『動物と人間の世界認識』
この本でぼくが便利だと思って覚えた言葉に「環世界」があります。
この本で環世界はイリュージョンと言い換えられてますが、ぼくにはその必然性がどうもよく分からなかったので、とりあえず「環世界」でいきます。
ぼくなりの仕方で説明すると、環境というのは、例えば人間の眼球に光学的に写る世界です。
人間の目のレンズ(水晶体)を通った光が、スクリーン(網膜)に物理的に映し出す像のことです。
人間の目はトリの目やカエルの目と同じ構造をしてますから、そこに光学的に写る世界=環境も同じです。
ヒトとトリとカエルが同じ場所にいれば、見えている環境は同じということです。
ところがこの「見る」ということは認識するということで、それは各動物によってだいぶ違います。
動物は目玉に映る「環境」の中から、生存に必要な情報だけを選び出し、不必要なものは認識から除外して、他の動物とは異なる独自の世界観を形成しており、それを「環境」から区別する意味で「環世界」というのです。
つまりヒト、トリ、カエルは同じ環境にいても実際に見えている環世界は異なるのです。
生物の環世界はどのように異なるか?というのはこの本を読んでもらうとして、この環世界というのは人間同士でも大きく異なります。
人間は生物学的に同じ構造の目玉を持ち、同じ構造の認識の枠組みを持ちます。
しかし、人間は生物学的に共通の枠組みを超えて、それぞれ独自に環世界を築きます。
それは、人間は「意味づけ」によって物事を認識するからで、物事の意味は人によって違うのです。
例えばぼくのように、「虫」に特別な意味を見出し、虫を探しながら路上を歩いていると、それは普通の人とはだいぶずれた環世界にいると言えます。
でも人間の環世界の枠組みはある程度共通してますから、ぼく独自の環世界を「写真」というメディアに変換し、ある程度リアルなものとして見せることが出来るわけです。
「環境と環世界」は、「養老孟司の逆さメガネ」という本に書かれていた、人間にとって現実とは何か?ということと関連付けて理解しても面白いと思います。
養老さんはこの本で、「現実と知識は違う」と書いてます。
現実とはその人の「行動に影響を与えるもの」であり、知識とは単に知ってると言うだけで、行動には影響しないものです。
ここで養老さんは、100円玉とヒゲボソゾウムシの写真を出して「あなたにとって現実はどちらか?」と問うてます(書き引用画像参照)。
ヒゲボソゾウムシなんて、よほどのマニアでないと知らないようなマイナーな虫ですが、それでも大多数の人は「そんな虫もいるかもね」という程度の知識は持ってます。
しかし知識はあっても「じゃあその虫を探しにいこう」など行動に影響するものではないから、その知識は現実ではないのです。
100円玉とヒゲボソゾウムシの写真は、どちらも知識として共有されますが、どちらが行動に影響する現実となるかは、人によって違うのです。
これを「環境と環世界」に置き換えて考えると、人間に共通して認識される知識というのは、人間のおかれている「環境」ということになります。
100円玉とヒゲボソゾウムシは、人々にとって等しく知識であり環境です。
しかしどちらを現実と捉えるかは人によって異なり、そうして人によって異なる現実こそが「環世界」なわけです。
「養老孟司の<逆さメガネ>」PHP新書から引用
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