画像参照)。
ヒゲボソゾウムシなんて、よほどのマニアでないと知らないようなマイナーな虫ですが、それでも大多数の人は「そんな虫もいるかもね」という程度の知識は持ってます。
しかし知識はあっても「じゃあその虫を探しにいこう」など行動に影響するものではないから、その知識は現実ではないのです。
100円玉とヒゲボソゾウムシの写真は、どちらも知識として共有されますが、どちらが行動に影響する現実となるかは、人によって違うのです。
これを「環境と環世界」に置き換えて考えると、人間に共通して認識される知識というのは、人間のおかれている「環境」ということになります。
100円玉とヒゲボソゾウムシは、人々にとって等しく知識であり環境です。
しかしどちらを現実と捉えるかは人によって異なり、そうして人によって異なる現実こそが「環世界」なわけです。

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「養老孟司の<逆さメガネ>」PHP新書から引用

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『帰ってきたファーブル』

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日高敏隆さんの本、久々に読みましたがすごく面白かった・・・
この本は、学校で教わる生物がなぜつまらないかの理由が書かれています。
生物ははじめ博物学だったのが、それじゃ科学にならんということになった。
それで科学とは何か、というのは物理学の方法論を基本にしなければならないということになった。
しかし物理学の方法論、例えばデータを数値として抽出して比較することは、生物の実態とはかけ離れている。
だから生物学は、物理学とは違った研究方法を確立しなければいけなくて、それはやっぱり博物学だということです。
それでファーブルは科学以前の博物学者なので「帰ってきた」ワケなのです。

この本は1993年とちょっと古い本ですが、ぼくが最近影響を受けたポストモダン関連の本の内容と併せて考えると、色々と符合することがあって興味深いです。
研究の方法論を物理を範として統一すべき、というのはモダン思想です。
しかし、それは実体に会わないので、それぞれの分野で適切な方法論があるんじゃないですか?と思うのはポストモダン的状況といえます。
それと進化論ですね、ダーウィンの進化論はモダン思想によって一部拡大解釈され、とにかく「生き物は原始的で劣った状態から、高等な状態へ進化し人間に至るのだ」ということで、それは人間の社会も同じだということと思われてました。
人間の社会も、「宗教を信じる原始的で間違った社会から、より理性的で洗練された社会に進化するのだ」ということです。
でもそういう社会進化論は、レヴィ・ストロースを発端とする文化人類学によって否定されてしまいました。
土人の荒唐無稽な神話は西洋人から見ると迷信でしかないが、それなりに複雑な世界観を構築し、しかも現地の実社会のなかで合理的に機能し、それは西洋人が信じているものと「等価」であり、進化としての優劣はないのです。

同じように、地球上の生物は進化の度合いの序列で並んでいるわけではない、ということがこの本には書かれています。
生き物はそれぞれの「理論」に従って合理的に生きていて、それは人間のそれぞれの文明と同じことなわけです。

肝心なのは、生物をモダン思想で扱ったら「つまらなくなった」ということです。
それでモダン思想から離れたら、面白くなったわけです。
日高さんがこの本で問題にしているのは「面白いかどうか」でこれはかなり肝心なところだと思います。

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2007年5月18日 (金)

■偶然の波

今日は五反田にある出版社に打ち合わせに行ったのだけど、その途中の山手線の車内で突然「糸崎さん」と声を掛けられてビックリした。
見ると知り合いのZikadeさんで、この方は広島在住でセミの研究をしておられる。
東京へは仕事で来たそうだが、ぼくに会ったのは全くの偶然だ。
そのZikadeさんがさらにビックリしていたのは、昨日も偶然、東京で海野和男さんにお会いしたというのだ。
広い東京を何年もうろついているぼくでさえ、電車の中で偶然誰かに会うことなんてないから、これはかなりレアなケースだ。
しかし偶然というのは波のようにやってきて、起きるときは立て続けに起きる、というようなことを赤瀬川原平さんが書いていた。
それでZikadeさんとちょっと話し込んでいるうちに、降りるはずの五反田を過ぎて大崎まで来てしまった。
それでZikadeさんに別れを告げて、反対側の山手線に乗り換えた。
するとまた「糸崎さん」と声を掛けられ、見ると知り合いのSさんだった。
この方はSONYでカメラ開発の仕事をしており、大阪在住だ。
それが仕事で東京に出てきたところ、偶然ぼくと会ったのだ。
偶然は波のようなものだから、やはり他人にも伝播するのかもしれない。
ちなみにそれ以後は、特に偶然の出来事は起きていない。

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2007年5月11日 (金)

■感情的になっている人

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感情的になっている人に対し、感情を鎮めてもらうには、まず自分の感情を鎮めなくてはいけない。
すると、「相手の感情を鎮めさせたい」という欲望そのものが、自分の感情から生じたものであることに気付くのだ。
だから自分の感情が鎮まれば、相手の感情を鎮めるよう働きかける必要もなくなるのである。

(フレデリック・リーグマン)

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2007年5月 1日 (火)

■「非人称芸術」は写真に写らない

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この世とは思えない、ものすごく良い場所に出ました。
「どうせ無駄だろう」と思いながら、とりあえず二枚だけ写真を撮ってみましたが、見事なくらい「何も」写ってません。
この例に限らず、ぼくが「良い」と思ったものの大半は、写真をはじめとするメディアでは再現不可能なのです。

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しかし何もしないのもつまらないので、「良い」と思ったところのごく一部であるところのチョウチョなんかを撮ったりするわけです。
いや、この写真は出来がよくないですが、それでも「何事か」はちゃんと写ってます。
これ以外、この場所では何も撮りようがないくらい、素晴らしく良い場所です。

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