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2008年3月16日 (日)

『視点をずらす思考術』

「当分更新しない」と言いながら、更新してしまった。
予定はあくまで未定なので、下手に予定など公表しないほうが良い。

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視点をずらす思考術』 森達也 講談社現代新書、を読んだ。
森達也さんの『東京番外地』という単行本には、実はぼくのフォトモが素材として使われている。
これは新潮社の装丁室から依頼があったからで、それはともかく、日ごろ読書なんてほとんどしてなかったぼくはぼくは森達也さんのこともまったく知らなかった。

それでこの『視点をずらす思考術』で、森達也さんが、オウム真理教事件のドキュメンタリー映画『A』及び『A2』の監督をされていたことを知ったのだった(いや、多分『東京番外地』にも書いてあったと思うけど、読んだ当時はあまり気に留めてなかった)。
ぼくはオウム事件があった当時、自分なりにこの事件には関心を持っていたのだけど、それをドキュメントした映画があったとはまったく知らなかった。
まぁ、それだけぼくの関心もいい加減なレベルだったのかもしれないけれど、それよりも『A』も『A2』もテレビなどのマスメディアにほとんど無視され、そのおかげで興行成績はさんざんだったという。
そもそも、森さんはオウム事件の当時はテレビ局のディレクターとして、これを取材していた。
しかし森さんの「オウム信者を徹底的な悪として描かない」という取材姿勢が局側に拒否されてしまう。
そこでテレビ局を辞めた森さんは、取材ビデオを元に「自主制作映画』として『A』と、それに続く『A2』を製作したのだそうだ。
映画会社の配給ルートに頼れない自主制作映画は、テレビなどのマスメディアによる宣伝(取材)が頼みの綱だ。
しかし特にテレビ業界はこの「オウムを扱った映画」を絶対的にタブー視し、ともかく実際に映画を見る前から「モラルといて扱わない」とされてしまったようだ。

ぼくの「オウム真理教」に対する想いというのは、森達也さんとどれだけ共通しているか分からないけど、この本を読む限りある程度似てるところがあるような気がする。
この本には「オウム信者の多くはとても優しい人々で、その”やさしさ”が故に凶悪な事件を引き起こした」というようなことが書いてあり、これはまさにその通りだと思う。
ぼくがオウム事件当時、オウム真理教に興味を持ったのは、この教団がわれわれ「日本社会」を映し出す「鏡」であり、同時に「縮図」だと思ったからだ。
つまりオウム真理教は、日本社会を小さく写す鏡=「凸面鏡」なのだ。
オウム真理教には、現代の日本社会ありかたが、丸ごと縮小されて写りこんでいる、というようにぼくには思えてしまった。
日本社会というのは漠然として掴みどころのないものだけど、「凸面鏡」に全体を小さく写すとその全貌が何となく分かるというものだ。

例えば、地下鉄サリン事件の前後は、まだ一般書店でオウムの機関紙「バジュラヤーナ・サッチャ」が普通に手に入った。
「バジュラヤーナ・サッチャ」は簡単に言うと学研の「ムー」を模したような、超常現象や陰謀史観などを扱ったビジュアル本だ。
ただ「バジュラヤーナ・サッチャ」では、内容を扱う「本気さ」が、「ムー」とは桁外れだった。
「バジュラヤーナ・サッチャ」ではあらゆる超常現象や陰謀史観が「真実」として語られ、そして人々の危機感や不安感を煽る内容になっていた。
その語り口は洗練された本作りと共に非常に巧妙で、ぼくのようなひねくれ者はともかく、「素直で良い人」だったら思わず信じてしまうだろうな、と妙に感心したものだ。
一方、この機関紙を「特異な宗教のいかがわしい勧誘本」として片付けてしまうのも、同じように「素直で良い人」だろうと思ったのである。
ぼくが「バジュラヤーナ・サッチャ」で興味深いと思ったのは、この雑誌の過激なあおり口調が「日本のマスメディア」にそっくりだったことだった。
日ごろテレビや雑誌などのメディア漬けであまり意識してなかったのだが、「バジュラヤーナ・サッチャ」を見たことで、「そういえば日本のメディアも同じように過激で、ひたすら煽り口調だな」ということに気付いたりしたのだった。
『視点をずらす思考術』には、「マスコミはとにかく煽り口調で記事を書くから、それを真に受けて翻弄されないように」というようなことが書かれているが、ぼくはそのことを「バジュラヤーナ・サッチャ」をはじめとするオウムの出版物を見て気付いたのだった。

まぁそれ以前に、日本人のうちの「素直で良い人」たちは集団になりたがる傾向にあり、集団になった「素直で良い人たち」は時として無自覚に他人に暴力を振るう、ということをぼくは以前から何となく感じ取っており、一連のオウム事件を知ったとき「それ見たことか」と思ったのである。
「素直で良い人」は、「自分がまかり間違って悪人になる可能性はゼロ」と確信してる人であり、だから自分の知らないうちに悪の手先になったり、いくら悪の手先になってもその自覚がなかったりするのだ。
それでもまだオウムの場合「悪の親玉」が存在するだけ話は見えやすいが、多くの場合、特定の親玉がいないのに多くの人が「悪の手先」として暴走ずる事があり、そのほうが始末に終えないのかもしれない。
例えば、森達也さんの自主制作映画『A』や『A2』は、いわばマスコミから迫害されていると言えるのだが、その迫害の「首謀者」を個人として特定することはできないだろう。
まさにオウムは「凸面鏡」であり、現実の日本社会はもっと大きくて複雑で厄介なのだと思う。

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