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2008年5月

2008年5月31日 (土)

『これで古典がよくわかる』橋本治

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「芸術」を語りたいと思っているのに、その自分が日本の古典について何も知らないことに、改めで気付いて愕然としてしまった(笑)
日本の古典はおろか、ぼくは「文学」と言うものをほとんど理解していない。
それがこの本を読んで、文学というのは「言葉によって、人の気持ちを表すもの」ということがようやく分かりかけた気がする。

ぼくの中で人の気持ちを表すのは、絵画や彫刻や音楽のような「言葉でないもの」であり、だからそうした芸術は「言葉にならない人の気持ち」を表現しうるのである。
しかし文学と言うのは「言葉によって、言葉にならない気持ちを伝える」という「高等テクニック」で出来ており、それが文学の特徴のひとつらしいのだ。
こんなのはまぁ常識で、ぼくだって知識として知っていたのだが、ぼくは「言葉は理屈を伝えるもの」と決めて文学はほとんど読まずにいたので、文学の存在理由が肌で理解できていなかったのだ。

古典というのはもうだいぶ昔に作られたものだから、当然のことながら現代では死んでいる。
その死んでいる古典を現代人が読んでも分からないしつまらないのは、当たり前のことなのだ。
しかし、古典はその昔の「現代」に書かれている。
その昔の「現代」の気分に立ち返りながら古典を読むと、それが現代の自分の気持ちと重なり、時代を超えた共感が生じるのだ。

古典作品はどれも、その時代における最新の高等テクニックで書かれている。
それは「新たな分野が発生し、発展するダイナミズム」に生き生きとした喜びを見出す「モダニズム」の感覚である。
だから古典を読むと言うことは、「古典の中にモダニズムを見る」ことと言える。

日本にはヨーロッパがまだ野蛮人の国だった1000年以上も前から、文学と言うかたちで「芸術のための芸術」であるところの「モダニズム芸術」があったのだ。
その意味で芸術も、モダニズムも、何かの拍子にいつの時代のどの場所にも出現しうるのだろう。
そして熱狂的に急成長したモダニズムは後に行き詰まり、やがて死んでポストモダンになり、さらに後の時代に「古典」と呼ばれるようになる。

以上、まぁテキトーな覚え書きです。

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『オタクはすでに死んでいる』岡田斗司夫

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どうもぼくはせっかちで、このブログで「自分が一番言いたいこと」を早く書きたいのだけど、実力が伴わなくてなかなか書けず、それであせってしまっている。
ぼくが読書をすのは、その「自分が一番言いたいこと」を的確に表現するための実力を実につけるためなのだが、本と言うのはもちろんぼくのためにだけ書かれているのではなく、いろいろと余計なことが書いてある。
その余計なことがまた面白かったりするから、その感想もじっくり書きたいのだけど、一方でぼくは「一番言いたいことが言えずあせっている」から、結局は何も書けないでいたりするのだ。
だからまぁ、とりあえず他人に分からなくてもいいから、自分にとって役立ったことをメモ書き程度にでもしてみようと思う。

前回の投稿で「芸術はすでに死んでるかもしれない」などと言ってみたわけなのだが、そういうことを考えていたら本屋さんに『オタクはすでに死んでいる』なんて本があって、これは良い参考書になるかもしれないと思ってさっそく読んでみた。
以下、本書の内容をまとめているようで、その実自分勝手に「超訳」した部分もあるので、間に受けないようにしていただきたいw

著者の「便宜上の大まかな分類」によると、ぼくは年代的に「オタク第一世代」に含まれる。
オタク第一世代は、オタクといわれる分野の生成や発展の過程を身をもって体験できた幸運な世代だ。
しかし現在の若者である「オタク第三世代」は、オタク的文化の全てが出揃った時代に「遅れてやってきた」という不幸を背負っている。

一方、ぼくのようなオタク第一世代は、「SF」ファンとして「遅れてやってきた」SF第三世代に当たる。
遅れてやってきた世代の特徴は、「自分たちは遅れてやってきた」という歴史認識がない点だ。
そして、そういうSF第三世代が増えるごとに「SF」という分野は次第に生気を失い、やがて死んでしまった。

同じように、今の「オタク第三世代」にも「自分たちが遅れてやってきた」という歴史認識がない。
歴史認識とは「新たな分野が生成し、発展するダイナミズム」を理解することである。
今の時代はSFもオタク文化も花盛りのようだが、それが「新たな分野が生成し、発展するダイナミズム」として理解されておらず、その状態を「SFは死んだ」、「オタクは死んだ」と表現している。

SFやオタクに限らず、「新たな分野が生成し、発展するダイナミズム」に喜びを見出すのは「モダニズム」の価値観だ。
しかし「モダニズム」は常に運動の過程であって、どんな分野においても長続きしない。
そしてモダニズムで重視された歴史的時系列が無意味化し、全てが並列した「ポストモダン」に移行する。
どの分野においてもモダニズムの仮定は「熱い」から生きていて、その後の「ポストモダン」の状態は「熱がない」から死んでいるのだ。

同じように「芸術」を考えると、ぼくは「もうすっかり遅れてやってきた」世代に当たる。
芸術の分野はSFやオタクに比べはるかに歴史が長いから、ぼくは遅れに遅れ、もうすっかり手遅れの状態に、さらに遅れてやってきたようなものだろう。
そしてあまりに遅れすぎて、「自分が遅れてやってきた」とか「芸術はすでに死んでいる」などの事になかなか気付けなかったのだ。

宗教は芸術よりさらに歴史が古く、それが「とっくに終わってしまった」という歴史も長い。
ぼくは宗教に遅れてやってきたというより、そもそも宗教にははじめから参加していない。
しかし死んだはずの宗教が、現代日本において奇跡的に「一瞬だけ息を吹き返した」時期を目撃しており、それが「オウム真理教事件」である。
オウム真理教は殺人と言う最悪の犯罪を犯したが、「宗教を真剣に生きる」とは「現代の良識に囚われず殺人も辞さない」ことであり、だからこそ国家に弾圧され息の根を止められてしまった。
現代において宗教は「死んでいるもの」だし「生き返ってはいけないもの」なのである。
現代の宗教は、現代の良識と折り合いをつけながら行き続けているが、それは本来的に「生きながら死んでいる」状態なのだ。
いずれにしろ、ぼくはオウム真理教事件を通して、「死んだものが一瞬生き返る」がどういうものかを、見たような気がする。

さて、以上のような意味で死んでしまっているような「芸術」なのだが、これが「オウム事件の時の宗教のように生き返らせることができるだろうか?」と、ぼくは考えているのかもしれない。
もちろん、芸術と宗教は根本が違うから、芸術が生き返ったところで犯罪に至ったり、まして死人が出るようなことはないだろうw
現在の芸術を「死んでいる」と断言し、それを「生き返らせてやる」というのは分不相応な大胆な考えだと我ながら思う。
そんな実力が伴っていないのはぼくの作品やこのブログの文章を見れば明らかだ。
オウム真理教も実力が伴わないのに分不相応なことを考えたから、犯罪や殺人と言う「無様な結果」に終わったのだ。
現代における優秀な宗教家は、宗教が本来持つ危険性を十分理解してるからこそ、みだりに「生き返らせよう」とは考えず、世間の良識と折り合いをつけながら大人しくしている・・・理屈の上ではそうなるんじゃないかと思う。
その意味で、ぼくは世間が芸術家に求める行為大人しく実行していて、それでギャラリーで展示したり、作品集を出版したりしている。
しかし、大人しくしてばかりだとつまらないので、何かもっと大それたことをやってみたくて手始めにこのブログをはじめたのだが、実力が全然伴わずなかなかハジケることができなくて、それであせっているのである。

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2008年5月30日 (金)

芸術はもう終わってるかもしれない仮説

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金沢21世紀美術館は「権威ある美術館」とされているが、ぼくはその一角のちょっと権威から離れた「デザインギャラリー」と言うスペースで個展をやっている。
つまり、ぼくの作品は「アートの権威からちょっと外れた作品」という扱いをされているわけだ。
いや、今回の個展に限らずぼくの作品は、どこでも誰からもたいていはそんな感じの扱いを受ける。
それには良い面と悪い面の両方があって、良い面と言うのは「堅苦しくなく誰でも気軽に楽しめるから人気がある」と言うことで、悪い面は「専門化にはほとんど相手にされない」ということだ。
まぁ、「専門化が相手してくれるとなんか良い事があるのか?」とか、「そんなにアートの権威が欲しいのか?」とかいろんな疑問もあるのだが、そういうふうにゴチャゴチャ考えながら、ちょっと思い付いたことがあるので書いてみたい。
それは、「現在において芸術はもう終わってる」と言う仮説である。

橋本治さんの『宗教なんか怖くない』と言う本に、「宗教はもう終わっている」と言うようなことが書かれていた。
かつての宗教は、国家を支配したりとか、人々がその世界観を丸ごと信じていたりとか、絶大な権威を誇っていた。
しかし現在の宗教は「科学」にその立場を奪われ、実際にはまだ存在しても、もう終わったも同然になってしまった、と言うことである。

宗教が終わっているのは、もう宗教について考えても「先がない」と言うことだ。
宗教の「その先」を真剣に考えて、も「科学的に整合性がない」と言うことで、なんだかウソっぽくなってしまう。
科学と比較されてうそっぽいと思われてしまうような現在の宗教に、かつてのような絶対的権威は存在しない。
科学がなかった頃の宗教は、「本当のこと」が語られていると人々に信じられていたからこそ「力」があり「生きて」いたのだ。

その意味で、現在の科学は「生きている」分野だと言える。
もちろん、かつてほど単純に科学の「その先」が信じられなくなった分、多少勢いは衰えてしまったが、まだまだ科学は生きている。
科学の「その先」が単純に信じられなくなったのは、「科学の発展が必ずしも人々の幸福に繋がるとは限らず、同時にさまざまな弊害も生むことがある」と言うことが意識されるようになったからだ。
しかしその「科学の発展が生み出す弊害」をどうにかするのまた「科学の力」だと信じられているから、まだまだ科学は「生きている」と言える。
いくら「科学の発展は弊害も生み出す」からと言っても、「その問題は宗教が解消しましょう」とはならない。
いや、そうしたことを謳い文句にする宗教はいくらでもあるのだが、現在の宗教は「本気さ」や「権威」が昔と比べて格段に弱くなり、だから「終わったも同然」なのだ。

科学と同じようにまだ終わっていない分野に「思想・哲学」があるだろうと思う(当事者じゃないのであまりハッキリしたことは言えないけど)。
もちろん、科学に比べると一般的な影響力は少ないかもしれないが、そもそも科学は「言葉を矛盾なく積み重ねて考察する」ところの「思想・哲学」の分野から発展したのである。
だから科学が生きている限り、その基礎となる思想・哲学も終わることはないと言えるのだ。

そして現在の芸術なのだが、これは現在の宗教と同様の意味で、もう終わっているのではないか?
いろいろ考えていたら、ふとそんな事に気付いたのである。
かつての芸術は、現在に比べ格段に権威があって、世間に対し大きな影響力があった。
例えばヨーロッパで印象派が登場した当時、「あんなものは芸術じゃない!」と言うことで世間が大騒ぎになったりしたのだが、現在の芸術にそんな騒ぎを起こすほどの力はまったくないだろう。
そんな現在の芸術は、現在の宗教と同じように「終わったも同然」と言えるではないか?
現在において美術鑑賞したり、美術作品を制作する行為は、現在において仏教を信じたり、キリスト教を信じたりするのに、似た立場にあるのではないだろうか?。
どうもまだちゃんと言葉にできてないのだが、このあたりにぼくが感じる芸術に対するゴチャゴチャした想いのカギがあるような気がするのだ。

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2008年5月16日 (金)

近況

展覧会も始まっているのになぜまだ金沢にいるのかというと・・・

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この期に及んで追加作品を作ってたりします。
これは今日の夜設置できるでしょう。
初日からこれを含めて3点作品が追加されます。

あとデジカメWatch用の撮影をしたりとか、いろいろ仕事があってなかなかこっちのブログが更新できず・・・しばしお待ちください。

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