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2008年1月23日 (水)

改めて、このブログの存在意義

ぼくは基本的に読書は苦手なのだが、それでもここ最近は結構本を読むようになった。
ぼくが読むのは現代思想の入門書が多く、小説などのフィクションはほとんど読むことがない。
その理由は、ぼくは基本的に読書が苦手なので、どうせ読むんだったら役に立つ本を読みたいからである(現代思想の専門書は難しくて読めない)。
それでは現代思想の入門書がなんの役に立つのかと言うと、それは自分の作品製作の役に立つのである。
ぼくは「フォトモ」とか「ツギラマ」とか「路上ネイチャー」とかさまざまなシリーズの作品を制作するが、それらはどれもあるコンセプトによって製作されている。
そしてそのコンセプトは、現代思想の入門書を参考にして、自分なりに構築したものなのだ。

なぜコンセプトに基づいて作品を制作するのかというと、「ネタ切れを防ぐ」と言うのが理由のひとつだ。
作品と言うものは、あくまで感覚で製作するものではあるが、しかし感覚だけに頼っていると、そのうち「ネタ切れ」という状況を迎える可能性がある。
事実、そのように現れては消えてゆく「一発屋」の作家は後を絶たないように思える。
だが、一度感覚に基づいて成功した作品を自己分析して、そこに何らかのコンセプトを見出すことができれば、そのコンセプトに基づき次の新作を製作することができるかもしれない。
そして、その新作からも別の新たなコンセプトを見出すことができれば、さらにまた次の新作を製作することができ・・・と、そうやって続けていけば「ネタ切れ」の問題を回避できる可能性がある。
もちろん、その方法は必ずしも成功する保証はないし、成功したとしてもそれがいつまで続くかも分からない。
しかし、ぼくは今のところとりあえずその方法で、何とか「ネタ切れ」を回避できているのではないかと思う。
だから、ぼくが現代思想の入門書を読むのは「作品制作のため」が主目的で、「現代思想を学ぶ」は副次的要素でしかない。
むしろ、作品がちゃんと成立してさえいれば、現代思想の理解が生半可で間違いであったとしても、一向に構わないわけだ。

しかし、ぼくが現代思想を学び、コンセプトに基づき作品を制作する理由は、他にもある。
それは、「美術作品としてのステイタスを獲得する」というものだ。
早い話これは「カッコ付け」でしかないのだけど、しかし美術と言う分野は本来的にステイタスが重要と言うか、ある意味「カッコ付けてナンボ」の世界という見方もできる。
自分の作品の美術としてのステイタスが上がれば、自分のプライドも満たされるし(これは本来どうでもいいことだが)、何より生活の安定につながる可能性がある(こちらは切実だが、保証の限りではない)。
美術としてのステイタスを上げる方法は色々あるだろうが、ぼくは「現代思想というステイタスの高い分野のお墨付きをもらう」という方法を(成り行き上)採用することにしたのだ。
実はこの意味でも、ぼくの現代思想の理解は生半可でも構わない、と言えるのだ。
つまり、コンセプトがどうであれ作品がちゃんと成立してさえいれば、現代思想の専門家の誰かが「あの作家のコンセプトは多少いいかげんだが、意外とスルドイところを突いてる・・・」とか何とか、お墨付きをくれたりする可能性があるわけだ。
なぜなら現代思想とは、ただ複雑で難しい理論を考えるだけの学問ではなく、最終的には何らかの「実践」に役立つ方法を考える学問であるからだ(と言うようなことが現代思想の入門書に書いてあった)。
だから作品制作という「実践」を伴うぼくのコンセプトは、多少整合性は欠けても何らかの「確からしさ」があり、それが専門家の誰かの目に留まれば、一気にステイタスも上がる・・・と言うようなことを妄想していたのであった。
ところが、実際にそれは妄想であって、ぼくが世に発表した作品について「作品としての評価」はあっても、「コンセプトについての評価」は今のところほとんど得られていない。
それどころか、「あの人は作品はまぁまぁいいのに、知ったかぶりして余計なこと言うのがどうも・・・」などと一部でヒンシュクを買ってるフシもある。

この現状に対処する方法のひとつは、他人の忠告どおり、コンセプトとか現代思想とか余計なことを言うのは一切やめて、作品のみで勝負することだ。
そもそも、すでにステイタスを獲得している作家のほとんどは、コンセプトなんかでお墨付きをもらったりはしていないのだ。
だから「コンセプトでお墨付きをもらう」というのを、美術としてのステイタスを獲得する方法として考えること自体が、おかしなことなのだ。

しかしどうもぼくは、自分の作品が自分でもすごくいいと思っても、実のところ作品それだけで成立し得ないのでは?と感じているのも事実だ。
作品を黙って見せるだけではどうにも不安で、つい「コンセプトが・・・」などとフォローを入れないと気が済まない。
それに、現代思想の入門書は読んでいて面白いし、それを元に自分なりのコンセプトを構築することは、形は違えど「ものづくり」に違いなく、作品制作と同様に面白い作業なのだ。
だから、ぼくがこれからやるべきことは作品制作と平行して、コンセプトも人に頼らず自力でちゃんとした形に構築するよう試みることだと、改めて思うようになったのである。

作品製作も、コンセプトの構築も、自分の中にある何か「モヤモヤしたもの」を、他人に見えるような具体的な形に変換する、と言う点では同じだと言える。
その意味で考えると、ぼくは作品ではそれを比較的ちゃんとやってきたけど、コンセプトの方はちょっとおざなりにし過ぎたといえるだろう。
つまり作品として形になっている量に比べ、コンセプト(文章)の方は形になっているものが極端に少ないのだ。
この少ない形のコンセプトの方で「評価してもらおう」と思うこと自体が、土台無理なのだった。
もちろん、ぼくはあくまで読書が苦手で、現代思想に関しては素人であり得ない。
専門はあくまで、作品製作の方である。
しかしそうだとしても、作品と共にコンセプトもセットで評価されたいと思っている以上、そのコンセプトの方も今よりもっとハッキリした形にあらわす必要があるだろう。
そのためにはとくにかく読書を重ね、自分の中の「モヤモヤしたもの」に言葉を与え、目に見える形にする練習・・・すなわち書くことの練習が必要になる。
いや、それは本当に必要なのかは不明なのだが、とりあえず改めてこのブログの存在意義としてみたいと思う。

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