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2007年11月21日 (水)

いつも同じ話になってしまう

このところ立て続けに講演があって、今日もバンダイナムコゲームスさんで社員向けの講演なのだが、どうもこのところ同じ話になりがちなのが気になり始めた。
いや、聞くほうははじめてのお客さんばかりなので問題ないだろうけど、なんと言うか、自分の話の底の浅さが気になり始めたのだ。
どんなに説得力があってツジツマが合った話でも、いつも同じ内容では底が浅いとしか言いようがなくなってくる。
本当に深い意味の内容というのは、同じ事柄でも複数の方向から語ることが可能なはずなのだ。
実は、同じ事を本を書くときにも思って、フォトモ作品集の3冊目「フォトモの物件」の巻末のテキストはかなり頑張って違うことを書こうとしたのだった。
そこで示したのは「非人称芸術」のさらに根本となる「芸術的価値判断」ということなのだけど、それは可能性の一端を示したくらいで、未だ掘り下げ方が足りないままでいる。
いや、「芸術的価値判断」はその昔から日々実践してるのだけど、実践というのは感覚的なもので、それを他の人にも分かるような言葉に置き換えるには、また一仕事必要なのだ。
で、本を書いて以後そういう作業をサボっているので、講演を頼まれたときは、従来どおり慣れた説明のしかたであるところの「非人称芸術」になってしまうのだ。
もちろん、「非人称芸術」なんて言葉は一般的には難しいと捉えられがちなので、場所によってはこの用語を使わず話すことも多いが、しかしその場合でも話のベースはあくまで「非人称芸術」によっている。
そういうアレンジができるようになったのは、その話の筋に自分でもだいぶ慣れてきたことの表れなのだが、それだけに自分ではそのワンパターンにそろそろ飽きてきたのかも知れない。

説明のワンパターンを打開するには、まずはあらためて「芸術とは何か」を掘り下げるのが良いかもしれない。
芸術の定義は、それまでの芸術の歴史を踏まえてしなければいけないのだが、しかし歴史をどう捉えるかは人により立場により異なり、そこから導き出される「芸術とは何か」も一元的には決まらない。
だから美術に携わる人は自覚的にしろ無自覚的にしろ、自分なりに芸術を定義し、作品や評論やキュレーションなどを通してそれを表現している。
というより、それぞれが「このような芸術の定義の仕方はいかがですか?」と、見る人に提案している、と見るのがポストモダン的な美術の捉え方なのかもしれない。
その提案が多くの人に受け入れられれば、それはメジャーな作家になるだろうし、提案がごく少数であるが一部に熱烈な支持が得られるなら、貧乏だがギリギリ生活できる作家になるかもしれない。
少なくとも「非人称芸術」にしろ「芸術的価値判断」にしろ、その前提となる「芸術とは何か」をちょっとおざなりに説明していた傾向があるので、その点に目を向ければまたちょっと違った展開が得られるかもしれないと、これを書きながら思ったりした。

しかし今日はゲーム会社の社員向けに、アイデアの活性化になるような話をする目的で呼ばれてるので、「芸術とは何か」なんて難しい話をするわけにはいかない。
いや、本来は「芸術とは何か」をいう言葉を言わずして、それをベースにした面白おかしい話をするのが理想なのだけど、それが出来るまでにはまだ時間がかかる。
まぁ、今日のところは最近のいつもどおり、スクリーンに上映する画像を多めに持って行って、その場の雰囲気に合わせてアドリブで行けば何とかなるんじゃないかと思います(笑)

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