身体を包む「白い光」
先の投稿「自分というフィクション」は思い付きにまかせた乱雑なテキストだが、そのうちの「白い光」の概念いついて、ちょっと丁寧に説明してみる。
これは佐々木正人さんの「アフォーダンス理論」についての著書に書かれていたことを、自分なりに消化して書いたものだ。
これを書くに当たり、佐々木正人さんの著書を改めて読もうと思ったのだけど、本棚に見当たらず・・・
なので、記憶と感覚に頼ったテキトーな内容である。
間違いや疑問質問があれば、コメント欄に書いて欲しい。
これはデジタル一眼レフで撮影した写真である。
デジタル一眼レフに装着したレンズは、カメラ内の撮像素子(CCDやCMOS)に「像」を投影し、それを記録したものが「写真像」となる。
この写真像から、われわれ人間はさまざまな「情報」を読み取ることができる。
例えば「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などさまざまな情報が、この写真の中から読み取ることができる。
「写真像」からさまざまな情報を読み取ることができるのは、「写真像」がそもそも肉眼の「網膜像」を模したものであるからだ。
われわれ人間は肉眼のレンズ(水晶体)により投影された「網膜像」から、さまざまな情報を得て日常生活を送っている。
例えば、この写真と同じ場所をぼくが歩いているとき、ぼくは自分の肉眼の「網膜像」から「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などの情報を読み取り、自分の居場所を把握し、さらに進むべき方向を判断しているのである。
次は、同じ場所を同じデジタル一眼レフで撮影した写真だが、今度はわざとレンズのピントを外している。
いわゆるピンボケ写真なのだが、写真に写る「もの」の境界があいまいになり、そこから的確な情報を読み取ることが困難になってしまっている。
このような状態は、ぼくのような強度の近視眼の人間の「網膜像」と同じである。
ぼくはメガネを掛けないとすべてがピンボケに見えるので、「網膜像」から的確な情報を得ることができず、メガネなしでは生活に支障をきたしてしまうのだ。
このようなピンボケ像がなぜできるのかというと、「光は物体に当ると全方向に拡散しながら反射する」という性質があるからである。
そしてレンズには、そのように拡散した物体からの反射光を束ね、平面上の一点に集中させる働きがある。
それにはレンズの「焦点」を合わせる必要があるのだが、「焦点」がずれると光は元の性質に従って拡散し、写真像(網膜像)は「ピンボケ」になる。
さて、この「ピンボケ」を、さらに押し進めたらどうなるか?
そこでデジタル一眼レフからレンズそのものを取り外し、同じ場所でシャッターを切ってみることにする。
これがデジカメのレンズを外して撮影した写真だが、見てのとおり「真っ白」である(便宜上、黒枠を付けてはいるが)。
つまり、光を一点に集める働きをするレンズが無いと、物体からの反射光はデジカメの撮像素子上で混じり合い、このような「白い写真」になる。
光には赤から青紫までのさまざまな波長の「色彩」が含まれるが、その全てが交じり合うと「白」になる性質がある。
この「白い写真」が何を表しているかというと、それは「カメラの外の世界」ある。
ここで最初に示した写真を再び見てみよう。
この写真は、レンズによって投影された「像」であり、その「像」はカメラ=暗箱に閉じ込められている。
そして、そのカメラ=暗箱の「外」はどうなっているのか?というと、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に包まれているのである。
日常的な感覚では、カメラ=暗箱の外には「現実世界」が広がっている、と誰もが思うだろう。
現にぼくはこの写真に写っている場所に立ってカメラを構え、シャッターを切っている。
だからカメラ=暗箱の外には、現実としての「家」や「道路」や「電柱」や「青空」などが存在する。
カメラは現実に存在する「もの」のひとつなのである。
しかし、はじめに書いたとおり、人間はそのような「もの」の存在を「網膜像」からの情報で判断している。
つまり、人間が「現実」だと思って「見ているもの」の全ては、肉眼に写る「網膜像」なのである。
「網膜像」は肉眼=暗箱に閉じ込められている。
だから人間は肉眼=暗箱の「外」の世界を肉眼で見ることができない。
肉眼では見ることのできない「肉眼の外の世界」ではあるが、それがどんなものであるかは理論と実験により導き出すことができる。
つまりそれが、「レンズの無いカメラ」で撮影された、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に満ちた世界である。
人間の身体は、あらゆる物体からの反射光が入り混じった「白い光」に包囲されている。
その「白い光」には、さまざまな「情報」が潜在的に含まれているが、それらの「情報」はすべて「相殺」されており、そのままでは利用不可能だ。
しかし、レンズには「物体の一点から拡散する光の束を一点に集める」性質があり、その性質を利用すると「暗箱の中の平面」に「像」を写し出すことができる。
そしてこの「像」は、光の当たるそれぞれの物体と「対応関係」にある。
これによってこの「像」を、物体を知るための「情報」として利用することが可能となる。
もっとも単純な情報は、「一点から発せられる光」だろう。
これは夜間の懐中電灯を撮影した写真で、太陽からの反射光ではないが「拡散する光」であることには違いない。
だから同じ光源を「レンズ無し」で撮影すれば「白い写真」になる。
しかしこの写真はもちろんレンズを通して撮影しているので、「一点の光源」と「それ以外の闇」がキレイに分けられている。
レンズによる「拡散光を一点に集中する」という働きは、「白い光をさまざまな色彩に分ける」働きと同じである。
この写真の「像」は、「一点の光源」と「それ以外の闇」が分けられているおかげで、現実を知る「情報」として利用できる。
例えば、暗い夜道でもこの懐中電灯をもっている人の後について歩けば、無事家に帰ることができるのである。
そしてさらに複雑な情報を含むのが、何度も示すこのような「像」である。
これは人間を包囲する「白い光」から、レンズの働きによってによって取り出された、「色彩ごとに分けられた光の束」である。
レンズは「白い光」から、レンズ口径に入射する分の一定の「光の束」を取り込み、それを屈折の働きで色彩ごとに分けるのである。
「色彩ごとに分けられた光の束」の「断面」が「像」である。
この「像」は、現実のさまざまな「もの」との対応関係にあり、だから「情報」として利用できる。
例えば、この写真に写っている実際の場所をを自分が歩いているとすると、自分が前に進むごとに手前の電柱は大きく見え、後ずさりすると小さく見える。
「現実の電柱」と「網膜像の電柱」には、そのような「対応関係」があり、だから「情報」として利用できる。
さらに電柱に歩み寄ると、目で見るだけでなく手で触ることもできるし、その気になれば匂いも味も確認できる。
目で見ながら手で触り、そのざらざらした触感を確認し、コンクリート独特の埃っぽい匂いを嗅げば、「電柱の存在」をさらに具体的に確認することができる。
しかし、実は以上の説明には重要な「間違い」が含まれている。
今、自分の目に写る電柱の存在を、触覚や嗅覚など他の五感を動員して確認する、という説明をした。
だが改めて考えると、「五感」を動員し確認した「現実の電柱と思われるもの」は、「五感を通して得られた情報」でしかないのだ。
そしてその「情報」が「電柱の存在」と同じである保障はどこにも無い。
目の前に灰色の電柱があり、それが円筒形でざらざらした感触の物体で、コンクリート特有の匂いがしても、それは「視覚+触覚」+嗅覚」による「情報」でしかない。
人間は「現実」を直接認識することはできず、「現実」と思われるものは全て五感に現れた「情報」でしかないのだ。
つまり、先の説明の間違いを訂正すると、人間の五感に現れた「情報」と「現実」に対応関係があるわけではない。
そもそも人間は「現実そのもの」を認識できないのだから、「現実」と「情報」の対応関係も認識することはできないのだ。
しかしそうは言っても、自分が電柱に近づくにつれ電柱は大きく見え、ざらざらした触感があり、独特の匂いもする・・・という一連の「対応関係」が確認できてしまう。
これは実は、五感に現れるさまざまな「情報」の間に「対応関係」があることの現れなのだ。
目の前の電柱の「実在」は確認することができない。
しかし、「視覚情報としての電柱」は「自分の身体移動の情報」と対応しながら変化する。
そのような「情報の対応関係」を読み取ることで、「電柱の存在」を直接認識できなくとも、とりあえず電柱にぶつからないように歩くことはできる。
人間は「現実そのもの」や「ものの実在」を認識することができないにもかかわらず、「情報の対応関係」を読み取ることで(それを現実と勘違いしながら)日常生活を送っているのである。
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