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2007年9月

2007年9月16日 (日)

米子出張

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大阪の出張後、その足で鳥取県米子市へ。
ワークショップ用の見本となるフォトモを、その日のうちに現地で撮影して5個作りました。
普段はもちろん、こんなハイペースじゃ作りません。

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大阪出張

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9月11から14日まで大阪に出張し、10月のイベント用に出品する「復元フォトモ」のプレゼン用の試作をしてました。
大急ぎで4個製作。

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2007年9月 9日 (日)

パソコンを売る八百屋

昼間ラジオで「10年以上前、江古田でパソコンを売ってる八百屋さんがあった」というような話をしてました。
仕事をしながらなのであまりちゃんと聞いてなかったのですが、その八百屋さんは仕入れのため、かつて秋葉原にあった青果市場に仕入れに行くうち、電化製品に興味が出てきて、自分の店で扱うようになったとか。
しかし、その店は10年以上前に閉店しており、ボロボロの姿でまだ商店街に残っているらしい。

そんな話を聞いて、そういえば江古田でそれっぽい物件を撮ったような気がして、確認したらありました。

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『フォトモの物件』に収録された「江古田ゆうゆうロード」というフォトモの中に写ってました。
番組で店名を紹介してたので、確かにこれのようです。

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組み立てるとこんな感じ。

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2007年9月 5日 (水)

写真では伝えきれないフォトモの魅力

「図書館教育ニュース」という、中学校や高校向けの壁新聞にフォトモが紹介されることになりました。
で、以下は壁新聞の付録誌用のテキストで、限られた人しか読まないので、こっちにもアップすることにしました。
限られた文字数なので「非人称芸術」の言葉は使っていません。
何となく上から目線なのは、生徒が読むことを想定してるからですが、あらためて依頼書を確認したら図書館担当の先生が対象読者でした(笑)
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写真では伝えきれない
フォトモの魅力

 フォトモとは、写真に写ったモノをハサミなどで切り抜き、プラモデルのパーツのように立体構成して製作する、3D写真の一種です。それで、フォト(写真)+モデル(模型)から「フォトモ」と名付けました。仕組みは単純ですが、実際のフォトモ作品を見ると想像以上にリアリティがあるので驚きます。それはフォトモの持つ「写真的な平面の立体」と「模型的な実際の立体」が、見る人の脳内で上手い具合にミックスされるからだと考えています。ですからフォトモ作品の本来の魅力は、写真では伝えきることは出来ません。そのためぼくは、できるだけ頻繁に「フォトモ展」を開催するよう心がけています。また、完成したフォトモをバラバラのパーツに分解し、プラモデルのような製作キットにアレンジした「組み立てフォトモ」の作品集も出版しています。これを製作すれば、誰もが実際にフォトモ独特の立体感を体験できるのです。

アートの行き詰まりから
新しいアートが見えてきた

ぼくは子供の頃から絵を描くのが好きだったので、高校の美術部を経て美術大学に進学しました。ところが美大在学中にいろいろなアート作品に接するうち「自分が素晴らしいと思えるアートは、すでに他人の作品として世にあふれている」と思うようになりました。つまり、自分自身が表現するアートに行き詰ってしまったのです。そんなぼくは気晴らしのためにプラモデルを作ったり、散歩をしたりしてました。その散歩中にぼくは「自分が知っている街にそっくりだけど、知らない街に迷い込む」という、奇妙な感覚を覚えました。美大時代に住んでいた東京都八王子市は、高校生まで住んでいた長野県長野市とよく似た地方都市で、まさに「知っているようで知らない街」なのです。そのうち、街並み自体が「街」としてではなく「自分の知らない、奇妙なアート作品」の連なりのように見えることに気づきました。例えば商店街には「パン屋さん」や「八百屋さん」などのお店が並んでいます。しかしそれらが「○○屋さんである」というのは先入観で、その先入観を取り除くとそれらの建物は「自分の知らない、奇妙なアート作品」に見えてくる・・・そんなことを発見たのです。

写真では伝わらない感覚が
フォトモで表現できる

そこでぼくは「アートではないものがアートに見えてくる」という感覚に基づき、写真を撮り始めました。しかし街を写した写真はやっぱり「街」にしか見えず、ぼくの感覚がどうしても表現できません。そこでふと、「街並みが立体なら、写真もプラモデルのような立体にすれば良い」と思い付き、フォトモの技法が生まれたのです。フォトモで表現された街並みは、プラモデルのように縮小されたことで実物にあった「機能」がなくなり、「純粋な形」として表現されます。しかしプラモデルと違い、写真を素材にしたフォトモには「そこにあったもの」としての実証性があります。だからフォトモは「街並みをオブジェ芸術のように見る」というぼくの感覚を、的確に表現する手段となったのです。

「人より優れたもの」ではなく
「人と違うもの」を生み出す可能性

結局ぼくは、一度はアートに挫折したのですが、その挫折をまっとうに克服しなかったことで、かえって新しい方向性が見つかったといえます。それは、散歩だとかプラモデルとか、一見関係ないような方に「よそ見」ばかりしたおかげかもしれません。挫折したときはそれをバネにしてもっと頑張る、という方法もありますが、それだと「人より優れたもの」は生み出せても、「人と違うもの」は生まれにくいのかもしれません。時には挫折したことにこだわらず、いろいろなものに興味を持つのも良いのかもしれません。

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2007年9月 2日 (日)

「本の感想文」のコンセプト

このブログで読んだ本の感想文をいくつかアップするうち、だんだんコンセプトが固まってきたので、あらためてそのことに触れたいと思います。

まず、本の内容を要約して「こんなことが書いてありました」みたいな内容はできるだけ避けたいです。
そうではなく、本を読んで自分なりに理解したことを、本に書かれた用語に捉われず、自分の言葉で表現するように心がけようと思います。
もしくは本の内容に触発され、本の内容に関係なく勝手に思いついたことを書くこともあるかもしれません。
だからぼくの本の感想文は、それがどんな本であるのかを必ずしも表現したものにはなりません。

ぼくとしては、本の感想文はその本に対するレスポンスのつもりで書いています。
というのも、ぼくは何かにつけゼロから物を作ることができず、すでに形のあるものを見て別の発想をするのが得意だからです。
だからぼくの場合「すでに存在するもの」のレスポンスとして写真作品が生じ、同じように「他人の考え」のレスポンスとして自分の考えが生じる・・・と、考えたわけです。
それで以前はネットの掲示板を利用し、他人の書き込みに対するレスとして、自分の考えを展開しようとしてたのでした。
しかし掲示板というのは、基本的に他に本職を持つ人が片手間に書き込むものなので、本格的に自分の考えを構築する素材としては、物足りないものでした(もちろん、鋭い人物による鋭い書き込みもありますが)。
だったら、物を考える専門家が仕事で書いた「本」というものに「レス」をしたほうが良いんじゃないかと思い、そのつもりで感想文を書くことにしたのです。

このように構築するぼくの「考え」が、どれほどちゃんとした形になるかは未知数です。
というか、普通に考えてたいしたものにはならないでしょう。
ぼくの「写真作品」の方は、ぼく自身が美大出身で専門的な基礎が(ある程度)あった上に、10年以上創作に入れ込んでキャリアを積み重ねましたから、それなりの「形」になってきたのではないかと思います。
しかし「考え」の方は、もともと専門知識があるわけではなく、難しい本が読めないというハンデがあり、しかもごく最近はじめたことで、これが10年続いたところで何か「形」になる保障は全くありません。

そもそも難しい本が読めない人が、どうして「考え」を何らかの「形」にすることができるのか?ということからして疑問なのですが、それは自分の「芸術家としての勘」を信じるしかありません。
芸術家も時にはコンセプトとか何とか理屈もこねますが、最終的には「勘」によって「作品」という複雑なまとまりを作り出します。
だからぼくは同じように、自分の勘によって大雑把ではあるけれど複雑な内容を含むような、自分独自の「考え」が構築できないか、と考えたのです。

まぁ、深く考えもせず勘だけで「自分の意見」を言うのは、酔っ払いのサラリーマンと変わらないようですが、客観的には同じなのかもしれません。
いや、原理的にはぼくの主観でも、それを判別することが出来ません。
つまりぼくは頭が良くないので、自分の「考え」にどれほどの価値があるのか判定することができないのです。
ぼくの「考え」に価値のある・なしを判断するのは、少なくともぼくより頭の良い誰かで、ぼくとしてはその判断を待つしかなく、だから「自分の勘を信じる」しかないのです。

それは自分を卑下しているというのではなく、専門外の人がその分野に新に参入するとは、そういうことなのではないかと思うのです。
例えばこれまでロクに絵を書いたことのない人が、40を過ぎて突然画家になりたくなったとします。
それで自分の「勘」を頼りにその人は絵を描くのですが、それがどれほどの価値を持つのかは、美術鑑賞の経験の蓄積のない初心者には判断できません。
自分では「なかなか才能がある」と思っても、本職の画家から見たら凡庸な作品でしかない・・・このようなことはよくあるのではないかと思います。
で、ぼくは美術の分野については、ある程度目が肥えていることを自負してますから、自分の作品がどの程度のものかが分かります。
だから学生時代までは、自分で自分の「合格」が得られるような作品が作れず、ずいぶん悩んでいたわけです。

そんなぼくが、今になって「自分の考えをそれなりの形に構築しよう」と思っても、先ほどの「画家志望の素人」のように何も分からず、ただ自分を「信じる」しかないのです。
その作品が箸にも棒にも掛からないような「画家志望の素人」が、「自分を信じるしかないんです」なんて言ったら微笑ましいですが、このブログでの自分はそんな立場かも知れず、しかもそれを自分では判断できない立場でもあるわけです。

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「ネット時代の反論術」仲正昌樹

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「反論」以前に、議論が成立する条件を考えてみます。
まず基本的には、双方が「絶対的とか客観的な事実というものは存在せず、正しさは各自の捉え方で違ってくるし、時と場合によっても変わる」ということを了解することが必要です。
つまり物事を前時代的な「実体論」で考えるのではなく、現代的に「関係論」」として捉える必要があるのです。

でも、自身の専門分野、得意分野を通して「関係論」の何たるかを心得ているはずの人であっても、専門外のことになるとコロッとそれを忘れ、「実体論」に固執した自己主張をしてしまいがちで、それが原因で議論が単なる口喧嘩に陥ってしまいます。

「実体論」は人間の素朴な日常的感覚に根差したものですが、「関係論」はその日常的感覚をちょっとズラしたような、一段高度な感覚に根差していると言えます。
だから「関係論」の重要性を十分に理解してるつもりの人であっても、つい油断して無自覚のまま「実体論」に陥ってしまいがちなのです。

関係論的に「正しさは時と場合により変化する」というのは理屈として理解できるし、狭い範囲の専門分野に当てはめることは容易ですが、この感覚を徹底し、実生活の隅々まで行き渡らせるのはなかなか難しいことです。

しかしこの本では、法律を例にしてそのことが可能となるようなヒントが書かれています。
例えば裁判の判決は、法律という絶対的正しさに基づいているようですが、実際に起きる事件は法律では計れないような曖昧さを含み、だから判決にも恣意性が含まれます。
この時問題になるのが、原告と被告を含む世の中の「力関係」です。
裁判官や弁護士は、法律と、事件固有の事情と、世の中の力関係を考慮しながら裁判を進め、その結果として判決が下されます。
だからこの場合の判決は絶対的に正しいものではなく、その時点でのみ妥当と考えられる結果なのです。

例えば、誰がみても死刑だろうと思われるような凶悪事件の犯人であっても、死刑反対を唱える人々の社会的影響力が高ければ、裁判官は死刑の判決が出しにくくなります。
その人を死刑にすることの「正しい・正しくない」は、その事件を取り巻く人々の「力のバランス」によって決まるのです。

だから身も蓋もない言い方ですが、議論でちゃんと反論し自分の主張する「正しさ」を通そうとするなら、自分の社会的地位を向上させることが必要なのです。
なんだかんだ言って、著者の仲正昌樹さんも大学教授という肩書きによって、多少過激な発言をしても許されるわけです。

自分の社会的地位を向上するためには、まずは「まっとうな」議論を避けるべきです。
もとより、ちゃんとした議論の心得がある人は世の中では少ないですから、議論(のようなもの)を仕掛けられたら、上手にかわすのが得策です。
自分の社会的地位向上を積極的に目指す人の中には、「見せ掛けの議論」というパフォーマンスを演じる人もいて、テレビで良く見かける政治家や知識人の多くがこれの名人だそうです。
「見せ掛けの議論」とは議論の相手ではなく、自分の味方(になってくれそうな人)に、自分が好人物であることを見せ付ける為のパフォーマンスで、それはさまざまなテクニックにより成立しています。

しかし、そんな見え透いたパフォーマンスなんてバカバカしいなどと思ったり、かと言って「関係論」に徹しきれずに相手の議論(のようなもの)につい挑発されたりして、自分はそういう失敗をいろいろしてきたのです。

以上が、この本を読んで分かった(つもりの)ことです。

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