カマキリはコンビニバイトのように人間を見る?
ブログ1にこんなカマキリの写真を投稿したら、以下のようなコメント稿があったので思いついたことを。
ぼくもカマキリを接近撮影した事があるが、ずっとカメラ目線になってるよね。カマキリはカメラを構えている人間を見て何を思っているのかなって・・・。
まず、カマキリが「ずっとカメラ目線」なのは錯覚で、「偽瞳孔」と名付けられているもののせいですが、こちらのページにそのメカニズムが上手い具合に説明されてます。
で、そういう眼で人間を見たカマキリが何を思っているのか?
それはまぁ「本人」に聞いてみないと分からないし、もちろんカマキリは何も答えてくれません。
このように人間には決して知り得ないことはたくさんあるのです。
しかし、それに対し「例え話」を用いてアレコレ想像することは、決してムダではないとぼくは思います。
なぜなら人間と他の生物は、多くの相違点があると同時に、多くの共通点を持つからです。
そんなわけでフト思いついたのが、「カマキリはコンビニバイトのように人間を見る」ということです。
ここでまず明らかにしなくてはいけないのは、「コンビニのアルバイト店員は、人間(客)をどのように見るか」ということです。
いや、そもそもコンビニのアルバイト店員は人間であるから、その問題の立て方はおかしい、という意見もあるでしょう。
しかしどうも、コンビニに限らず最近のアルバイト店員の客に対しての態度には「人間のようで人間でない」というような違和感があって、それが問題のもうひとつの出発点になっているわけです。
例えば、ぼくがよく行くセブンイレブンですが、客が店を出るとき「ありがとうございました~」というのは当たり前の普通ですが、そこに「またおこしくださいませぇ~」と続けるのはどうも違和感がある。
しかもその「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」を、どこの方言とも分からないような妙な節回しで言うものだから、さらに??な感じがします。
あと今はないですが、冬の時期は「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」などと(全員が必ず)言うことがあり、違和感を通り越してブチ切れそうになります(笑)
その理由なんですが、自分が写真屋の店頭のバイトなどした経験から言うと、店員の挨拶には「記号」の要素と「実質」の要素のそれぞれが含まれます。
客が店に入ってきたとき店員が「いらっしゃいませ」と言えば、それは「店員と客」という関係を成立させるための記号になります。
これは記号だから、その意味で言葉に実質が伴っているかどうかは問題ではありません。
店員がやる気ゼロで、客に対しぜんぜん「いらっしゃいませ」と言う気分じゃなくても、とりあえず記号だから「いらっしゃいませ」と声に出すのです。
でも、店員だって人間だし、記号にだって言葉としての根拠があります。
だからたとえバイトであっても、「あまりに客が来なくなると自分がクビになるかも」などと思うと、本気で「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」を言うこともあるかも知れません。
また、自分なりにサービスに工夫を凝らし仕事に精を出している、という自負があれば「またお越しくださいませ」と自然に口から出ることもあるかもしれません。
このように、店員の挨拶は基本的には「記号」なのだけど、同時に「実質」が伴う可能性も考慮されているのです。
で、そう考えるとセブンイレブンの「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」は、記号としての挨拶から「実質」を排除する機能があり、そこに違和感を覚えるのです。
つまり【「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」とどんな客にも誰に必ず言う】ことは、日常の習慣にはない言動だから、そこに「店員の客に対する感謝」という実質を伴わせるのは難しいんじゃないかと思うのです。
まして「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」に至ってはさらに日常から遊離し、実質が伴う余地は微塵もないでしょう。
それで店内に入るなり、3人いるバイト全員に「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」と言われ、「ここはいつからおでん屋になったんだ?」と思いながらとりあえず弁当をレジに持ってくと、そこでまた「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」と言われる。
これはもう、人間としての状況判断に基づいて言っているのではないことは明らかで「なんか虫みたいだな」と、日ごろ虫と親しんでるぼくは思ってしまうのです。
もちろんこのような現象はセブンイレブンに限らず、近年の日本のサービス産業で数多く見られることで「サービスのマニュアル化」などと言われてます。
セブンイレブンよりさらにひどいのがブックオフの一部の店舗で、店員全員が元気よく「いらっしゃいませぇ~、どうぞご自由にごらんくださぁい!」と、「客に背を向けたまま」、「客の有無に関わらずランダムに」叫んでいるのです。
人間に背を向けながら、ランダムに大声で叫ぶのはセミとおんなじです。
幸い国分寺のブックオフはそういう変なことはなく、この「異様な光景」が展開されていたのがどこの支店だったか忘れましたが、とにかく人間がセミになってしまったのだから、これは本当に大変なことだと思いました。
あと例を挙げるとキリがないですが、行き過ぎのあるなしに関わらず「サービスのマニュアル化」の根底にあるのは「バイトをするような人間の人間性を信用しない」という思想であるように思われます。
ありていに言うと、「今の若者はバカで常識がないから、そのまま店員を任せるとお客さんにどんな失礼を働くか分かったもんじゃない」のようなことです。
今の若者は信用できないから、ただの「いらっしゃいませ」だとものすごくふてくされた言い方をするかもしれないし、うつむきながら小声ぶつぶつ言ったりするかもしれない。
そんなことをされたらたまらないし、いちいち説教しながら指導する手間も掛けたくない。
だったらいっそのこと「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」などど徹底的に記号化、マニュアル化し個人の思想や感情の入る余地を徹底的に排除してしまった方が良いのです。
使われるほうにしても、やることがマニュアル化されていれば自分で何か考えたり判断する必要もなく、その意味では本当に楽なのかもしれません。
本来、お店と言うのはいろんな人間が客として来るわけで、時として臨機応変な態度が必要になります。
そんなときに役立つのが店員さん自身の「人間力」ですが、すべてが記号化、マニュアル化されていればそんなものを出す必要がなくなります。
つまり、「いらしゃしませぇ~、おでんいかがですかぁ~」を連呼するようなヘンテコリンなことは「人間としてのワタシ」は恥ずかしくてできないけど、「記号としての店員」になり切ってしまえば、どんなマニュアルにも従うことができるのです。
そして目の前の客も、「人格を持つ一個の人間」ではなく、マニュアルで処理すべき「記号としての客」なわけです。
それが、ぼくが想像するところの「コンビニのアルバイト店員は、人間(客)をどのように見るか」であり、「人間のようで人間でない」というような違和感がある原因と考えられるのです。
で、ここでようやくカマキリの話に戻りますが、前段階の話が思いのほか長引いてしまったのでもう一度同じ写真を貼ります(笑)
これは、ハラビロカマキリの幼虫なのですが、腹部をピョコンと持ち上げたポーズが面白かったので、それを後から撮ろうと徐々にカメラを近づけました。
そうしたらふいにカマキリが振り返ってこんな写真が撮れ、直後にカマキリは逃げてしまいました。
この行動はカマキリがぼくのことを「見て」から起こしたものであり、それで「カマキリはカメラを構えている人間を見て何を思っているのかなって・・・。」という疑問が起きるのです。
カマキリが何を思ってるかなんて、もちろん想像でしか言えませんが、でもその行動から「遺伝的プログラムに従っている」と表現することはで来ます。
その「遺伝的プログラム」とは何かと言えば、それはコンビニの「サービスのマニュアル」みたいなもんじゃないかと、ぼくは思ってるのです。
カマキリのような昆虫は、人間のような思考はせずに、もっぱら「遺伝的プログラム」に従って行動します。
遺伝的プログラムは昆虫の行動の「すべて」を規定するものではなく、「行動の枠組み」を規定するものです。
だからカマキリはぼくを見たところで「何をするどんな人なのか?」などと人間的な判断はせずに、遺伝的プログラムに書かれたマニュアルに従い「危険か安全か」を判断するのみです。
この写真のカマキリの場合は、背後からゆっくり何かが近づくのを見て、その動きでヤバイと判断したんじゃないかと思います。
で、そのときのカマキリの「思い」を想像すると、コンビニ店員が客を見ている「思い」と、それほど違わないのかも?とふと思ったわけです。
それは原理的に確認しようの無いことですが、はじめに書いたように「人間と他の生物は、多くの相違点があると同時に、多くの共通点を持つ」ということから、いろいろ勝手に想像してしまうのです。
もちろん、人間の他の生物の意識を比べることはできませんが、体のつくりは比べられるわけで、そこから意識の違いを想像するのです。
だいぶ昔『腸は考える』という本を読んだのですが、うろ覚えの記憶だと
腸というのは人体にあって一個の生物のように振舞うことがある。
それは動物の基本は「栄養を吸収する腸」にあり、現に原始的な動物は腸だけのような生き物で、その基本形に「皮膚」や「神経」や「脳」や「手足」などのオプションを付加させながら進化してきたのだ。
と言うようなことが書いてありました。
つまり人体の中には、太古からの進化してきたさまざまな生物の体を含んでおり、その上に「人間らしい」ところの大脳が乗っかっている、ということです。
だったら人間の意識も、「人間らしい高度な意識」は上っ面だけで、その下には他の生物と共通の「さまざまなレベルの意識」が含まれているかもしれない、とぼくは想像したわけです。
で、今回は行きがかり上コンビニのアルバイト店員を非難したみたいになりましたが、ぼくだってもちろん「人間らしい高度な意識レベル」を常に保っているわけではありません。
例えば「フォトモ」を製作するときですが、その題材や構成を考えているときは「人間らしい創造性」を発揮してますが、考えが決まって実際に工作の作業をしてるときは、何も考えずに黙々とハサミを動かしています。
ハサミの動かし方は長年の経験でマニュアル化されてますから、何も考えなくて良いのです。
このように何も考えずにマニュアルに従って行動してるときの自分の意識は、例えば「カマキリが遺伝的プログラムに従って巧みに獲物を捕らえてるときの気分」と同じかも?と想像するのです。
そして、ぼくは仕事が終わるとさらに何も考えずにボーっとしてますが、カマキリも食事時意外はただボーっとしてるだけのようで、それも自分のボーっとした気分と同じかも?などと思ってしまうのです。
もちろんコンビニのバイトだって、客が好みの異性だったり、あまりに異様な客だったら「人間的な意識」で反応することもあるでしょうが、基本的には妙な節回しで「ありがとうございましたぁ、またおこしくださいませぇ~」などと人前で言えるくらい「意識レベルを下げて」います。
意識レベルの下がった人間は自分では考えず、すでにできあがったマニュアルに従って行動します。
そのマニュアルは、誰かが「人間らしい創造性」を発揮して作ったものでしょうが、その機能は動物に備わった「遺伝的プログラム」とは見かけ上変わらないように思えるのです。
というわけで、「カマキリはコンビニバイトのように人間を見る」かもしれないのです。
以上、思いつきで書き始めたら思いのほか長くなりすぎました。
もしかすると思い付きのパワーが足らず、全体の見通しができなかったせいかもしれません・・・
| 固定リンク
最近のコメント