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2007年6月

2007年6月28日 (木)

『ゼフィルスの卵』

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主に新聞に連載された短いエッセイをまとめたもので、割とすぐ読めてしまいました。
この本にあった「健康に最も悪いのは年をとることだ」はかなりの名言だと思います。
他にもいろいろありましたが、まぁ、忘れました(笑)
本に書かれた通りのことを記憶するより、具体的な詳細を忘れてしまった方が、言ってることの意味が身に付くような気がします(その実ほとんど忘れるんですが)。

そう言えば、この本にも「クオリア」について少し書かれていました。
で、クオリアの意味はだいたい分かったのですが、その概念が「何に使うのか」がやっぱり分かりませんでした。
どうも脳科学と連動した概念のようですが、その脳科学にピンとこないのです。
そういうふうに「自分の脳を棚に上げて考える」のは都会人で文系の欠点だ、と養老孟司さんの本に書かれていたようですが、まぁ仕方ありません(笑)

池田清彦さんの本は以前、進化論について書かれたものをいろいろ読みました。
どんな進化論というのはひとつの「説」であって、それを絶対的なものとして信じるのは「非科学的」だ、というような主旨で貫かれていたと思います。
それで「進化の系統樹」を茶化した「進化論者の系統樹」のイラストが表紙の本もあって、そういうイジワルなセンスはエッセイにも十分生かされています。

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『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』

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市場とか経済とかについて、ぼくはとことん苦手なので、橋本治さんだったら分かりやすく書いてくれてるかも・・・と思ったのですが、やっぱりよく分かりませんでした(笑)
これは興味の方向性の問題のようで、お金とか、数値とか、そういう種類の抽象に対してどうにも興味がわかないようなのです。

でも、この本には良いことが書いてあって、それは「経済はお金のことに限らない」ということです。
経済とはそもそも「ただ循環するだけ」の状態を指し、お金はその一例にしか過ぎないのです。
そういうもっと広い意味での「経済」なら、ぼくもがぜん興味が出てきます。
そういえば、昔読んだ栗本慎一郎さんの『経済人類学』にも全く同じことが書いてあったのを思い出しました。
栗本さんによると、「地球には膨大な量の太陽エネルギーが降り注ぎ、それが生物の形となって循環しているのだ」ということだそうです。
「だから、イカにはイカの経済があるだろう」とも書いてあって、その具体例は栗本さんの本ではなく、生物関係の本にいろいろ書かれているのでした。
だから、橋本治さんの本を読んで、じぶんが「わかっている」ことを再度確認したわけなのですが、自分が「わかっている」ことも時々は確認しないと「わかっている」ということ自体をを忘れてしまうのです。

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『上司は思いつきでものを言う』

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ぼくはサラリーマンを中途半端で早々にやめてしまったりで、世の大半を占める「サラリーマン」がどういうものかほとんど知らないのですが、それだけにこういう本はたいへん為になります。

「上司は思いつきでものを言う」とはつまり、目に見えない隠れた「構造」であって、そうしたものに人々は知らないうちに突き動かされているわけです。
世の中の多くの問題とされる事柄は、それが問題なのは何となく分かるのだけど、モヤモヤして捉えどころがない、と言う理由で解決困難に陥ってます。
そんななか、その問題に潜む「構造」をズバリ言い当て、その「構造」を軸に問題を解決しようというのが「構造主義」です。

ぼくはこの構造主義に興味があって、いくつか入門書を読んだのですが、どの著者も「構造主義は主義ではなく、問題解決のための実践的な道具である」というようなことを書いてます。
じゃあ、構造主義は具体的にどんな風に使われているのか?などと思っていたのですが、最近いろいろ本を読み出すと、けっこういろんな人が構造主義の手法を実践して本を書いていることに気付くのです(今さらですが)。
橋本治さんだけでなく、養老孟司さんや、内田樹さんなど、最近ぼくがハマってる人はみんな「構造主義」の見事な使い手なのではないかと思います。
でも、手法としての構造主義はもはや当たり前なので、どの本にも「構造主義」の言葉は一言も出てこないわけです。

で、「上司は思いつきでものを言う」ですが、実際この「構造」のおかげで、ここ一年間モヤモヤしてた自分の身に起きたトラブルが、一気に解消してしまったのです。
実は昨年、ある出版社から「ぼくの写真集を出す」ということになっていました。
それが、編集を終えた入稿直前の段階で「企画中止」と言われたのです。
で、ぼくはその意味が分からずどう対処して良いのか分からなかったのですが、それがまさに「上司は思いつきでものを言う」にふりまわされた結果だったのです。
この場合振り回されていたのは「編集者」で、思い付きを言う上司に当るのは「営業」で、ぼくはそのとばっちりを受けたのです。
この編集者とは気が合って、ぼくの意図を理解してくれながら企画を進めていたのですが、サンプルを営業に見せると「写真だけの本は売れないからもっとイラストを入れてくれ」とのことで、それではダサい本になるのは目に見えているから、なんとか営業を説得しつつ、写真主体のサンプルを作りOKをもらったのです。
それが編集作業を全部終えた入稿直前に、「営業がサンプルを持って書店周りをしたら”こんな本じゃ売れない”と言われた」という理由で、企画中止になったのです。
書店に「売れない」と言われるのは仕方ないですが、じゃあなぜもっと早い時期に書店にリサーチしなかったのか?入稿直前になってリサーチし企画中止にするのはおかしいではないか?などと思っても仕方ありません。
全ては「上司は思いつきでものを言う」という「構造」のせいだったのです。
問題が「構造」にあるのであれば個人を責めても仕方がないので、「まぁ、しょうがない」でスッキリあきらめることができます。
あきらめてスッキリすれば問題は解消で、それこそが「構造主義」の実践的応用です。
いや、「本当に構造主義が分かってる」と言う人から見て、ぼくの解釈が正しいかどうかは分かりませんが(笑)。

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2007年6月27日 (水)

『「わからない」という方法』

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読んだ本の感想を順次アップしようと思ったのですが、なかなかそういうわけにはいかないですね・・・
この本もちょっと前に読んだ本ですが、橋本治さんは「師匠」と呼びたくなるほど、考え方や感覚がフィットし、非常にクリアーです。

「わからない」というのは思想ですが、思想と言うのは道具であって、だから「方法」なわけです。
で、この「わからない」はぼくも一部に使っていて、ぼくの写真は全部「写真が分からない」と言うことから出発してるわけです。
でも、ぼくの場合は「わからない」を多岐にわたって採用してなかったので、それで他に不具合がいろいろあった、というのが良く分かった気がします。
例えば「芸術とは何か」について、ぼくは「わからない」から出発して「非人称芸術」のコンセプトに行き着いたのですが、そうしたらもう「わかった」つもりになり、その「わかった」ことを他人に伝えようとしたのです。
でも結局「わからない」を止めてしまった「わかった」は、底が浅いようで、どうも説得力に欠けるのでした。
つまり「わからない」ことを勉強しているうちに「わかった」に到達するのは良いとして、その「わかった」を情報として固定してはいけないということです。
ぼくの場合は、芸術について分かったことが、作品製作という具体的行為と結びついているからまだマシですが、それでも「芸術とは何か」を固定してしまったら、芸術について何か語っても底が浅くなってしまいます。

それを意識したのは、近刊のフォトモ作品集『フォトモの物件』の巻末のテキストを書く段になってからで、と言うのも、フォトモや非人称芸術のコンセプトについては前著の『フォトモの物件』や『出現!フォトモ』ですでに書いており、行き詰ってしまったのです。
何か書こうと思っても、前回と同じことしか書けず、その割りに「全て語りつくした」という感もない、なんとも中途半端な状態です。
それで「同じ事柄について、複数の異なる説明が出来ないのは、考えの底が浅いからだ」と思い、それで昨年の年末頃からいろいろ本を読むようになったのです。
でも、急に読書しても所詮は付け焼刃なので、相当苦労して、なんとか4月に形にして仕上げました。
しかし実は、『フォトモの物件』と同時進行で、『東京昆虫デジワイド』という虫の写真集も製作していて、その解説も続けて書かなければならなかったのです。
でも、『フォトモの物件』の解説ではいろいろ話を広げ、昆虫写真についても触れてしまったので、『東京昆虫デジワイド』では昆虫写真について別の解説を書かなくてはいけません。
それでまた慌てていろいろ本を読んで、その中の一冊がこの『「わからない」という方法』だったのです。
これを読んだからといって、昆虫写真の解説にダイレクトには結びつかないでしょうが、ものを考える心構えが確認できて、だいぶ楽になりました(とは言え、締め切りをジリジリ延ばしてしまい焦ってましたが)。

他人の本の感想が、自分の本の宣伝になってしまいましたが、本のあらすじをただ書いても読んだ本が「わかった」とは限らないので、なるべく違うことを書くのも良いかなと思ってます。

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2007年6月26日 (火)

在日日本人

ふと「在日日本人」と言う言葉を思いついて、「ぼくは在日という立場から日本人を観察してみよう」なんて思ったのですが、とりあえず検索してみるとその名もズバリ「在日日本人」と言う本があって、リンク先のレビューを見ると、どうやらぼくの思っていることとさほど違わないことが書いてありそうな感じです(笑)

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「無思想の発見」

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この本は新に買ったのではなく、ウチにあったのを読み直したのです。
それで驚いたのですが、買ったのは半年以内のはずなのに、読み直しながら以前読んだ記憶がほとんどないのです。
「もしかして、買ったけど読んでなかったのかも?」と思えるくらいで、でも終わりの方の一箇所だけ内容を覚えていたので「やっぱり読んでいた」と分かるくらいです。
改めて自分の記憶力のすごさに驚いたのですが、まさに「記憶力がないから何度でも楽しめる」(byときたま)です。

それで、改めてゆっくり読んでみたのですが、この本は(と言うか養老さんの本はみんな)レトリックが見事すぎて読みやすと錯覚するだけで、実際はその内容を「理解」するのはかなり難しいのではないかと思います。
養老さんの著書は普段自分が思っていることと「違う」ことが書いてあるので、それを理解するには、いちいち自分を変化させなくてはいけなくて、大人になってから自分を変化させるのは容易ではないのです。
それで前回は、自分を変えなくても「わかる」ところだけ拾い読みしていて、その結果、本から受け取る文脈も違ったものになっていて、それが「読んだ覚えがない」という記憶になっていたのかもしれません。

そもそも思想書のたぐいは、「文字通り理解すること」にそれほど意味はないんじゃないかと思います。
それよりも、本に書かれた他人の言葉の裏には「概念」があって、それを理解することこそが肝心です。
「概念」を理解には他人の言葉そのままではなく、自分の言葉で翻訳する必要があります。
概念とはつまり、「自分で考えて、行動するための道具」です。
道具と言うのは道具単体で存在しても意味がなく「どう使うか」が肝心です。
どんな道具も生身の人間が、その場の状況に応じて使うものですから、「人によって、状況によって」使い方も異なります。
道具にはいちおう使用説明書が付いてますが、それを読んだだけでは何にもならなくて、結局は自分独自の観点で「それが何であるか」を理解してからでないと、使いこなすことは出来ません。

それで養老さんの本ですが、二度読んで全部理解したかと言うとそういうことはぜんぜんありません。
この本で語られている概念は多岐にわたり、それは工具がいっぱい詰まった工具箱のようなものかもしれません。
そしてその中の、例えばマイナスドライバー一本だけでも使い方が分かれば、とりあえずは良いんじゃないでしょうか?
そのマイナスドライバーを使いこなしているうちに、その隣の工具が何だから分からなかったのが「スパナ」であると、突然理解できるかもしれません。
養老さんの本に限らず、全ての本が「工具箱」のようなものだとすれば、意外にどの工具箱の中にもドライバーやスパナのような「同じ工具」が入っているものです。
だから同じ本を何度も読むのも良いけど、いろんな本を読んでいれば、その具体的詳細は忘れても「各種工具」の使い方はだんだん上手くなってくるのかもしれません。

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2007年6月23日 (土)

似ている似顔絵は、本人と「クオリア」が同じ。かも?

先ほど人間の目の解像度と、人間同士の個体識別のことについて考えたのだけど、それと関連して「クオリア」についてふと思い付いた。
クオリアとは何か?は実はそれが分からなくて「クオリア入門」を読み始めて投げ出したくらいなのだが、「ひょっとして、こういうこと?」と言うのを思い付いた。

ぼくは実は人の似顔絵を描くのは割と自信があるのだけど、よく知られているように似顔絵は写実的に描けば良いというわけではなく、「デフォルメして実物とぜんぜん違うのに、なぜか本人ソックリ」という絵が面白いのだ。
写実画というのは写真のような絵と言うことだから、本人と本人を描いた写実画は「光学的に似通っている」と言うことができる。
そうなると、本人と、デフォルメされて描かれた似顔絵は「光学的に似通っていない」わけだ。
でもデフォルメされた似顔絵が「似てる」と思われるには、何か同一な要素があるわけで、それこそが「クオリア」なのかな?と思ったのだ。
クオリアとは、人間が認識したものから受け取る固有の「感じ」であり、それはそれ以上分解できない要素であり、言葉で意味づけられる以前のものだと言うことらしい。
それが具体的に何のことで、何を意味しているのかぜんぜん分からなかったのだが、「人の顔」と言うことなら何となく分かるかもしれない。
例えば「安倍総理」とか「小泉元総理」とか、そういう人の顔から受ける「感じ」は固有のもので、そういう「感じ」を人間はかなり敏感に識別できる。
だから、いくら写実的に描かれていても、その人の顔の固有の「感じ」がその絵になければ「似てない」と言うことになる。
逆にデフォルメされた絵の中に、その人の顔の「感じ」が純粋に表現されると感じることもある。
そうしたその人の顔の「感じ」がクオリアであるとすれば、「本人の顔」と「ソックリな似顔絵」で共通するのは「その人の顔のクオリア」と言うことが出来るのではないか。
そして人間が普段「その人」を認識するときも、網膜に写る細かいディテールから、もっぱらクオリアのみを抽出して「その人だ」と認識してる、と言えるのかもしれない。
いや、「クオリア入門」まだ一章しか読んでないから知らないけど(笑)
ちゃんと読んで、以上の仮説が当っていたら面白いんじゃないかと思います。

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■人間の目が良いのは、お互いの顔を識別するため

昼間雨だったのが夕方上がったので、「読書歩行」に出かけたのだが、再び小雨が降ってきたので(傘もなかったし)読書は中断したのだけど、それで歩きながら考えたのが「視界の中心で見る」とはいかなることか?と言うことだ。
ぼくは人間の目は、他の動物に比べ「無駄に見えすぎる」という仮説を立てている。
人間の目ほど良く見えなくとも、動物としての基本的な生活に支障をきたさないのではないか?と思うのだ。
例えばぼくは割と強度の近視で、眼鏡を取ると視界がボケボケになる。
だからと言って、それで歩けなくなるかと言えばそんなことは全然ない。
視界がボケていても、歩くことにはほとんど支障がないのだ。
そういえば、ぼくが目が悪くなったのは中学生のときだったが、その一時期目が悪いのに眼鏡なしで過ごしていたことがあった。
眼鏡なしでもとりあえず普通に生活できたのだけど、まず不便だったのは字が読めないことで、黒板の文字はもちろんのこと、本屋に行っても背表紙の字が読めないのだ。
でも、文字と言うのはある時代に発明されたものだから、人間にとって普遍的なものではない。
だから、人間が「見えすぎる」のは「文字を読むためだ」と考えることはできない。
では目が悪くて、次に何が不便だったかと言うと、人の顔が分からないことだ。
向こうから友達が歩いてきたのにぼくが識別できなくて、相手に「無視された」と思われ気まずくなったことがある。
「人の顔の識別」は人にとって重要なことだから、人間が「見えすぎる」のは「人の顔を識別するため」と考えても良さそうだ。
考えてみると、人間ほど「個体識別」にこだわる動物はいないだろう。
いや、哺乳類の一部などかなり正確に個体識別を行なう種もあるだろうが、それはせいぜい自分の子供とか、群れの範囲であろう。
それに比べると人間は、ものすごい数の同種の個体識別を行なっている。
人間の特徴は「同種内で多数の個体識別を行なう」と言っても良いくらいだ。
そしてこの特徴は、「人間は本来、多数で群れをなす習性があり、その習性ゆえに他の肉食獣から身を守ってきた」という日高敏隆さんの仮説とも符合する。
正確に多数の個体を識別するには「嗅覚」や「聴覚」より視覚情報のほうが有利で、だから人間の目は「個体識別にかなう解像度を有する」のだと言える。
人間の顔と言うものはそれぞれ固有で、個体識別のシグナルとなると同時に、「感情」を伝えるためのメディアでもある。
「人は本来、多数の個体で群れ、その中でコミュニケーションをとりながら豊かになる」と言うのも日高敏隆さんの説で、「他人の表情を読む」は「文字を読む」に先立って重要な機能なのだ。
だから、もしかしたら「他人の表情を読む」という機能の応用として「文字を読む」があるのかもしれない。

以上はろくな根拠もない当てずっぽうな仮説なんだけど、仮説と言うのはそれが本当かどうかは実にどうでも良くて、「なんだかツジツマが合ってるっぽくって面白い」ことが重要なのだ(というのがぼくの仮説デス)。

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2007年6月22日 (金)

■読書歩行術の研究

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先に「歩行読書術」としたのだけど、どちらかと言うと「歩行」の問題だろうと言うことで、「読書歩行術」ということにした。

それで、出掛けにポストを見たら「デジタルカメラマガジン」が入ってたので、そのままパラパラ読みながら歩き始めたのだが、途端に人にぶつかりそうになってしまった。
A4サイズの見開きだと、さすがに視界がさえぎられすぎで、歩行に困難をきたすのだ。
文庫や新書なら周囲の状況がだいぶ分かり、人や車や交差点の存在も割と事前に察知できる。
逆に、視界の周囲をさえぎって、視界の中心だけを使いながら歩くとどうなるだろう?という興味もある。
もしかすると、意外に歩きづらいのかもしれない。
実験もせずに大胆に仮説を立てると、「視界の周辺」は周囲の状況や自分の位置を認識するためにあり、「視界の中心」は肉食動物がえさを捕まえるのに使うのが基本なのかもしれない。
草食動物は虫も獣も目が左右に離れていて「視界の中心」がなさそうだ。
それに対し、人間も含め肉食動物は「視界の中心」で物を見据えることができる。
草食動物は逃げようとするエサを捕まえる必要がないから、「視界の中心」が必要でないのだ。
鳥についても、目があんなに離れていて飛行に支障がないのか不思議だが、飛行機のパイロットも実は前よりも横を見て操縦してるそうで、それを考えると動物の移動には「視界の周辺」こそが重要なのではないかと思われる。

読書というのは文字を捉えて知識を「食べる」行為だから、「視界の中心」を使わざるを得ない。
その読書に「視界の中心」がさえぎられたとしても、「視界の周辺」のみを使ってあるくことができる。
もちろん、中心と周辺は相補的なものだけど、主なのは周辺かもしれないということだ。
考えてみれば、移動に伴う視界の変化は、中心部より周辺部のほうが多いわけで、これは当たり前かもしれない。
でも人間の視神経は逆で、周辺より中心の方が密だから、それがまぁ不思議といえる。

ところで、写真の「クオリア入門」だが、とりあえず一章読んだところで中断しまった。
「クオリア」の概念を知識としてではなく、感覚的に実感するのがえらく困難で、それでちょっと保留にした。
そんなの保留にしたまま読み進めることもできるのだろうが、それをしてあとに何も残らなかったらどうしよう?などと思ってしまうのだ。

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2007年6月17日 (日)

■歩行読書術の環世界

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ぼくは読書がどうも苦手で、座って読んでたりすると集中力が続かずすぐ疲れてしまいます。
そこで「自分が一番楽なのはどんなときか?」と考えたら、それは「歩いているとき」で、だから「歩きながら読む」というのを、やってみました。
すると、これがけっこう当りで、今までより格段に読書が進むようになったのです。
読書はともかく、読みながらちゃんと歩けるのかと言う指摘もあるでしょうが、これも意外にちゃんと歩けるから驚きです。
つまり、目の中心で本の文字を追い、目の周辺で例えば道路のラインなどを追うのです。
交差点などに差し掛かると雰囲気で分かるから、そこでぱっと目を上げ状況を判断します。
人や車が来ても音や雰囲気で大体判断できます。
そんなふうにして、歩きながら読書すれば、ちょっとややこしい内容の新書本でも無理すれば一日で読めてしまうのです(とても自慢になるようなスピードじゃないですが)。

で、そこでふと思ったのが、「この読書しながら歩くときの視覚って、何かの動物の視覚と同じかも?」ということです。
「何かの動物」が何なのかは知りませんが、そこに「人間以外の動物の視覚」が再現されてるんじゃないか?ということです。
ぼくは「人間以外の動物の視覚」がどんなものか興味があって、時々あれこれ考えるのですが、今がまさにそれではないかと。
人間以外の動物の視覚とは、「目の使い方が違う」ということです。
人間をはじめとする脊椎動物の目の構造は、魚もカエルも皆同じです。
だけれども、その目をどのように使うか、と言うことが動物によって異なるのです。
例えばカエルは動くものしか見えません。
もちろん、動くものも動かないものも、カエルの目の「網膜」には映っているはずです。
でも、カエルの脳は「動かない網膜像」を、対象物をしてキャッチしないのです。
そういうのが、カエル特有の「目の使い方」です。

で、読書しながら歩いてるとき、ぼくは普段とは違う「目の使い方」をしています。
まず、目の中心を歩行に使用せず、周辺部のみで歩行のための状況認識をします。
状況認識の頼りになるのは、「道路の白線」などです。
人間は普通、目の中心で前方を見ながら歩きますから、足元の白線なんてあまり見ることはありません。
でも、読書しながら歩くとき、この白線が大いに役立ちます。
つまりこの時のぼくは、普段とは異なる「環世界」にいるわけです。

人間は網膜に映るものの様々に「意味づけ」をし、それらをことごとく認識してゆきますから、「余計なものがたくさん見えすぎている」とも言えます。
人間には「それがなくても歩行に支障がないもの」まで全部見えてしまい、ムダに視覚を働かせているのです。
このムダな部分が「人間らしい」と言うことなのでしょうが、では「動物的に無駄を排した視覚」はどんなものか?は、なかなか想像するのが難しい。
「視覚認識」とか「歩行」とかは、あれこれ考えずに行なってることなので、その中の何がムダで、何が必要なのかの判断は、容易にはできません。
でも、「読書しながら歩く」を試したら、期せずして「動物的に無駄を排した視覚」が、経験できてしまったわけです。
もちろん何の動物かは分からないし、そんな動物がいるのかも分かりませんが、人間離れして動物的なのは確かです。

でもまぁ、危ないことしてるのは明らかですから、なれすぎて調子に乗らないよう気をつけなければいけません。
もっとも、ぼくは普通に歩いてるときでも余計なもの探したりして、普通の人とはちょっと違う目の使い方をしてますから、つまづいたり、ぶつかったり、車に轢かれそうになることは多々あります。

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