« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月

2007年8月26日 (日)

涼宮ハルヒの分析

「涼宮ハルヒの憂鬱」はオタク向けのライトのベルが原作のテレビアニメで、世間でもだいぶ流行っているようで、今さらぼくのような門外漢が「分析」なんてしてもしょうがないのですが、まぁ練習ということで書いてみることにします。
実は、中2になる甥が突然アニメにはまったらしく、先月帰省した際に「面白いから」ということでこの「涼宮ハルヒの憂鬱」のDVDを帰り際に渡されたのでした。
しかしそれはいかにも今風のオタク向けアニメで、今さら見てもつまらないだろうと思い、でもちょっとだけ目を通しておこうと早送りしながら見ていたら、意外に面白くけっこうハマってしまったのでした(笑)

--

ぼくはいちおう「オタク第一世代」ということで、「子供向けのアニメを大人が楽しむ」ということを最初に始めた世代に属するのだけど、オタクと言われるほど没入してたわけじゃないし、アニメは数が多い割には面白い作品はごく一部で、そのうち飽きてすっかり見なくなってしまいました。
そういう立場のぼくが「涼宮ハルヒの憂鬱」を見ると、実はいろいろな「仕掛け」がしてあるのに気づき、それが面白かったりするのです。
仕掛けのひとつは、作品中に昔のアニメの要素がいろいろ散りばめられていて、そういうものが「分かる人にはわかるでしょ?」という問いかけになってることです。

たとえば、話を途中まで見てると突然、この物語が押井守監督のアニメ映画「うる星やつら・ビューティフルドリーマー」の設定を「真逆」にアレンジしてることに気づくのです。
「うる星やつら」は高橋留美子のマンガで、「ビューティフルドリーマー」はその設定に基づいた押井守によるオリジナル物語です。
「うる星やつら」の主人公のラムちゃんは宇宙人の少女で、空を飛んだり電撃を発射したりする超能力を持ち、宇宙船や光線銃などの未来的テクノロジーを駆使し、他の宇宙人の友達もいっぱいいて、そういう破天荒なキャラクターが女子高生となり、平凡な日常でドタバタを演じます。
で、「ビューティフルドリーマー」というのは、ラムちゃんは実は「平凡で楽しい高校生活」が永遠に続くことを望んでおり、その「夢」が実現してしまった世界に周囲のキャラクターが閉じ込められてしまい、そこからみんなで何とか脱出するというお話です。
これは今から考えると「終わりなき日常を生きるしかない」という、ポストモダン的世界観の先駆けのような表現です。

で、一方の「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公である涼宮ハルヒも女子高生ですが、こちらは普通の人間です。
でも「退屈な日常」に飽き飽きして、「宇宙人」や「未来人」や「超能力者」を探し回り、しかも現実にはそんなのいるはずないですから、つねにイライラしています。
でも実は、ハルヒと同じ高校の3人の友達はそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者で、ハルヒだけがそれを知らないのです。
この3人の友人は、ハルヒ自身に「本人は気づかないとんでもない力」が備わっていることを知っており、それが不用意に発動しないよう常に監視しています。
例えば「平凡な毎日」に飽き飽きしたハルヒは、無自覚のうちに「この世とは別の世界」を発生させ「この世」を破壊しようとします。
そして、それを何とか阻止しようと、本人にバレないように3人で裏工作したり、ご機嫌を取ってなだめすかしたりして、何とかハルヒを「日常世界」に引き戻そうとします。

そういう観点で比べると「涼宮ハルヒ」は「ビューティフルドリーマー」の設定をベースにしながら、要素の配列を真逆にしたような構造になっており、ナルホドと思ったりするのです。
まぁ、昔のアニメも例えば「ガンダム」などは第二次世界大戦などの「実際の歴史」をベースに作られていて、歴史を知ってる人が見るとナルホドと思えるような仕掛けが随所に盛り込まれています。
でも今のアニメは、過去のアニメをベースに作られていて、これぞまさに「ポストモダン」なのですが、ハルヒにもたぶん他にもいろいろなアニメやSFの設定が流用され盛り込まれてるでしょうから、オタク的知識のある人は、さらにいろんな観点で楽しめるのではないかと思います。
もちろんドラマとしてのテンションが高く、絵もしっかりしてるので、オタク以外の人が見ても十分面白いのではないかと思います。
でもまぁ、基本的にはオタク向けである事に違いはなく、口に出すのもおぞましい「萌え」と呼ばれるオタク作品に共通の「記号」が随所に散りばめられ、そういうところに引っかかると損ですから、深入りせずに上手に受け流すのが吉です(笑)

--

以上のことは「用意された仕掛け」の一例であって、それだけだとつまらないので、ちょっと別な観点からも考えてみようと思います。

この作品は甥から勧められた事もあり、個人的にその甥との関連でいろいろ考えてしまうところがあります。
ぼくは身近な子供と言うと甥しか知りませんが、そんな甥とは大体半年ごとに、一週間程度交流するのみです。
それで会うたびに大きくなるので驚いてしまうのですが、それでも小学生のうちは「小さな子供」から「少し大きな子供」へ成長してたのでした。
それが中学に入ると突然「大人」のようになり、さらに驚いてしまったのです。
目の前の彼に「一体アンタはどこから来たんだ?!」と、思わず聞いてしまいそうになるくらいです。
いや、甥は初めから実家にずっといたのですが「大人としての甥の人格」は、ついこの間までの「子供としての甥」になかったもので、そういう人格が突然目の前に現れることに驚いてしまうのです。
まぁ、実は甥は昔から大人しくてあまりしゃべらず、どういう子供なのか良く分からなかったのですが、ここ半年あまりブログを書くようになり、それを見て本人の考えが分かると共にその成長ぶりも判明したのです。
甥がブログを始めた当初は「バトン」と言われる子供らしい他愛のないゲームなどしてたのに、途中からワロスwwwwwwwみたいな「2ちゃん用語」が混じるようになり、ついには「このままだと日本も終わりですね」みたいな政治的発言までするようになるのです。
だいたい甥は子供番組には見向きもしないような子供だったのに、それが突然「アニメにはまった」なんて書いてたことも驚きです。
そういう内容をブログに書くような人格は、少なくとも去年はこの世に存在しなくて、突然目の前に現れたように「感じられる」のです。

で、ここでふと思い起こされるのが「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てきた「情報統合思念体」という設定です。
「情報総合思念体」は情報のみで肉体を持たず、個体の概念を超越して宇宙全体に広がる情報生命体で、それが地球上の人類の一個体である「涼宮ハルヒ」の異常性に気づき、監視員である「宇宙人の少女」長門有紀を送り込んでいる、と言う設定です。

しかしちょっと考えると、「情報統合思念体」とは人間そのものを言い表した言葉とも解釈できます。
つまり人間の人格とは、外界からあらゆる情報を取り入れ、それらを統合しながら思念することで生じるもの、と表現することもできるのです。
人間の人格とは、その人がどれだけの量のどんな種類の情報を脳内に取り込み、それをどのような形で関連付け統合しながら思念するのか、で決まると言えます。

そう考えると、大人と子供ではまず情報の「量」が違うことに思い当たります。
この場合の情報には「情報の統合の仕方」も含まれますが、そうした様々な情報が少ないうちは「子供」で、情報量がある臨界点を突破すると急に「大人」になるわけです。
去年まで存在しなかった「中2の甥」はどこから来たのか?というより、情報の蓄積が臨界点に達したことで突然発生した(ように感じられる)のです。
もちろん彼はさらに多くの情報を蓄積するでしょうから「中2の甥」の人格は早々にこの世から消え、数年後には全く違う人格が出現しないとも限らないわけです。
まぁ、自分自身もそうした過程があって今に至るはずですが、自分のことは見えないもので、だから他人の観察を通して自分を知るのです。

--

ついでにもっと考えてみます。
「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくる「情報統合思念体」は思念が多少分裂しており、「ハルヒを刺激しないようにする保守派」と「ハルヒを刺激しようとする急進派」が存在します。
で、「急進派の情報統合思念体」はハルヒに刺激を与えるため、「暗殺宇宙人少女」朝倉涼子をクラスメイトとして潜入させ、ハルヒのボーイフレンドであるキョン(普通の人間)を殺そうと企てます。
朝倉涼子はキョンだけを放課後の教室に誘い出し、やがて「暗殺宇宙人」としての正体をあらわし、教室に「情報操作」を加え、出口のない異次元空間に作り変えてしまいます。
キョンは朝倉涼子の「情報制御下」にあるので、逃げ場を失い絶体絶命のピンチを迎えます。
すると、その「朝倉涼子の情報制御空間」に「保守派の情報統合思念体」の送り込んだ「宇宙人少女」長門有希が進入して朝倉涼子を倒し、「情報操作」により教室を元の空間に戻します。

以上は現実にはありえないアニメならではの出来事ですが、このシチュエーションも現在の甥に置換えできることに気づいたのです。
つまり甥に限らず、子供と言う存在は親や教師の「情報制御下」にあり、親や教師の作り出した「情報制御空間」に閉じ込められていると、そう表現することもできるのです。
アニメでは暗殺宇宙人の「情報操作」により教室のドアが消えたりしますが、もちろん現実にそんなことは起きません。
でも「ドア」を子供の「進路」に置き換えると、その出口は親や教師によって、かなりの程度まで決められてしまっていることに気づきます。
例えば、親や教師は子供に「勉強しなさい」と言い、子供も「勉強は大事」だと思って勉強するのだけど、結局はそれほど成績が上がらなかったりして、そうすると「できない子供」であることを親に責められ、気に病んだりします。
逆に勉強のできる子供は親や教師に褒められ、また「できない子供」を軽蔑したりもします。
この場合の子供たちは、「学校の成績」を唯一の価値基準として信じ込まされ、良い成績をとることが「ただひとつの出口」であると示されているのです。
実際には価値基準には多様な可能性があり、様々な「出口」があるはずですが、それらはことごとく塞がれてしまっている、つまりはそのような「情報制御空間」に閉じ込められてしまっているのです。
で、甥をネタにしてこんな文章を書いているぼくは、彼を取り巻く「情報制御空間」を解除しようとする「良い宇宙人」なのか、それとも自分の仕掛けた「情報制御空間」に誘い込み破滅に誘導しようとする「悪い宇宙人」なのかは知りません(笑)

でも結局、こうしたことは大人でも同じで、人々は他人が仕掛けた「情報制御空間」に閉じ込められて、そのことに気づかないままでいたりするのです。
例えばぼくは今貧乏に困ってますが、それは何者かの情報制御下にあるだけで、それを突破すれば「金儲けへの出口」が鮮明に見えるようになるかもしれません。
もっともぼくは「お金の価値を至上とする情報制御空間」は突破してるので、最低限食うに困らなければそれほどお金が欲しいとは思わなかったりもします。

結局、人間は「情報統合思念体」であるから、他人の情報を制御して操ったり、他人を操ったりしてるつもりで他人に情報操作されていたりと、いろいろなjんじゃないかと思います。
もちろん「情報統合思念体」はアニメの設定で、むやみに他の事に当てはめるの「オタク」の烙印を押されてしまうでしょう(笑)
以上の分析はソシュールの言語学や、そこから発展した構造主義などの入門書で読んだ知識を適当に統合しながら思念した結果、生じたものでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『「世界征服」は可能か?』岡田斗司夫

Sr8351050

岡田斗司夫さんの本はだいぶ前に『僕たちの洗脳社会』を読んで、それが大変面白かったのですが、これも期待以上でした。

テレビやマンガのヒーローものの悪役は、たいてい「世界征服」をたくらみますが、それを現代社会で実現させる可能性を考えると、いつの間にか「ポストモダン」の解説のようになり、「そのような現代でいかに生きるべきか?」ということのヒントのようなことまで書かれています。

そもそも「世界征服」という発想自体が前時代的なモダニズムによるもので、それがいかに現代という時代にそぐわないかを考えていくと、自然と分かりやすいポストモダンの解説になるのです。

「そのような現代でいかに生きるべきか?」というのは、現代は「世界征服」という概念から程遠いようでいて、実はみんなが知らない間に巨大な悪に「世界征服」されてしまっているのでは?・・・そう考えることもできるかも知れない、ということです。

つまり前時代的な「悪の支配」はデフォルメされて誰の目にも明らかなのだけれど、今の時代の「悪の支配」というものは、時代にマッチしているだけに誰も気づかない形で存在している・・・かもしれないのです。

その隠された現代的な「悪の支配」を見抜くには、前時代的な「正義」に捉われてはならず、時代にマッチした新たな視点が必要になり、それが「現代をいかに生きるか?」につながるわけです。

ちなみにネットで語られる「陰謀論」のようなものは前時代的な悪の典型で、分かりやすいからネットで話題になりやすいだけで、そうではない「切り口」のヒントをこの本は提供してるのではないかと思います。

あと思い付いたんですが、「世界征服」にリアリティがないとしても、そういう悪者が出てくるドラマを見る子供は現に「親や教師からの支配」を受けていて、そこから自立を目指す立場から、無自覚的に共感を得ているのかもしれません。
もっとも、親や教師の支配力も昔に比べだいぶ弱くなったようなので、そんな図式も成立しないのかもしれませんが。

| | トラックバック (0)

2007年8月19日 (日)

橋本治『二十世紀』

Sr8350726

その昔、世間を騒がせてたオウム真理教が「日本の教科書にはウソばかり書いてある」というようなことを言って、ぼくは「他はともかく、それだけは本当だな」と思いました。
当時ぼくは生物関連や思想関連の入門書をいろいろ読み始めて、「勉強することの面白さ」を始めて実感してたのでした(その後飽きてしばらく中断したのですが)。
それまでの自分にとって、勉強とは他人から無理やり押し付けられる、なんの役に立つか分からないような、つまらなく苦痛なものでしかありませんでした。
それが大学を卒業してしばらくしたころ、ふと思い立って自分の興味に基づいて自主的に勉強し始めると、これが面白いし役にも立つのです。
つまり「勉強とは本来面白くて役に立つもの」ということをようやく理解したのですが、そうなると学校の勉強は「本来とは異なる、間違ったもの」ということになってしまいます。
それであらためて確認のために中学の理科の参考書をパラパラとめくると、あまりのつまらなさに愕然としてしまいました。
それはまるで、わざと興味がそれるようにつまらなく書いているとしか思えないようなもので、いくら内容が正しくても、学問のあり方としては間違っているわけで、それで「教科書にはウソばかり書いてある」という実感になるのです。

そもそも学校の勉強というものは実用ではなくて受験用のものであり、受験というのは一定のルールに基づいて点数を競うゲームのようなものです。
だから、学校の勉強内容は受験というゲームのルールを構成するための要素=記号でしかなく、そんな特殊な記号の羅列を覚えても、学校の外部では何の役にも立たないのです。
まぁ、こんなことは今さらぼくが言うまでもなく、子供の頃から気づいている人はいるかもしれないし、要領が良くて頭のキャパシティに余裕がある子なら「無意味な勉強」はそれこそゲーム感覚でホイホイこなし、とりあえず良い大学に行って、あとは好き勝手に自由にしてるのかもしれません。
問題は、ぼくのように要領も頭も悪い子供で、そういう子は素直に大人の陰謀に騙され、ずいぶんと損をしてしまうのです。

で、そのような理由でぼくは学校の「歴史」が好きになれず、そのことが今に至るまで影響しているのです。
そう考えると、この橋本治さんの『二十世紀』は最高の歴史教科書のひとつと言えます。
橋本治さんはとにかく、難しくて複雑なことを簡単な概念に置き換えて説明するのが非常に上手いです。
だから読んでいる方の頭にも、内容がどんどん入っていきます。

ただし、この「分かりやすい」というのは曲者で、警戒しなくてはなりません。
どこを警戒しなくてはいけないかというと「それが唯一正しい解釈だ、と受け取ってはならない」ということです。
そもそも原理的に「唯一の正しい歴史」というのはありえません。
歴史というのは、過去に起きた無数の出来事の中から、その人にとって都合の良い出来事のみを選び出し、その人の都合の良いようにストーリーを組み立てたものでしかありません。
歴史というのは、主観によらない客観的な記述のようにも思われてますが、出来事が無数にあり、因果関係も無数に設定できる以上、歴史は誰かの主観的な記述にしかなりえないのです。

それで『二十世紀』の下巻の後書きにもあるように、この本は著者の徹底的な主観によって書かれています。
この本は「意外な歴史の裏側」や「大胆な歴史の解釈」が示されており眼から鱗が落ちる思いですが、それを素直に「事実」と受け取ってしまっては、この本の趣旨から外れてしまいます。
いや別にウソが書いてあるわけじゃないでしょうが、ウソかどうかにかかわらず「唯一の正しい歴史」にこだわらず、多視点から柔軟に解釈するのが歴史の醍醐味であり、その「一例」がこの本に示されているのです。
歴史というのは、各自がそれぞれ自分の人生にフィットした形で、編み上げる(解釈する)しかなく、他人の書いた歴史はそのための参考書なのです。

そう考えると、学校の教科書には頭ごなしに「正しいとされる歴史」が書いてあり、その意味では「ウソ」なのです。
歴史でウソになりようがないのは、年号や地名や人物名といった「部品」のみで、それをどういうストーリに仕立てて歴史を語るかは「参考例のひとつ」として教科書に載せるのが良いのかもしれません。
いや、ぼくは教育の専門家じゃないし、嫌な学校へもう通う必要がないので知りませんが(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『他人と深く関わらずに生きるには』

Sr8350723

タイトルにある「他人と深く関わらずに生きる」というのは、先に読んだ『正しく生きるとはどういうことか』に示された基本原理を、別の言葉で置き換えたものです。
つまり、人間同士の自由を尊重するには、お互いにあまり深く関わらずに付き合うのが一番であり、それが池田さんの言う「正しく生きること」につながるのです。

人間は深く付き合い始めるとそこに「他に応用の利かない、複雑なルール」が生じ、それに人間の自由は縛られてしまいます。
例えば「おせっかいを焼く」とは、他人を自分の思い通りにコントロールすることに他なりません。
で、おせっかいを焼く方は「普遍的に善いもの」を相手に与えてるつもりでいますから、それが肌に合わない他人にとっては「他に応用の利かない、複雑なルール」でしかなく、それにより自分の自由が束縛されてしまいます。
そうやって一方的に自由を奪う相手から「お前のためを思ってるんだ」とか言われたら、たまったもんじゃありません。
だから自他共に「おせっかい」を拒否し、他人と深く関わらないようにし、人間同士「応用範囲の広い、単純なルール」を決めてやってゆけば良いのです。

このことは国家と個人の間でも同じです。
今の国家は「国民のため」と称してさまざまなおせっかいを焼き、「他に応用の利かない、複雑なルール」をたくさん押し付けています。
国家は個人の自由を保障するために必要なことだけをやれば良いのであって、そのためには医師免許もいらないし、文部科学省もいらないし、所得税を廃止し消費税を上げた方が良い・・・というような、理想的なシンプル国家について語られています。

まぁ、ぼくはつい他人におせっかいを焼きたがる性分で、それは自覚してるつもりだったのですが、さらに要注意ということですw

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月14日 (火)

「正しく生きるとはどういうことか」

Sr8350434

ベタなタイトルのようですが、あの池田清彦さんが「正しく」というからには世間一般のそれとは一味違うはずで、そしてまさに想像以上の内容でした。
文庫化されたのはつい最近ですが、元の単行本は1998年発売で、引用された出来事は古いですが、より根源的なことが書かれているので全く古さを感じません。
とにかく、この本を読んでなかった9年間はなんだか損をしたような気になって(笑)、とにかく読書の習慣はあったほうが良いと反省してます。

この本は、一般的な感覚で言うと、「人情の欠如した、血も涙もない、人間らしさのかけらもない、冷酷な内容」と思われるかもしれません。
しかし一般的な感覚での「人間らしさ」というのが曲者で、こういうものは結局「自分のずるさ」を隠蔽し、何の罪悪感もなく「ずるいこと」を実行するための方便でしかないのです。
そういうずるさを世の中から(自分の中からも)排除するには、もっと冷静冷酷に、虫のように振舞うのが良いのです。
いや、「虫のように」なんて表現はこの本にはありませんが、ぼくには池田清彦さんが他人を虫ケラのように見て、そして自分も虫ケラ同然だと自覚し、そういうフェアーな状態から理論を構築したように思えてならず、それが非常に爽快で気持ちが良いのです。
ぼく自身も人間を虫のように愛し、虫を人間のように愛することを信条としてきたつもりでしたが、徹底の度合いがぜんぜん足りなかったようです(その意味でもこの本を読まなかった9年間は損をしてました)。

この本で池田さんは、非常にシンプルな「正しさ」の原理を提示しています。
シンプルな原理から行動を起こし、複雑な現実に対応するのは虫とおんなじで、だから合理的なのです。
それに対し現在の人間は、複雑な現実に対応するため、原理も複雑化させつつあり、それが更なる混乱を招いています(例えばテロを防ぐため、飛行機の乗客に複雑な規制を押し付けるとか)。
そうした原理の複雑化は必ずしも不合理であったり、自然の摂理に反するなんてことはないでしょうが、少なくとも「一部の人だけが一方的に得をする」のに都合が良いことだけは確かです。
だからそれをしないで「みんな平等」を実現するには、みんなで頭を冷やして冷徹な「虫」になり、その上で各自の「人間らしさ」を構築するのが良いのです。
いや、これもあくまでこの本の主旨をぼくなりに表現したもので、そのように書かれているわけではありませんが・・・

この本で提示されていることは、何も池田清彦さんの完全オリジナルと言うわけではなく、例えば高田明典さんの『知った気でいるあなたのための ポストモダン再入門』で示された内容とも非常にマッチしています。
つまりこの本は門外漢である生物学者の気まぐれな思い付きではなく、現代思想の文脈にちゃんと基づいているのです。
現代思想ということであれば、この本は構造主義の技法によって書かれていることは明らかです。
構造主義とは簡単に言うと、自国の文化と他国の文化を比べることで、そこに共通するより普遍に近い原理(構造)を導き出し、それにより他国間の様々な問題を解決しようとする思考法です(これはもちろん個人同士の問題解決にも使えます)。
そして池田清彦さんは生物学者であるから、人間の文化と人間以外の文化(のようなもの=遺伝的プログラム)を比較することにより、よりダイナミックで根源的な問題解決の原理を示すことができるわけです(同じ理由で養老孟司さんや日高敏隆さんの本も面白い)。

とにかく「構造主義は実践的な手法である」という高田明典さんの主張どおり、この本も即実践で使える要素を含み、実際にこのおかげでぼく自身の懸案事項も一件解決してしまいました(具体的なことは書きませんが)。
反面、この本は壮大な理想を語っているものでもあるので、当分実現不可能な要素も多く含まれますが、それについて考えたり議論したりするのもまた「実践」であると言えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

他人の頭の中

Sr8350228

他人の頭の中が覗けたとしても、その人の考えが理解できるとは限らない。

コージヴ・ヴォラスモア

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 7日 (火)

「非人称芸術」テキストリンク集

ウェブ上で見られる「非人称芸術」についてのテキストのリンク集です。
このページはホームページからもリンクされ、随時更新の予定です。
さらに詳しいコンセプトの解説は作品集をご覧ください。

写真では伝えきれないフォトモの魅力

The World of FOTOMO 日本語原文

Welcome to Planet 60x 日本語原文

| | コメント (2) | トラックバック (0)

The World of FOTOMO 日本語原文

The World of FOTOMOはオリンパスの英文サイトPURSUITに提供したコンテンツです。
これまでぼくは「フォトモ」と「非人称芸術」の関連についていくつかの媒体に書きましたが、ネット上ではそれらの詳細なテキストは発表してませんでした。
ですからここにあらためて、The World of FOTOMOの日本語原文を掲載します。
さらに詳しい解説は、ぼくのフォトモ作品集をご覧ください。

では、以下どうぞ。

***********

「フォトモの世界」

--

フォトモとは

Yaoya

上に示した画像は、パソコン上に製作した仮想的立体物ではない。これは現実に立体的なものであり、実際に手に取って見ることができる。
この作品は現実の風景を写した写真を切り抜き、それを立体構成し製作されている。
この手法を私はフォトグラフ・モデルの略語として「FOTOMO」と名付けた(日本ではプラスティックモデルをプラモと略す習慣があり、それに従った)。

写真というメディアは「これぞ本物」という実証性がある反面、あくまで平面の像でしかない。
逆に立体物である模型は、どんなに精密に作り込んでも「写真と同じリアルさ」にはならない。
FOTOMOは文字通り、写真のリアリティと模型の存在感を兼ね備えている。

FOTOMOの鑑賞者の脳内では、模型的な現実の立体と、写真的な仮想の立体がミックスされ、非常に奇妙な立体感が体験できる。
だからFOTOMO製作の際には、大まかな形のみを立体で作り、細かな立体は元の写真像を活かすようにしている。
また、このFOTOMOは元の写真のパースペクティブを活かした半立体表現になっており、限られた空間内に奥行を表現している。
現実的な立体写真であるFOTOMOは様々なアングルから鑑賞するし、その場所に実際に行ったような気分に浸ることが出来る。

--

フォトモのコンセプト

私がフォトモのモチーフとするのは日常的な街並み、建物、オブジェクトなどに限られる。
私は日本以外の国でもフォトモの製作をするが、どこへ行っても有名な建築物や観光地はモチーフに選ばない。
それらのものは、多くの人々にすでに価値が認められているもので、わざわざフォトモで表現する必要を私は認めない。
私が興味があるのは、あまりに日常的過ぎて誰もが見過ごしているものの中に、私独自の価値を見出すことであり、それを表現するためにフォトモを製作しているのだ。

私は自ら提唱する「非人称芸術 Impersonal art」と言うコンセプトに基づいて、作品を制作している。
例えば上に示したフォトモのモチーフとなった建物は、1階が八百屋で2階はカラオケ店(レーザーディスク完備と書いてある)であり、その隣は子育てを祈願するためのお寺がある。
この組み合わせは日本の日常的感覚から見ても奇妙であり、まさに「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったよう」(シュールレアリズムの有名な誌の一部)である。
しかしこの奇妙な街の一角は、一人のアーティストの無意識によって創作されたものではない。
それは多くの人々の無自覚な行いの結果として現れたもので、まさに作者不在の芸術作品のように私には見える。
そこで私はこのようなものを「非人称芸術」と呼ぶことにした。
この場合の非人称とは「人間の行いにもかかわらず、主体が特定できない有様」を指す。
近代的な都市空間は人々の理性によって作られているが、それと同時に様々な「非人称」の作用も存在する。
作者不在の非人称芸術は、非人称的作用のうちに芸術的価値を発見する鑑賞者によって創造される。
非人称芸術は私の製作物ではないので、写真で記録することになる。
しかし私が「非人称芸術だ」と思って撮影したものは、ことごとく単なる風景写真になってしまった。
そこで非人称芸術を「オブジェ」として表現するフォトモの技法に行き当たったのだ。
フォトモとしてミニチュアとなった街並みや建物は、実用性を完全に失った純粋なオブジェとなる。
そうすることで、現実世界を純粋なオブジェとして鑑賞する私の視点が、作品として表現できるのである。
フォトモはまさに私にとって、非人称芸術を表現するためのメディアなのである。

--

フォトモの製作過程

私がこのフォトモのために撮影したのは建物の写真が6枚と、通行人の写真が数枚(ここに掲載した以外にも撮影している)である。
建物は壁面ごとに少しずつ角度を変えて撮っている。

撮影した写真をこのように並べると、全体のイメージを掴むことができる。
このイメージを元にプリントを切り抜き、適切に立体構成するとフォトモが出来上がる。
この作品はデジタルカメラで撮影し、パソコンで画像加工して作られている。
しかしそれはごく最近のことで、私は10年以上前から35mmフィルムで撮影したプリントを切り抜き、フォトモを製作している。
だから私は新しい写真表現を模索する上で、銀塩かデジタルかという違いは重要視する必要がないと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Welcome to Planet 60x]日本語原文

Sp3052021

Welcome to Planet 60xはオリンパスの英文サイトに提供したコンテンツですが、ここにあらためてぼくが日本語で書いた原文を掲載します。
いちおう英訳しやすいよう、英語の訳文のような少し硬い感じの日本語で書いたつもりです。
このシリーズは、2001年10月コニカプラザで開催した個展『60倍の惑星』として発表したもので、2007年に発売された写真集『東京昆虫デジワイド』の原型ともなった手法です(同書ではスペースの都合でそのところまで触れることができませんでしたが)。
また以下のテキストでも、これまたスペースの都合で「60倍の惑星」と「非人称芸術」とのつながりを説明するに至りませんでした。
いや、実際は「非人称芸術」という用語が出てこないだけで、それについては説明してるので、趣旨は分かるんじゃないかと思いますが。
と言うわけで、以下どうぞ。

***********

「60倍の惑星」

--

隊員達はナゾの惑星を探査してゆく。
目の前に次々と現れる奇怪なオブジェの数々…

「一体どういう惑星なのだろうか?」
「とにかく調べるんだ、徹底的に。」

身長3センチ、1/60スケールの人形を路上に置き、写真に撮る。
すると周りの全てが60倍に拡大された世界が体験可能となる。
『60倍の惑星』は日常に隠されたもうひとつの世界、かつて誰も創造し得なかった光景が広がる未知の領域なのである。

--

「日常」とは退屈な事柄の代名詞でもある。
多くの人々は、日常世界については何もかも知り尽くしていて、新しい発見が何もないと思っているだろう。
しかし私はある時、日常世界の細部を拡大すると、そこに魅力的なオブジェクトが発見されることに気付いた。
われわれにとっての日常世界である都市は、人間の意図によって作られている。
しかし人間は役に立つものを作るとき、その細部までに気を回す事はない。
人工物でありながら人間の意図の及ばない領域があり、それが「細部」なのだ。
人間の意図の及ばない細部の造形は、優れた芸術作品に類似している。
優れた芸術作品は、作者の意図を超えた無意識のインスピレーションによって描かれる。
実用的な人工物の細部は、人間の意図を超えた無意識によって造形され、芸術家のインスピレーションと同等の自由さ、意外性、大胆さを備えている。

このことに気付いた私は、まずOLYMPUS OM4-Tiに50mmマクロレンズを装着し、街の細部を拡大撮影した。
ところがこの手法では私の伝えたかった感覚が上手く表現できなかった。
それでいろいろ考えるうち、ポール・セザンヌの以下の言葉が目に止まった。

「ミカンの隣にりんごを置くと、それらは果物となる。ミカンの隣にボールを置くと、それらは球体となる」

私は、同じものも視点によってまったく違って見えることを表現したかったし、セザンヌの言葉にはその方法が暗示されていた。
そこで私は小さな人形を傍らに置き、比較する手法を思いついた。
人形との比較により、細部の実際の大きさの感覚が失われ、純粋なオブジェとして鑑賞することが可能となる。
人形はスタートレックのおもちゃの宇宙船に付属していたものを選び、塗装を替えて使用した。
この人形の無機質な性格が、先入観にとらわれない中立な視点を表している。
レンズは通常のマクロレンズのほかに、魚眼レンズでの接写も試みた。
すると細部に連なる街全体が、SF映画で描かれる他の惑星のように見えるようになった。
知っているはずの日常世界は、未知の「60倍の惑星」に変貌したのだ。

--

私はかつてこのシリーズの写真をOLYMPUS OM4-TiにSIGMA 15mm f2.8 FISHEYEを装着し撮影した。
そして今回は、OLYMPUS E-330にZUIKO DIGITAL 8mm f3.5を装着し、新たに撮影した。
E-330は可動液晶モニターのライブビューによりローアングル撮影が楽にでき、これはかつてのOMシステムはもちろん、他のデジタル一眼レフにはない特徴だ。
また、ZUIKO DIGITAL 8mm F3.5 は最短撮影距離が13cmと短く、35mmフィルムカメラ用の15mm魚眼レンズより被写界深度が深い。
このレンズはフードが短いのも特徴で、接写のとき影が出にくく便利である。
かつて使用したシグマ15mmはレンズフードを金属加工用鋸を使い自分で短く切ったが、ズイコーデジタル8mmにはその必要はない。
今回の作品では、OLYMPUS StudioでのRAW現像も試した。
特に暗めの写真を「自動トーン補正」により暗部を無理やり持ち上げると、独特の色調になる。
この効果は写真によって違うので、使いこなすにはさらに研究が必要だ。

近年のデジタルカメラの進歩は著しく、驚くばかりだ。
表現者も更なる新しい視点を提示する必要があるだろう。

***********

以上、作品はこちらの原ページWelcome to Planet 60xをご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

記念品

Sp8070272

『東京昆虫デジワイド』の出版記念ということで、フィット社さんからロゴ入りのレンズを贈呈していただきました。
使うのがもったいない・・・いや、せっかくなので使わないともったいないでしょうか?(笑)。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年8月 4日 (土)

地元の漁法

Ssr8344587

先週の写真ですが、長野市内のため池で見かけた漁師さんたちです。
地元ならではの独特の漁法らしく、プラスチックのおもちゃの釣竿にタコ糸が付けられ、先に小魚が結び付けられていました。

「釣れるの?」

と聞いたら、

「うん、釣れるよ」

とのことでしたが、バケツにはまだ一匹も魚が入ってませんでした・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

写真が全面表示されない

実は以下の投稿をしようとしたのだけど、どうも大きな画像だと一部しか表示されません。
プログデザインのテンプレートをいろいろ試してみたのだけど、どれも同じ結果になってしまいます。
それで「いっそのこと、いちばんヘンなテンプレートにしてしまえ」と言うことで、今のデザインになってますw

*****

Stugirama3b_2

ちゃんとお知らせしてなかったのですが、発売中の『子供の科学』の別冊付録にツギラマ撮影の記事を書きました。
しかしこの冊子が「2色刷り」なので、ここであらためて「総天然色」でお届けします。
冊子と併せてご覧ください(笑)

Stugirama4b

もういっちょ、これも。
撮影地は共に浦安で、カメラはGX100。
ツギラマの大人向けの記事は、次号発売の『デジタル写真生活』の連載に載ります。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

カマキリはコンビニバイトのように人間を見る?

Sr8349763ts
ブログ1にこんなカマキリの写真を投稿したら、以下のようなコメント稿があったので思いついたことを。

ぼくもカマキリを接近撮影した事があるが、ずっとカメラ目線になってるよね。カマキリはカメラを構えている人間を見て何を思っているのかなって・・・。

まず、カマキリが「ずっとカメラ目線」なのは錯覚で、「偽瞳孔」と名付けられているもののせいですが、こちらのページにそのメカニズムが上手い具合に説明されてます。

で、そういう眼で人間を見たカマキリが何を思っているのか?
それはまぁ「本人」に聞いてみないと分からないし、もちろんカマキリは何も答えてくれません。
このように人間には決して知り得ないことはたくさんあるのです。
しかし、それに対し「例え話」を用いてアレコレ想像することは、決してムダではないとぼくは思います。
なぜなら人間と他の生物は、多くの相違点があると同時に、多くの共通点を持つからです。

そんなわけでフト思いついたのが、「カマキリはコンビニバイトのように人間を見る」ということです。
ここでまず明らかにしなくてはいけないのは、「コンビニのアルバイト店員は、人間(客)をどのように見るか」ということです。
いや、そもそもコンビニのアルバイト店員は人間であるから、その問題の立て方はおかしい、という意見もあるでしょう。
しかしどうも、コンビニに限らず最近のアルバイト店員の客に対しての態度には「人間のようで人間でない」というような違和感があって、それが問題のもうひとつの出発点になっているわけです。

例えば、ぼくがよく行くセブンイレブンですが、客が店を出るとき「ありがとうございました~」というのは当たり前の普通ですが、そこに「またおこしくださいませぇ~」と続けるのはどうも違和感がある。
しかもその「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」を、どこの方言とも分からないような妙な節回しで言うものだから、さらに??な感じがします。
あと今はないですが、冬の時期は「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」などと(全員が必ず)言うことがあり、違和感を通り越してブチ切れそうになります(笑)

その理由なんですが、自分が写真屋の店頭のバイトなどした経験から言うと、店員の挨拶には「記号」の要素と「実質」の要素のそれぞれが含まれます。
客が店に入ってきたとき店員が「いらっしゃいませ」と言えば、それは「店員と客」という関係を成立させるための記号になります。
これは記号だから、その意味で言葉に実質が伴っているかどうかは問題ではありません。
店員がやる気ゼロで、客に対しぜんぜん「いらっしゃいませ」と言う気分じゃなくても、とりあえず記号だから「いらっしゃいませ」と声に出すのです。
でも、店員だって人間だし、記号にだって言葉としての根拠があります。
だからたとえバイトであっても、「あまりに客が来なくなると自分がクビになるかも」などと思うと、本気で「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」を言うこともあるかも知れません。
また、自分なりにサービスに工夫を凝らし仕事に精を出している、という自負があれば「またお越しくださいませ」と自然に口から出ることもあるかもしれません。
このように、店員の挨拶は基本的には「記号」なのだけど、同時に「実質」が伴う可能性も考慮されているのです。

で、そう考えるとセブンイレブンの「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」は、記号としての挨拶から「実質」を排除する機能があり、そこに違和感を覚えるのです。
つまり【「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」とどんな客にも誰に必ず言う】ことは、日常の習慣にはない言動だから、そこに「店員の客に対する感謝」という実質を伴わせるのは難しいんじゃないかと思うのです。
まして「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」に至ってはさらに日常から遊離し、実質が伴う余地は微塵もないでしょう。
それで店内に入るなり、3人いるバイト全員に「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」と言われ、「ここはいつからおでん屋になったんだ?」と思いながらとりあえず弁当をレジに持ってくと、そこでまた「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」と言われる。
これはもう、人間としての状況判断に基づいて言っているのではないことは明らかで「なんか虫みたいだな」と、日ごろ虫と親しんでるぼくは思ってしまうのです。

もちろんこのような現象はセブンイレブンに限らず、近年の日本のサービス産業で数多く見られることで「サービスのマニュアル化」などと言われてます。
セブンイレブンよりさらにひどいのがブックオフの一部の店舗で、店員全員が元気よく「いらっしゃいませぇ~、どうぞご自由にごらんくださぁい!」と、「客に背を向けたまま」、「客の有無に関わらずランダムに」叫んでいるのです。
人間に背を向けながら、ランダムに大声で叫ぶのはセミとおんなじです。
幸い国分寺のブックオフはそういう変なことはなく、この「異様な光景」が展開されていたのがどこの支店だったか忘れましたが、とにかく人間がセミになってしまったのだから、これは本当に大変なことだと思いました。

あと例を挙げるとキリがないですが、行き過ぎのあるなしに関わらず「サービスのマニュアル化」の根底にあるのは「バイトをするような人間の人間性を信用しない」という思想であるように思われます。
ありていに言うと、「今の若者はバカで常識がないから、そのまま店員を任せるとお客さんにどんな失礼を働くか分かったもんじゃない」のようなことです。
今の若者は信用できないから、ただの「いらっしゃいませ」だとものすごくふてくされた言い方をするかもしれないし、うつむきながら小声ぶつぶつ言ったりするかもしれない。
そんなことをされたらたまらないし、いちいち説教しながら指導する手間も掛けたくない。
だったらいっそのこと「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」などど徹底的に記号化、マニュアル化し個人の思想や感情の入る余地を徹底的に排除してしまった方が良いのです。

使われるほうにしても、やることがマニュアル化されていれば自分で何か考えたり判断する必要もなく、その意味では本当に楽なのかもしれません。
本来、お店と言うのはいろんな人間が客として来るわけで、時として臨機応変な態度が必要になります。
そんなときに役立つのが店員さん自身の「人間力」ですが、すべてが記号化、マニュアル化されていればそんなものを出す必要がなくなります。
つまり、「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」を連呼するようなヘンテコリンなことは「人間としてのワタシ」は恥ずかしくてできないけど、「記号としての店員」になり切ってしまえば、どんなマニュアルにも従うことができるのです。
そして目の前の客も、「人格を持つ一個の人間」ではなく、マニュアルで処理すべき「記号としての客」なわけです。
それが、ぼくが想像するところの「コンビニのアルバイト店員は、人間(客)をどのように見るか」であり、「人間のようで人間でない」というような違和感がある原因と考えられるのです。

Sr8349763ts
で、ここでようやくカマキリの話に戻りますが、前段階の話が思いのほか長引いてしまったのでもう一度同じ写真を貼ります(笑)
これは、ハラビロカマキリの幼虫なのですが、腹部をピョコンと持ち上げたポーズが面白かったので、それを後から撮ろうと徐々にカメラを近づけました。
そうしたらふいにカマキリが振り返ってこんな写真が撮れ、直後にカマキリは逃げてしまいました。
この行動はカマキリがぼくのことを「見て」から起こしたものであり、それで「カマキリはカメラを構えている人間を見て何を思っているのかなって・・・。」という疑問が起きるのです。

カマキリが何を思ってるかなんて、もちろん想像でしか言えませんが、でもその行動から「遺伝的プログラムに従っている」と表現することはで来ます。
その「遺伝的プログラム」とは何かと言えば、それはコンビニの「サービスのマニュアル」みたいなもんじゃないかと、ぼくは思ってるのです。
カマキリのような昆虫は、人間のような思考はせずに、もっぱら「遺伝的プログラム」に従って行動します。
遺伝的プログラムは昆虫の行動の「すべて」を規定するものではなく、「行動の枠組み」を規定するものです。
だからカマキリはぼくを見たところで「何をするどんな人なのか?」などと人間的な判断はせずに、遺伝的プログラムに書かれたマニュアルに従い「危険か安全か」を判断するのみです。
この写真のカマキリの場合は、背後からゆっくり何かが近づくのを見て、その動きでヤバイと判断したんじゃないかと思います。

で、そのときのカマキリの「思い」を想像すると、コンビニ店員が客を見ている「思い」と、それほど違わないのかも?とふと思ったわけです。
それは原理的に確認しようの無いことですが、はじめに書いたように「人間と他の生物は、多くの相違点があると同時に、多くの共通点を持つ」ということから、いろいろ勝手に想像してしまうのです。
もちろん、人間の他の生物の意識を比べることはできませんが、体のつくりは比べられるわけで、そこから意識の違いを想像するのです。

だいぶ昔『腸は考える』という本を読んだのですが、うろ覚えの記憶だと

腸というのは人体にあって一個の生物のように振舞うことがある。
それは動物の基本は「栄養を吸収する腸」にあり、現に原始的な動物は腸だけのような生き物で、その基本形に「皮膚」や「神経」や「脳」や「手足」などのオプションを付加させながら進化してきたのだ。

と言うようなことが書いてありました。
つまり人体の中には、太古からの進化してきたさまざまな生物の体を含んでおり、その上に「人間らしい」ところの大脳が乗っかっている、ということです。
だったら人間の意識も、「人間らしい高度な意識」は上っ面だけで、その下には他の生物と共通の「さまざまなレベルの意識」が含まれているかもしれない、とぼくは想像したわけです。

で、今回は行きがかり上コンビニのアルバイト店員を非難したみたいになりましたが、ぼくだってもちろん「人間らしい高度な意識レベル」を常に保っているわけではありません。
例えば「フォトモ」を製作するときですが、その題材や構成を考えているときは「人間らしい創造性」を発揮してますが、考えが決まって実際に工作の作業をしてるときは、何も考えずに黙々とハサミを動かしています。
ハサミの動かし方は長年の経験でマニュアル化されてますから、何も考えなくて良いのです。
このように何も考えずにマニュアルに従って行動してるときの自分の意識は、例えば「カマキリが遺伝的プログラムに従って巧みに獲物を捕らえてるときの気分」と同じかも?と想像するのです。
そして、ぼくは仕事が終わるとさらに何も考えずにボーっとしてますが、カマキリも食事時意外はただボーっとしてるだけのようで、それも自分のボーっとした気分と同じかも?などと思ってしまうのです。

もちろんコンビニのバイトだって、客が好みの異性だったり、あまりに異様な客だったら「人間的な意識」で反応することもあるでしょうが、基本的には妙な節回しで「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」などと人前で言えるくらい「意識レベルを下げて」います。
意識レベルの下がった人間は自分では考えず、すでにできあがったマニュアルに従って行動します。
そのマニュアルは、誰かが「人間らしい創造性」を発揮して作ったものでしょうが、その機能は動物に備わった「遺伝的プログラム」とは見かけ上変わらないように思えるのです。
というわけで、「カマキリはコンビニバイトのように人間を見る」かもしれないのです。

以上、思いつきで書き始めたら思いのほか長くなりすぎました。
もしかすると思い付きのパワーが足らず、全体の見通しができなかったせいかもしれません・・・

| | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »