「無思想の発見」
この本は新に買ったのではなく、ウチにあったのを読み直したのです。
それで驚いたのですが、買ったのは半年以内のはずなのに、読み直しながら以前読んだ記憶がほとんどないのです。
「もしかして、買ったけど読んでなかったのかも?」と思えるくらいで、でも終わりの方の一箇所だけ内容を覚えていたので「やっぱり読んでいた」と分かるくらいです。
改めて自分の記憶力のすごさに驚いたのですが、まさに「記憶力がないから何度でも楽しめる」(byときたま)です。
それで、改めてゆっくり読んでみたのですが、この本は(と言うか養老さんの本はみんな)レトリックが見事すぎて読みやすと錯覚するだけで、実際はその内容を「理解」するのはかなり難しいのではないかと思います。
養老さんの著書は普段自分が思っていることと「違う」ことが書いてあるので、それを理解するには、いちいち自分を変化させなくてはいけなくて、大人になってから自分を変化させるのは容易ではないのです。
それで前回は、自分を変えなくても「わかる」ところだけ拾い読みしていて、その結果、本から受け取る文脈も違ったものになっていて、それが「読んだ覚えがない」という記憶になっていたのかもしれません。
そもそも思想書のたぐいは、「文字通り理解すること」にそれほど意味はないんじゃないかと思います。
それよりも、本に書かれた他人の言葉の裏には「概念」があって、それを理解することこそが肝心です。
「概念」を理解には他人の言葉そのままではなく、自分の言葉で翻訳する必要があります。
概念とはつまり、「自分で考えて、行動するための道具」です。
道具と言うのは道具単体で存在しても意味がなく「どう使うか」が肝心です。
どんな道具も生身の人間が、その場の状況に応じて使うものですから、「人によって、状況によって」使い方も異なります。
道具にはいちおう使用説明書が付いてますが、それを読んだだけでは何にもならなくて、結局は自分独自の観点で「それが何であるか」を理解してからでないと、使いこなすことは出来ません。
それで養老さんの本ですが、二度読んで全部理解したかと言うとそういうことはぜんぜんありません。
この本で語られている概念は多岐にわたり、それは工具がいっぱい詰まった工具箱のようなものかもしれません。
そしてその中の、例えばマイナスドライバー一本だけでも使い方が分かれば、とりあえずは良いんじゃないでしょうか?
そのマイナスドライバーを使いこなしているうちに、その隣の工具が何だから分からなかったのが「スパナ」であると、突然理解できるかもしれません。
養老さんの本に限らず、全ての本が「工具箱」のようなものだとすれば、意外にどの工具箱の中にもドライバーやスパナのような「同じ工具」が入っているものです。
だから同じ本を何度も読むのも良いけど、いろんな本を読んでいれば、その具体的詳細は忘れても「各種工具」の使い方はだんだん上手くなってくるのかもしれません。
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