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2008年6月

2008年6月29日 (日)

「東京昆虫デジワイド」

カメラ雑誌「デジタルカメラマガジン」2007年10月号の「デジタルリレーGallery」という連載コーナーに掲載されたテキストを再掲してみる。
このコーナーは「笑っていいとも」みたいに掲載作家が次の作家を紹介していくコーナーで、ぼくは湊雅博さんに紹介され、緒方範人くんを紹介した。
長期にわたる連載だったが、今年になっていつの間にか終わってしまっていた・・・

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「東京昆虫デジワイド」

「東京に幽霊が出る。トマソンという幽霊である。」とは赤瀬川原平さんの『超芸術トマソン』の冒頭部分だが、ぼくはその影響から東京でトマソンを探しな がら、また別の幽霊である「昆虫」を発見してしまった。
例えばこの写真は、新宿東口駅前の花壇にいた「セマダラコガネ」という昆虫だ。
しかし行き交う人は 誰もその存在に気づかず、まさにぼくだけに見える「幽霊」のようなものだ。
実は東京には、花壇をはじめ庭や空き地や道端に、たくさんの植物が生えている。
植物があればそこに昆虫や鳥たちが住みつき、そうやって都市環境に適応した独自の生態系が出来上がる。しかし人々には「都市には自然はない」という先入観 があるから、都市の生態系そのものが、幽霊なのだ。

そんな東京の幽霊=昆虫を撮ったぼくの写真は、心霊写真のようなものだろうか。
心霊写真は思わぬところに幽霊が写っているものだが、東京の昆虫も思わぬ 場所に出現するから面白い。
しかし普通のマクロレンズで昆虫のアップを撮ると、背景がボケてどんな場所にいるのかが表現できない。
だから昆虫ををアップに しながら、遠景までの全てにピントの合った写真を撮る必要があった。
それでコンパクトデジカメの特性を活かした「デジワイド」という手法を開発し、その成 果が先ごろ『東京昆虫デジワイド』という一冊の写真集となった。
これを見れば、東京の昆虫が幽霊ではなく実体であることが、リアルに感じられるだろう。
東 京という街は、その気になれば昆虫観察も出来てしまうような、まさに「何でも有り」の先進都市なのだ。

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ロラン・バルトの「エクリチュール」

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今、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を再読してるんですが、ガイジンの思想家の名前がなかなか覚えられないので、「顔と一緒なら覚えられるかも」ということで貼っときます。
画像はroland-barthesで検索するといろいろ出てきます。

ロラン・バルト(Roland Barthes,1915-1980)、フランスの思想家で、人間のあらゆる営みを「記号の営み」として捉えた記号学の人です。
ロラン・バルトが発見したさまざまな「記号の営み」のうち、重要とされるのが「エクリチュール」と「作者の死」です。
エクリチュールは一般的には「書き言葉」と訳され、「パロール(話し言葉)」と対比されます。
しかしエクリチュールは思想家によってさまざまな解釈がなされ、ロラン・バルトの「エクリチュール」もまた独特の概念です。

とりあえず自分の理解の為に、バルトの「エクリチュール」をイキナリ応用してみます。
哲学者の中島義道さんは自著の中で、たびたび「街中を流れるスピーカー音がうるさい」ことを訴えます。
そして大多数の日本人が「街中を流れるスピーカー音」を聞き流していることに腹を立ててます。
これは、大多数の日本人が身に付けている「エクリチュール」を、中島義道さんだけが身に付けていない、ということになります。

例えば、たいていのエスカレーター付近では「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送がされてます。
このメッセージを、文字通りの意味で解釈すると「エレベーターの正しい乗り方の解説」という内容を示す「記号」です。
しかし日本人のうちで、このメッセージを「文字通りの意味」で解釈している人はほとんどいないでしょう。
なぜなら、そんな風に解説されなくても、エレベーターくらい誰でも乗れるからです。
だから大多数の日本人はこのメッセージを聞き流しています。
「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」というメッセージは「聞き流すもの」という記号として解釈されているのです。
その結果、このメッセージは誰も聞いていない=誰にも聞こえないのです。

誰にも聞こえないメッセージをなぜ流すか?というと、そこにも「記号的意味」があります。
それはエスカレーターを管理する側の「事故かあったときの責任回避」の意味です。
客がエスカレーターに「間違った乗り方」をしたのが原因で起きた事故を想定した場合、管理者側が事前に「エスカレーターの正しい乗り方」をアナウンスしておけば、その範囲内で管理者側の責任を問われることはありません。
そのような「記号的意味」をこめて、管理者側は放送を流すのです。
だからこの記号的意味は、実際に事故が起きたとき以外の通常時は文字通りの無意味です。
ですから通常は「聞き流すもの」という記号として働きます。

「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」というメッセージは、もっぱら文字通りの意味としては機能しません。
それは「管理者の責任回避」と「通常は聞き流すもの」という二つの意味を持つ「記号」として機能します。
エスカレーター付近の放送に限らず、日本ではいたるところに「文字通りの意味」ではなく、「管理者の責任回避」と「通常は聞き流すもの」という意味として働く、いろいろな種類の放送が流されています。
大多数の日本人が「街中を流れるスピーカー音」をそのような記号として捉えています。

しかし実際、エスカレーターに間違った乗り方をして事故が起きる可能性なんて、どれくらいあるのでしょうか?
それは管理者が「無意味な放送」を続けてまで警戒すべき事故なんでしょうか?
同じように事故を警戒するなら、「階段の正しい使い方」や「フロアの正しい歩き方」を解説した放送も流したほうがいいんじゃないでしょうか?

などと考えるまでも無く、エスカレーターでの事故を警戒して放送を流すのは、明らかに「心配し過ぎ」です。
それ以外の日本のいたるところで流される「文字通りの意味の無い放送」はすべて「心配し過ぎ」なものと解釈できます。
単なる「心配し過ぎ」だったら意味が無いということで、街中の無意味な放送はすべて撤去したほうが合理的です。

しかし実際はそういうことにはならず、「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送も、新しく設置されたエレベータにはたいてい流されます。
なぜこんなことになるかというと、「心配し過ぎ」のメッセージには、もう一段深いところに「記号的意味」があるからです。

それは「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」というメッセージです。
日本人というのは、仕事をする上で「とにかく責任を取りなくない」と考える「癖」を持ちます。
これはいってみれば文化的な習慣で、だから日本人の多くが共有しています。

だからエスカレーターの管理者は「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」という意味のメッセージを流し、それを聞く人は「聞き流す」という態度によって、そのメッセージを「容認」します。
なぜそれが容認できるのかというと、それを聞く大多数の日本人もまた、それぞれの立場から「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」という内容のメッセージを日常的に流しているからです。
「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送は、そのように複雑な「記号の連鎖」として受け取られます。

日本人に共通の独特の考え方、感じ方、振舞い方、というのはさまざまな「記号の連鎖」で出来ており、そうしたものをロラン・バルトは「エクリチュール」と名付けました。
エクリチュールとは、「ある集団らしく振舞うための、記号の連鎖」です。
日本人は「日本人のエクリチュール」を身に付けているから、外国人から「変な民族」だと思われたりします。
だから日本人がアメリカ人の中で違和感なく暮らそうと思ったら「アメリカ人のエクリチュール」を身に付ければいいのです。
「アメリカ人のエクリチュールを身に付ける」とは、単に英語が話せるだけでなく、アメリカ人的なものの考え方、感じ方、振舞い方を「記号の連鎖」として身に付ける、ということです。
でも、一度身に付いた「日本人のエクリチュール」は完全には捨てられないでしょうから、どうがんばっても「ちょっと変な人」と思われるでしょう。

エクリチュールは「国」だけに限らず、さまざまな集団にあるものです。
「都会人のエクリチュール」があり、それにあこがれる人は「田舎者のエクリチュール」を身に付けてたりします。
「女性のエクリチュール」があり、それが完全に身に付かない男性の「オカマのエクリチュール」があります。
子供が友達の家に泊まりに行って、何となく落ち着かないのは「家族のエクリチュール」が何となく違うからです。
その子供は、成長するにつれ「家族のエクリチュール」がうっとおしくなり「中学生のエクリチュール」や「秋葉原に集う若者のエクリチュール」を身に付けたりします。

エクリチュールには「選択の自由」があります。
自分が「何になりたいか」の選択はその人の自由であり、それは「固有のエクリチュール」を選択することでもあります。
しかしエクリチュールについて自由があるのは選択についてだけで、それ以外にすべてにおいて、人は「エクリチュール」というものに縛られます。
都会人になった田舎出身者は「都会人のエクリチュール」に縛られなくてはいけません。
なぜなら「都会人のエクリチュール」からはみ出したとたん、「田舎者」になってしまい、田舎者とは「田舎者のエクリチュール」に縛られた人だからです。

エクリチュールに縛られない者は、人間以外の動物しかあり得ません。
しかし動物は、その種に固有の「本能」に縛られています。
人間は本能にはそれほど縛られていませんが、その代わり「エクリチュール」に縛られます。
「エクリチュール」とは、人間の営みの結果に生じた「本能のようなもの」です。
カエルはカエルの本能に従うのみですが、人間はさまざまな本能(エクリチュール)を選択することによって、カエルにも、ライオンにも、ミミズにもなれます。
しかし、一度カエルを選択したら、カエルの本能(エクリチュール)に従わざるを得ないのです。

さて、先に例として挙げた、エスカレーター付近での「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送には、大多数の日本人が身に付けている固有のエクリチュールの「一端」が現れています。
日本人固有のエクリチュールを身に付けた人にとって、その記号は「一連の記号の連鎖」の中に自然と組み込まれ、意識化されることはありません。
だから、中島義道さんが「無意味な放送はバカみたいで耳障りだから止めたほうがいい」と訴えても、大多数の日本人はその訴えの意味さえ理解できないハズです。
なぜなら、その訴えの意味を理解するには、日本人としての自分の存在そのものを疑い、まったく別の自分に生まれ変わろうとする意思を持たなくてはいけないからです。
そのような覚悟が無ければ、「自分が身に付けている固有のエクリチュール」を対象化することは出来ず、それはとんでもなく面倒なことなのです。

ありていに言えば、日本人みんなで「とにかく自分は責任を取りたくない、みんなもそうでしょ?」とお互い容認し合うのは、「バカなこと」だし「卑怯なことだ」と中島さんは指摘しているのです。
しかし、しかしエクリチュールとして自分の中に染み込んだことに関して、どんなに悪く言われてもピンと来ないのが「エクリチュールの囚人」としての人間のサガです。
日本人特有のエクリチュールの「おかしな点」というのは、そのようなエクリチュールを身に付け損なった「ダメな日本人」にしか見えないのです。

と言うわけで、「エクリチュール」だけでだいぶ長くなったので、「作者の死」はまた別に書いてみたいと思います。
いや、そのうち書くかもしれません。

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2008年6月23日 (月)

まず最初に鯨を見て下さい

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【話題】伝説のスーパーカー「マツダRX500」復活というスレに書き込まれてたレス。

669 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/23(月) 03:48:51 ID:Om/DWl+g0

 スーパーカーブームの終わりの頃、70年代中頃かな?近所で スーパーカーの展示会と(多分)F1の上映会があったんだ。
 父ちゃんに妹と一緒に連れてってもらったけど、会場に着いたらすごい生臭い匂いがして、何だろうって思ったら「まず最初に鯨を見て下さい」
って事だった。
 で、会場に入るとトラックの荷台に明らかに死にかけた鯨がいた。
 ビクンビクン動いてて、何か気持ち悪かった。 
 その後当時流行ったスーパーカーの展示とレースの上映を見て帰った。

 当時の事は今でも覚えてるんだけど、こんなシュールな展示会本当にあったのかって疑問に思った高校の頃、父ちゃんや妹、俺の話聞いた後に行った友達に聞いても誰も覚えてなかった。
 場所は鹿児島の港が近いとこだったと思うんだけどだれか見た人居ないですか(笑)。

検索したらコピペでは無さそうだけど、語句を入れ替えるとコピペの素材に使えそうw
詳細は忘れたけど、割と最近までイベント会場なんかで「鯨の解体ショー」が行われていたそうで、伊集院光のラジオ番組でそんなことを調べてた。
だからこの書き込みも、信憑性がゼロとは言い切れない。

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分析の目的

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例の秋葉原殺傷事件について、何かコメントしようと思ったのだけど、何を言っても野暮になるような気がして止めておいた。
「野暮になる」というのは、どれだけもっともらしく分析してみても「本当の動機」は本人にしか知り得ないわけで、他人が何を言っても「知ったかぶり」にしかならない、ということだ。
そもそも、人間はいつも動機をハッキリさせてから行動しているとは限らず、日々の生活の中でも自分でも「本当の動機」が不明のまま行動することも多い。
だからこそ、本人が意識できないような「本当の動機」を他人が分析する、という余地があるのだが、その分析は「何のためするのか」という「目的」をハッキリさせ、それに沿って行なわれなければ意味がないだろう。

では、その目的とは「本当の動機を解明する」ことなのだろうか?
しかしはじめに書いたように、いかにそれらしく「本当の動機」っぽいことを言ってみたところで、それが「本当の動機」なのかどうか原理的に確認できない。
だから「本当の動機を解明する」は達成の見込みのない目的で、それを追及するのは不毛でしかない。
「目的」というのは、現状を良くしようとするためのものでなければ意味がない。
つまり、「二度とこんな残虐な事件が起きないようにするにはどうしたら良いか?」という「再発防止」を目的にするのであれば、分析することに意味が生じる。

例えば、この事件に対し「自分は犯人と似たところがあって、犯人の気持ちがよく分かる」と分析する人も少なからずいるが、その人が本当に犯人の気持ちが理解できたかどうかは確認しようがない。
しかし、自分の心の中の「ドス黒い部分」を改めて意識することで、「自分だけは突発的な犯罪に至らないよう注意しよう」という気持ちになるかもしれない。
つまり「自分は犯人と似たところがあって、犯人の気持ちがよく分かる」というのはその人の勝手な想像でしかないが、そういう想像をすることが自己反省を促し、「再発防止」という「目的」を達成しているのである。

また「犯人は親にひどい育てられ方をして、それが犯行に繋がったのだ」という分析もあるが、これだけが原因とは限らず、他のさまざま要因とのコンビネーションかも知れず、むしろまったく無関係である可能性だってある。
だがそういう分析をすることで、現に子供にひどい仕打ちをしている親は反省するかもしれないし、虐待されて爆発寸前の子供も「身の破滅に至らないような解決方法」を模索するようになるかもしれない。

派遣社員の問題も同じで、それが本当に犯人の動機なのかはともかく、この事件をきっかけに「派遣社員の搾取システム」の実態が公になったこと事態に意味がある。
その結果、日本の労働条件がまともになれば、少なくともそれがきっかけで起きそうな凶悪事件は防止することができる。
このように、事件の分析というのは「再発防止」という「目的」に沿ってこそ意味がある。

しかし実際は、事件に関して「目的」を持たない「勝手な分析」ばかりが横行しているように思える。
いや「勝手な分析」は趣味としては面白いから、それを「目的」にするのも有りかもしれないが、その場合は「趣味としての分析」であることを自覚したほうがいいと思う。
なぜなら「自覚」のない行為は、時として思いもよらぬ悲惨な結果をもたらすことになるわけで、気を付けるに越したことはないのだ。

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2008年6月21日 (土)

コニカミノルタ・フォトプレミオ授賞式

過去の受賞者として招待されたので行って来ました。
http://konicaminolta.jp/plaza/schedule/2008june/gallery_c_080620.html

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同じビルの高野のフルーツが出てました。

今年の受賞作品にも虫、というかネイチャー系のフォトドキュメンタリーがなくて残念。
そういう写真であればかなりの確率で入選すると思うのですが・・・
ていうか、ぼくは写真のことは良く分からないので、虫でも写ってないとコメントできませんw
資格は35歳以下なので、小学生でも応募可能です。

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この人も過去の受賞者で、受賞者にお祝いの言葉を送ってるところ。
「まぁ、受賞者の大半は写真家として消えちゃうんで、皆さんは何とか生き残ってください。」

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2008年6月20日 (金)

死後の世界

内野雅文1973-2008
企画制作:内野雅文の会[友人有志]

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『ALWAYS 続・三丁目の夕日』

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『ALWAYS 続・三丁目の夕日』DVD豪華版を見たのだけど、去年近所でこんな祭りがあったとは知らなかった・・・しかしこの銭湯には入ったことないです。

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2008年6月19日 (木)

Couteau pour bricolage

フィンランド滞在中の友人から面白い報告を受けた。
以下転載。
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今日、隣のそのまた隣町のスーパーにて買ったカッターナイフを見たら気になる言葉
が見えました。
ヨーロッパなので様々な国の言葉で書いてありますが、フランス語が(フィンランド語
もですが)さっぱり分からない私は英語と比較してみると、どうやらフランス語だけに
付いてくる言葉のよう。
Couteau pour bricolage = ブリコラージュの為のカッター
という所でしょうか。
英語は「Cutter」のみ。フランス人だけは目的を持ってカッターを使うようです。ほ
かドイツ語、オランダ語、ポーランド語、チェコ語、ロシア語もすべて「カッター」
らしき言語のみでした。語、チェコ語、ロシア語もすべて「カッター」
らしき言語のみでした。

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2008年6月17日 (火)

科学は呪術ではない

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先に「科学とは呪術の一種である」というタイトルの投稿をしたのだが、これについていかにもありそうな反論を思い付いたので、さらにその反論を書くことで前回の補足としようと思う。
もっともぼくは、反論の余地がないほど完璧なつもりであの文章を書いたつもりは毛頭なく、自分自身に科学や呪術についての知識が不足していて、理論が粗雑で説得力に欠ける部分があるだろうことは自覚している。
それでも根幹に関わる部分で反論がありえるなら、それについて説明する必要はあるだろう。

ぼくは前回の投稿で、科学を「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」と定義した。
だから「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす」と定義される「呪術」のカテゴリーに含まれるとした。
しかし、「科学というものは直接手を下してないように見えて、その実、直接作用でしかあり得ない」という反論はあり得るだろう。

例えば自動車が走るのは、目に見えない不思議な力が動いているように見えて、その実、ガソリンを入れたら自動車が走るように人間の手で設計し、その設計を元に人間の手で自動車が製造され、自動車のオーナーがその手でガソリンを入れて運転し、走るものなのだ。
だから自動車が走るということは、「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」ではなく、いくつかの複雑な過程を経て実現する「直接作用」なのだ。
オーナーが自動車にガソリンを入れエンジンをスタートさせると、エンジン内でガソリンが燃焼して熱エネルギーが発生し、それを運動エネルギーに変換することで自動車が走る。
自動車が走るためのエネルギーは燃料としてのガソリンに内在していたもので、自動車はガソリンからエネルギーを取り出すための装置で、その装置は自動車のオーナーの「直接作用」によって作動し始める。
「自動車が走る」という現象の背景には明確な因果関係が存在し、だからあくまで人間による「直接作用」なのである。
科学の方法論は、いくつもの複雑な段階を経て作用を及ぼすので、「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」に見えてしまうが、結局のところは「直接作用」なのだ。

科学には「エネルギー保存の法則」というのがあるが、これは科学があくまで「直接作用」であることを示している。
ガソリンにしろ電気にしろ、元々存在していたエネルギーが、運動や熱や光などの別なエネルギーに変化するだけで、「何もないところからエネルギーが発生する」ことはないのである。
だから、エネルギーの追加もなしに永久に運動する「永久機関」というものは実現し得ない。
「永久機関がある」というなら、それは「エネルギー保存の法則」に反するから人間の「直接作用」ではない、ということになる。
つまり「永久機関」が存在するなら、それは「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」としての「呪術」に含まれ、科学とは明確に区別しなければならない。
そうでないと、簡単に「ニセ科学」に騙されてしまうだろう。

というように考えると、科学を「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」として定義し「呪術」の一種にカテゴライズするのは間違っていることになる。
しかしこれはあくまで、科学の範囲内で科学的方法論を実現したり、「ニセ科学」を峻別する際に役立つ理論に過ぎない。
ところが現代では、科学技術の発達による弊害が指摘されるなどし、方法論としての科学の有効性が疑問視され始めている。
この問題に対するひとつの対処に「科学を外側から見つめる」という方法があり得るだろう。
人間が反省するとき「一歩下がって自分を外側から見る」という方法が有効なのと同じことだ。
そして「科学の外」に出てそれを見つめるためには、科学を含むその上位概念としての「メタ科学」を設定する必要がある。

「メタ科学」にはいろいろな概念の設定が可能だろうが、ぼくはとりあえず「呪術」を設定してみたのだ。
科学は呪術と同じく「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼしたい」という人間の願望から発生している。
また「自動車が走る」などの科学的作用は、見掛けの上では「直接手を下さず、離れたところに作用を及んでいる」ようにしか思えない。
そのような「科学内部の理論」とは異なる観点から、科学を定義し直すことで、「科学の外」に出てそれを見る事が出来るのだ。
ものの「定義」は、そのものの「真実」を言い当てた普遍のものではない。
そうではなく、「何がしたいか」という目的や方法論によって、ものの「定義」はさまざまに異なる。
むしろ「あるものを定義する」という行為自体が、ひとつの「方法論」なのだ。
その意味で「科学は呪術の一種である」と定義することは「方法論」のひとつである。
しかし、ぼくはそれを使った「何がしたいか」をまだ明らかにしておらず、いろいろなことの前段階の一部を明らかにしたまでである。

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科学とは呪術の一種である

以前、以下のような内容の記事をアップしたところ、コメント欄でちょっと議論するようになって、その流れで『疑似科学入門』という本も読んでみたのだが、改めて『科学とは呪術の一種である』という考えをまとめてみた。

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科学とは呪術の一種である。
それは1%の真実と、99%の共同幻想によって成立している。

ウィリック・ヒュッケレム

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まず、断っておかなければならないのが、このブログの「偉人の言葉」というカテゴリーの投稿は全部ぼくの創作で、「偉人」の名前も思いつきにデタラメだということで、まぁ、民明書房的なジョークである(笑)
実はかなり以前、ある若手アーティストのブログのテキストが、別の中堅アーティストのブログに引用された上、「さも自分の意見のように語ってるけど、これはさんざん言い古された定型句でしかない」というようなコメントが付けられ揶揄された事があった。
若いアーティストはそのように揶揄されながら「反省します」と恐縮して見せたが、一方この中堅アーティストのブログをチェックしてみると、案の定というべきか、自分自身が無自覚に、「さも自分の意見のように語ってるけど、これはさんざん言い古された定型句でしかない」というようなことを書いていたりするのである。
だからまぁ、お互い様なわけだけど、「とにかくこれは恐ろしいことだ」とぼくは感じ手閉まったのだ。
そこで、何となく頭に浮かんだ「決めのフレーズ」を、すでにある「偉人の言葉」と偽って投稿することを思い付いた。
しかし「ブリコラージュ」をブログの基本コンセプトにした今となっては、そんな「恐れ」はどうでも良くなってしまった。

さて本題であるが、まず前回の投稿と同じように科学を「真理追究のための科学」ではなく、「方法論としての科学」として捉えることにする。
「方法論の科学」は、例えば「なぜ水に熱を加えると沸騰するの?」や「水ってなに?」というような「なぜ?なに?」という問いを無意味なものとして排除する。
そのような「なぜ?なに?」の問いは突き詰めると、同義反復に陥るか、哲学的問題の迷宮に陥るなどして、意味がない。
しかし「どうしたら○○出来るの?」という問いから発し、それを実現するための方法論を探ることには意味があり、それが「方法論としての科学」であるないよう。

科学は方法論である、ということであれば、それは呪術や魔術、魔法、超能力、超科学、などと言った科学以外のものと同じ土俵で比較する事ができるだろう。
なぜなら、科学以外の呪術、魔術、魔法、超能力、超科学、などはそもそも何事かを実現するための「方法論」であるから、その「実効性」について科学と公正に比較判断すればいい。
そうやって改めて比較すると、いや比較するまでもなく、あらゆる方法論の中で科学の実効性はきわめて高いことは明らかだ。
例えば、どこかの宗教団体の教祖が座禅を組んだ姿勢で10cm中に浮いたとして、それが事実だとしても、科学の方法論はその教団全員をジェット機に乗せて海外に連れて行くことも出来るわけで、どう考えても科学の実効性の方が格段に高い。

ところで、呪術、魔術、魔法、など科学以前の時代からある方法論を、便宜上「呪術」というひとつのカテゴリーに含めてみたい。
物事は細かなカテゴリーに分けて細部を論じることも必要だが、一方では大きなカテゴリーに一まとめにして大局的に論じることも大事だからだ。
それで「呪術」というカテゴリーの定義について考えると、「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」ということになるだろうか。
例えば、恨みをいだく相手を直接殴れば、それはたんなる「暴力」だ。
しかし、暴力でかなわない人間が呪文を唱え、離れた相手に危害を及ぼそうとするなら、それは「呪術」となる。
自分の手で金(きん)を加工して芸術的工芸品を生み出すのは「技術」だが、金のないところから金を生み出そうとする錬金術は「呪術」である。
病気というのは人間の目に見えないものであるから、これを治療するのも「呪術」の役目だった。

科学のなかった昔の人間たちは、自らの肉体で直接行動できる方法論の限界を知り、肉体によらない遠隔作用を及ぼす方法論であるところの「呪術」を求めたのである。
このような「呪術」を求める人間の望みが、ある時代のヨーロッパにおいて「錬金術」となり、その錬金術の「より確実な方法論」として「科学」が誕生することとなった。
科学は呪術の延長としてヨーロッパに生じた。
だから科学は「直接手を下さず、離れたところに作用を及ぼす方法論」という定義において「呪術」と同じなのである。
つまり科学とは、画期的に実効性の高い「呪術」の一種だと言えるのだ。
「科学とは呪術の一種である」、と定義するのは「物事を大きなカテゴリーにまとめ大局的に論じる」ためである。

その昔の呪術である「空飛ぶじゅうたん」や「空飛ぶほうき」は物語の中の絵空事だが、科学という呪術から生じた「飛行機」を使えば本当に空を飛べる。
病気治療のための「祈祷」や「まじない」は呪術としての実効性は疑わしいが、科学という呪術から生じた「医療」は病気治療の効果が極めて高い。
というか、科学以前の昔の呪術は著しく実効性が低かった。
だから人々はもっぱら呪術に頼らず、自らの肉体の直接作用によって日々を送っていた。
昔の人はどこに行くにも自分の足で赴き、用件は相手に直接伝え、自分の手で動物を狩ったり畑を耕したり、そのための道具も自分の手で直接生み出していた。
ところが現代は、どこに行くにも自動車や電車を使い、会話は間接的に電話やメールで行い、食料も道具もオートメーションによって生み出されたものを購入したりする。
まさに何をするにも「呪術」を使うような、前代未聞の「呪術全盛」の時代なのである。
映画「ハリーポッター」では不思議な力を操る魔法使いの世界が描かれているが、現実の世界はさらに多様で大きな「魔法」が実用化され、そもそも映画が上映されるということ自体が一種の「魔法」なのである。

この呪術全盛の現代において、科学に取って代わろうと超科学や超能力などの新たな「呪術」も登場する。
しかし、それらは実効性が無いに等しく、だから方法論として一般に認められていない。
この文脈で言うと、超能力や超科学は「科学的に誤りがある」からダメなのではなく、「呪術としての実効性がない」からダメだということになる。
同じように、昔の魔術、魔法、祈祷、まじない、も「呪術としてなんら実効性がない」という観点で否定される。

あらゆる「呪術」の中で、科学だけがこれほどまでの実効性の高さを実現したのは、それを実現するための「手順」を方法論として確立したからだ。
そもそも、あらゆる呪術には「手順」があり、固有の手順を踏むことで「呪術」は実現するとされている。
例えば、「アブラカタブラ」などの呪文を唱えて願いを実現するのも「手順」である。
相手の名前を書いた藁人形に五寸釘を打ち込むのも「手順」だし、神社の階段を昇り降りしてお百度参りするのも「手順」である。
そうやって、さまざまな「手順」を踏むことで呪術的効果は実現するとされていたが、科学以前の「手順」はいずれも実効性がほとんど期待できないものばかりだ。

ところが、ヨーロッパの「呪術」のひとつの錬金術は、さまざまな「手順」を模索する中から、金を生み出すことは失敗したものの、それ以外のさまざまな効果を生み出すための、きわめて実効性の高い「手順」を発見するに至った。
それは当時のヨーロッパの基底にあっ、たキリスト教的世界観と結びついて発生した「要素還元主義」による方法論である。
近代に至る直前のキリスト教の世界観では、「神が創ったこの世界は完全だから、この世界にどんな完全性が隠されているかを明らかにする事が、神の存在証明に繋がる」というような事が方法論として信じられていた。
そして、あらゆる物事を細かい要素に分け、その要素の間にどんな完全な法則が隠されているのか、というようなことを調べ始めたのである。
その中で、物質をさまざまな要素に分解し、それを別の異なる要素と反応させることで、まったく新たな物質を作るというような「手順」が見出されるようになった。
また、あらゆる物質の運動に共通の法則を見出し、その法則よってさらに大きな力を得る「手順」も見出されるようになった。
このように、物事を要素に還元し、その要素を操作するという「手順」を踏むことにより、確実に「呪術」が実現されることが発見され、その方法論が「科学」と名付けられたのである。

科学は物事を要素に還元して操作する「要素還元主義」に基づいており、それが確実に呪術的効果を実現するための「手順」となっている。
この「手順」というのは、本質的には魔法の呪文などの「手順」と変わるところは無い。
映画「ハリーポッター」では、呪文の「手順」を間違えて魔法が失敗するシーンが描かれるが、科学もその「手順」を間違えると映画の中の魔法と同じように失敗してしまう。
科学では水という物質を「H2O分子の集合体」と定義するが、それは「客観的で普遍的な真理」を言い当てたものでは決して無い。
「水はH2O分子の集合体である」と言われても、「H」や「O」などの分子が目に見えない以上、それは「説明概念」でしかない。
しかし確実なのは「「水はH2O分子の集合体である」という「説明概念」をさまざまに応用した「手順」を踏むことで、水を使ったいろいろな「呪術」が実現できることだ。
科学は物事のあらゆる本質を解明したように思われているが、実際にはあらゆる「呪術」を実現するための「手順」が解明されただけに過ぎない。

「呪術全盛」の現代は、その「呪術」を実現するためのさまざまな「呪文」が、人々の間で飛び交っている。
誰もがそうした「呪文」の基礎を学校で学び、適正のある子供は「専門の呪術師」になるための学校に進み、より本格的な「呪文」を数多く覚え、その知識を元に「新たな呪術を実現する呪文」を生み出すための訓練をするのだ。
「ハリーポッター」で描かれた「魔法学校」は物語の中の絵空事だが、現実世界には実現性のある「魔法の呪文」を教える学校が山ほど存在する。
というよりそうでない学校は「詐欺」である。

詐欺といえば、自称超能力たちはいくら呪文を唱えても「テレパシー」や「サイコキネシス」が実現せず、超科学を実現したという科学者がいくら呪文を唱えても「永久機関」は実現せず、だからインチキだと言われてしまうのだ。
つい最近も「水だけで発電し自動車を走らせる」という発明をした人がネットで話題になっている。
そして、そのページにはその「新たな機関」についての解説が載っているが、これこそが「呪文」である。
そして、ぼくは実は化学に疎いので、この「呪文」の真偽はすぐに分かりかねるのだが、ネットにリンクしたコメントを見る限り、この「呪文」は何ら実効性の無いインチキと判断してよさそうだ。
このように、現代は「呪術全盛」の時代であっても、全ての人が全ての分野の「呪術」に精通しているとは限らない。
だから自分の知識ではその実効性の真偽が確かめられない「呪術」については、誰か専門の「呪術的知識」のある人に判断を仰ぐ必要がある。

もちろん、これは広く実効性が認められている「呪術」についても同じで、専門的な「呪文」は素人にはちんぷんかんぷんで、結局は専門の「呪術師」の言うことを信用するしかない。
そして実際にその「呪術」の効果が確認できれば、それを実現した「呪術師」も信頼できる、ということになる。
例えば、ぼくは学生時代は故障した原付バイクを自分で直して走らせる、という趣味にはまっていた事があった。
確かに、マニュアルに従ってエンジンの部品を組み立て、ガソリンを入れて火を入れるとエンジンがかかるのだが、そのエンジン内部での「爆発」というものが直接自分の目で確認できない事が、どうにも釈然としない気分でいた。
「エンジン内部では気化したガソリンをピストンで圧縮し、点火することで爆発エネルギーを得る」という知識はあるものの、それが直接目で確認できない以上、現象的には「不思議な魔法にだまされている」のと変わらないな」などと思ったものだ。
つまり、「エンジン内部では気化したガソリンをピストンで圧縮し、点火することで爆発エネルギーを得る」というのは、「自動車を走らせる」という「呪術」を実現するための「呪文」の一部、もしくは「手順」の断片なのだ。

結局、「科学的事実」とされていることの大半を人間は直接この目で確認できないから、現象としては「目の前で不思議な魔法が使われている」のと変わりがない。
確実なのは、そのような「呪術」を実現するための「手順」が存在すること、そして「手順」の確実性は、そのための専門知識を持った「呪術師」が保障してくれることである。
そして「呪術師」自身も、「呪術」を実現するための「手順」は知り尽くしていても、それがなぜ実現するのかを知ることは出来ない。
現代の人間は、さまざまな「呪術」を実現するための「手順」がハッキリした明快な世界にいる反面、全ての「呪術」がなぜ実現するのかを知ることの出来ない無知蒙昧な世界に生きている。

現代の科学はさまざまなものの「真理」を解明したように思われているが、実際は、さまざまな効果を実現するための「手順」を明らかにしただけに過ぎない。
科学者は、さまざまな科学的効果を実現するための「手順」を知り尽くしていても、その効果がなぜ実現するのかを知ることは出来ない。
科学的な「なぜ?」を追求しても、結局は効果を実現するための「手順」の説明になってしまう。
その意味で、現代の人間は無知蒙昧な世界に生きているといえる。
そして自分たちが無知蒙昧な世界に生きていることを自覚するため、あえて「科学は呪術の一種である」と定義することは有効である。
なぜそれが必要なのかというと、現代は科学という方法論が行き詰っている、方法論としての科学の実効性がほころびを見せている、という認識が人々の間で広まっているからだ。
だから、科学を否定し超科学や宗教に走る人もいるのだけど、それとはまた違ったアプローチとして、「科学は呪術の一種」と定義し、そこから始められる事があるのではないか?と思うのである。

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2008年6月16日 (月)

『疑似科学入門』池内了

だいぶ前に読んだ本だが『疑似科学入門』(池内了 著・岩波新書 刊)を読んでいろいろ思い付いたことについて。

疑似科学にだまされるのは、子供の頃に勉強したはずの科学の基本を忘れ、ちゃんとした理屈で物事を考えるクセを身に付けていないからだ。
例えば「永久機関を発明した」という詐欺師はたびたび現れるのだが、「エネルギー保存の法則」をちゃんと覚えていれば、そういう詐欺に引っかかることはないのだ。
と、言うような正論がこの本にはいろいろ書いてあるのだけれど、正論だけにありきたりな内容でもあるわけで、どうにも退屈に感じてしまう。
内容は正しいのに「退屈」というのはどういうことなのかというと、どうも古臭い感じがするのだ。
まぁ、何でも新しいものだけが良いとは限らないが、ぼくは義務教育で教えられた科学がどうにも「退屈」と感じて勉強に身が入らなかったクチなので、つい新しいほうに飛びついてしまう。

「新しい科学」とは、この本でも批判されていたが「科学をポストモダニズム的な相対主義で捉える立場」である。
もちろん、この本の著者は「ちゃんとした科学者」だから、科学を相対主義で捉える立場の妥当性を認めたうえで、しかし全てを相対主義で片付けてしまうのは行き過ぎだ、と説いている。
確かに、相対主義を楯に「科学では説明できない新エネルギーの開発」みたいな詐欺も出てくるわけで、これは「ちゃんと理屈で考えて」騙されないようにしなければならない。
しかしそうは言っても、著者自身のベースが「科学を相対主義で捉えない立場」にあるのだとすれば、ぼく自身は「古臭い」と感じてしまう。
例えば以下の引用文である。

しかしながら、人間が持つ倫理観や人権思想は絶対に譲る事が出来ない真理の一部をなすものである。また、そこから派生するさまざまな権利や責任も合理的に処せられねばならない。同様に、科学的真理もまた客観的かつ普遍的に成立している事が認められている限り、最大限に受け入れる必要がある。全てを一括して相対主義に投げ込んでしまうのは行き過ぎであり、合理と非合理の弁別が可能な領域は広くあることも認めねばならないのだ。
(P118-119 第3章 疑似科学はなぜはびこるのか ポストモダニズムとニューエイジ・サイエンス より引用)

まったくもって正論だし、疑似科学に対してはそういう態度で望まなくてはならないのだろうが、ぼくとしてはいまひとつ釈然としない。
やはり問題の立て方が「相対主義ではない絶対主義」から出発してるようで、そこがどうにも古臭くて硬い印象だ。
そもそも、ぼくが理解している「科学を相対主義で捉える立場」というものは、それまでの「科学を絶対主義で捉える立場」とは問題の立て方や出発点が異なっている。
科学を絶対主義で捉える立場とは、科学の目的を「客観的かつ普遍的真理の解明」とするものだ。
それに対し、科学を相対主義で捉える立場は、「真理の追究ではなく、当面妥当な方法論を探し出すこと」を科学の目的としている。
つまり「真理を追究する科学」と「方法論としての科学」の二つの立場があるわけだ。

例えば「水に熱を加えるとお湯になる」という現象に対し「それはなぜか?」と問うのが真理を追究する科学だ。
それに対し、どうしたら水をお湯にできるのか?」と問うのが方法論としての科学である。
学校では、「水がお湯になるのは熱を加えることで水分子H2Oが振動するから」などと説明されるが、「なぜ水分子が振動するとお湯になるの?」とか「H2O分子は見えないのになぜあるのが分かるの?」などの質問を繰り返すと、科学の「なぜ?」は哲学的問いの迷宮に入り込んでしまう。
だから「方法論としての科学」はまず「なぜ?」と問うことをせず、ひたすら「どうしたら?」という方法論を追求する。
「どうしたら水をお湯できるのか?」対しては「熱を加えればいい」だし、「どうしたら水に熱を加えられるのか?」に対してはガスに火をつけたり、コイルに電流を流したり、いろいろな方法が提示できる。
この場合も「なぜガスに火がつくのか?」という「なぜ?」を問わずに「どうしたら効率的にガスに着火できるか?」を問うてゆく。
全ての科学的事実は客観的かつ普遍的に成立する真理ではなく、目の前の問題解決のための妥当な方法論として捉えられるのだ。

科学を相対主義で捉える立場は、「全てを一括して相対主義に投げ込んでいる」のではなく、言ってみれば「絶対」の軸足を「目の前の問題」に置いているのだ。
「目の前の問題」は誰にとっても「絶対」として存在しているが、そのあり方は相対的で、だから何らかの形でお互いの「調整」が必要だろう、というのが相対主義としての科学の立場だ。
それに対し絶対主義としての科学は、「目の前の問題」などというあやふやなものに惑わされず、「客観的かつ普遍的な真理」をきっちり見据えることで、誰もが間違うことなく幸福になれる、という思想だ。
まぁ、詐欺としての「疑似科学」は科学的文脈の範囲内で起きていることだから、この本に書かれているように「ちゃんとした科学知識」に照らしてそれを見破る事が必要だろう。
しかしそうした問題解決は小さな範囲のことで、世の中に起きているもっと広くて大きな問題に対しては「真理の追究としての科学」は太刀打ちできないだろうと思う。

ぼくが最近読んでる科学関係の本はどれも、言ってみればポストモダニズム的相対主義によって書かれたものばかりで、だからモダニズム的な「真理の追究としての科学」はとっくに滅びたのかと思っていた。
しかしこの本を読むとそうでもない事がわかり、そこがまた興味深いのだった。
ぼくは科学の専門家でもなく、特に頭がいい人間ではないから、これは頭の良し悪しではなくセンスの問題だと思う。
この本の著者は「ちゃんとした科学の専門家」で、科学を相対主義で捉える立場の妥当性を認めたうえで、しかしそうした立場は「自分のセンスに合わない」と感じているのではないだろうか?
つまり、いかに冷静な科学者であっても、客観的な「正しい・間違ってる」の判断基準以前に、「自分の肌に合う・合わない」というような個人的感情をベースにせざるを得ないのだ、ということが分かった気がする。
これは、「科学者たるものが個人的感情で判断を誤るべきではない」という意味ではなく、「全ての科学的判断は、個人的感情を出発点にするしかない」ということだ。

例えば、「科学技術で何もかも自動化されたほうが便利で幸福だ」と感じる人もいれば、「なにもかも自動化されたおかげで、人間のもっていた大切な何か失った」と感じる人もいるだろう。
つまり科学というのは、「何が真実か」という普遍性以前、に「何をどうしたいのか」という個人の感情の上に成り立っていると言える。
そして、感情やセンスの違うもの同士は、そもそもの土俵が違うので「理屈で話し合う」ということが出来ない。
詐欺としての「疑似科学」は、所詮は同じ「科学の土俵」の中のことだから、その真偽を判定するのは簡単だ。
しかし「土俵が違う」場合の問題に対し、「方法論としての科学」はどのように対処するのか・・・?それは知らないけど(笑)、素人ながら科学についてそういう風に考えるほうが「自分の肌に合う」と感じてしまうのだ。

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2008年6月 2日 (月)

ブログタイトル変更

これまでのブログのタイトルがまどろっこしくて覚えにくいようなので変更した。
「ブリコラージュ」と言う言葉を入れたかったし、開催中の個展のタイトルが「金沢をブリコラージュする。糸崎公朗写真展」なのでこれをアレンジしてみた。
ブリコラージュの本来の意味と実践例はデジカメWatchに連載の「切り貼りデジカメ実験室」をご覧いただきたい。

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