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2008年8月

2008年8月30日 (土)

身体を包む「白い光」

先の投稿「自分というフィクション」は思い付きにまかせた乱雑なテキストだが、そのうちの「白い光」の概念いついて、ちょっと丁寧に説明してみる。
これは佐々木正人さんの「アフォーダンス理論」についての著書に書かれていたことを、自分なりに消化して書いたものだ。
これを書くに当たり、佐々木正人さんの著書を改めて読もうと思ったのだけど、本棚に見当たらず・・・
なので、記憶と感覚に頼ったテキトーな内容である。
間違いや疑問質問があれば、コメント欄に書いて欲しい。

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これはデジタル一眼レフで撮影した写真である。
デジタル一眼レフに装着したレンズは、カメラ内の撮像素子(CCDやCMOS)に「像」を投影し、それを記録したものが「写真像」となる。
この写真像から、われわれ人間はさまざまな「情報」を読み取ることができる。
例えば「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などさまざまな情報が、この写真の中から読み取ることができる。

「写真像」からさまざまな情報を読み取ることができるのは、「写真像」がそもそも肉眼の「網膜像」を模したものであるからだ。
われわれ人間は肉眼のレンズ(水晶体)により投影された「網膜像」から、さまざまな情報を得て日常生活を送っている。
例えば、この写真と同じ場所をぼくが歩いているとき、ぼくは自分の肉眼の「網膜像」から「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などの情報を読み取り、自分の居場所を把握し、さらに進むべき方向を判断しているのである。

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次は、同じ場所を同じデジタル一眼レフで撮影した写真だが、今度はわざとレンズのピントを外している。
いわゆるピンボケ写真なのだが、写真に写る「もの」の境界があいまいになり、そこから的確な情報を読み取ることが困難になってしまっている。
このような状態は、ぼくのような強度の近視眼の人間の「網膜像」と同じである。
ぼくはメガネを掛けないとすべてがピンボケに見えるので、「網膜像」から的確な情報を得ることができず、メガネなしでは生活に支障をきたしてしまうのだ。 

このようなピンボケ像がなぜできるのかというと、「光は物体に当ると全方向に拡散しながら反射する」という性質があるからである。
そしてレンズには、そのように拡散した物体からの反射光を束ね、平面上の一点に集中させる働きがある。
それにはレンズの「焦点」を合わせる必要があるのだが、「焦点」がずれると光は元の性質に従って拡散し、写真像(網膜像)は「ピンボケ」になる。
さて、この「ピンボケ」を、さらに押し進めたらどうなるか?
そこでデジタル一眼レフからレンズそのものを取り外し、同じ場所でシャッターを切ってみることにする。

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これがデジカメのレンズを外して撮影した写真だが、見てのとおり「真っ白」である(便宜上、黒枠を付けてはいるが)。
つまり、光を一点に集める働きをするレンズが無いと、物体からの反射光はデジカメの撮像素子上で混じり合い、このような「白い写真」になる。
光には赤から青紫までのさまざまな波長の「色彩」が含まれるが、その全てが交じり合うと「白」になる性質がある。
この「白い写真」が何を表しているかというと、それは「カメラの外の世界」ある。

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ここで最初に示した写真を再び見てみよう。
この写真は、レンズによって投影された「像」であり、その「像」はカメラ=暗箱に閉じ込められている。
そして、そのカメラ=暗箱の「外」はどうなっているのか?というと、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に包まれているのである。

日常的な感覚では、カメラ=暗箱の外には「現実世界」が広がっている、と誰もが思うだろう。
現にぼくはこの写真に写っている場所に立ってカメラを構え、シャッターを切っている。
だからカメラ=暗箱の外には、現実としての「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などが存在する。
カメラは現実に存在する「もの」のひとつなのである。

しかし、はじめに書いたとおり、人間はそのような「もの」の存在を「網膜像」からの情報で判断している。
つまり、人間が「現実」だと思って「見ているもの」の全ては、肉眼に写る「網膜像」なのである。
「網膜像」は肉眼=暗箱に閉じ込められている。
だから人間は肉眼=暗箱の「外」の世界を肉眼で見ることができない。
肉眼では見ることのできない「肉眼の外の世界」ではあるが、それがどんなものであるかは理論と実験により導き出すことができる。
つまりそれが、「レンズの無いカメラ」で撮影された、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に満ちた世界である。

人間の身体は、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に包囲されている。
その「白い光」には、さまざまな「情報」が潜在的に含まれているが、それらの「情報」はすべて「相殺」されており、そのままでは利用不可能だ。
しかし、レンズには「物体の一点から拡散する光の束を一点に集める」性質があり、その性質を利用すると「暗箱の中の平面」に「像」を写し出すことができる。
そしてこの「像」は、光の当たるそれぞれの物体と「対応関係」にある。
これによってこの「像」を、物体を知るための「情報」として利用することが可能となる。

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もっとも単純な情報は、「一点から発せられる光」だろう。
これは夜間の懐中電灯を撮影した写真で、太陽からの反射光ではないが「拡散する光」であることには違いない。
だから同じ光源を「レンズ無し」で撮影すれば「白い写真」になる。
しかしこの写真はもちろんレンズを通して撮影しているので、「一点の光源」と「それ以外の闇」がキレイに分けられている。
レンズによる「拡散光を一点に集中する」という働きは、「白い光をさまざまな色彩に分ける」働きと同じである。
この写真の「像」は、「一点の光源」と「それ以外の闇」が分けられているおかげで、現実を知る「情報」として利用できる。
例えば、暗い夜道でもこの懐中電灯をもっている人の後について歩けば、無事家に帰ることができるのである。

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そしてさらに複雑な情報を含むのが、何度も示すこのような「像」である。
これは人間を包囲する「白い光」から、レンズの働きによってによって取り出された、「色彩ごとに分けられた光の束」である。
レンズは「白い光」から、レンズ口径に入射する分の一定の「光の束」を取り込み、それを屈折の働きで色彩ごとに分けるのである。
「色彩ごとに分けられた光の束」の「断面」が「像」である。

この「像」は、現実のさまざまな「もの」との対応関係にあり、だから「情報」として利用できる。
例えば、この写真に写っている実際の場所をを自分が歩いているとすると、自分が前に進むごとに手前の電柱は大きく見え、後ずさりすると小さく見える。
「現実の電柱」と「網膜像の電柱」には、そのような「対応関係」があり、だから「情報」として利用できる。
さらに電柱に歩み寄ると、目で見るだけでなく手で触ることもできるし、その気になれば匂いも味も確認できる。
目で見ながら手で触り、そのざらざらした触感を確認し、コンクリート独特の埃っぽい匂いを嗅げば、「電柱の存在」をさらに具体的に確認することができる。

しかし、実は以上の説明には重要な「間違い」が含まれている。
今、自分の目に写る電柱の存在を、触覚や嗅覚など他の五感を動員して確認する、という説明をした。
だが改めて考えると、「五感」を動員し確認した「現実の電柱と思われるもの」は、「五感を通して得られた情報」でしかないのだ。
そしてその「情報」が「電柱の存在」と同じである保障はどこにも無い。
目の前に灰色の電柱があり、それが円筒形でざらざらした感触の物体で、コンクリート特有の匂いがしても、それは「視覚+触覚」+嗅覚」による「情報」でしかない。
人間は「現実」を直接認識することはできず、「現実」と思われるものは全て五感に現れた「情報」でしかないのだ。

つまり、先の説明の間違いを訂正すると、人間の五感に現れた「情報」と「現実」に対応関係があるわけではない。
そもそも人間は「現実そのもの」を認識できないのだから、「現実」と「情報」の対応関係も認識することはできないのだ。
しかしそうは言っても、自分が電柱に近づくにつれ電柱は大きく見え、ざらざらした触感があり、独特の匂いもする・・・という一連の「対応関係」が確認できてしまう。
これは実は、五感に現れるさまざまな「情報」の間に「対応関係」があることの現れなのだ。

目の前の電柱の「実在」は確認することができない。
しかし、「視覚情報としての電柱」は「自分の身体移動の情報」と対応しながら変化する。
そのような「情報の対応関係」を読み取ることで、「電柱の存在」を直接認識できなくとも、とりあえず電柱にぶつからないように歩くことはできる。
人間は「現実そのもの」や「ものの実在」を認識することができないにもかかわらず、「情報の対応関係」を読み取ることで(それを現実と勘違いしながら)日常生活を送っているのである。

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2008年8月18日 (月)

「自分」というフィクション

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以下、用語の使用などデタラメもいいところだが、とりあえず書かないと前に進まない気がするので書いておく。
機械に例えると、素人工作の機構試作のようなものだろうか?
改良を重ねれば何とか使える「思考の道具」になるかもしれないが、全くのデタラメのガラクタに終わる可能性もあるから要注意だ。

高田明典さんの『世界をよくする現代思想入門』を再び読んでいるのだが、ここには非常に難しいが大切だと思われることが書いてある。
それは「自分」と「他者」についての問題についてなのだが、それの何が重要なのかと言うと、芸術の問題であるからだ。
芸術とは何か?と言うことは、つまりは作品を制作する作者としての「自分」と、それを受け止める「他者」との問題であるだろうと、いろいろあってそのように考えたわけだ。

端的に言うと、自分にとって「自分」はリアルな存在だが、それは単なるフィクションであって、「自分」などというものは「ない」と言うのが、現代思想上に見出された結論であるらしい。
これは日常的な感覚からだいぶかけ離れていて、その理論も一筋縄ではいかないほど難解なものだ。
この本はあくまで「入門書」であるから、その難解な思想のほんの一端が大まかに解説されているだけで、本格的に理解するにはさらにいろいろな本を読む必要があるかもしれない。
しかし、それも面倒と言うか、ぼくはせっかちなので早く結論が欲しいので、ともかくこの『世界をよくする現代思想入門』だけから、何とか自分なりの言葉で理解してみようと試みたのだった。
「自分なりの言葉で理解」とは、自分なりの「例え話」でそれを理解すると言うことで、例え話は「自分の中にストックした知識」のブリコラージュである。

ウィトゲンシュタインによると「自我」とは「超越確実性言明の束」ということらしい。
これは分かりやすい言葉で表現すれば、「無根拠の根拠の束」ということだ。
例えば、ぼくは自分という存在の根拠を一言で表すことが出来ず、「糸崎公朗という名前だ」とか「人間だ」とか「男だ」とか「フリーで写真を撮って生活してる」など、さまざまな根拠を寄せ集めた「束」として捉えている。
そしてそれらの「自分の根拠」はどれも、改めてよく考えると「無根拠」なものばかりなのだ。
自分にとって「糸崎公朗という自分の名前」は疑いようの無い自分の根拠のように思える。
しかし、もしかすると「今この瞬間」において、自分は頭を強く打って記憶を失い、他人の名前を自分の名前と勘違いしているのかもしれない。
「人間だ」と言うのも「今この瞬間」における勘違いで、次の瞬間夢から覚めたら「自分は高度に知能が発達した類人猿だった」ことが思い出される可能性はゼロではない。
これに限らず、あらゆる「自分の根拠」は厳密に疑い出したらキリがない程度に、疑わしいのである。
しかし、それをいちいち疑ってたら、まさに発狂してしまうだろう(こうやって例を挙げているだけでも不安な気分になる)。
だから、人間は「自分の根拠」を疑うことをある程度のところで切り上げた「無根拠の根拠の束」により「自分」を形作っている。

その「無根拠の根拠の束」は「言語」によって形作られている。
そもそも人間は「言語」によって世界を認識する。
人間にとって「存在するもの」とは「言語に置き換えられるもの」であり、人間は「言語」と言うフィルターを通してのみ、世界を把握することが出来るのだ。
そのように認識した「言語」の中から、人間は任意の「無根拠の根拠」をセレクトし、それらを束ねることで「自分」を形成する。

「言語」とはシステムであり、そのシステムは「自分」が生まれる前から存在している。
つまり「言語」は、「自分」以外の「他者」により、あらかじめ用意されているものである。
「自分」以外のあらゆる「他者」が言葉を交わすことで、「言語というシステム」は成立している。
いや、たとえ言葉が通じない異国のものどうしてあっても、または考え方が根本的に違いお互いが受け入れあうことが無いもの同士であっても、それらすべてを含めた「言語というシステム」が存在する。
人間個体は、「言語というシステム」の中で、「言語というシステム」の一環として生きている。
人間個体の生物学的な肉体は、全人類が共有する巨大な「言語というシステム」に、寄生するような形で生存している。

人間個体のそれぞれ、つまり「自分」にとっての「他者」は、「言語というシステム」からそれぞれの仕方で任意の「無根拠の根拠の束」をセレクトし、「自分」を形成している。
そのように、それぞれが「自分」を形成した「他者」たちにより、「言語というシステム」が稼動し続ける。
そのように形成され、稼動し続ける全人類共有の「言語というシステム」に、人間個体の身体、あらゆる臓器や細胞の一つ一つが「寄生」して生存しているのだ。

「自分」とは何か「実体のあるもの」ではなく、「無根拠の根拠の束」という「現象」であって、それは全人類が共有する「言語というシステム」、という「場」において発生する。
日常的な実感としての「これが自分だ」という「根拠」はすべて「言語」で表されるものであり、それは全人類が共有する「言語というシステム」に還元できる。
つまり日常的な実感としての「自分」の本体は「自分」には無く、「自分」は「他者」たちによって形作られる「現象」なのだ。

以上の事について、自分は「アフォーダンス理論」の例えによって、理解してみたつもりだ。
アフォーダンス理論によると、人間の身体は「白い光」に包囲されている。
一筋の太陽光線が物体の一点に当たると、全方位に拡散しながら反射する。
人間の周囲の世界は、さまざまな物体から拡散した光が錯綜し、あらゆる色彩が相殺された「白い光」で満たされる。
そして、人間にとって「ものが見える」とは、レンズの働きにより「白い光」の中から「任意の点から反射した、一筋の光」を選り分けることである。
物体の一点から拡散する光のうち「一筋の光」のみをレンズが選り分けることで、網膜に「像」が浮かび上がる。
「像」として選り分けられた光は「情報」として役立てることが出来る。
その情報は、環境に満ちた「白い光」の中に埋め込まれていたものだ。

この説明に倣うと、人間の身体は「言語というシステム」に包囲されている、と言う事が出来る。
「言語というシステム」はあらゆる個別の言語を包括するシステムだから、全体ではあらゆる「意味」が相殺された「白い言語」と表現することが出来る。
「白い言語」には、あらゆる言語の可能性が含まれている。
その「白い言語」の中から、例えば「日本語」や「英語」などの言語が生じ、そこから人間個体の「無根拠の根拠の束」も生じる。
つまり「自分」という存在は、「白い言語」の中から眼球のレンズが光を集めるように、「無根拠の根拠」を束ねる働きがあるのだ。
そして、人間の眼球が網膜で光を受け止めるように、「自分」は「自分の根拠」を無根拠のままに「受け止める」のだ。
光はとこまでも直進するが、眼球で束ねられた網膜上で停止する。
同じように「根拠」はどこまでも無根拠なのだが、「自分」により束ねられた時点で「根拠を遡ること」が停止されるのだ。

それでまぁ、何なのかというと、「自分」というありありとした存在感が、じつは肉眼に写る「網膜像」のようなものでしかないとすれば、あまり「自分」に固執して自己主張する必要もないのかも?などと思ったわけだ。
こんな風に締めると、何か当たり前のことを言ってるに過ぎないようだが、これは考え中の不完全な概念なのでまた今度・・・

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2008年8月 9日 (土)

オーギュスト・コント

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オーギュスト・コント(1798~1826 フランス)

「実証主義」の哲学者で、社会学の創始者。
実証主義は、「実証出来ないものは、存在すると考えるに値しない」と言うような、現代ではごく常識的な考え方である。
実証は、個々の事例から共通の法則を見出す「帰納」と、その法則を個々の具体例に実践的に応用する「演繹」によってなされる。
科学的法則とは、それが実際に応用できてこそ「実証」される。
実証された科学技術は、さまざまな形で人類の幸福に役立てることが出来、それこそが科学の目的なのである。
現代でも「神様」や「幽霊」の存在を信じている人はいるが、その存在は実証することが出来ないので、だから大多数の人間はその存在を疑わざるをえない。
また、実証できない「霊」を排除しようとする行為なども「意味がない」とされる。
現代につながる科学技術が生まれた19世紀には、まだ霊の存在などが科学者の間で信じられていて、「心霊写真」や「霊界ラジオ」の研究もまじめに行われていた。
しかし実証主義の立場から、霊のような実証不可能な要素は次第に科学から排除されていった。
しかし現代でも、自動車を購入したら事故が起きないようにお払いしてもらったり、お守りをぶら下げたりする人もけっこういたりして、不思議なことである。

*コントは特に心霊について研究した人じゃなさそうですが、自分のためのメモとしてテキトーに書いてます。

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フランシス・ベーコン

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フランシス・ベーコン(1561~1626 イギリス)

近代科学は、単に「真理」を追究することを目的にするのではなく、「自然をコントロールし、人々に幸福をもたらす」ことを目的としている。
この考えを「自然支配」と言う。
自然支配は、まず自然の現象を観察することから始まる。
個々の自然現象をつぶさに観察すれば、そこから共通した「自然の法則」を見出すことが出来る。
このような思考法を「帰納」と言う。
「帰納」によって見出された「自然の法則」は、これから起こりうる自然現象のコントロールのために役立てることが可能となる。

科学が存在する以前の人類は、病気や怪我をしたら死ぬしかないし、川が氾濫したら家や田畑を捨てて逃げるしかない・・・つまり、自然に支配されていた。
その支配から逃れ、人間がより幸福になるためには、自然の原理を知り、それを支配することが必要である。

「自然支配」するには、自然のどのような法則を明らかにするのか、その対象を決める必要がある。
だから科学は「物理学」や「生物学」や「社会学」などの専門領域に分かれている。
それまでの宗教や哲学が「世界全体」を対象としているのに対し、科学はその目的に応じて分科しているのが特徴と言える。

こういった、近代科学の基本を打ち立てたのが、フランシス・ベーコンなのだが、現代では科学にまつわるさまざまな問題が発生し、「自然支配」への素朴な信頼も揺らいでいる。

*以上、自分のためのメモとして、少ない資料から適当にまとめただけなので、間違いなどあるかもしれませんが、ご了承を。



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