« 2007年11月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

2008年1月24日 (木)

「構造主義」を誤解していた

今回は「なるべく誰でも分かるように」と言う書き方はあきらめて、自分のためのメモとして思いついたことを書こうと思う。
これはいずれ、何らかの分かりやすい形にまとめるかもしれない。

現代思想の入門書を読んできると「脱構築」と言う概念が必ずと言っていいほど出てくるが、これがどうもいまひとつ良くわからなかった。
正確に言うと、「構造主義」と「脱構築」の違いが良く分からない。
ぼくは「構造主義」については何冊か本を読んで理解したつもりでいるのだが、その構造主義の問題点を克服した「ポスト構造主義」の手法と言われる「脱構築」について、どうもいまひとつピンと来ていなかった。

それが、高田明典さんの「世界をよくする現代思想入門」を途中まで読んで、ハタと気づいたのだが、ぼくが「脱構築」を理解できなかったのは、そもそも「構造主義」そのものを大きく誤解していたからだったのだ。
早い話、ぼくは構造主義だと思って理解していたことは、構造主義ではなく「脱構築」だったのだ。
だから「脱構築」の解説を読んでも、それが構造主義とどう違うのか理解できなかったのは当たり前なのだ。

構造主義と脱構築は共に、「問題のある状態を理想状態に導くための手法」には違いないのだが、何をもって解決とするかの目標に違いがある。
すなわち構造主義は、理想状態と「相同形」の解決策を提示しようとするのに対し、脱構築は理想状態に対し「相似形」の解決策を提示することを目標にしている。

ぼくは赤瀬川原平さんが提唱する「超芸術トマソン」を知ったのと、ほぼ同時期に構造主義の概念を知り、「トマソンは構造主義の手法を芸術に応用したものである」と確信したのだが、この解釈はどうも間違いだったことが判明したのだ。
「超芸術トマソン」と芸術作品は、確かにいくつかの「構造」を共有し、その共有された「構造」を元に「超芸術トマソン」は創造されており、そのこと自体に間違いはないと思われる。
問題は、そのように創造された「超芸術トマソン」は、そのほかの芸術作品とは「相同形」ではなく、あくまで「相似形」でしかないということだ。
「どうしたら新たな芸術作品が創造できるのか?」と言う問題に対し、「超芸術トマソン」と言う芸術作品の相似形、すなわち「似てるけど違うもの」を提示したのでは、構造主義的な問題解決とは言えないのだ。

構造主義的な手法を、本当の意味で芸術の創作に応用した例は、村上隆さんではないかと思う。
村上隆さんは「日本の美術が世界的に評価されるにはどうしたらいいか?」という問題設定をし、「世界的に評価されている作品は、アメリカの美術マーケットで法外な価格で取引されている」という「構造」を見出し、その「構造」に操作を加えることで、自身の作品が世界的に評価されるまでに至ったわけで、これはまさに構造主義的手法の応用と見ることができる。
ここで重要なことは、村上隆さんの作品が、その他の世界的に評価されている美術作品と「相同形」であると言うことだ。
村上隆さんの作品は決して「美術作品と似ているが違うもの」ではなく、美術作品そのものであり、それを生み出すため「構造」を利用した手法はまさに「構造主義」なのである。

ところが、現代思想の入門書でも指摘されているように、構造主義には限界点がある。
それは、構造主義的手法は「何を問題とし、何を理想状態とするか」という前提が共有された人間同士では成立するが、そのような前提を共有できない人々に対しては無効になってしまう、ということだ。
村上隆さんの例で言うと、「法外な値段で取引されることと、美術の本質的価値は関係ない」と思う人や、「アメリカの美術マーケットの評価は当てにならない」と言うような人も少なからずいて、そのような人たちに対して村上さんが提示した「解決策」は無効になってしまうのだ。
これは村上隆さんの解決策に欠陥がある、と言うことを意味するわけではなく、そもそもある問題提起に対し「万人」が納得する解決策などないのが当たり前なのだ。
その当たり前を踏まえ「できるだけ多くの人が納得できる解決策」を模索するための、手法の一つが「構造主義」と言える。
構造主義はきわめて合理的で有効な手法だが、万能ではない。
それは世の中に「万能の手法」なんてものがありえないのと同じ意味である。
だから構造主義の手法でうまくいかない場合、それを補う別の手法が必要であって、それが「脱構築」なのだ。

「脱構築は」構造主義と違い、問題解決の理想状態とは「相似形」の解決策を模索する手法である。
例えば、「空腹」という問題に対し、「食べ物を調達する方法」を模索するのが「構造主義」である。
しかし、食べ物が絶望的に調達不可能な場合はどうしたら良いのか?
その場合は食べ物のことはとりあえずあきらめて、食べ物の「相似形」のもの・・・例えば「酒」を調達すれば良いのである。
酒を飲んでも空腹は満たされないが、とりあえず酔っ払って良い気持ちになり、空腹も忘れられるかもしれない。
つまり「空腹を満たすために食べる」という関係性の構築を脱し、「酒を飲んで酔っ払う」という別の関係性を新たに構築し、それを問題の解決とするわけで、これこそが「脱構築」なのだ。

他の例を挙げると「カノジョが欲しい」という問題に対し、実際に女性と交際する手段を模索するのが「構造主義」で、実際の女性との交際はあきらめて「アニメの女の子に恋愛感情を抱く」という手段を採用するのが「脱構築」である。
「アニメの女の子に恋愛感情を抱くなんてのは現実逃避だ」と非難する人もいるだろうが、当人はその現実の関係性の構築を脱し、別の現実の関係性を構築してるので、そんな非難も意に介さないのだ。
こんな例を挙げると「脱構築って、そんなに有効な手段なの?」と疑問を持たれそうだが、もちろんこの手法もうまくいくときといかないときがある。
肝心なのは、何か問題に行き詰ったときに、その問題の価値観の中で固執するのではなく、それを捨ててまったく別の価値観へジャンプすることである。
その結果、本当に気が楽になりスッキリすることもあるだろうし、ハタからはどう見ても不幸にしか思えない場合もあるだろう。
それが「脱構築」の有効性でもあるし限界点でもある。

さて、再び「超芸術トマソン」だが、これが「新たな芸術を生み出す」という問題に対する構造主義的解決でないとすれば、それは他でもなく「脱構築」による解決策だと見ることができる。
ここで赤瀬川さんの考えに沿ってみると、あまりに芸術を欲するあまり、「もはやどんな芸術にも満足できない状態」に陥り、それゆえに「芸術に似ているけど違うもの」という「脱構築」の解決策が有効に機能したわけだ。
トマソンは芸術と相似形であり、それは芸術を「脱構築」して生じたものなのだ。
トマソンはまた、芸術と人間との間に、新たな関係性を構築している。
その関係性は「芸術は求めるが、自分で作品は作らない」だったり、「芸術は鑑賞者が見ることで創造され、作者は必ずしも必要ではない」だったり、「芸術の意図なく製作されたもののほうが、むしろ芸術的である」だったりするわけだ。
これらの関係性は、実は芸術にも含まれるものではあるのだが、しかしトマソンは「芸術は芸術の意図を持った芸術家により製作される」という関係性を排除してしまっている。
それゆえトマソンは芸術作品とは「似て非なるもの」だが、同時に「新たな芸術の定義」を創造している。
このトマソンという「脱構築」が有効な人たちにとって、それは目が覚めるような転換点になるかもしれないが、あくまで「芸術」に固執する人々にとってそれは何の意味もなさないだろう。
実際トマソンを「脱構築」として評価する人はほとんどいないのではないかと思う。

それで、ぼくの提示する非人称芸術だが、これはもちろんトマソンの「脱構築」を引き継いでいる。
改めて考えると、ぼくの作品はフォトモなどの技法も含めて、もっぱら「脱構築」で作られているといえるのかもしれない。
それでぼくの勘違いというのは、構造主義と脱構築は「ソシュールの言語学」を応用した手法であり、それで自分の中ではゴッチャになっていたのだった。
まぁ、理屈は勘違いしたとしても結果として作品ができていれば問題ないのだが、そのままではコンセプトの方が行き詰ってしまうだろう。
これでようやくスッキリした気分になった。
ぼくの「非人称芸術」に対する反応がイマイチなのは「言い足りない」ということもあるが、それが「芸術と似て非なるものでしかない」と捉えられがちなのだ大きな理由で、そう考えると仕方のないことだ。
それに対しフォトモをはじめとする写真作品は、他の芸術作品と相似形で、だからこの分だけは評価の対象になるのである。

ところで、ここまで書いてきてなんだが「構造主義は相同形的解決を目標とし、脱構築は相似的解決を目標とする」というのは、実は自分が読んだどの本にも書いてあったわけではなく、自分なりの理解を言葉にしたものに過ぎない(単に読んだことを忘れてるだけかもしれないが)。
だからこの解釈もまた「早とちり」の間違いである可能性がある。
例えば「問題に対し、相同形と相似形の二種類の解決目標が設定できる」ということは言えたとしても、それは「脱構築」の概念とまったく無関係だった、なんてこともあるかもしれない。
そうした大間違いは専門家だったら恥ずかしいのだろうが、ぼくはあくまで門外漢の素人なので「恥知らずでかつ自由」でいられるのだ(笑)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月23日 (水)

改めて、このブログの存在意義

ぼくは基本的に読書は苦手なのだが、それでもここ最近は結構本を読むようになった。
ぼくが読むのは現代思想の入門書が多く、小説などのフィクションはほとんど読むことがない。
その理由は、ぼくは基本的に読書が苦手なので、どうせ読むんだったら役に立つ本を読みたいからである(現代思想の専門書は難しくて読めない)。
それでは現代思想の入門書がなんの役に立つのかと言うと、それは自分の作品製作の役に立つのである。
ぼくは「フォトモ」とか「ツギラマ」とか「路上ネイチャー」とかさまざまなシリーズの作品を制作するが、それらはどれもあるコンセプトによって製作されている。
そしてそのコンセプトは、現代思想の入門書を参考にして、自分なりに構築したものなのだ。

なぜコンセプトに基づいて作品を制作するのかというと、「ネタ切れを防ぐ」と言うのが理由のひとつだ。
作品と言うものは、あくまで感覚で製作するものではあるが、しかし感覚だけに頼っていると、そのうち「ネタ切れ」という状況を迎える可能性がある。
事実、そのように現れては消えてゆく「一発屋」の作家は後を絶たないように思える。
だが、一度感覚に基づいて成功した作品を自己分析して、そこに何らかのコンセプトを見出すことができれば、そのコンセプトに基づき次の新作を製作することができるかもしれない。
そして、その新作からも別の新たなコンセプトを見出すことができれば、さらにまた次の新作を製作することができ・・・と、そうやって続けていけば「ネタ切れ」の問題を回避できる可能性がある。
もちろん、その方法は必ずしも成功する保証はないし、成功したとしてもそれがいつまで続くかも分からない。
しかし、ぼくは今のところとりあえずその方法で、何とか「ネタ切れ」を回避できているのではないかと思う。
だから、ぼくが現代思想の入門書を読むのは「作品制作のため」が主目的で、「現代思想を学ぶ」は副次的要素でしかない。
むしろ、作品がちゃんと成立してさえいれば、現代思想の理解が生半可で間違いであったとしても、一向に構わないわけだ。

しかし、ぼくが現代思想を学び、コンセプトに基づき作品を制作する理由は、他にもある。
それは、「美術作品としてのステイタスを獲得する」というものだ。
早い話これは「カッコ付け」でしかないのだけど、しかし美術と言う分野は本来的にステイタスが重要と言うか、ある意味「カッコ付けてナンボ」の世界という見方もできる。
自分の作品の美術としてのステイタスが上がれば、自分のプライドも満たされるし(これは本来どうでもいいことだが)、何より生活の安定につながる可能性がある(こちらは切実だが、保証の限りではない)。
美術としてのステイタスを上げる方法は色々あるだろうが、ぼくは「現代思想というステイタスの高い分野のお墨付きをもらう」という方法を(成り行き上)採用することにしたのだ。
実はこの意味でも、ぼくの現代思想の理解は生半可でも構わない、と言えるのだ。
つまり、コンセプトがどうであれ作品がちゃんと成立してさえいれば、現代思想の専門家の誰かが「あの作家のコンセプトは多少いいかげんだが、意外とスルドイところを突いてる・・・」とか何とか、お墨付きをくれたりする可能性があるわけだ。
なぜなら現代思想とは、ただ複雑で難しい理論を考えるだけの学問ではなく、最終的には何らかの「実践」に役立つ方法を考える学問であるからだ(と言うようなことが現代思想の入門書に書いてあった)。
だから作品制作という「実践」を伴うぼくのコンセプトは、多少整合性は欠けても何らかの「確からしさ」があり、それが専門家の誰かの目に留まれば、一気にステイタスも上がる・・・と言うようなことを妄想していたのであった。
ところが、実際にそれは妄想であって、ぼくが世に発表した作品について「作品としての評価」はあっても、「コンセプトについての評価」は今のところほとんど得られていない。
それどころか、「あの人は作品はまぁまぁいいのに、知ったかぶりして余計なこと言うのがどうも・・・」などと一部でヒンシュクを買ってるフシもある。

この現状に対処する方法のひとつは、他人の忠告どおり、コンセプトとか現代思想とか余計なことを言うのは一切やめて、作品のみで勝負することだ。
そもそも、すでにステイタスを獲得している作家のほとんどは、コンセプトなんかでお墨付きをもらったりはしていないのだ。
だから「コンセプトでお墨付きをもらう」というのを、美術としてのステイタスを獲得する方法として考えること自体が、おかしなことなのだ。

しかしどうもぼくは、自分の作品が自分でもすごくいいと思っても、実のところ作品それだけで成立し得ないのでは?と感じているのも事実だ。
作品を黙って見せるだけではどうにも不安で、つい「コンセプトが・・・」などとフォローを入れないと気が済まない。
それに、現代思想の入門書は読んでいて面白いし、それを元に自分なりのコンセプトを構築することは、形は違えど「ものづくり」に違いなく、作品制作と同様に面白い作業なのだ。
だから、ぼくがこれからやるべきことは作品制作と平行して、コンセプトも人に頼らず自力でちゃんとした形に構築するよう試みることだと、改めて思うようになったのである。

作品製作も、コンセプトの構築も、自分の中にある何か「モヤモヤしたもの」を、他人に見えるような具体的な形に変換する、と言う点では同じだと言える。
その意味で考えると、ぼくは作品ではそれを比較的ちゃんとやってきたけど、コンセプトの方はちょっとおざなりにし過ぎたといえるだろう。
つまり作品として形になっている量に比べ、コンセプト(文章)の方は形になっているものが極端に少ないのだ。
この少ない形のコンセプトの方で「評価してもらおう」と思うこと自体が、土台無理なのだった。
もちろん、ぼくはあくまで読書が苦手で、現代思想に関しては素人であり得ない。
専門はあくまで、作品製作の方である。
しかしそうだとしても、作品と共にコンセプトもセットで評価されたいと思っている以上、そのコンセプトの方も今よりもっとハッキリした形にあらわす必要があるだろう。
そのためにはとくにかく読書を重ね、自分の中の「モヤモヤしたもの」に言葉を与え、目に見える形にする練習・・・すなわち書くことの練習が必要になる。
いや、それは本当に必要なのかは不明なのだが、とりあえず改めてこのブログの存在意義としてみたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月18日 (金)

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

Sr8379499

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節著・講談社現代新書)は、やさしい語り口でありながら非常に濃い内容の本で、これに刺激されいろいろ妄想してしまったので、その中からひとつ。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか?
その理由は、日本人が「科学」にだまされるようになったからである。
科学というのは「キツネは人をだます能力はない」ということを吹聴し、人々はそれにまんまとだまされているのだ。

と、そんな風に科学を否定すると「じゃあ、あんたは超科学とか、オカルトとか、新興宗教なんかを信じてるのか?」なんて言われそうだが、そんなことはないつもりだ。
そうではなく、人間というのは原理的に「真理」に到達することはできず、その意味において結局何かにだまされながら生きてゆかねばならない、ということを言いたいのだ。
現代において科学というのは、まるで「真理」のように理解されがちだけど、それは時代や世界背景といった限定的条件の範囲内で成立する錯覚でしかない。
しかしそれを錯覚だということに気づかないまま生活していても、さしたる支障もないから、その問題について考える人もあまりいないのである。
人間が「真理」に到達できない以上、人間には「何ものにもだまされない」という状態はありえない。
人間は原理的に「真理」でないものを信じ、そうしたものにだまされる運命にあるのだ。

しかし「人間はなにかにだまされるしかない」ということだけ知っていれば、自分は何にだまされるのかを、自分の意思で自由に選択することができる。
例えば、この本の帯に、高橋源一郎さんが「ぼくもたぶんキツネにだまされたりしないだろう。そして、それがこんなにも重要で、悲しいことだとはこの本を読むまで知らなかった」と書いてあるのだが、実はぼくにはキツネにだまされる能力があって、現にキツネにだまされたことがある。
これは人に言っても信じてもらえないし、自慢できる能力でもないのだが、このように帯に書いてあると自慢したくなる(笑)。

それは数年前、自宅の国分寺市から写真を撮るため自転車で所沢市まで行った帰りのことだった。
途中の東村山駅前を通り過ぎて、住宅の路地をしばらく走っていたら、再び東村山駅前にでてしまいびっくりしてしまった。
そのときぼくは「このあたりは何か神秘的な空気が漂う路地が続いていたし、これはきっとキツネにだまされたに違いない」と確信したのだった。
いや、普通に考えれば、これは単に道に迷っただけというのも分かる。
しかしその考えを採用すると、結局は「科学にだまされた」ことになってしまう。
そして、そのような科学にだまされないためには、キツネにだまされるしかないのだ。

ともかくぼくは、東村山駅を通り過ぎて国分寺市に向かっていたはずが、なぜか再び東村山駅に戻って来てしまった、という事実に直面していた。
そして、その事実を説明するに当たって「科学にだまされる」と「キツネにだまされる」の二者択一に迫られていた。
その結果、ぼくは「面白いほうの説明」を採用したのである。
これはオカルト的なものを信じる感覚とは、ちょっと違うのではないかと思う。
オカルトを信じている人は、オカルト的な世界観のみを信じて疑わない。
それは科学を信じ切ってそれを疑わない人と基本的に同じに思える。

そもそも科学には、「何に対しても疑いを持つこと」という定義が含まれる。
あらゆることに疑いを持つことで、それまでの迷信の世界から脱する、というのが科学の目的である。
だから科学そのものに疑いを持たずそれを妄信することは、かえって科学的ではないのだ。
では科学に対し、科学的に疑いの目を持つにはどうしたらよいのか?
その答えは実は簡単で、「科学は真理を解明するもの」と理解するのがいけないのであって、「科学は方法論のひとつである」と考えればいいのである。
だから科学について問題にすべきは「真理か否か」ではなく、「方法としての有効性」なのである。
科学というのは、その昔に信じられていた魔法や呪術よりも「方法として有効性」が優れるだけであって、それ以上の意味はないのだ。
科学が否定するところの「迷信」というのは、「方法論としての有効性」がないからというのが理由で、逆に方法論として有効であれば、科学を否定してオカルトを採用したとしても、それは十分「科学的」と言うこともできるはずだ。
そして、ぼくが東村山の路地で体験したことを「道に迷って損をした」と思うより、「キツネにだまされた」ことをリアルに実感するほうが、方法としては有効だと判断したのだ。

この『日本人はなぜキツネのだまされなくなったのか』には、上記のようなぼくの感覚が間違いでなかった、というようなことが書いてあった(様な気がする)。
いや、この本で著者は「私もキツネを見た」などとはこれっぽっちも書いてないが、「ありきたりな解釈はつまらないが、珍奇な解釈は面白い」というような意味のことを書いている。
実にぼくは、現実の確からしさを計る判定の基準に「面白いか否か」を導入する考えを暖めていたので、まさにその考に太鼓判を押された気分になったのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月12日 (土)

ブリコラージュをコンセプトにする

実は今度、あるウェブページに連載記事を書くことになった。
内容は、デジカメやレンズの工夫が中心になるのだが、それだけではいまひとつ普通でものたりない。
デジカメのことを語りつつ、そこに自分の言いたいことが乗せられるような、もうひとつの切り口が欲しいのだ。
そこで悩んだ挙句、その連載のコンセプトに「ブリコラージュ」というものを据えてみようと思いついた。

ブリコラージュについては以前にもこのブログに書いたのだけど、「既製品の断片を組み合わせ、新たな機能を持つ道具を生み出す素人工作」というような意味だ。
「というような意味」とあいまいに書いたのは、実際この言葉の内容は一言で表せるような単純なものではなく、いろいろ深い意味にもつながっているからだ。
だからネット上でブリコラージュの語を検索してみると、その人の立場によって、さまざまな使われ方をしてるようだ。
ぼくも、「自分の解釈するところのブリコラージュ」について書きたいことはたくさんあるのだけど、あまりそっちに傾いてしまうとウェブページの趣旨から外れてしまう。
そもそもが、カメラやレンズの工夫について面白おかしく読んでもらうのが趣旨で、ブリコラージュはそれを支える土台としての役目なのだ。
そこでまず、メインとなるレンズの改造記事を一通り書き上げた後、そこにブリコラージュとしての要素を加えることにした。
これにまた非常に悩みまくって、たかが数百字のテキストを加えるのに丸3日もかかってしまった。

この原稿を書くにあたり、ブリコラージュというものについていろいろ考えてみたのだけど、ぼくの思考そのものが多分にブリコラージュ的であったことを、改めて自覚したのだった。
ぼくは何をするにも、説明書や教科書を読んでちゃんとした勉強をするのが苦手で、生半可な理解を元に、後は適当で自分勝手な思い付きでやってしまうほうが、気が楽なのだ。
で、そういう方法の結果がうまくいくにせよ、失敗するにせよ、その頭の働きはブリコラージュ的ではないかと思う。

そのブリコラージュの対立概念が、エンジニアリングである。
エンジニアリングは、精緻な理論と技術の積み重ねにより、形のない材料から道具を作り出す手法である。
現代文明はエンジニアリングのおかげで大きく進歩したとされてるから、世間でもエンジニアリング的思考が支配的だといえる。
例えば、学校の勉強というのは、まず基礎から始まり、基礎を積み上げ、基礎の体系を完成させるとテストに合格するという風になっている。
そういうエンジニアリング的思考法を学んだ子供は、大人になって社会に役立つ立派なエンジニアになるだろうと、そういうわけである。
いやエンジニアリングに限らず、現代社会はあらゆる分野がエンジニアリング的に構成され、効率よく動くようになっているのである。

しかし、ぼくはそうした思考にはどうもなじめず、いろいろ悩んだ挙句の成り行きの結果、「フォトモ」あたりをきっかけに、ブリコラージュ的な思考に目覚めてしまった。
ブリコラージュとエンジニアリングは、どちらが優れた思考法というわけではなく、どちらも相補的に必要なのだと思う。
しかし現代はまだまだエンジニアリング志向に傾きすぎているようで、その意味で個人的に居心地が悪いと感じる。

そういえば、以前友人に「糸崎はろくに知りもしないで、知った風な口調でテキトーに間違ったことを言う」みたいな感じで非難されたことがある。
それはまさにその通りで、「知りもしないでテキトー」はいわばブリコラージュの方法論である。
それに対しその友人は「思想的なことを語るのならそれ相応の専門的勉強が必要で、それをしていない素人が聞きかじりの知識でもっともらしいことを言っても、意味がないし恥ずかしい」というように非難しており、これはまさにエンジニアリング的思考であり、結局この二人の口論はかみ合わないのである。
しかし今思えば、テキトーに言ったことであれ、ちゃんと勉強して言ったことであれ、その内容が「面白くて役に立つ」かどうかが問題なのだ。
だから友人のぼくに対する批判は、まず「言ってることがつまらなくて役立たず」であることが趣旨で、次にその理由として「知りもしないで適当に言ってるだけ」を挙げている、と見るべきだろう。
そう考えて、この二人の議論はようやく噛み合うようになる。
ぼくは心を入れ替えてエンジニアリング的思考でちゃんとした勉強をして・・・ではなく、ブリコラージュの素材となる知識の断片をより多く仕入れて、その友人が納得するような話をすればいいのである。

その友人はまた、「糸崎の話は、酔っ払のオヤジが政治について語るのと同じだ」というようにも言っていた。
つまりそういう人たちも、政治の勉強なんてぜんぜんしてないで、適当に聞きかじったことをつなぎ合わせているだけ、というわけだ。
しかしこうした酔っ払いの席や世間話のレベルでの政治の話が、果たしてブリコラージュ的なのかというと、ちょっと違うような気がする。
それはぼく自身がそういう話に加わりたくないというのもあるが、そもそも彼らは政治の話がしたいのではなく、「世間話」がしたいのである。
そして、世間話をするための教科書というのはないけれど、多くの人は世間から「世間話の仕方」を読み取りながら熱心に勉強し、その世間話の範囲内で決まった内容を話しているのである。
だから皆が世間話をしてるところに、うっかりブリコラージュ的な思い付きを口にしようものなら、たちまち怪訝な顔をされてしまうだろう。
もちろんぼくは、そういう世間の決まりごとを学ぶのも苦手で、だから世間の傍らに生息する虫の写真などを撮っていたりする。

世間などというものは、あいまいで不可視なものだから、一見エンジニアリング思考のようなきっちりいたものとは別物のように思える。
しかし先に述べたように、世間の人々は子供の頃から学校で、エンジニアリング的思考を学んでいるのである。
だから現代の世間というものが、エンジニアリング的思考で成立している可能性が十分考えられる。
例えば、何か人間関係でトラブルが起きたとき、ぼくは当事者間での具体的な状況に即して話し合えばいいのに、とつい思ってしまう。
つまり具体的状況から出発し、そこから何かを考える、というのはブリコラージュ的思考である。
それに対し世間一般は、トラブルに対しての具体的状況は無視し、それをなるべく類型なものとして捉えようとする。
そして、そこに類型的な解決法を与え、ともかく「丸く」収めようとする。
これはまさに、一般的法則から具体的事例をコントロールしようとする、エンジニアリング思考とは言えないだろうか?
まぁ、このあたりは思いついたばかりで、また改めてちゃんと考えて書くかもしれない。
いずれにしろ、ぼくの言うことがつまらないと非難した友人は、その「具体的状況」に対して率直にリアクションしてくれたわけで、大変にありがたいと感謝している(皮肉ではなく)。
反対にぼくの話を面白いといってくれる人たちも何人かいるのだけど、その中には「ここで面白いねと言っとけば、世間的に無難だろう」と判断している人がいないとも限らない。
ブリコラージュとエンジニアリングは対立概念ではあるけれど、対立概念の境界線はどれもあいまいで混乱してるものなのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年2月 »