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2008年2月28日 (木)

フルオートマチックの「考える道具」

ぼくは前回の記事

>日本において、かつての「ジネン」はほぼ消滅してしまったといって良いだろう。

と書いたけど、そこまではちょっと言い過ぎかな?とあとで思った。
言い過ぎ、というのはデータが不足してるので、精度の悪い想像にとどまっているということだ。
ぼくは都会に住んでいる人間なので、日本のいわゆる自然豊かな環境に住む人々についてのデータが極端に少なく、そこで「ジネン」の概念がどのように生きているか(あるいは死んでいるか)コメントできる立場になかったのだ。
だからぼくにできることは、自分が知っている範囲の現在の日本の都会の中で、「ジネン」について考えることだけである。
この場合の「考える」とは、自分が「実際に体験したこと」と、本に書いてあるような「他人の言葉」を照らし合わせながら、「いかにも誰かが言いそうだけど、自分はまだ聞いたことがない他人の言葉」を想像することである。

ぼくが欲しい「他人の言葉」とは、考えの道筋すなわち「考えるための道具」である。
「考えるための道具」とは「現代思想」のことだけど、頭があまり良くないぼくにとって現代思想の専門書は「専門家だけが扱える複雑高度な機械」のようで、とても扱うことができない。
しかし「現代思想の入門書」だったら自分レベル頭のでも読むことができ、しかも「考えるための道具」としての実用性も高い。
現代思想の入門書は、カメラに例えるとフルオートで誰でも簡単に扱えるコンパクトデジカメのようなものだと思う。
コンパクトデジカメは操作は簡単ながら「高度な最新機能」が詰まっており、そのため誰でもキレイな写真を撮ることができる。
もちろん、プロ用デジタル一眼レフのよりは多少画質が落ちるし、細かな画質設定やレンズ交換もできないから表現の幅も限られる。
しかし特にこだわらなければ、とりあえず「キレイな写真」が簡単に撮れるのがコンパクトデジカメであり、さらに使いこなしによってはプロ用デジタル一眼レフ以上に「いい写真」を撮ることもできる。
ぼくは写真は(一応)プロなので、プロ用一眼レフも使うし、素人向けコンパクトデジカメを使いこなし「作品」を撮ることもできる。
しかし現代思想のほうは興味はあっても、専門家の資質はなく素人でしかないから、もっぱらフルオートマチックの「入門書」を読むのである。
もちろんいくらフルオートだからと言っても、単に写真だけを撮るカメラと違い、現代思想は「現代の困難な問題を考えるための道具」だから、その使いこなしはなかなか難しい。

この現代思想の「使いこなし」には、読んだ本の内容を単に理解するだけではなく、自分が理解したいくつもの現代思想の内容をバラバラに分解し、より自分に便利な「考える道具」に組み立て直す、という行為も含まれる。
そして現代思想の専門家は、「専門書」に書かれたことの詳細まで理解し、それを精密に分解しながら元の内容と同等以上に精密な「考える道具」を作り出す。
それに対し、ぼくのような現代思想の素人が「入門書」を分解し組み立てなおす作業は、あくまで「素人工作」だといえるだろう。
だからその分解の仕方は大雑把というか、少なくとも「現代思想の高度な機能」が詰まったブラックボックス的な部分は、不用意に分解してはいけない。
ここを下手に分解すると、もとの「考える道具」そのものが壊れてしまう。
しかし分解しないままの「ブラックボックス」同士を上手く組み合わせると、素人工作でありながら「最新機能」を持ち、かつ誰もが扱えるフルオートの「考える道具」に仕上けることもできる。
そして自分用にカスタマイズした便利な道具は、他人にとっても便利である可能性がある。
だから今のぼくは、いつか自分の作った「考える道具」を世間に売り出そうと狙っている、「街の発明家」のような立場なのかもしれない。

しかしいくら素人の「町の発明家」とは言え、製品化できるような道具を作れる人は、それなりの知識や技術を持っているのである。
製品になるほどの「考える道具」を作ろうとする人は、その材料となる経験や読書をそれなりに重ねる必要がある。
少ない材料からは粗雑で使えない道具しか生まれないし、道具の扱いに慣れていないと「最新機能の詰まったブラックボックス」まで分解し、もとの道具そのものを壊してしまう可能性もある。
まぁ、ぼくは「街の発明家」でしかも経験の浅い新参者なので、製品には遠く及ばない試作品を作るしかない。
試作品は徐々に改良を加えながら製品化を目指すが、それがいつになるかは皆目見当が付かないし、まして必ず製品に結びつくという保証もない。
だからぼくはとりあえず試作品を作って、それを道路に面した自宅の庭に並べて、道行く人の反応を見るのである。

ところで、ぼくの「考える道具」はまだまだ製品化の段階ではないが、自分の「考える道具」で作った「作品」は製品化されている。
不思議なことにぼくの作品は、雑誌や作品集の形で世の中に流通しているのである。
つまり、ぼくの作った作品は人に見せると「金を出しても欲しいくらい立派なもの」と思う人はいるのだが、ぼくの「考える道具」のほうは「そんな廃品工作みたいなもの」と相手にされないのだ。
もしくはぼくは「考える道具」で作品を作ってるつもりで、実際は本当に単なる「つもり」でしかないのかもしれない。
だからぼくは「自分の道具」が客観的に存在するかどうかを確認するため、それを単独で売り出す前に、自分の作品集の「オマケ」に付けているのだ。
しかし未だに「あのオマケは便利でした」という話は聞かない。
だからぼくはオマケではなく、単体の製品として作れないかな?とたくらむようになったのだが、何でこんなことをしたがるのかは自分でもいまひとつナゾである。
もしかすると。自分の作品にいまひとつ自信がないから「付録とセットでお得」というふうに売ろうとしてたはずが、いつのまにかその付録作りの方がおもしろくなってしまった、ということなのかもしれない。

というわけで、本当は「路上ネイチャーとジネン」についての核心を書こうと思ったのだけど、前提の前提みたいなものがたくさんあって、なかなかたどり着けないのだ。

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