貨幣という媒質に満たされた空間
こちらのブログ、一番力を入れて更新したいのだけど、最近忙しくてそうも行かない。
それでまたしばらく(一月以上?)更新できそうにないが、その前にちょっとだけ書くことにしてみる。
最近、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に続いて「学校のモンスター」と「お金に「正しさ」はあるのか」を読んだのだが、この3冊の内容は実に見事に続いていると思う。
まぁ、3冊とも「現代日本の状況」についての本だから、内容が共通するのは当たり前ともいえるのだけど。
「学校のモンスター」の著者は高校の教師で、今の子供が「ヘン」になったのは、昭和40年代頃から貨幣経済が市民に浸透し、子供たちは小学校に上がる前に「貨幣による等価交換」を経験し、そのおかげで「贈与としての学校教育」が上手く行かないのだと分析している。
そして「お金に「正しさ」はあるのか」は、その貨幣そのものについて論じられている。
かつて、例えば人間が食物を得られるのは「神の恵み」や「自然からの贈与」や「人と人とのつながり」などというものが媒体となっていたが、近代になってそれら全てが「貨幣」というものに一元化された。
現代人は周囲のすべてのものと貨幣を媒体にしてつながっている。
現代でも「金の価値に換算できないもの」は確かにあるが、その「金の価値に換算できないもの」自体が、貨幣によって支えられているのが現代だ。
例えば「家族の愛情」も家族を金銭的に養わないと成立しないし、「尊い自然」のある山林も「経済的価値がないから」という理由で開発を免れているだけだし、「芸術家」はいくら貧乏しても最低限喰わなければならない。
「学校のモンスター」の内容に照らして言うと、教師は給料をもらい生徒(親)は税金(授業料)を払ってるから、金で結ばれた関係と言える。
しかし、先生が生徒に教育するという行為自体は「金に支えられてはいるが、金に換算できないもの」なのだ。
しかしこの構造を把握できない生徒や親が(先生も)増えてきて、それが教育現場の歪として現れているのだ。
それで「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で書かれたような「ジネン」の概念がなぜ人々から消えたのかというのも、「ジネンの力」より「貨幣の力」のほうが人々にとっての現実に成り代わったからだとも言える。
これらの本を読んで改めて思ったのは、現代の人間の住むところは全て「貨幣の力」によってできている、ということだ。
街を見渡すと、家並みやビルや道路などが見えるが、その全ては「貨幣との関連」で出来上がっている。
われわれが住む空間は、空気と共に「貨幣という媒質」で満たされている。
その「貨幣という媒質に満たされた空間」の中に、貨幣に支えられるかたちで、「お金の価値に換算できないもの」が誰の意図しないところで発生している。
それが「非人称芸術」と「路上ネイチャー」なのだ。
「非人称芸術」や「路上ネイチャー」は、人間の理性や「我」の産物ではない。
それは「貨幣という媒質に満たされた空間」の中に存在する「ジネン」の産物なのだ。
「貨幣という媒質に満たされた空間」は人為的なものだから、その中に「ジネン」が存在するというのは本来的にはおかしなことだろう。
でもたしかに本来の「自然の中のジネン」とは違う形での「ジネン」は確かに存在し、その証拠として「非人称芸術」や「路上ネイチャー」が存在する。
理由もないのに「証拠」などというとトンデモ本みたいだが、今は他で忙しいので、また今度ちゃんと説明しようと思う。
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