「みんなと同じ」の格差
内田樹さんのブログの記事「格差社会ってなんだろう」を読んで思いついたことを・・・
というか、大胆にも内田樹さんの記事からトラックバック、というものをしてみました。
内田さんのブログは累計一千万ヒット以上もあるのに、寄せられるコメントやトラックバックはごくわずかで、そうした書き込みをするのは「それなりのレベルの人」か「出たがりだけの身の程知らず」のどちらかなのかもしれません。
それで自分は、どれだけ「後者」なのかを確認してみたいと思った次第です(笑)
まず日本人には、「みんなと同じ」に振舞うことに固執する、という不思議な習慣があります。
ぼく自身はそういう習慣にあまり従えずにいるので、不思議な習慣だなぁ、という感じで見てるわけです。
この「みんなと同じ」という習慣はどうやら日本人特有のもので、だから日本特有の「文化的プログラム」といっていいのかもしれません。
で、世間では、特に欲しい物もやりたいことも無いのに、「とにかく金が欲しい」という人が大勢いてこれも不思議だったのですが、もしかしたら「みんながお金を欲しがっているから、みんなと同じように金が欲しい」と思っているのではないかと、思いついたのです。
それでなんだか知らないけど「一億総中流」とかでみんながお金持ちになった時期があったけど、今はそれが出来なくなって「みんなと同じように金持ちになれないじゃないか!」という「みんなからの落ちこぼれ」が「大勢いる」というのが、「日本的格差社会」なのではないかと。
「みんなからの落ちこぼれ」というのは本来は人それぞれで孤独なのだけど、日本人は「みんなと同じ」の文化的プログラムに従うから、大勢の落ちこぼれの人々の間であたらな「みんなと同じ」を作り出し、それが日本的格差社会になるわけです。
さらに思いついたのですが、オタクと呼ばれる人たちについてです。
これは本来、「みんなと同じように、若者らしくふるまう」からの落ちこぼれなのですが、こういう人たちがまた大勢集まって「みんなと同じように、オタクらしくふるまう」をしていて、別のみんなからキモイとか怖いとか言われたりして、そういうところにも「格差社会」が生じています。
まぁ、ぼくにしてみればオタクだろうが何だろうが、日本人的に「みんなと同じ」に従う人には違和感を持ってしまいます。
「みんなと同じ」に従う人は「自分」を殺してるわけで、どうも人間味というものがないように思えてしまうのです。
それに「みんな」というのは主体の特定できない「非人称」としてふるまうので、何をしでかすかわからない怖さがあります。
ぼく自身はもうずっと貧乏で、しかも「金には換算できない価値がある」という理由で芸術をやっているので、「格差社会の何が問題なのか?」とか「格差社会は本当に実在するのか?」といったことは良くわかりません。
もしかすると「格差社会」というのは日本人が「みんなと同じ」ように騒いでいるだけで、本当は実在もしてないし、何も問題が無いのかもしれません。
確かに、内田樹さんの著書『下流志向』などに書かれた格差社会についての分析は非常に鋭くて面白いものでしたが、その「内容が面白いことは事実」だとしても「内容が事実」とは必ずしもいえないことを考えなくてはいけません。
これは何も、「内田さんの言ってることは適当だから信用しないように」ということではなく、すべての言説の「正しい・正しくない」の判断は非常に難しく、それよりも、その言説の「面白い・面白くない」の判断のほうが確実だ、ということです。
だから、「面白い」と思ったことを「正しい」と思うことはたいていの場合間違いではないのですが、本質的にはそこにズレがあることは、留意しといても良いんじゃないかと思うのです。
で、よくわからないけど、派遣社員とかでお金が無ない人は、休みの日に昆虫観察とかすれば良いんじゃないかと思います。
虫は全部タダだし(笑)
でも、これも「みんな同じ」に大勢でやられると困るから、各自孤独にその道を極めてもらいたいものです。
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