メガゾーン三丁目
『メガゾーン23』というアニメがある。
ぼくはこのアニメを大学に入学した頃に劇場で見て、大変に衝撃を受けてしまった。
とはいっても、ぼくが衝撃を受けたのは、ぼくがまだ何も知らない新入生だったからで、今振り返ると大した内容のアニメではなかったと思う。
いや実は、つい最近「ニコニコ動画」で『メガゾーン23』を久しぶりに見てしまったのだけど、思った以上にストーリーがいいかげんで、こんなものに感動していた自分が情けなくなってしまった(笑)。
しかし、内容はともかく話はテンポ良く進み、絵も上手くて良く動くから、アニメとしては楽しめる作品ではないかと思う。
(そうはいっても「18禁」だから、間違って親子で鑑賞しないように(笑)
『メガゾーン23』は、作品が作られた当時の80年代の東京23区が舞台で、それがタイトルの由来になっている。
それで、バイク好きの少年である主人公が、ふとしたことからロボットに変形可能なバイク「ガーランド」を手に入れることからストーリーが始まる。
(ぼくは当時流行っていた「変形ロボ」が大好きで、このガーランドもバイクからロボットへアニメ的なウソ無しでちゃんと変形するようデザインされていて、こういうところにシビレてたわけだ。)
そんなガーランドを手に入れた主人公は、ガーランドを秘密裏に製造したナゾの組織に追われることになる。
それで東京の街を舞台にカーアクションが繰り広げられるのだけど、80年代当時の東京の街並みが細密に描かれて、なかなか楽しめる。
アクションだけでなく、日常の描写もけっこう細かく描かれて、こういうところは当時よりも今見たほうが楽しめるかもしれない。
例えば、主人公がナゾの組織に追われてる最中、友達(映画監督志望)と「ガーランドを使って自主映画を作ろう」ということになるのだけど(めちゃくちゃなストーリーだ・・・)、そのときに使われるのがビデオではなく「8mmカメラ」だったりする。
今は一般向けのムービーカメラはビデオが当たり前だけど、ビデオカメラが普及し始めたのは80年代の終わりごろからなので、『メガゾーン23』の時代は8mmフィルムが当たり前だったのだ。
自主映画作りのシーンは結構執拗に出てきて、エディターで編集するシーンもあったりするのだが、今の若い人が見ても意味が分からないかもしれない。
ともかく、ガーランドに乗った主人公は、ナゾの組織に追われながらも自主映画を撮影してゆくのだがw、ふとしたことで高速道路から分岐したナゾの地下通路に迷い込んでしまう。
そのナゾの地下通路はナゾのエレベーターへとつながっており、ナゾのエレベーターはガーランドに搭乗した主人公を乗せてどこまでも「上昇」してゆく・・・
そしてエレベーターの着いた先は・・・なんと宇宙空間で、つまり主人公が暮らしていた「東京23区」は、実は巨大宇宙船の内部に作られた東京23区そっくりの「レプリカ」だったのだ!
その宇宙船の名前が「メガゾーン23」で、実は地球文明は500年前に滅亡しており、「メガゾーン23」はそこから脱出した移民宇宙船の一隻だったのである。
それで「メガゾーン23」の管理コンピュータは、「人類がもっとも幸せだった時代」である1980年代の街並みを船内に再現し、そこに人々を住まわせたのである。
「メガゾーン23」の住人はみな宇宙船の存在を知らず、管理コンピューターによって「1980年代の東京都民である」と思い込まされており、例えば地方や海外に旅行した人は「旅行した」という記憶をインプットされて戻ってきたりしている。
一方で、「メガゾーン23」を管理する人々もいて、その人たちは当然のことながら宇宙船のことも、管理コンピューターのことも、虚構の街のことも知っている。
そして、主人公を追っていたナゾの組織とは、「メガゾーン23」の管理人組織で、「メガゾーン23」を宇宙から攻撃する敵に備えて軍隊を組織し、その兵器としてロボット「ガーランド」を製造したのだ。
でまぁ、大学当時のぼくが衝撃を受けたのは「自分たちが住んでいる街は、実は宇宙船の内部だった」ということが判明するシーンなのだけど、この設定には元ネタがあって『メガゾーン23』のオリジナルではないし、SFとしてはもはやありきたりだろうと思う。
しかしそういう設定を初めて見たぼくは、非常にビックリしてしまったのだ。
哲学には「独我論」という考え方があり、これは「目に見えたり手で触れたりできる現実世界は、人間の五感を通してしか確認できないから、現実と思えるものは全て虚構で、自分が作り出した夢のようなものかもしれない」というようなことである。
この「独我論」の考えでいうと『メガゾーン23』の設定は十分ありえるし、『メガゾーン23』というアニメは「独我論」の可能性をリアルに描写している、ともいえるのではないかと思う。
「独我論」は、現代思想の世界では成立しないことが証明してしまったらしいのだが、「全てを疑って考える」ということの出発点基本であることに変わりはないだろう。
ぼく哲学や思想は得意でもなんでもないし、当時「独我論」なんて言葉も知らなかったのだけど、「自分の根本」を揺るがすようなSF的設定に、大いに反応してしまったのだ。
『メガゾーン23』はその設定を知ると、東京の街や日常生活の描写がやけに細密なことの理由も分かってくる。
日常の描写が細かくてリアルだからこそ、「虚構の街だった」という設定が生きてくるのだ。
そして、「虚構の街だった」という劇中の設定は、「アニメにより描かれた東京の街並み」という現実と奇妙にオーバーラップする。
東京のようなありきたりな街並みは、普段は価値のないものとして見過ごされているが、「虚構の街だった」ということが分かれば、同じものでも意味が違ってくるだろう。
日常的な街並みにさしたる価値を見出せないのは、そこに自分が生活者として埋没してるからだろうと思う。
しかし「虚構の街だった」と分かってしまうともうその中には埋没できないから、一歩引いた立場からの「観察対象」になるに違いない(パニックになる人もいるだろうが)。
もちろん「虚構の街だった」というのは現実的には有り得ないのだけど、「現実そっくりに描かれたアニメ」というのもまた、似たような意味で観察対象となる。
観察対象とは「見て面白いもの」の別名だから、『メガゾーン23』には二重の意味での面白さがあり、なおさらアニメの「絵」に見入ってしまうのだ。
こんなふうに書くと『メガゾーン23』が上質なSFアニメのように誤解されそうだが、基本はあくまで「バカな内容の楽しいアニメ」だから、過剰な期待はしないほうがいいだろう(笑)
しかし、「同じ街並みがまったく別の価値観で見えてしまう」という感覚は、今振り返るとぼくの「非人称芸術」のコンセプトに何らかの影響を与えていたのかもしれない。
実際、ぼくが「非人称芸術」として街を観察する視点は、「虚構の街」であることが判明した街を観察する視点と似たところがある。
例えば、ぼくは「街の歴史」や「建物の言われ」などにほとんど興味を持たないのだけど、もし「虚構の街だった」ことが判明したとすれば、そのような歴史的事実も全て虚構として無意味になってしまうだろう。
「歴史という物語」が無効となれば、あとはその対象の「造形性」のみが問題となり、その視点の先に「非人称芸術」というコンセプトも生じるのである。
ぼくは街中の人工物に対し、その歴史を含む「それが何であるか」という意味を頭の中から排除し、純粋な「造形性」のみに注目し、それを「フォトモ」で再現している。
フォトモとして表現された街はいわば「虚構の街」だから、フォトモを見る人にも「虚構の街」を観察することの楽しさが、何となくにせよ伝わっているのではないかと思う。
さて、この記事のタイトルは『メガゾーン三丁目』となっているが、『メガゾーン23』には新宿や原宿は出てきても、特に「三丁目」は出てこない。
この「三丁目」は実は映画『ALWAYS三丁目の夕日』のことで、このDVDを昨晩見たのだった。
『ALWAYS三丁目の夕日』は、昭和30年代の東京の下町で暮らす人々を描いた映画で、当時の街並みをセットとCGを駆使して、ほぼ完全に再現したことで話題になった。
DVDに収められたメーキングビデオを見ると良く分かるが、ロケで撮られたように思われた街並みも、ごく一部がスタジオ内に作られたセットで、遠景や空はCGで描かれているのだ。
そして、そんな『ALWAYS三丁目の夕日』を見ながら、ふとこの映画が『メガゾーン23』の続編のSFとしても見られることに事に気付いたのだ(笑)。
『ALWAYS三丁目の夕日』は街並みが全てレプリカで再現されているから、これを「地球文明滅亡後に脱出した宇宙船内部に作られたレプリカの街に暮らす人々」という設定として解釈しても矛盾はない。
アニメ『メガゾーン23』の設定では、地球を脱出した宇宙船は「メガゾーン23」以外にも何隻かあるらしいから、宇宙船「メガゾーン三丁目」があってもおかしくない。
そして、「メガゾーン23」の船内が「人類がもっとも幸せだった時代」として1980年代に設定されているように、「メガゾーン三丁目」の船内は昭和30年代に設定されているのだ。
あと他にも地球を脱出した宇宙船はあるだろうから、例えば船内が江戸時代に設定された「メガゾーン水戸黄門」というのもあって、ここでは週一回黄門様が印籠を出すことを、500年もの間繰り返されているのである。
たまに黄門様が世代交代することもあるが、管理コンピューターに精神操作された住人は、これにまったく気付かないのだ・・・
と、そのように妄想を暴走させるのも、映画やドラマを見る楽しみ方のひとつなのだ(笑)。
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