「知識だけあるバカになるな!」仲正昌樹
この本は、人文系学問の「入門の入門」として書かれている。
その「入門」ぶりは徹底していて、まず表紙が漫画でとっつきやすく、パラパラめくると本の厚みに対し文字が大きく、つまり文章量が少なく読みやすそうだと思わせる。
もちろん、じっさいに内容は平易で分かりやすい上に、特に重要と思われる箇所は太字で表記され、つまりぼくのようなバカな読者に対し、徹底的に特化しているのである。
仲正さんはこれまでにも『なぜ「話」は通じないのか――コミュニケーションの不自由論』や『みんなのバカ!』『ネット時代の反論術』など、世のバカ者に対し「お前らちょっと落ち着け」的な内容の本を何冊か出しているが、今回はその手法がさらに進化し洗練している感じだ。
この本では、「入門の入門」として「教養とはなにか」について語られている。
いま、「教養がある人」といえば一般的に「何でもいろんなことを知ってる人」、「雑学がある人」などを指すが、本来の「教養」はそういう意味ではない。
「本来の教養」とは、大学の専門課程に進む前に学ぶ「教養課程」の「教養」を指す。
大学の教養課程は、専門外の「雑学」を学ぶカリキュラムではもちろんない。
そうではなく、専門課程に進む以前の「学問の基礎」を学ぶのが「教養課程」なのだ。
つまり「教養」とは「学問の基礎」のことであり、それは「理性的に他人とコミュニケーションしながら、自分の考えを深める技術」ことなのだ。
だから本来の意味での「教養のある人」とは、その人が何をどれだけ知っているかに関わらず「理性的に他人とコミュニケーションしながら、自分の考えを深める技術」を心得た人、ということになる。
これを逆さに読むと「感情的で他人と上手くコミュニケーションできず、自分の考えが深まらない人」が、「教養のない人」ということになる。
しかし、そんな人がいたらトラブルメーカーとして目立つだろうし、日本では数が少ないかもしれない。
日本で多いのはむしろ「表面的に穏やかな感情を他人に示すことで、本質的なコミュニケーションを避け、自分の考えを深めないよう済ませる技術」に長けた人だろう。
もちろん、それが一概に「悪い」とは言えず、実際そういう人は周囲から好かれるし本人も幸福だろうと思う。
そういう人の生き方は、いってみれば自然(=ジネン。これについては後日書きたいが、とりあえずは文字通りの自然の意味でも構わない)の流れに身を任せているのだ。
しかし、自然の流れはいい結果も悪い結果ももたらすわけで、その「悪い結果」に対し自分が、もしくはみんなで「何とかしよう」と思ったとき、理性的に考える技術である「教養」が役に立つのだ。
そんなときに感情的に振舞ったりしたら、結局は元の自然に飲み込まれてしまい、悪い結果に流されてしまうだろう。
ともあれ、大学の教養課程には「ゼミ」と呼ばれる形式の授業があり、そこでは「討論」の仕方を学ぶのだそうだ。
ゼミの討論とは、お互いに「思っていること」を闇雲にぶつけ合うことではない(それは単なる口喧嘩に過ぎない)。
そうではなく、まず何を明らかにするかの議題をハッキリさせ、そのための「理論的根拠」をお互いに示し合いながら、より妥当な結論を導き出そうと試みるのである。
この場合の「理論的根拠」とは、「理論的に考え抜かれた偉大な先人たちの言葉」であり、つまり「自分の言葉」ではない「他人に言葉」なのだ。
そもそも、人間は他人と共通する「言語」で考えるから、どうあがいても「他人の言葉」で考えざるを得ない。
たとえ「自分の言葉」で考えているつもりでも、よくよく検証するとそれは過去のある時期に聞きかじった「他人の言葉」の集合で、そのことをすっかり忘れ「自分の言葉」だと思い込んでるだけで、そういう人は「教養がない」のである。
「教養がある」というのは、自分が「他人の言葉」を借りて考えざるを得ないことを自覚し、それゆえに「偉大な先人たちの言葉」を借りるのだ。
「人間は他人の言葉を借りて考える」というようなことは、内田樹さんの本にもさんざん書かれていたけど、この本ではもっと分かりやすく「考えるとは、他人の文章をコピペするようなものだ」と表現している。
大学の専門課程で学ぶことは、コピペの元となる大量の文章のコピーだろう。
そうやって、頭の中に大量の文章のコピーが蓄積されると、それを場合に応じて適宜ペーストできるようになる。
元は他人の文章のコピーだったものが、その場に応じて部分的にペーストされていくから、そこで始めて「自分オリジナルの言葉」になるのである。
大学の専門課程に進む以前の教養課程の学生は、コピーの量がまだ少ないから、アレンジなしの「他人の言葉そのまま」で討論を進めるしかないのだが、練習だからそれでいいのだ。
しかし「教養」そのものをマスターしそびれた人間の中には、「他人の言葉のコピーを頭に蓄積する」のをおろそかにするから、たまにちょっと本を読んだだけで「分かったつもり」になり、「同じ内容の持論」を何回も繰り返し周囲に煙たがられる。
そして実に、自分にもそういう傾向があったことを、改めで自覚させられたのである(笑)
しかし、そのように反省したところで、自分にはできることとできないことがある。
自分に教養がないことを自覚したなら、それを見に付ける努力をすべきなのだが、それは「自分のできる範囲で」という限定が付く。
端的に言って、教養を身につけるにはできるだけたくさん読書をし、さまざまな種類の「他人の考え」を知ることが必要だ。
「他人の考え」を知れば知るほど、「自分の考え」の検証も、より確からしいものになる。
しかし個人の能力には限度があり、ぼくはつまり基本的に読書があまり得意ではないのだ。
もとより学問を納めて学者になるつもりもなく、あくまで芸術家として自分のコンセプトについて考えたいだけなのだ。
そういう人間が見に付けるべき「教養」とは、もしかするとぼくがこのブログで何度か書いている「ブリコラージュ的思考」なのかも知れない。
例えば、教養のない人は、自分が知った数少ない「他人の言葉」を検証なしに「鵜呑み」する。
それを検証するには数多くの「別の他人の言葉」を知る必要があるのだが、教養のない人はそれを全くしないのだ。
しかし、教養を身につけたくとも、読書が苦手で(あるいは遅くて)それが間に合わない人はどうしたらいいのか?
その場合は、自分が知りえた数少ない「他人の言葉」を「方法論的に鵜呑みにする」のである。
つまり他人の言葉を無自覚に信じるのではなく、「ちゃんとした検証がないことを自覚し、とりあえず自分の考えとして採用する」のである。
本来の意味でのブリコラージュは、「既製品の断片の中身を検証せずに、外見的特性だけで判断し組み合わせ、新しい機能を持つ道具を作ること」で、「思考のブリコラージュ」はこれを「考えるための道具」に応用したものだ。
肝心なのは「考えるための道具」として「ちゃんと使えること」であり、そのためには「中身を検証せずに、外見的特性だけで判断し組み合わせていること」を「自覚」することが肝心なのだ。
無自覚だと固定された考えに振り回されてしまうが、自覚があれば考えを自分でコントロールできる。
「考えを自分でコントロールする」とは例えば、これまでの考えが全部間違いであったとが判明しても、あわてず落ち着いて修正する「覚悟」ができたりすることだ。
教養のない人は、自分の考えが内心間違いだと気付いても、それを「絶対」と思っているから、その否定は自己否定につながると思い込み、意固地になってしまう。
文字通り固定された考えに振り回されてしまうのだ。
逆に教養のある人は、いつでも自分をゼロ地点にリセットする覚悟があり、そこからまたいくらでも新たな考えを構築できる「自信」に満ちている。
特定の考えに固定されず、考えを自分でコントロールするとはこういうことだろう。
そんな「高い教養」は誰もが持ち得るものではないだろうが、誰もが自分の能力に応じてそれに近づくことは可能だろうと思う。
はじめに書いた通り「教養」が「理性的に他人とコミュニケーションしながら、自分の考えを深める技術」であれば、それは書物だけでなく、実生活上の人間関係からも、または自然観察からも学ぶことはできるはずだ。
そう考えると、特に人文系の学問に限らず、さまざまな分野から「教養」を身につけることは可能なのだ。
以上、本を読みながら「自分の考え」を書いてみたが、その妥当性は教養不足により検証不可能なので、判断は読者におまかせしようと思う(笑)。
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