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2007年7月

2007年7月25日 (水)

「みんなと同じ」の格差

内田樹さんのブログの記事「格差社会ってなんだろう」を読んで思いついたことを・・・
というか、大胆にも内田樹さんの記事からトラックバック、というものをしてみました。
内田さんのブログは累計一千万ヒット以上もあるのに、寄せられるコメントやトラックバックはごくわずかで、そうした書き込みをするのは「それなりのレベルの人」か「出たがりだけの身の程知らず」のどちらかなのかもしれません。
それで自分は、どれだけ「後者」なのかを確認してみたいと思った次第です(笑)

まず日本人には、「みんなと同じ」に振舞うことに固執する、という不思議な習慣があります。
ぼく自身はそういう習慣にあまり従えずにいるので、不思議な習慣だなぁ、という感じで見てるわけです。
この「みんなと同じ」という習慣はどうやら日本人特有のもので、だから日本特有の「文化的プログラム」といっていいのかもしれません。

で、世間では、特に欲しい物もやりたいことも無いのに、「とにかく金が欲しい」という人が大勢いてこれも不思議だったのですが、もしかしたら「みんながお金を欲しがっているから、みんなと同じように金が欲しい」と思っているのではないかと、思いついたのです。
それでなんだか知らないけど「一億総中流」とかでみんながお金持ちになった時期があったけど、今はそれが出来なくなって「みんなと同じように金持ちになれないじゃないか!」という「みんなからの落ちこぼれ」が「大勢いる」というのが、「日本的格差社会」なのではないかと。
「みんなからの落ちこぼれ」というのは本来は人それぞれで孤独なのだけど、日本人は「みんなと同じ」の文化的プログラムに従うから、大勢の落ちこぼれの人々の間であたらな「みんなと同じ」を作り出し、それが日本的格差社会になるわけです。

さらに思いついたのですが、オタクと呼ばれる人たちについてです。
これは本来、「みんなと同じように、若者らしくふるまう」からの落ちこぼれなのですが、こういう人たちがまた大勢集まって「みんなと同じように、オタクらしくふるまう」をしていて、別のみんなからキモイとか怖いとか言われたりして、そういうところにも「格差社会」が生じています。
まぁ、ぼくにしてみればオタクだろうが何だろうが、日本人的に「みんなと同じ」に従う人には違和感を持ってしまいます。
「みんなと同じ」に従う人は「自分」を殺してるわけで、どうも人間味というものがないように思えてしまうのです。
それに「みんな」というのは主体の特定できない「非人称」としてふるまうので、何をしでかすかわからない怖さがあります。

ぼく自身はもうずっと貧乏で、しかも「金には換算できない価値がある」という理由で芸術をやっているので、「格差社会の何が問題なのか?」とか「格差社会は本当に実在するのか?」といったことは良くわかりません。
もしかすると「格差社会」というのは日本人が「みんなと同じ」ように騒いでいるだけで、本当は実在もしてないし、何も問題が無いのかもしれません。
確かに、内田樹さんの著書『下流志向』などに書かれた格差社会についての分析は非常に鋭くて面白いものでしたが、その「内容が面白いことは事実」だとしても「内容が事実」とは必ずしもいえないことを考えなくてはいけません。
これは何も、「内田さんの言ってることは適当だから信用しないように」ということではなく、すべての言説の「正しい・正しくない」の判断は非常に難しく、それよりも、その言説の「面白い・面白くない」の判断のほうが確実だ、ということです。
だから、「面白い」と思ったことを「正しい」と思うことはたいていの場合間違いではないのですが、本質的にはそこにズレがあることは、留意しといても良いんじゃないかと思うのです。

で、よくわからないけど、派遣社員とかでお金が無ない人は、休みの日に昆虫観察とかすれば良いんじゃないかと思います。
虫は全部タダだし(笑)
でも、これも「みんな同じ」に大勢でやられると困るから、各自孤独にその道を極めてもらいたいものです。

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2007年7月21日 (土)

思考のブリコラージュ

いま読んでる『野生の思考』は、分厚い上になかなか読み進むのが困難で、先が思いやられます。
いや、この手の専門書としては以外に読みやすく、ものすごく面白いことがいろいろと書いてあるのですが、それでも読み直しても良くわからない箇所も時々あって、ストップしてしまうのです。
それは元の概念が難しいのか、それとも訳し方が難しいのかわかりませんが、いろいろ考えて「そういうところで停滞するより、飛ばして読み進んでしまったほうが良い」ということにしてしまいました。
実はこれは『野生の思考』からのフィードバックなのですが、このような専門書を一字一句すべて理解して、その上で自分の思考を積み上げるのが「思想の専門家」だとすると、ぼくの考えなんてものはどうあっても「素人の思想」にしかなりません。
だから素人のぼくは「専門の思想」を構築するプレッシャーなんか感じる必要は微塵もなく、「思想のブリコラージュ」で十分なのです。

「専門書の面白いところだけを理解し、わからないところは飛ばし読みする」というのは、「既製品を分解し、素材を取り出す」というブリコラージュの素材集めと似ています。
ぼくが本を読んで「わかったぞ!」と思ったその内容が、著者の考えと実は違ってたりするかもしれないけど、結果として新しいモノが生み出されれば、それで良いのです。
そもそもぼくは芸術家であって、その芸術を作るために「思想」を必要としてるわけです。
だからそれが「思想のブリコラージュ」であっても、結果として有効な働きをしさえすれば良いのです。
例えば「フォトモ」というのは技法であって、技法だけでは作品になりません。
技法+思想(コンセプト)があるから、作品をシリーズとして展開できるのであり、だからこそ作品に「説得力」が生じるのです。
フォトモのコンセプトである「非人称芸術」は、「路上にある建物などの既製品の本来の用途を頭から除外し、芸術のオブジェとして鑑賞する」ということなのですが、この考えは『野生の思考』に書かれたブリコラージュの影響を大きく受けています。
それにぼくは、カメラの改造など本来の意味でのブリコラージュも大いに行なっています。
つまり『野生の思考』の冒頭に書かれていた「ブリコラージュ」だけで、ご飯が何杯でもおかわりでき、全部読み終える前にお腹いっぱいになり、こういうオメデタイところが思考のブリコラージュなのです。

思想家というのは技術者と同じように、細かい部分を積み重ね、理論全体を構築します。
しかしぼくは芸術家ですから、理論に先立って作品全体のイメージを作ります。
イメージを作品化するには地道な積み重ね作業が必要ですが、出来上がった作品という「全体」は、「どうやって製作したか」という方法のみに還元されるものではありません。
芸術作品という「全体」には、作者が意図していなかったような様々な「部分」が含まれ、それが作品に芸術としての深みを与えているのです。
つまり、全体をイメージして作ってしまえば、結果としてそこに様々に複雑な要素が含まれてしまう、というのが芸術の方法論です。

まぁ何にせよ、感覚的に言ったことはけっこう当っていることがある、ということです。
例えば『野生の思考』では、ある未開の部族は「苦味のある植物は薬として使える可能性がある」と考えており、それに科学的根拠は全くないのに、苦味というのはある成分で共通しているので、その考えは意外に当っている」というような例を挙げています。
もちろん、科学的な理論を構築したほうが確実といえますが、勘や経験といったものは意外にバカにならない、というようなことを『野生の思考』では言っています。
素人が勘で作ったブリコラージュが、工業製品の機能を上回ることもあるのです。
だから思想のレベルでも同じことがあるかもしれないわけで、ぼくは芸術家という立場から、それを信じて「考える」しかないわけです。

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「ブリコラージュ」とは

「ブリコラージュ」はレヴィ=ストロースの『野生の思考』に書かれていた概念で、ぼくもかなり影響を受けました。
で、ブリコラージュがどういうものかというと・・・

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まず、これは100円ショップで買ったタッパーで、ブリコラージュではなく「工業製品」です。
このような工業製品は、例え100円のタッパーだとしても素人に作ることはで来ません。
タッパーを作るには、プラスティック素材についてとか、金型製作についてとか、膨大な専門知識が必要です。
専門家はこのような工業製品を、ゼロから作り出します。

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で、これはぼくの工作なのですが、上記のタッパーをカメラに装着し、内蔵ストロボのディフューザーになります。
タッパーは内側を紙やすりで削って白濁化させ、カメラ装着用にマジックテープを貼り付けています。

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このタッパーは、さらにこのようにレンズキャップにもなります。
このような工夫は素人のぼくにでもできる工作で、それが「ブリコラージュ」です。
ブリコラージュは「既製品の断片」を組み合わせ、元の製品とは異なる「新たな機能」を作り出すような工作を指します。
タッパーは技術者がゼロから作り出した工業製品ですが、ぼくはそのタッパーの「構造」を利用することで、製作過程の大部分をスキップすることが出来たのです。
ブリコラージュで利用するのは「機能」ではなく「構造」なので、だからぼくの工作品にはタッパーの構造だけがあり、タッパーとしての機能はありません。
そのかわり「ストロボディフューザー」という、タッパーの製作者が思いもよらなかった機能を持たせています。

一方、工業製品としてのストロボディフューザーも市販されており、これは専門的な光学原理によって合理的に設計されています。
ぼくはそのような光学の専門知識もないですが、市販のディフューザーと「外見」が似ているタッパーを利用し、同じ機能を持った品物を作ったのです。
工業製品は科学的な理論に基づいて作られますが、ブリコラージュは「素材の外見」とか「現物合わせ」とか「直感」などに基づいて作られます。

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これは別のブリコラージュで、一眼レフ用の標準ズームを前後逆さに取り付ける改造をしています。
どうしてこんな改造をしたかというと、これにより高倍率の拡大撮影ができるのです。
ぼくはレンズを一から設計するような専門知識は全く持っていませんが、「一眼レフ用の標準ズームを前後逆さに取り付けると、高倍率撮影ができる」という事だけは知っていました。
しかしそれは偶然の産物であり、設計の想定外のことです。
レンズによっては逆さに取り付けると画質が悪くなる場合がありますから、そういうのは「理論抜き」で、現物で直接試しながら作るのがブリコラージュの方法論です。

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これは「逆付け拡大レンズ」の製作途中ですが、逆さに取り付けながらレンズ内の絞りを作動させるため、マウントの電気接点からコードを延長したり、プラスティックの丸いカバーを自作したりしてます。
この工作は我ながらキレイにできてますが、あくまで素人工作であり、専門家とは領域が異なります。

このようなブリコラージュは、海野和男さんや栗林慧さんをはじめ、昔から多くの自然写真家が行なってきたことでした。
大量生産する工業製品は「みんな」のニーズに合わせて作られているので、個々の現場に最適化された道具を手に入れるには、自作するしかありません。
しかし写真家は工業製品の専門家ではないので、「既製品の断片」を用いてブリコラージュするのです。

で、『野生の思考』になぜブリコラージュの話が出てくるかというと、近代以前の社会の神話は、ブリコラージュのような思考によって作られる、というような事なのだそうです。
近代人は科学理論を元に世界説明を展開しますが、近代以前は個々の現場から遡り、世界説明を構築します。
それは専門家がカメラを設計するよりも、写真家のブリコラージュに似ているのです。
いや、この説明はちょっと怪しいかもしれません。
まだ本を読み終えていないもので・・・。

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『野生の思考』

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『野生の思考』を野外で読むのはちょっとキケンです。
いや内容に危険性はないですが、この本は文庫本の2倍の大きさがあるので、歩きながら読むと視界が遮られる面積も広いのです(笑)。
だからなるべく車通りのない広い道を選び、ページも完全に見開かないようにするのが無難です。

で、この本の概要ですが、著者はフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースで、「いろいろに異なる文明を比較すると、いろいろ面白いものが見えてくる」という構造主義の出発点になったような内容です。
実はこの本、かなり以前に途中まで読んだままでした。
厚い本はなかなか読み切れないということもありますが、少し読んだだけでもいろいろ刺激を受け、そこから「非人称芸術」のコンセプトを深めることができたので、まぁいいかと放置してました。
でも最近は「読書歩行術」も開発したし、あらためて最初から全部読んでみようと思った次第です。

あと、これまでのように全部読み終えてから感想を書くと、途中の内容を忘れることがあるので(笑)、読んだ途中も感想書くことにします。
実は先日ブログをカテゴリーに分け「読んだ本」の項目を設定したのですが、この中に「途中で投げ出した本」が混ざる可能性も出てきてしまいますが・・・。

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『「自分以外はバカ」の時代!』

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以前紹介した『俺様化する子供たち』と似たようなタイトルですが、こちらは帯に描かれたマンガが秀逸で、それだけで内容が期待できてしまいます。
しかし、読み始めて程なく「こりゃダメだ・・・」と思い、あとは飛ばし読みしてしまいました(笑)。
だから全部を丹念に読めば「やっぱり良い本だった」となるかもしれませんが、それを踏まえての感想です。

この本には「若者じゃない人」の多くが、「若者」に対して思っているだろう事が書かれており、その意味で特に間違った内容ではないと思います。
ただ、それしか書かれておらず「だからどうした」という部分が全くありません。
例えばこの本では「若者は根拠もなく全能感を持っている」というようなことが指摘されてますが、「それがケシカラン」と言って終わりです。
これはかなり拍子抜けで、作者の独創性という「内容」がありません。
俺様化する子供たち』の方は実に独創的な分析されており、そういう面白さを期待したのですが・・・
まぁ、こういう本はただ同意して納得したい人には良いかもしれません。
納得というか、自分を変えなくて済む安心感というか、そういうニーズに応える本じゃないかと思います。

あと面白いのは、この本にはグラフや図が多用されていることです。
「みんなが何となく思っていること」に対し、実際に被験者にアンケートを取ってそれをグラフにし、それが「科学的な裏づけがとれた」という印象になってます。
このアンケートについて「被験者が限られているのであくまで参考程度に」のような断りがあり、そういう控えめな態度もいかにも科学的です。
でも、日高敏隆さんの『帰ってきたファーブル』には、「物理学以外の専門分野(心理学や生物学)が、物理学の手法の真似をするのはもう古い」、というようなことが書いてあります。
例えば、魚を入れた水の温度を徐々に上げ、それに伴いエラの動く回数がどう変化するかをグラフにする・・・これは生物を物理学と同じように「数値」として扱うことなのですが、それではぜんぜん「生物」が分かったことにならないだろう、ということです。
で、『「自分以外はバカ」の時代!』で示されたグラフも、まさに同じようなものではないかと思うワケです。
しかしいかに古くなった考えだとしても、その思考法を身につけたとき自分はまだ「若者」だったわけで、それを今さら変えられないのも「若者じゃない人」の特徴です。
自分も反省しなくてはいけませんが、これはかなり難しいことです。

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2007年7月19日 (木)

糸井潤個展『廓寥(かくりょう)- Empty Sky』

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カラープリントの乳剤面だけを剥がし、蝋を使い和紙と密着させた写真作品。
RAW現像ならぬ「蝋現像」で、けっこう耐久性があるようです。

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もっとマジメに撮れば良かったですが、オープニングはかなりたくさん人が来てました。
こういうところに顔出してると、だんだんギョーカイ人っぽくなりますw

恵比寿の工房”親”で8月3日まで。
作者の糸井潤さんのサイトにサンプルがあります。

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2007年7月18日 (水)

ガムテープフォント「修悦体」

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ここのページで知ったのですが、改装中の新宿駅構内に書かれた案内文字のルポなんてのがありました。
実はぼくも2003年に撮ってましたね。
ただぼくは、これはてっきり「プロ」の仕事だと思っていたので、完成した文字よりも途中経過に興味を持ったのでした。
しかし実際はとある駅員さんによる素人仕事で、なかなか感動的なエピソードがあるのでした。
いや、「ガムテープで文字を書くプロ」がこの世に存在しない以上、それを始めた素人が「プロ」ですね。
ぼくの一枚目の写真を見ると分かりますが、合理的に考え抜かれた製作過程で、出来上がりのフォントは視認性が高く、美しく独創的なデザインです。
この作者は「正規の美術教育を受けていない」という意味でアウトサイダーアートなのですが、そもそも「アートは様々な事情で生まれる」ことを考えると、そのような分類も無意味になります。

*旧2コマ写真のページはリンク切れが激しく、そのうち直そうと思ってるのですがなかなか・・・

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2007年7月11日 (水)

『宗教なんかこわくない!』

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この本はオウム真理教事件のことから宗教についてアレコレ書かれていて、だからこんな背景になりました(笑)。

あの橋本治さんの宗教の本だから絶対に面白いハズ・・・と思ったら期待以上でした。
実は、ぼくも「宗教なんかこわくない!」とずっと思っていて、それはオウム真理教事件が話題になっていた当時、自分なりにいろいろ考えて得た結論なのでした。
そう思って読むと、ぼくが考えてたのと同じようなことが書かれていて「良かった!」と思える部分と、考えもしなかったようなスゴイことがいろいろと書かれています。

スゴイのは、相変わらずこの人の「構造分析」で、実に鋭く切れ味バツグンです。
構造分析とは、いろんな要素が複雑に絡み合い、ごちゃごちゃとわけの分からなくなった問題の中から「構造=秩序」を見出し、それを問題解決の糸口にする、と言う手法で、橋本治さんはとにかくこれの名人なのです。
構造分析は「構造主義」というフランス発祥の現代思想による手法なのですが、橋本治さんは現代思想家ではないし、フランス現代思想の研究家でもないし、まして「私の本は構造主義によって書かれている」なんてどの本にも一言も書かれていません。
そのかわり「私の本職は小説家で、小説家は口から出まかせの思い付きが大得意だから、私の本も口から出まかせの思い付きで書かれてたりする」なんてことを言ってたりします。

そこで気づいたのは、そもそも構造分析というものは、口から出まかせの思い付きでしかありえないのでは?ということです。
「構造」というのは、問題の表面には現れず、人々の意識の底に隠れているものです。
構造分析の手法はまず、いろいろな人の意見を聞いたり、いろいろな資料を読んだりして、問題解決のための素材を集めます。
そして、そのような人々の意見や、資料に書かれていることを「真に受けない」ようにして、それとはまったく別のことを、口から出まかせで思い付くのです。
つまり、「アンタら口ではそう言ってるけど、ホントはこう思ってるんでしょ?」と、テキトーなことを言うわけなのですが、そのテキトーな事が案外当っていて、問題解決に有効だったりするのです。

構造主義の開祖であるレヴィ・ストロースは、様々な民族の、様々に異なる社会システムのあり方を比較した結果、「全ての社会システムは、女性を交換するシステムである」という構造分析をしました。
どこの民族も自分の社会を「女性を交換するシステム」だなんて言いませんから、これはレヴィ・ストロースの「適当な思い付き」とも言えます。
でもその思い付きであったものが、不思議と全ての民族に当てはまるところが見事なのです。

以前に紹介した『オレ様化する子供たち』 という本では、「教育は本来”贈与”なのに、子供たちは”等価交換”を求めている」というような事が書かれています。
でも、実際の生徒一人一人は、単に先生に対しふてくされたり、反抗したり、ウソをついたりしてるだけで、誰も「オレは等価交換がしたいんだ」なんてことは言ってません。
だから、それは著者である先生の「思い付き」でしかないのですが、これも不思議とほとんどの事例に当てはまるのです。

もちろん、「構造分析は、口から出まかせの思い付きによってもたらされる」というのはぼくの思い付きでしかありませんから、良い子は真に受けてはいけません(笑)

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2007年7月 9日 (月)

『はっちゃんのデジカメ!写真ドリル』

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これで勉強して、猫写真の腕を上げよう・・・と言うわけではありません。
これは入門書の入門書と言うか、デジカメの入門書を書こうという人にとっての入門書にもなるような本です。
まぁ、別に入門書を書かなくても、何も知らないシロートにデジカメの使い方を説明するときなど、この本はとっても参考になるんじゃないかと思います。
なまじカメラや写真のことを知ってると、初心者がどこでつまづいて、何を知りたがってるのかどうも見えなくなって、どうしても説明が難しくなりすぎたりします。
そこをこの本では、「絞り」とか「シャッター速度」とか「画素数」とか、そういう専門用語は一切抜きで、「まずは寝顔を正面から」とか「次は寝顔を横から」などと言うふうにイキナリ具体的な実践から入っていくのです。
あとデジカメの入門書なのに、デジカメそのものの写真が一切なしで、全部イラストで描かれているのも見事です。
イマドキの本は最新鋭のデジカメを載せても、その発売直後に更なる新型デジカメが発売になったりして、そうするとせっかくの新刊なのに古臭いイメージになってしまいます。
それがこの本のように、デジカメはイラストで、しかも具体的なな機種名を一切出さないのであれば「すぐに古くなるデジカメ本」になることが回避できます。
でも実際は、この本を半年前くらいに見かけ「そのうち買おう」と思って、そしてつい最近買おうと思ったらどこの本屋にも置いてなくてけっこう探し回ったりしたのです。
だから「すぐ古くならない」より「簡単そうな本に見せる」効果を狙ってたのかもしれません。

いずれにしろ、この本は「わからない」という方法の実践例でもあるんじゃないかと思います。
いや、著書の八二一さんが橋本治さんの『「分からない」という方法』を読んだかどうか知りませんが、その技術は体得されてるように思えます。
しかしどうも分からないのが、「はっちゃん」だけが猫の中でなんでこんなに人気があるのか?ということで、猫なんかどれも同じようなもんで、同じくらい可愛いのに・・・とぼくなんかは思ってしまうのです。
でもそれは、海外出張の赴任先で現地人の顔が見分けられないのと同じで、「猫は猫でしょ」と思ってるのは興味がなくて遠ざけてることの現れなわけです。

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2007年7月 7日 (土)

『看板屋なかざき』展

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中崎透さんの個展『看板屋なかざき』のオープニング行ってきました。
町の電光看板をモチーフにした作品で、「路上からある要素を抽出してアートにする」という点で、先日の須藤有希子さんと共通点があるかなと、勝手に捉えてます。
ギャラリーが新宿ゴールデン街のすぐそばというのもなかなか・・・現実の看板とガチンコ勝負してます。

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作家本人はこんなユルキャラですが、作品もユルい感じで笑えます。
新宿眼科画廊で7月17日まで。

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2007年7月 4日 (水)

『project N 須藤有希子』展

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そう言えば数日前、東京オペラシティに『藤森建築と路上観察』に行ってきました。
会期は7月1日までなのでもう終わってますが・・・
藤森照信さんのことは実はあまり良く知らなくて、建築の研究家だと思ってたらいつの間にか建築家になっていて、そうしたら1990年から建築家を始められたそうで。
それで改めて「藤森建築」をまとめて見ることができたのですが、「作家」としての個性にあふれた、かなり良いものばかりでした。
展示空間もゴザを敷き詰めた部屋にワラで編んだドームなど設置してあったり、いろいろ工夫してありました。
「建築家」と言えば表現者と呼ばれる人の中でも「映画監督」と並んでヒエラルキーの高位にあるわけで、なるほどなぁ・・・と思ってしまいました。

で、『project N 須藤有希子』展というのは同じオペラシティギャラリーの上の会でやっていた企画展で、なかなか気に入ってしまいました。
須藤有希子さんのホームページにも作品が掲載されてますが、「路上」からある要素が抽出された感じで、こうした感じは写真ではなかなか表現できないものじゃないかと思います。
養老孟司さんも書いているように、日本は生き物が豊かで、空き地ができるとすぐに草がにょきにょき生えてきて、その意味で須藤さんの絵も非常に日本的であり「路上ネイチャー」とも通じるように思います(本人のつもりは知りませんが)。

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『「みんな」のバカ!』

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哲学者の中島義道さんが好きな人は、仲正昌樹さんの本も面白く読めるのではないかと思います。
この本で覚えた便利な用語のひとつが「パフォーマティブな言葉」というものです。
ある人の発した言葉に、言葉どおりの意味とは異なる「目的」が託される場合、それが「パフォーマティブな言葉」です。
パフォーマティブな言葉とは、思い返すと以前読んだ中島義道さんの『私の嫌いな10の言葉』に出てくるのは、全部そうなんじゃないかと思います。
リンク先に紹介してある目次に「10の言葉」が載ってますが、これらにどんな目的が託されているか、解説されています。
あと、ネットの掲示板で「空気読め」なんて書き込みがあるのは、相手に対し「パフォーマティブな言葉であることを理解しろよ」と指摘してるわけです。
ここで面白いのは、ネットの掲示板の閲覧者が不特定多数であるにもかかわらず、「空気読め」と書き込む人はごく少数だということです。
例えば閲覧者が60人だったとして、そのうち一人にでも「空気読め」と書かれると、書かれたほうは「空気が読めない人」という事になってしまいます。
「事になってしまう」というのは実は想像でしかないのですが、掲示板の閲覧者全員に「自分は本当に空気が読めてないのか?」という確認をとることは事実上できませんから、想像力を膨らませ「空気を読む」しかないのです。
なぜこんなことになるのか?は、この本でしめされる「表象」という用語で理解することができます。
掲示板に限らず、その場に集まった「みんな」が何を考えているのか?を一概に言い当てることは出来ません。
「みんな」は一人一人違った人格だし、黙ったままだとお互いの考えは分からないし、かといって「みんな」の考えを一人一人聞いてるとキリがありません。
それに、人間と言うのは自分が何を考えているのかモヤモヤして、なかなか明確な言葉にできない場合が多々あります。
そんな中、誰かがみんなを代表して「あの人って空気読めないよね」と言えば、他のみんなも「そうそう」と言う気になって、それが「みんなの意見」になる。
みんなのうちの誰かが自主的に「代表」して、「みんなもこう思うだろう?」ということを代弁し、それが事実かどうかに関わらずなし崩し的に「みんなの意見」になる場合、その言葉が「表象」なのです。
だから掲示板上で「空気読めよ」と相手に言うのは、「自分の意見」としてよりも「表象」のはたらきを持つ「パフォーマティブな言葉」であるのです。
だからネットの掲示板とは、「自分の意見」を言いつつ、「表象」のはたらきでいかに「みんな」を支配するか?という戦場だったりもするのです(笑)

それとこの本の指摘で面白かったのは、日本人的な「みんな」の結束は固いのだけど、そのメンバーは時と共に変わっていく、ということです。
これは養老孟司さんが「自分の肉体は細胞がどんどん入れ替わってるんだから”同じ自分”なんてものはない」と指摘してたのと共通点があって、大変に興味深い。
このあたりはぼくもいろいろ考えてるので、そのうち書いてみたいです。

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