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2008年1月18日 (金)

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

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『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節著・講談社現代新書)は、やさしい語り口でありながら非常に濃い内容の本で、これに刺激されいろいろ妄想してしまったので、その中からひとつ。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか?
その理由は、日本人が「科学」にだまされるようになったからである。
科学というのは「キツネは人をだます能力はない」ということを吹聴し、人々はそれにまんまとだまされているのだ。

と、そんな風に科学を否定すると「じゃあ、あんたは超科学とか、オカルトとか、新興宗教なんかを信じてるのか?」なんて言われそうだが、そんなことはないつもりだ。
そうではなく、人間というのは原理的に「真理」に到達することはできず、その意味において結局何かにだまされながら生きてゆかねばならない、ということを言いたいのだ。
現代において科学というのは、まるで「真理」のように理解されがちだけど、それは時代や世界背景といった限定的条件の範囲内で成立する錯覚でしかない。
しかしそれを錯覚だということに気づかないまま生活していても、さしたる支障もないから、その問題について考える人もあまりいないのである。
人間が「真理」に到達できない以上、人間には「何ものにもだまされない」という状態はありえない。
人間は原理的に「真理」でないものを信じ、そうしたものにだまされる運命にあるのだ。

しかし「人間はなにかにだまされるしかない」ということだけ知っていれば、自分は何にだまされるのかを、自分の意思で自由に選択することができる。
例えば、この本の帯に、高橋源一郎さんが「ぼくもたぶんキツネにだまされたりしないだろう。そして、それがこんなにも重要で、悲しいことだとはこの本を読むまで知らなかった」と書いてあるのだが、実はぼくにはキツネにだまされる能力があって、現にキツネにだまされたことがある。
これは人に言っても信じてもらえないし、自慢できる能力でもないのだが、このように帯に書いてあると自慢したくなる(笑)。

それは数年前、自宅の国分寺市から写真を撮るため自転車で所沢市まで行った帰りのことだった。
途中の東村山駅前を通り過ぎて、住宅の路地をしばらく走っていたら、再び東村山駅前にでてしまいびっくりしてしまった。
そのときぼくは「このあたりは何か神秘的な空気が漂う路地が続いていたし、これはきっとキツネにだまされたに違いない」と確信したのだった。
いや、普通に考えれば、これは単に道に迷っただけというのも分かる。
しかしその考えを採用すると、結局は「科学にだまされた」ことになってしまう。
そして、そのような科学にだまされないためには、キツネにだまされるしかないのだ。

ともかくぼくは、東村山駅を通り過ぎて国分寺市に向かっていたはずが、なぜか再び東村山駅に戻って来てしまった、という事実に直面していた。
そして、その事実を説明するに当たって「科学にだまされる」と「キツネにだまされる」の二者択一に迫られていた。
その結果、ぼくは「面白いほうの説明」を採用したのである。
これはオカルト的なものを信じる感覚とは、ちょっと違うのではないかと思う。
オカルトを信じている人は、オカルト的な世界観のみを信じて疑わない。
それは科学を信じ切ってそれを疑わない人と基本的に同じに思える。

そもそも科学には、「何に対しても疑いを持つこと」という定義が含まれる。
あらゆることに疑いを持つことで、それまでの迷信の世界から脱する、というのが科学の目的である。
だから科学そのものに疑いを持たずそれを妄信することは、かえって科学的ではないのだ。
では科学に対し、科学的に疑いの目を持つにはどうしたらよいのか?
その答えは実は簡単で、「科学は真理を解明するもの」と理解するのがいけないのであって、「科学は方法論のひとつである」と考えればいいのである。
だから科学について問題にすべきは「真理か否か」ではなく、「方法としての有効性」なのである。
科学というのは、その昔に信じられていた魔法や呪術よりも「方法として有効性」が優れるだけであって、それ以上の意味はないのだ。
科学が否定するところの「迷信」というのは、「方法論としての有効性」がないからというのが理由で、逆に方法論として有効であれば、科学を否定してオカルトを採用したとしても、それは十分「科学的」と言うこともできるはずだ。
そして、ぼくが東村山の路地で体験したことを「道に迷って損をした」と思うより、「キツネにだまされた」ことをリアルに実感するほうが、方法としては有効だと判断したのだ。

この『日本人はなぜキツネのだまされなくなったのか』には、上記のようなぼくの感覚が間違いでなかった、というようなことが書いてあった(様な気がする)。
いや、この本で著者は「私もキツネを見た」などとはこれっぽっちも書いてないが、「ありきたりな解釈はつまらないが、珍奇な解釈は面白い」というような意味のことを書いている。
実にぼくは、現実の確からしさを計る判定の基準に「面白いか否か」を導入する考えを暖めていたので、まさにその考に太鼓判を押された気分になったのだった。

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