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2008年8月18日 (月)

「自分」というフィクション

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以下、用語の使用などデタラメもいいところだが、とりあえず書かないと前に進まない気がするので書いておく。
機械に例えると、素人工作の機構試作のようなものだろうか?
改良を重ねれば何とか使える「思考の道具」になるかもしれないが、全くのデタラメのガラクタに終わる可能性もあるから要注意だ。

高田明典さんの『世界をよくする現代思想入門』を再び読んでいるのだが、ここには非常に難しいが大切だと思われることが書いてある。
それは「自分」と「他者」についての問題についてなのだが、それの何が重要なのかと言うと、芸術の問題であるからだ。
芸術とは何か?と言うことは、つまりは作品を制作する作者としての「自分」と、それを受け止める「他者」との問題であるだろうと、いろいろあってそのように考えたわけだ。

端的に言うと、自分にとって「自分」はリアルな存在だが、それは単なるフィクションであって、「自分」などというものは「ない」と言うのが、現代思想上に見出された結論であるらしい。
これは日常的な感覚からだいぶかけ離れていて、その理論も一筋縄ではいかないほど難解なものだ。
この本はあくまで「入門書」であるから、その難解な思想のほんの一端が大まかに解説されているだけで、本格的に理解するにはさらにいろいろな本を読む必要があるかもしれない。
しかし、それも面倒と言うか、ぼくはせっかちなので早く結論が欲しいので、ともかくこの『世界をよくする現代思想入門』だけから、何とか自分なりの言葉で理解してみようと試みたのだった。
「自分なりの言葉で理解」とは、自分なりの「例え話」でそれを理解すると言うことで、例え話は「自分の中にストックした知識」のブリコラージュである。

ウィトゲンシュタインによると「自我」とは「超越確実性言明の束」ということらしい。
これは分かりやすい言葉で表現すれば、「無根拠の根拠の束」ということだ。
例えば、ぼくは自分という存在の根拠を一言で表すことが出来ず、「糸崎公朗という名前だ」とか「人間だ」とか「男だ」とか「フリーで写真を撮って生活してる」など、さまざまな根拠を寄せ集めた「束」として捉えている。
そしてそれらの「自分の根拠」はどれも、改めてよく考えると「無根拠」なものばかりなのだ。
自分にとって「糸崎公朗という自分の名前」は疑いようの無い自分の根拠のように思える。
しかし、もしかすると「今この瞬間」において、自分は頭を強く打って記憶を失い、他人の名前を自分の名前と勘違いしているのかもしれない。
「人間だ」と言うのも「今この瞬間」における勘違いで、次の瞬間夢から覚めたら「自分は高度に知能が発達した類人猿だった」ことが思い出される可能性はゼロではない。
これに限らず、あらゆる「自分の根拠」は厳密に疑い出したらキリがない程度に、疑わしいのである。
しかし、それをいちいち疑ってたら、まさに発狂してしまうだろう(こうやって例を挙げているだけでも不安な気分になる)。
だから、人間は「自分の根拠」を疑うことをある程度のところで切り上げた「無根拠の根拠の束」により「自分」を形作っている。

その「無根拠の根拠の束」は「言語」によって形作られている。
そもそも人間は「言語」によって世界を認識する。
人間にとって「存在するもの」とは「言語に置き換えられるもの」であり、人間は「言語」と言うフィルターを通してのみ、世界を把握することが出来るのだ。
そのように認識した「言語」の中から、人間は任意の「無根拠の根拠」をセレクトし、それらを束ねることで「自分」を形成する。

「言語」とはシステムであり、そのシステムは「自分」が生まれる前から存在している。
つまり「言語」は、「自分」以外の「他者」により、あらかじめ用意されているものである。
「自分」以外のあらゆる「他者」が言葉を交わすことで、「言語というシステム」は成立している。
いや、たとえ言葉が通じない異国のものどうしてあっても、または考え方が根本的に違いお互いが受け入れあうことが無いもの同士であっても、それらすべてを含めた「言語というシステム」が存在する。
人間個体は、「言語というシステム」の中で、「言語というシステム」の一環として生きている。
人間個体の生物学的な肉体は、全人類が共有する巨大な「言語というシステム」に、寄生するような形で生存している。

人間個体のそれぞれ、つまり「自分」にとっての「他者」は、「言語というシステム」からそれぞれの仕方で任意の「無根拠の根拠の束」をセレクトし、「自分」を形成している。
そのように、それぞれが「自分」を形成した「他者」たちにより、「言語というシステム」が稼動し続ける。
そのように形成され、稼動し続ける全人類共有の「言語というシステム」に、人間個体の身体、あらゆる臓器や細胞の一つ一つが「寄生」して生存しているのだ。

「自分」とは何か「実体のあるもの」ではなく、「無根拠の根拠の束」という「現象」であって、それは全人類が共有する「言語というシステム」、という「場」において発生する。
日常的な実感としての「これが自分だ」という「根拠」はすべて「言語」で表されるものであり、それは全人類が共有する「言語というシステム」に還元できる。
つまり日常的な実感としての「自分」の本体は「自分」には無く、「自分」は「他者」たちによって形作られる「現象」なのだ。

以上の事について、自分は「アフォーダンス理論」の例えによって、理解してみたつもりだ。
アフォーダンス理論によると、人間の身体は「白い光」に包囲されている。
一筋の太陽光線が物体の一点に当たると、全方位に拡散しながら反射する。
人間の周囲の世界は、さまざまな物体から拡散した光が錯綜し、あらゆる色彩が相殺された「白い光」で満たされる。
そして、人間にとって「ものが見える」とは、レンズの働きにより「白い光」の中から「任意の点から反射した、一筋の光」を選り分けることである。
物体の一点から拡散する光のうち「一筋の光」のみをレンズが選り分けることで、網膜に「像」が浮かび上がる。
「像」として選り分けられた光は「情報」として役立てることが出来る。
その情報は、環境に満ちた「白い光」の中に埋め込まれていたものだ。

この説明に倣うと、人間の身体は「言語というシステム」に包囲されている、と言う事が出来る。
「言語というシステム」はあらゆる個別の言語を包括するシステムだから、全体ではあらゆる「意味」が相殺された「白い言語」と表現することが出来る。
「白い言語」には、あらゆる言語の可能性が含まれている。
その「白い言語」の中から、例えば「日本語」や「英語」などの言語が生じ、そこから人間個体の「無根拠の根拠の束」も生じる。
つまり「自分」という存在は、「白い言語」の中から眼球のレンズが光を集めるように、「無根拠の根拠」を束ねる働きがあるのだ。
そして、人間の眼球が網膜で光を受け止めるように、「自分」は「自分の根拠」を無根拠のままに「受け止める」のだ。
光はとこまでも直進するが、眼球で束ねられた網膜上で停止する。
同じように「根拠」はどこまでも無根拠なのだが、「自分」により束ねられた時点で「根拠を遡ること」が停止されるのだ。

それでまぁ、何なのかというと、「自分」というありありとした存在感が、じつは肉眼に写る「網膜像」のようなものでしかないとすれば、あまり「自分」に固執して自己主張する必要もないのかも?などと思ったわけだ。
こんな風に締めると、何か当たり前のことを言ってるに過ぎないようだが、これは考え中の不完全な概念なのでまた今度・・・

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