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2008年3月

2008年3月16日 (日)

フォトモの作者が考えていること

以前、自分の作品集(写真集)の巻末のテキストはオマケのようなものだと書いたが(ここの最後のあたり)、どうせオマケならここに載せてしまおうということで、以下『フォトモの物件』の巻末テキストの全文を掲載する(写真はとりあえず省略するが、気まぐれで追加するかもしれない)。
このテキストには、ぼくがこのブログで書こうとしてなかなか書けないでいる「非人称芸術」のさらに上位概念で、「路上ネイチャー」との共通コンセプトもなる「芸術的価値判断」(仮称)についてある程度書いてある。
もちろん、これについてはまだ全然書き足りないので、続きはこのブロク上で展開できたらと思う。

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フォトモの作者が考えていること

前作の作品集『フォトモの街角』(アートン)と、それ以前の作品集『出現! フォトモ』(パルコ出版)と同じく、ここでもまたフォトモについての解説を書くことになりました。フォトモをはじめとするアートの多くは、作品の発展とともに「アーティストが何を考えているか」という内容もまた発展してゆくのです。ですから本書では前作の内容をふまえつつ、さらにまた別の角度から、フォトモとそのコンセプトについて掘り下げてみました。

■フォトモは物件の標本である

 この本に収録されたフォトモ作品は、ぼくが東京やその他の地方都市などの「路上」を歩き回るうち、「これは!」と感じた「物件」を採集したものです。しかし路上の物件は不動産なので、採集して持ち帰ることはできません。ですから、ぼくは「路上」というフィールドに関心を持ちはじめた当初、気にいったり心に引っかかったりした「物件」は写真に撮って採集していました。しかし写真はペラペラな平面であって、いまひとつ採集の満足感がありません。採集というと、たとえば昆虫採集のように、標本という「モノ」がほしくなってしまうのです。
 標本とは生物から生命を抜き取り、コレクション可能なオブジェへと変化させたものです。同じように、建物や町並みから生命を抜き取り、コレクション可能なオブジェに変換したものは「模型」と言われます。しかし実物そのものではない手作りの模型は、標本のような「実証性」に欠けます。一方、平面でしかない写真には、標本と同様に実証性が備わっています。
 そこで、写真、模型、標本の3つを兼ね備えたメディアとして、「フォトモ」の技法にたどり着いたのです。写真を立体的に再構成したフォトモは、写真の実証性と模型的な存在感を兼ね備えています。また、写真的外皮で構成されたフォトモは、写真を素材にした剥製標本のようでもあるのです。

■組み立てることで作品に参加できる

 フォトモは、そうしたぼくの強い「想い」から生まれた作品ですが、見る人がただ受身でいる必要はありません。フォトモはぼくの意図せぬ結果として、鑑賞者が積極的に参加できる作品にもなったのです。
 まず、本書に収録されたのはバラバラのパーツですから、これを組み立てなければフォトモにはなりません。文字どおり作品の最後の仕上げを、見る人の手に委ねているのです。これは作品集としては不親切と言えますが、作家の作業を追体験することで、作品そのものに参加することができるわけです。
 また、フォトモの独特の立体効果は、フォトモの「本物」を見ないと体験できません。ですからフォトモを雑誌や作品集などの印刷メディアに載せようとしたとき、「プラモデルのような組み立て式」にするというアイデアに行き着いたのです。フォトモ作品の「本物」は高精細な写真印画紙を素材に作られます。それに対し「組み立てフォトモ」は印刷物ですが、その完成品には本物と同様の立体効果があり、限りなくオリジナルに近いレプリカとなるのです。

■見て楽しむことでも作品に参加できる

 本書に収録された「組み立てフォトモ」は、組み立てなくてもグラフィックとして見て楽しむことができます。何しろ建物の断片や人物などの切り抜き写真が、重力の法則を無視して上下バラバラにレイアウトされている、こんな「絵」は他のアートでは見当たりません。これは雑誌連載時の「A4サイズ・1ページ」という制約の中に、できるだけ多くのパーツをすき間なくギッチリ詰め込もうとした結果です。このように、えてしてアート作品は、作家の意図しないところで面白くなったりもするものなのです(写真*)。
 さて、ぼくは本書の前半に、各フォトモ作品についての解説を添えました。もちろん、ぼくなりに面白く書いたつもりですが、しかしこれが唯一正しいフォトモの解釈というわけではありません。そもそも作家は、自分の作品についての想いをすべて言葉にできるわけではないのです。そして、フォトモに限らずアート作品には常に、言葉に表現できない「何か」が含まれているのです。
 それに、アートに対する価値観や感性は、人によって異なります。どんなアート作品も、世間に発表されたそのときから、作者の手を離れてさまざまに解釈されます。ですからフォトモ作品から何を読み取り感じるかは、各自の人生経験や感受性によって異なるはずです。だからぼくの書いた解説は、フォトモ作品を楽しむためのヒントやガイドのようなものにすぎないのです。
 たとえば、ぼくは何度か「懐かしい」という感情に違和感を覚える、というようなことを書きましたが、それはぼく個人の感想です。だから、フォトモに対し、ぼくの感じなかった「懐かしさ」や「下町情緒」に価値を見出した人がいるのなら、それはその人独自の感性に基づいた、フォトモを通じての「価値の創造」なのです。
 フォトモは現実の街並みそっくりですが、その大きさだけが縮小されています。これがかえって、ダイレクトな現実からは得られない、さまざまな想像力を呼び起こします。しかもフォトモは写真を素材としている性質上、作者が見落としているようなさまざまな物事が写り込んでいる可能性があります。ですからぼくの想いとは無関係に、誰もが自分の思い入れで鑑賞できるような「自由度」があり、その意味でも「参加度」が高いのです。  フォトモをどれだけ深く味わい、楽しむことができるかは見る人の「想像力」にかかっています。その意味で、フォトモの持つ「自由度」「参加度」は、見る人に対する「挑発」でもあるのです。

■フォトモで提案する「現実の見方」

 以上、フォトモ作品の見方を提案してみましたが、ぼくはさらにフォトモによって「現実の見方」も提案したいと思っています。それはちょっと常識をずらして、日常的現実をまったく別の方向から捉える視点です。
 ぼくは、とにかく路上を歩き回るのが好きなのですが、その目的はフォトモをはじめとする写真撮影ではありません。写真を撮るのはあくまでも二次的要素で、第一の目的は「路上そのものを見ること」なのです。ぼくは路上を歩くとき、常識をちょっとずらした「モード」に脳内スイッチを切り替えます。すると、路上のさまざまなものが、まるで芸術のオブジェのように見えてくるのです。
 たとえば、P11の「街の掲示板」の実物を地面から引っこ抜いて、日本語の通じないどこかの国の美術館に、誰かの作品として偽って展示したら、「かっこいいアート作品」として案外受けるんじゃないか? と、そんなことを想像してみるわけです。P6の「浅草新仲ハトヤ」のコメントに「ショーケースが、現代美術のオブジェに見える」というふうに書いたのも、まさに同じ意味です。また、P12「木造モルタルアパート」の現物は、周囲の建物がすべて撤去された空き地にポツンと建っており、そのありさまは「展示されたオブジェ作品」そのものであり、思わず鑑賞してしまうのです(写真*)。 つまり、掲示板であろうがアパートであろうが、「それが何であるか」をわざと忘れて見ると、無意味なオブジェとしての姿が見えてくるのです。

■道端の何もかもが芸術に見える

 これはぼくのオリジナルな考えではなく、マルセル・デュシャン(1887-1968。フランス出身で、のちにアメリカで活躍した美術家)が「レディ・メイド」というシリーズ作品で示したコンセプトです。デュシャンのレディ・メイドとは、便器とか自転車の車輪などの既製品(レディ・メイド)を買ってきて、それを美術館の展示台の上に置いただけの「作品」です(写真*)。 美術館に展示された品物は「それが何であるか」という意味を強制的に奪われて、「魅惑的な造形のオブジェ作品」となる。このことをデュシャンは示したのです。
 レディ・メイドでは、「何でも」芸術になる可能性があることを示されていますが、「何でも」というのは際限がなく「それを言っちゃぁ、おしまいよ」という感じです。まぁ、デュシャンを例に出すまでもなく、現代アートというのはどんな表現もありの分野ですから、「道端の何もかもがアートに見える」なんてことは、いろんな人に繰り返し言われてことでもあります。しかし、「アートはアーティストによって作られる」という前提があったので、これまでそれは冗談として片づけられていました。しかし、ぼくはそこに、冗談では済まされない「何か」をずっと感じていたのです。
 そこでぼくは、自分の感じている「何か」について、じっくり考えてみることにしました。まず気づいたのは、自分には路上の物件の「すべて」が芸術に見えているわけではなく、どうも何らかの基準で選別しているようだ、ということです。「何でも芸術に見える可能性がある」ことと、「現に目の前のものが芸術に見える」ことは違うわけです。それでさらに、自分は路上の「何」に反応しているのかと自問してみました。再びフォトモで作った掲示板、ショーケース、アパートの例で考えると、ぼくはこれらの「機能美」に感動しているのではありません。もちろんこれらの物件に、実用品としての機能美が備わっていることは認めますが、そもそも「それが何であるか」という機能を忘れて鑑賞しているのです。
「それが何であるか」を忘れて見えてくるのは、たとえば「街の掲示板」で言うと、貼り紙と貼り紙の「意図せざる組み合わせ」でした。サビた画鋲の配置も、意図があるようで半ば成り行きです。傍らの「ひったくり……」の看板との組み合わせも、明確な必然はありません。また、屋外に設置された掲示板は風雨にさらされた結果薄汚れ、新品の頃の色彩とは異なっています。このように、本来の機能以外の、人々の意図から外れた結果が、オブジェとしての掲示板にさまざまな変化を加え、「芸術としての味わい」を醸し出しているのです。同じことはもちろん「ハトヤのショーケース」や「木造モルタルアパート」にも言えます。
 つまりこれらの「芸術に見える物件」は、人間の意図的な行いに重なる「意図せざる行い」によって造形されていると見ることができるのです。そしてぼくは路上の物件の、そうした要素に反応していたのでした。

■「非人称芸術」というコンセプト

 そこでこのような物件を、「非人称芸術」と呼ぶことにしました。この場合の「非人称」は「主体の特定できない人間の行い」という意味です(ぼくが読んだ本には、「判決を下すのは裁判官という一人称ではなく、日本国民という非人称である」というように書かれていました)。人間が意図した行いからは、本人が気づかないような、意図しない結果も生じます。それに都市という空間では、さまざまな人間の意図がぶつかり合い、それがさまざまな「非人称」としての作用になり、人知れず「非人称芸術」を生み出しているのです。
 常識的な視点から「非人称芸術」という視点に、脳内スイッチを切り替えて街を見ると、その様相は一変します。たとえば、P14の「江古田ゆうゆうロード」や、P8の「続・リバーシブル沿線商店街」、P4の「代々木ガード前商店街」は、「懐かしい商店街」から「わけの分からないオブジェのぶつかり合い」に変貌します。作品解説にも書きましたが、商店の店構えや看板のデザインは意図的なものだとしても、それらが「路上」という場所でぶつかり合うと、人間の意図を超えた造形物=非人称芸術になるのです。
 なると言っても、もちろん商店街は何も変わらず、ただ「見方」が変わっただけです。非人称芸術は「アーティストがいない芸術」という意味でもありますから、それは鑑賞者の「見方」によって創造されるのです。先ほど、「どんなアート作品も、世間に発表されたそのときから、作者の手を離れてさまざまに解釈されます」と書きましたが、だとしたらアート作品でないものが、元の意味から離れ、アートとして解釈されることもありえるわけです。
 ぼくにとって路上とは、絶え間なく非人称芸術が連なる世界であり、たとえるならヒエロニムス・ボス(1450-1516。オランダ出身の画家)の不思議な絵の世界に迷い込んだような気分なのです(図*)これははたから見るとビョーキみたいですが、脳内スイッチを「常識」に戻すこともできますからビョーキではありません(笑)。それどころか、日常の何もかもが面白く見えるので、「世の中つまらないことばかり……」と下をうつむいて歩いているような人よりも、よっぽど健康な精神状態なのかもしれません。

■フォトモは非人称芸術の副産物

 ぼくは非人称芸術というコンセプトにたどり着く前、現代美術のアーティストにあこがれていました。しかしどうも自分には絵の才能も立体造形の才能もないことを自覚するとともに、道端の「芸術のようなモノや空間」に心魅かれていったのです。ぼくは他人の作品を見ることも大好きだったので、「見ることで創造する」非人称芸術のコンセプトは、まさに自分にフィットしたものでした。
 非人称芸術は「作品制作」という制約から想像力が解放されたアートといえますが、その一方で「手作業で何か作りたい」というアートの根源的な欲求がスポイルされてしまっていることも事実です。そこで「非人称芸術の記録」という名目のもと、写真撮影をするようになりました。これが冒頭で書いた「写真による採集」であり、それはやがて「写真の剥製」であるフォトモへと発展したのです。ですから、フォトモとは、非人称芸術の副産物とも言えるのです。そして、路上の非人称芸術を見ることを第一目的にし、フォトモの撮影は二の次くらいに考えたほうが、かえっていいフォトモができあがるのです。

■非人称芸術は、さまざまなアートと共存する

 非人称芸術は、ぼく独自の芸術観から導き出されたコンセプトです。価値観が多様化した現代では、「アートとは何か」を一律に定義することはできません。「アートとは何か」は、人によってまちまちであり、言い換えれば誰もが何らかの形で(自覚的、無自覚的を問わず)独自にアートを定義し、作品を作ったり鑑賞したりしているのです。ですからぼくも、自分なりに「アートとは何か」を考え、そして「非人称芸術」というコンセプトに行き着いたのです。これはぼくにとって、アートは「作者不在でも成立する」ものであることを示しています。
 常識的な考えでは、アートはアーティストがあって成立するものです。しかし一方で、優れたアート作品は、アーティストの「無私」から生まれます。よく言われるように、描こうと意識すると描けなくなり、そうした意識が消えると描けてしまうのがアートなのです。アートの源は、意識の奥底に隠れた無意識とか、天上から降りてくるインスピレーションとか、そういうアーティストの日常的な人格を超えたところにあります。だからアーティストは製作の際、いかに「日常的な人格」に邪魔されず「無私」になれるか、苦労するのです。そしてぼく自身、芸術家にあこがれていた時代は、なかなか「無私」にはなれなかったけれど、自分の外部に「非人称芸術」という形の「無私」を発見したわけです。
 作者不在の「非人称芸術」が、アートとして認められるかどうかは、まさに「アートとは何か」という定義にかかわってきます。人によっては「アーティストが生み出すものだけがアートである」と定義しているかもしれません。しかしそのどちらが「正しい」かは、簡単に決められることではないでしょう。価値観が多様化した現代では、アートもさまざまな形で提示され、そうした状態のほうが自然なのです。アートを作る人も見る人も、各自がその多様化したアートの形の中からどれかひとつ、自分の感覚にフィットした「アートとは何か」をセレクトすればいいのです。ですからぼくは、非人称芸術を「アートとは何か」という多様な選択肢のひとつとして、提示するのです。
 非人称芸術は、古今東西のさまざまなジャンルのアートを「参照」することで創造されます。一般的には芸術と認識されていない路上の物件に対し「アートのようだ」と思って鑑賞するには、そもそもアートがどういうものであるか、ある程度知っている必要があるのです。
 ぼくの撮った写真を例を出すと、写真*は古くて使われなくなった掲示板ですが、この布の裂け目がルーチョ・フォンタナ(1899-1968。イタリアの現代美術家)のキャンバスにナイフで切れ目を入れた作品を連想させます。フォンタナは原色に塗ったキャンバスに切れ目を入れましたが、この掲示板の布はうす汚れて複雑な色合いになっており、フォンタナとは違う「作風」となっています。また(写真*)は、先ほど例にあげたデュシャンの「自転車の車輪」にそっくりです。しかしぼくの見つけた物件のほうは、さらに郵便受けや鉄パイプと組み合わされ、それが後ろの戸袋とあいまって、ロバート・ラウシェンバーク(1925年-。アメリカの現代美術家)のコンバイン・ペインティング(結合絵画)のようでもあります。
 もちろん、特定のアート作品にそっくりなものを探し出すのが目的ではなく、あくまで「アートの味わい」を持ったものを楽しむのが目的です。ですから必要なのは、どれだけ多くのアート作品を知っているかという知識ではなく、アートを味わう感覚を養うことです。その意味で、非人称芸術はその他のアートに依存していると言えるのです。
 その逆に、非人称芸術は人が作るアートの分野にさまざまなものをもたらすはずだと、ぼくは思います。現にフォトモは、非人称芸術の副産物としてもたらされた、人が作るアート作品でもあるのです。先に触れたように、非人称芸術には「多様なアートのあり方の選択肢のひとつとして提示される」という側面もあります。このように非人称芸術とその他のアート分野は、相補的に共存しながら発展していく可能性があるとぼくは思っています。

■路上は「贈与」であふれている

 アートというものは、人々に「贈与」としてもたらされるものだとぼくは思います。その点で、お金と等価交換される「商品」とは違うのです。
 まずアーティストにとって、自身の才能は(遺伝なのか神なのかはともかく)贈与としてもたらされます。そしてアーティストの「無私」の状態で生じるアートのイメージも(無意識なのか天から降りてくるのかはともかく)贈与としてもたらされます。それに対し商品は、たとえばどんなに精巧にできた機械であっても、それは理論と技術の蓄積ですから、ある金額との等価交換が成立します。
 しかしアート作品は、もとが「贈与」だけにお金に換算できない独自の価値を持っています。アート作品に法外な値段がつくことがあるのは、「お金に換算できない価値がある」ことを、あえて金額で示したことの現れだとぼくは思います。その逆に「お金に換算できない価値がある」ゆえに、アーティストに対し不当に安い金額しか支払われない場合もあるわけです。現代は何でもお金に換算できる時代ですが、アートに代表される「お金に換算できない価値」があることが見落とされがちなのです。
 ところで、人間によって生み出された都市空間は、道路や一部の公共施設を除いたほとんどが、経済的な等価交換の産物です。デパートやスーパーマーケットや個人経営の商店は、そこで商品の売り買いがされることが目的で建てられます。アパートやマンションが建てられるのは、家賃を払ってそこに住む人がいるからです。賃貸以外の住宅は、住む人がお金を払って建てたものです。このように街の建物のほとんどは、「お金」とのかかわりを理由にして存在しています。
 ところが見方を変えれば、というか、あらゆる建物は利用せずに「見るだけ」ならタダなのです。つまり、人が人のために用意した建物を「使用しない」という立場で見ると、それは圧倒的な量の「贈与」として受け取ることができるのです。あるいは「それが何であるか」を忘れて見ると、意味のないオブジェが大量に、惜しげもなく贈与されていることに気づくのです。
 それは人々の等価交換の結果もたらされた、誰も意図せざるところから生じた「贈与」です。この贈与は多くの人が気づかないままでいますが、それを受け取ることができれば、目の前に「非人称芸術」というまったく違う世界が広がるのです。

■フォトモから「芸術的価値判断」という提言

 物事にはさまざまな価値判断の基準が適用できます。たとえば目の前に名も知らぬ木の実がなっているとして、それに対して「おいしいかまずいか?」とか「薬としての効果があるか?」とか「売ったらいくらになるか?」などさまざまです。もともと木の実は、人間の食べ物としても、薬としても存在しているわけではないし、もとより値段がついているわけではありません。にもかかわらず、人間は物事に勝手な価値基準を当てはめて判断するのです。
 そこでぼくは、新たな価値判断の基準を提言したいのです。それは「これは芸術ではないけれど、もし芸術だとしたら、芸術的価値はどれくらいだろう?」というものです。芸術的価値は、本来芸術のみに当てはまる価値観ですが、それをさまざまな事物の判断基準にしてみようということで、ぼくはこれを「芸術的価値判断」と名づけてみました。
 この「芸術的価値判断」の一例が「非人称芸術」なのです。そのほかには、たとえば言い争いをしている2人の主張の、どちらの理屈に整合性があり、どちらが正義なのかの判断ができない場合を想定してみます。するとそこに「2人の主張がもし芸術だったとして、どちらがお話として面白いか?」という判断が成り立つのです。これはぼくもまだ考え中のことで、実際にどのように応用できるのかはわかりません。
 しかしながらぼくは、自然の生き物に対しては、この「芸術的価値判断」を導入しています。ぼくは昆虫をはじめとする生き物に魅せられていますが、それはその形態や特殊な生態に対し「もしこれが芸術だとしたら、たいへんに素晴らしい」という価値判断をしているのです。
 世間での自然保護運動は「子どもの未来のために地球を守れ」のように、どうも人事のようなよそよそしさを感じます。これに対し「自然の芸術的贈与を享受したい」というのは切実であり、自然保護の強力な動機になり得ます。
 この想いを作品化したのが、本書と同時発売になる『東京昆虫デジワイド』の昆虫写真「デジワイド」です。これは特殊なデジカメを使い、路上で見つけた昆虫を、背景の街並みとともに写し込んだシリーズです。「都会に自然なんかない」と多くの人が思うのは先入観で、実際には意外に多くの昆虫が街中の環境に適応し住みついているのです。昆虫はそれ自体がまるで芸術のような造形であり、思わず目を近づけて見入ってしまいます。昆虫が街中にたたずんでいる光景は、まるでシュールレアリズムの絵画のようであり、まさに「非人称芸術」の一形態といえるのです。
 フォトモとデジワイドは表現が大きく異なりますが、「非人称芸術」や「芸術的価値判断」というコンセプトでつながっており、その応用範囲はさらに広がる可能性があります。
 というわけで、ぼくは以上のようなことを考えながら路上を歩き、フォトモを作っています。正直なところ、ぼくの考えていることにどれほどの「価値」があるのかはわかりません。しかし少なくともフォトモが、誰もが理屈なしに自由な感性で楽しめるアートであることは、間違いないと思っています。

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『視点をずらす思考術』

「当分更新しない」と言いながら、更新してしまった。
予定はあくまで未定なので、下手に予定など公表しないほうが良い。

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視点をずらす思考術』 森達也 講談社現代新書、を読んだ。
森達也さんの『東京番外地』という単行本には、実はぼくのフォトモが素材として使われている。
これは新潮社の装丁室から依頼があったからで、それはともかく、日ごろ読書なんてほとんどしてなかったぼくはぼくは森達也さんのこともまったく知らなかった。

それでこの『視点をずらす思考術』で、森達也さんが、オウム真理教事件のドキュメンタリー映画『A』及び『A2』の監督をされていたことを知ったのだった(いや、多分『東京番外地』にも書いてあったと思うけど、読んだ当時はあまり気に留めてなかった)。
ぼくはオウム事件があった当時、自分なりにこの事件には関心を持っていたのだけど、それをドキュメントした映画があったとはまったく知らなかった。
まぁ、それだけぼくの関心もいい加減なレベルだったのかもしれないけれど、それよりも『A』も『A2』もテレビなどのマスメディアにほとんど無視され、そのおかげで興行成績はさんざんだったという。
そもそも、森さんはオウム事件の当時はテレビ局のディレクターとして、これを取材していた。
しかし森さんの「オウム信者を徹底的な悪として描かない」という取材姿勢が局側に拒否されてしまう。
そこでテレビ局を辞めた森さんは、取材ビデオを元に「自主制作映画』として『A』と、それに続く『A2』を製作したのだそうだ。
映画会社の配給ルートに頼れない自主制作映画は、テレビなどのマスメディアによる宣伝(取材)が頼みの綱だ。
しかし特にテレビ業界はこの「オウムを扱った映画」を絶対的にタブー視し、ともかく実際に映画を見る前から「モラルといて扱わない」とされてしまったようだ。

ぼくの「オウム真理教」に対する想いというのは、森達也さんとどれだけ共通しているか分からないけど、この本を読む限りある程度似てるところがあるような気がする。
この本には「オウム信者の多くはとても優しい人々で、その”やさしさ”が故に凶悪な事件を引き起こした」というようなことが書いてあり、これはまさにその通りだと思う。
ぼくがオウム事件当時、オウム真理教に興味を持ったのは、この教団がわれわれ「日本社会」を映し出す「鏡」であり、同時に「縮図」だと思ったからだ。
つまりオウム真理教は、日本社会を小さく写す鏡=「凸面鏡」なのだ。
オウム真理教には、現代の日本社会ありかたが、丸ごと縮小されて写りこんでいる、というようにぼくには思えてしまった。
日本社会というのは漠然として掴みどころのないものだけど、「凸面鏡」に全体を小さく写すとその全貌が何となく分かるというものだ。

例えば、地下鉄サリン事件の前後は、まだ一般書店でオウムの機関紙「バジュラヤーナ・サッチャ」が普通に手に入った。
「バジュラヤーナ・サッチャ」は簡単に言うと学研の「ムー」を模したような、超常現象や陰謀史観などを扱ったビジュアル本だ。
ただ「バジュラヤーナ・サッチャ」では、内容を扱う「本気さ」が、「ムー」とは桁外れだった。
「バジュラヤーナ・サッチャ」ではあらゆる超常現象や陰謀史観が「真実」として語られ、そして人々の危機感や不安感を煽る内容になっていた。
その語り口は洗練された本作りと共に非常に巧妙で、ぼくのようなひねくれ者はともかく、「素直で良い人」だったら思わず信じてしまうだろうな、と妙に感心したものだ。
一方、この機関紙を「特異な宗教のいかがわしい勧誘本」として片付けてしまうのも、同じように「素直で良い人」だろうと思ったのである。
ぼくが「バジュラヤーナ・サッチャ」で興味深いと思ったのは、この雑誌の過激なあおり口調が「日本のマスメディア」にそっくりだったことだった。
日ごろテレビや雑誌などのメディア漬けであまり意識してなかったのだが、「バジュラヤーナ・サッチャ」を見たことで、「そういえば日本のメディアも同じように過激で、ひたすら煽り口調だな」ということに気付いたりしたのだった。
『視点をずらす思考術』には、「マスコミはとにかく煽り口調で記事を書くから、それを真に受けて翻弄されないように」というようなことが書かれているが、ぼくはそのことを「バジュラヤーナ・サッチャ」をはじめとするオウムの出版物を見て気付いたのだった。

まぁそれ以前に、日本人のうちの「素直で良い人」たちは集団になりたがる傾向にあり、集団になった「素直で良い人たち」は時として無自覚に他人に暴力を振るう、ということをぼくは以前から何となく感じ取っており、一連のオウム事件を知ったとき「それ見たことか」と思ったのである。
「素直で良い人」は、「自分がまかり間違って悪人になる可能性はゼロ」と確信してる人であり、だから自分の知らないうちに悪の手先になったり、いくら悪の手先になってもその自覚がなかったりするのだ。
それでもまだオウムの場合「悪の親玉」が存在するだけ話は見えやすいが、多くの場合、特定の親玉がいないのに多くの人が「悪の手先」として暴走ずる事があり、そのほうが始末に終えないのかもしれない。
例えば、森達也さんの自主制作映画『A』や『A2』は、いわばマスコミから迫害されていると言えるのだが、その迫害の「首謀者」を個人として特定することはできないだろう。
まさにオウムは「凸面鏡」であり、現実の日本社会はもっと大きくて複雑で厄介なのだと思う。

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2008年3月13日 (木)

貨幣という媒質に満たされた空間

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こちらのブログ、一番力を入れて更新したいのだけど、最近忙しくてそうも行かない。
それでまたしばらく(一月以上?)更新できそうにないが、その前にちょっとだけ書くことにしてみる。

最近、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に続いて「学校のモンスター」と「お金に「正しさ」はあるのか」を読んだのだが、この3冊の内容は実に見事に続いていると思う。
まぁ、3冊とも「現代日本の状況」についての本だから、内容が共通するのは当たり前ともいえるのだけど。

「学校のモンスター」の著者は高校の教師で、今の子供が「ヘン」になったのは、昭和40年代頃から貨幣経済が市民に浸透し、子供たちは小学校に上がる前に「貨幣による等価交換」を経験し、そのおかげで「贈与としての学校教育」が上手く行かないのだと分析している。

そして「お金に「正しさ」はあるのか」は、その貨幣そのものについて論じられている。
かつて、例えば人間が食物を得られるのは「神の恵み」や「自然からの贈与」や「人と人とのつながり」などというものが媒体となっていたが、近代になってそれら全てが「貨幣」というものに一元化された。
現代人は周囲のすべてのものと貨幣を媒体にしてつながっている。
現代でも「金の価値に換算できないもの」は確かにあるが、その「金の価値に換算できないもの」自体が、貨幣によって支えられているのが現代だ。
例えば「家族の愛情」も家族を金銭的に養わないと成立しないし、「尊い自然」のある山林も「経済的価値がないから」という理由で開発を免れているだけだし、「芸術家」はいくら貧乏しても最低限喰わなければならない。

「学校のモンスター」の内容に照らして言うと、教師は給料をもらい生徒(親)は税金(授業料)を払ってるから、金で結ばれた関係と言える。
しかし、先生が生徒に教育するという行為自体は「金に支えられてはいるが、金に換算できないもの」なのだ。
しかしこの構造を把握できない生徒や親が(先生も)増えてきて、それが教育現場の歪として現れているのだ。

それで「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で書かれたような「ジネン」の概念がなぜ人々から消えたのかというのも、「ジネンの力」より「貨幣の力」のほうが人々にとっての現実に成り代わったからだとも言える。

これらの本を読んで改めて思ったのは、現代の人間の住むところは全て「貨幣の力」によってできている、ということだ。
街を見渡すと、家並みやビルや道路などが見えるが、その全ては「貨幣との関連」で出来上がっている。
われわれが住む空間は、空気と共に「貨幣という媒質」で満たされている。
その「貨幣という媒質に満たされた空間」の中に、貨幣に支えられるかたちで、「お金の価値に換算できないもの」が誰の意図しないところで発生している。
それが「非人称芸術」と「路上ネイチャー」なのだ。
「非人称芸術」や「路上ネイチャー」は、人間の理性や「我」の産物ではない。
それは「貨幣という媒質に満たされた空間」の中に存在する「ジネン」の産物なのだ。
「貨幣という媒質に満たされた空間」は人為的なものだから、その中に「ジネン」が存在するというのは本来的にはおかしなことだろう。
でもたしかに本来の「自然の中のジネン」とは違う形での「ジネン」は確かに存在し、その証拠として「非人称芸術」や「路上ネイチャー」が存在する。
理由もないのに「証拠」などというとトンデモ本みたいだが、今は他で忙しいので、また今度ちゃんと説明しようと思う。

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2008年3月 4日 (火)

自分とは

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自分とは他の誰でもない誰かであるが、それが誰なのかを自分は知ることができない。

ランブレール

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科学とは

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科学とは呪術の一種である。
それは1%の真実と、99%の共同幻想によって成立している。

ウィリック・ヒュッケレム

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