« まず最初に鯨を見て下さい | トップページ | 「東京昆虫デジワイド」 »

2008年6月29日 (日)

ロラン・バルトの「エクリチュール」

Rolandbarthes2
今、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を再読してるんですが、ガイジンの思想家の名前がなかなか覚えられないので、「顔と一緒なら覚えられるかも」ということで貼っときます。
画像はroland-barthesで検索するといろいろ出てきます。

ロラン・バルト(Roland Barthes,1915-1980)、フランスの思想家で、人間のあらゆる営みを「記号の営み」として捉えた記号学の人です。
ロラン・バルトが発見したさまざまな「記号の営み」のうち、重要とされるのが「エクリチュール」と「作者の死」です。
エクリチュールは一般的には「書き言葉」と訳され、「パロール(話し言葉)」と対比されます。
しかしエクリチュールは思想家によってさまざまな解釈がなされ、ロラン・バルトの「エクリチュール」もまた独特の概念です。

とりあえず自分の理解の為に、バルトの「エクリチュール」をイキナリ応用してみます。
哲学者の中島義道さんは自著の中で、たびたび「街中を流れるスピーカー音がうるさい」ことを訴えます。
そして大多数の日本人が「街中を流れるスピーカー音」を聞き流していることに腹を立ててます。
これは、大多数の日本人が身に付けている「エクリチュール」を、中島義道さんだけが身に付けていない、ということになります。

例えば、たいていのエスカレーター付近では「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送がされてます。
このメッセージを、文字通りの意味で解釈すると「エレベーターの正しい乗り方の解説」という内容を示す「記号」です。
しかし日本人のうちで、このメッセージを「文字通りの意味」で解釈している人はほとんどいないでしょう。
なぜなら、そんな風に解説されなくても、エレベーターくらい誰でも乗れるからです。
だから大多数の日本人はこのメッセージを聞き流しています。
「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」というメッセージは「聞き流すもの」という記号として解釈されているのです。
その結果、このメッセージは誰も聞いていない=誰にも聞こえないのです。

誰にも聞こえないメッセージをなぜ流すか?というと、そこにも「記号的意味」があります。
それはエスカレーターを管理する側の「事故かあったときの責任回避」の意味です。
客がエスカレーターに「間違った乗り方」をしたのが原因で起きた事故を想定した場合、管理者側が事前に「エスカレーターの正しい乗り方」をアナウンスしておけば、その範囲内で管理者側の責任を問われることはありません。
そのような「記号的意味」をこめて、管理者側は放送を流すのです。
だからこの記号的意味は、実際に事故が起きたとき以外の通常時は文字通りの無意味です。
ですから通常は「聞き流すもの」という記号として働きます。

「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」というメッセージは、もっぱら文字通りの意味としては機能しません。
それは「管理者の責任回避」と「通常は聞き流すもの」という二つの意味を持つ「記号」として機能します。
エスカレーター付近の放送に限らず、日本ではいたるところに「文字通りの意味」ではなく、「管理者の責任回避」と「通常は聞き流すもの」という意味として働く、いろいろな種類の放送が流されています。
大多数の日本人が「街中を流れるスピーカー音」をそのような記号として捉えています。

しかし実際、エスカレーターに間違った乗り方をして事故が起きる可能性なんて、どれくらいあるのでしょうか?
それは管理者が「無意味な放送」を続けてまで警戒すべき事故なんでしょうか?
同じように事故を警戒するなら、「階段の正しい使い方」や「フロアの正しい歩き方」を解説した放送も流したほうがいいんじゃないでしょうか?

などと考えるまでも無く、エスカレーターでの事故を警戒して放送を流すのは、明らかに「心配し過ぎ」です。
それ以外の日本のいたるところで流される「文字通りの意味の無い放送」はすべて「心配し過ぎ」なものと解釈できます。
単なる「心配し過ぎ」だったら意味が無いということで、街中の無意味な放送はすべて撤去したほうが合理的です。

しかし実際はそういうことにはならず、「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送も、新しく設置されたエレベータにはたいてい流されます。
なぜこんなことになるかというと、「心配し過ぎ」のメッセージには、もう一段深いところに「記号的意味」があるからです。

それは「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」というメッセージです。
日本人というのは、仕事をする上で「とにかく責任を取りなくない」と考える「癖」を持ちます。
これはいってみれば文化的な習慣で、だから日本人の多くが共有しています。

だからエスカレーターの管理者は「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」という意味のメッセージを流し、それを聞く人は「聞き流す」という態度によって、そのメッセージを「容認」します。
なぜそれが容認できるのかというと、それを聞く大多数の日本人もまた、それぞれの立場から「私はとにかく責任は取りたくない、皆さんもそうでしょう?」という内容のメッセージを日常的に流しているからです。
「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送は、そのように複雑な「記号の連鎖」として受け取られます。

日本人に共通の独特の考え方、感じ方、振舞い方、というのはさまざまな「記号の連鎖」で出来ており、そうしたものをロラン・バルトは「エクリチュール」と名付けました。
エクリチュールとは、「ある集団らしく振舞うための、記号の連鎖」です。
日本人は「日本人のエクリチュール」を身に付けているから、外国人から「変な民族」だと思われたりします。
だから日本人がアメリカ人の中で違和感なく暮らそうと思ったら「アメリカ人のエクリチュール」を身に付ければいいのです。
「アメリカ人のエクリチュールを身に付ける」とは、単に英語が話せるだけでなく、アメリカ人的なものの考え方、感じ方、振舞い方を「記号の連鎖」として身に付ける、ということです。
でも、一度身に付いた「日本人のエクリチュール」は完全には捨てられないでしょうから、どうがんばっても「ちょっと変な人」と思われるでしょう。

エクリチュールは「国」だけに限らず、さまざまな集団にあるものです。
「都会人のエクリチュール」があり、それにあこがれる人は「田舎者のエクリチュール」を身に付けてたりします。
「女性のエクリチュール」があり、それが完全に身に付かない男性の「オカマのエクリチュール」があります。
子供が友達の家に泊まりに行って、何となく落ち着かないのは「家族のエクリチュール」が何となく違うからです。
その子供は、成長するにつれ「家族のエクリチュール」がうっとおしくなり「中学生のエクリチュール」や「秋葉原に集う若者のエクリチュール」を身に付けたりします。

エクリチュールには「選択の自由」があります。
自分が「何になりたいか」の選択はその人の自由であり、それは「固有のエクリチュール」を選択することでもあります。
しかしエクリチュールについて自由があるのは選択についてだけで、それ以外にすべてにおいて、人は「エクリチュール」というものに縛られます。
都会人になった田舎出身者は「都会人のエクリチュール」に縛られなくてはいけません。
なぜなら「都会人のエクリチュール」からはみ出したとたん、「田舎者」になってしまい、田舎者とは「田舎者のエクリチュール」に縛られた人だからです。

エクリチュールに縛られない者は、人間以外の動物しかあり得ません。
しかし動物は、その種に固有の「本能」に縛られています。
人間は本能にはそれほど縛られていませんが、その代わり「エクリチュール」に縛られます。
「エクリチュール」とは、人間の営みの結果に生じた「本能のようなもの」です。
カエルはカエルの本能に従うのみですが、人間はさまざまな本能(エクリチュール)を選択することによって、カエルにも、ライオンにも、ミミズにもなれます。
しかし、一度カエルを選択したら、カエルの本能(エクリチュール)に従わざるを得ないのです。

さて、先に例として挙げた、エスカレーター付近での「ステップの中央に乗り、ベルトにおつかまりください」という放送には、大多数の日本人が身に付けている固有のエクリチュールの「一端」が現れています。
日本人固有のエクリチュールを身に付けた人にとって、その記号は「一連の記号の連鎖」の中に自然と組み込まれ、意識化されることはありません。
だから、中島義道さんが「無意味な放送はバカみたいで耳障りだから止めたほうがいい」と訴えても、大多数の日本人はその訴えの意味さえ理解できないハズです。
なぜなら、その訴えの意味を理解するには、日本人としての自分の存在そのものを疑い、まったく別の自分に生まれ変わろうとする意思を持たなくてはいけないからです。
そのような覚悟が無ければ、「自分が身に付けている固有のエクリチュール」を対象化することは出来ず、それはとんでもなく面倒なことなのです。

ありていに言えば、日本人みんなで「とにかく自分は責任を取りたくない、みんなもそうでしょ?」とお互い容認し合うのは、「バカなこと」だし「卑怯なことだ」と中島さんは指摘しているのです。
しかし、しかしエクリチュールとして自分の中に染み込んだことに関して、どんなに悪く言われてもピンと来ないのが「エクリチュールの囚人」としての人間のサガです。
日本人特有のエクリチュールの「おかしな点」というのは、そのようなエクリチュールを身に付け損なった「ダメな日本人」にしか見えないのです。

と言うわけで、「エクリチュール」だけでだいぶ長くなったので、「作者の死」はまた別に書いてみたいと思います。
いや、そのうち書くかもしれません。

--

|

« まず最初に鯨を見て下さい | トップページ | 「東京昆虫デジワイド」 »

コメント

こんにちは。「寝ながら、、」を手に入れました。まだ未読ですが、ボチボチ読んでみます。それにしてもロランバルトはかっこいいですね。

投稿: 山方 | 2008年6月30日 (月) 18時47分

『顔で覚える現代思想』ってタイトルの本作ったら売れるかも・・・?

投稿: 糸崎 | 2008年6月30日 (月) 19時42分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ロラン・バルトの「エクリチュール」:

« まず最初に鯨を見て下さい | トップページ | 「東京昆虫デジワイド」 »