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2008年1月24日 (木)

「構造主義」を誤解していた

今回は「なるべく誰でも分かるように」と言う書き方はあきらめて、自分のためのメモとして思いついたことを書こうと思う。
これはいずれ、何らかの分かりやすい形にまとめるかもしれない。

現代思想の入門書を読んできると「脱構築」と言う概念が必ずと言っていいほど出てくるが、これがどうもいまひとつ良くわからなかった。
正確に言うと、「構造主義」と「脱構築」の違いが良く分からない。
ぼくは「構造主義」については何冊か本を読んで理解したつもりでいるのだが、その構造主義の問題点を克服した「ポスト構造主義」の手法と言われる「脱構築」について、どうもいまひとつピンと来ていなかった。

それが、高田明典さんの「世界をよくする現代思想入門」を途中まで読んで、ハタと気づいたのだが、ぼくが「脱構築」を理解できなかったのは、そもそも「構造主義」そのものを大きく誤解していたからだったのだ。
早い話、ぼくは構造主義だと思って理解していたことは、構造主義ではなく「脱構築」だったのだ。
だから「脱構築」の解説を読んでも、それが構造主義とどう違うのか理解できなかったのは当たり前なのだ。

構造主義と脱構築は共に、「問題のある状態を理想状態に導くための手法」には違いないのだが、何をもって解決とするかの目標に違いがある。
すなわち構造主義は、理想状態と「相同形」の解決策を提示しようとするのに対し、脱構築は理想状態に対し「相似形」の解決策を提示することを目標にしている。

ぼくは赤瀬川原平さんが提唱する「超芸術トマソン」を知ったのと、ほぼ同時期に構造主義の概念を知り、「トマソンは構造主義の手法を芸術に応用したものである」と確信したのだが、この解釈はどうも間違いだったことが判明したのだ。
「超芸術トマソン」と芸術作品は、確かにいくつかの「構造」を共有し、その共有された「構造」を元に「超芸術トマソン」は創造されており、そのこと自体に間違いはないと思われる。
問題は、そのように創造された「超芸術トマソン」は、そのほかの芸術作品とは「相同形」ではなく、あくまで「相似形」でしかないということだ。
「どうしたら新たな芸術作品が創造できるのか?」と言う問題に対し、「超芸術トマソン」と言う芸術作品の相似形、すなわち「似てるけど違うもの」を提示したのでは、構造主義的な問題解決とは言えないのだ。

構造主義的な手法を、本当の意味で芸術の創作に応用した例は、村上隆さんではないかと思う。
村上隆さんは「日本の美術が世界的に評価されるにはどうしたらいいか?」という問題設定をし、「世界的に評価されている作品は、アメリカの美術マーケットで法外な価格で取引されている」という「構造」を見出し、その「構造」に操作を加えることで、自身の作品が世界的に評価されるまでに至ったわけで、これはまさに構造主義的手法の応用と見ることができる。
ここで重要なことは、村上隆さんの作品が、その他の世界的に評価されている美術作品と「相同形」であると言うことだ。
村上隆さんの作品は決して「美術作品と似ているが違うもの」ではなく、美術作品そのものであり、それを生み出すため「構造」を利用した手法はまさに「構造主義」なのである。

ところが、現代思想の入門書でも指摘されているように、構造主義には限界点がある。
それは、構造主義的手法は「何を問題とし、何を理想状態とするか」という前提が共有された人間同士では成立するが、そのような前提を共有できない人々に対しては無効になってしまう、ということだ。
村上隆さんの例で言うと、「法外な値段で取引されることと、美術の本質的価値は関係ない」と思う人や、「アメリカの美術マーケットの評価は当てにならない」と言うような人も少なからずいて、そのような人たちに対して村上さんが提示した「解決策」は無効になってしまうのだ。
これは村上隆さんの解決策に欠陥がある、と言うことを意味するわけではなく、そもそもある問題提起に対し「万人」が納得する解決策などないのが当たり前なのだ。
その当たり前を踏まえ「できるだけ多くの人が納得できる解決策」を模索するための、手法の一つが「構造主義」と言える。
構造主義はきわめて合理的で有効な手法だが、万能ではない。
それは世の中に「万能の手法」なんてものがありえないのと同じ意味である。
だから構造主義の手法でうまくいかない場合、それを補う別の手法が必要であって、それが「脱構築」なのだ。

「脱構築は」構造主義と違い、問題解決の理想状態とは「相似形」の解決策を模索する手法である。
例えば、「空腹」という問題に対し、「食べ物を調達する方法」を模索するのが「構造主義」である。
しかし、食べ物が絶望的に調達不可能な場合はどうしたら良いのか?
その場合は食べ物のことはとりあえずあきらめて、食べ物の「相似形」のもの・・・例えば「酒」を調達すれば良いのである。
酒を飲んでも空腹は満たされないが、とりあえず酔っ払って良い気持ちになり、空腹も忘れられるかもしれない。
つまり「空腹を満たすために食べる」という関係性の構築を脱し、「酒を飲んで酔っ払う」という別の関係性を新たに構築し、それを問題の解決とするわけで、これこそが「脱構築」なのだ。

他の例を挙げると「カノジョが欲しい」という問題に対し、実際に女性と交際する手段を模索するのが「構造主義」で、実際の女性との交際はあきらめて「アニメの女の子に恋愛感情を抱く」という手段を採用するのが「脱構築」である。
「アニメの女の子に恋愛感情を抱くなんてのは現実逃避だ」と非難する人もいるだろうが、当人はその現実の関係性の構築を脱し、別の現実の関係性を構築してるので、そんな非難も意に介さないのだ。
こんな例を挙げると「脱構築って、そんなに有効な手段なの?」と疑問を持たれそうだが、もちろんこの手法もうまくいくときといかないときがある。
肝心なのは、何か問題に行き詰ったときに、その問題の価値観の中で固執するのではなく、それを捨ててまったく別の価値観へジャンプすることである。
その結果、本当に気が楽になりスッキリすることもあるだろうし、ハタからはどう見ても不幸にしか思えない場合もあるだろう。
それが「脱構築」の有効性でもあるし限界点でもある。

さて、再び「超芸術トマソン」だが、これが「新たな芸術を生み出す」という問題に対する構造主義的解決でないとすれば、それは他でもなく「脱構築」による解決策だと見ることができる。
ここで赤瀬川さんの考えに沿ってみると、あまりに芸術を欲するあまり、「もはやどんな芸術にも満足できない状態」に陥り、それゆえに「芸術に似ているけど違うもの」という「脱構築」の解決策が有効に機能したわけだ。
トマソンは芸術と相似形であり、それは芸術を「脱構築」して生じたものなのだ。
トマソンはまた、芸術と人間との間に、新たな関係性を構築している。
その関係性は「芸術は求めるが、自分で作品は作らない」だったり、「芸術は鑑賞者が見ることで創造され、作者は必ずしも必要ではない」だったり、「芸術の意図なく製作されたもののほうが、むしろ芸術的である」だったりするわけだ。
これらの関係性は、実は芸術にも含まれるものではあるのだが、しかしトマソンは「芸術は芸術の意図を持った芸術家により製作される」という関係性を排除してしまっている。
それゆえトマソンは芸術作品とは「似て非なるもの」だが、同時に「新たな芸術の定義」を創造している。
このトマソンという「脱構築」が有効な人たちにとって、それは目が覚めるような転換点になるかもしれないが、あくまで「芸術」に固執する人々にとってそれは何の意味もなさないだろう。
実際トマソンを「脱構築」として評価する人はほとんどいないのではないかと思う。

それで、ぼくの提示する非人称芸術だが、これはもちろんトマソンの「脱構築」を引き継いでいる。
改めて考えると、ぼくの作品はフォトモなどの技法も含めて、もっぱら「脱構築」で作られているといえるのかもしれない。
それでぼくの勘違いというのは、構造主義と脱構築は「ソシュールの言語学」を応用した手法であり、それで自分の中ではゴッチャになっていたのだった。
まぁ、理屈は勘違いしたとしても結果として作品ができていれば問題ないのだが、そのままではコンセプトの方が行き詰ってしまうだろう。
これでようやくスッキリした気分になった。
ぼくの「非人称芸術」に対する反応がイマイチなのは「言い足りない」ということもあるが、それが「芸術と似て非なるものでしかない」と捉えられがちなのだ大きな理由で、そう考えると仕方のないことだ。
それに対しフォトモをはじめとする写真作品は、他の芸術作品と相似形で、だからこの分だけは評価の対象になるのである。

ところで、ここまで書いてきてなんだが「構造主義は相同形的解決を目標とし、脱構築は相似的解決を目標とする」というのは、実は自分が読んだどの本にも書いてあったわけではなく、自分なりの理解を言葉にしたものに過ぎない(単に読んだことを忘れてるだけかもしれないが)。
だからこの解釈もまた「早とちり」の間違いである可能性がある。
例えば「問題に対し、相同形と相似形の二種類の解決目標が設定できる」ということは言えたとしても、それは「脱構築」の概念とまったく無関係だった、なんてこともあるかもしれない。
そうした大間違いは専門家だったら恥ずかしいのだろうが、ぼくはあくまで門外漢の素人なので「恥知らずでかつ自由」でいられるのだ(笑)

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コメント

超わかりやすく、スッキリしました!!

投稿: thedogyear | 2013年9月 3日 (火) 09時15分

ずいぶん前の文章ですが、読んでいただき有難うございます。
自分でも改めて読んでみましたが、こんな事書いたのか…と言う感じで、現在とは考え方やキャラがちょっと違いますね…
ともあれ、何かしかお役に立てたようで良かったです。

投稿: いとさき | 2013年9月 3日 (火) 09時37分

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