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2008年9月

2008年9月30日 (火)

今日買ったマンガ

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まずは表紙の比較。

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そして中身の比較。

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2008年9月28日 (日)

「入門書の入門」の訂正

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9月2日に投稿した「入門書の入門」と言う記事だが、改めて読むとこれも内容が良くない・・・なのでこれも訂正してみようと思う。

まず以下の箇所

ぼくが美術のコンセプトにこだわるのは、それは自分の美術作品が「大したこと無い」ということを知っているからである。

これはずいぶんと不遜な物言いである。
作品が「大したものかどうか」は、あくまで観客が判断するものであって、作家が一元的に決めるものではない。
一度世に出た作品は「作家のものではない」から、作家はあくまで作品の良し悪しを判断する「観客の一人」に過ぎない。
ぼくはそのように「作家」と「作品」の関係を捉えていたはずだ。
大体において、作品を評価する観客に対し、作家が「その作品はたいしたものじゃない」と言うのは「オメーらそんな低レベルで満足しちゃってるワケ?」なんて、いかにも不遜な態度である。
そして、それに続く以下の箇所。

というか、美術なんてものはある程度才能があれば、みんな「ドングリの背比べ」みたいなものである。
まして「写真」なんて機械に頼るような表現は、作品の良し悪し(もしくは才能の有無)の判定が、ますますあいまいになる。
そういう世界の中で、並みの才能しかない自分がプラスアルファの要素で何とか生き残ろうと思ったところに、「コンセプト」という要素があったわけだ。

これも、他人の作品を十把一絡げにして「ドングリの背比べ」と判断するあたりが「何様のつもり」である。
それに美術の何がどうドングリの背比べなのか具体性に欠けるし、そもそも記事の文脈上「他人のこと」をとやかく言うのは「大きなお世話」である。
重要なのは他人が云々ではなく、「自分がどうしたいのか」と言うことである。
そこで、ちょっとこの辺について補足してみようと思う。

ぼくが自分の美術のコンセプトの構築にこだわるのは、まずコンセプトの構築が「面白いから」に他ならない。
コンセプトの構築は広い意味での「造形」であるから、絵画を造形したり写真を造形したりするのと同じくらい面白い、そのように自分が感じているからである。
で、ぼくは画家の道は断念したので絵画の造形はもうやらないけど、学校で習った絵画造形の基本を応用し、今は主に写真の造形をしている。
ぼくは一応美大を卒業したので、その方面の造形においては(どんなにヘタレと判断されようとも)一応はクロートである。

一方コンセプトのほうは、美術史や思想哲学の専門教育を受けたわけではなく、独学のシロートである(生物学についても、もちろん同様にシロート)。
しかもその独学もかなりいい加減で、大学卒業後くらいにちょっと入門書を読み始め、しばらく適当に読んだ後数年ほどあまり本を読まない時期があり、そしてごく最近またあわてていろいろ読み始めた、と言う程度である。

これは絵に例えると、ある程度の大人になってから絵を始めた日曜画家のように、プロとは比較にならないレベルで「まぁ趣味なんだから好きに描けばいいんじゃないの?」なんていう感じかもしれない(また他人を引き合いにしてしまったけど)。
絵というのは基礎が無くて下手糞でも、センスによって「良い絵」を描くことは可能だ。
しかし、良いかどうかはともかく「上手い絵」を描くにはそれなりの訓練が必要で、そのための基礎はデッサンで、描けば描くほど上手くなると言われている(ぼくは極めるだいぶ手前で挫折したのだけど)。

で、美術のコンセプト構築など「ものを考えること」の基礎は、何といっても「読書」だろうと思う。
コンセプトの構築とは、つまり言葉による表現だが、これがしたくてもいまひとつできないのは読書が足りないせいで、逆に読書をすればするほど色々な言葉や概念の組み合わせが声や文字となって出てくる。
というようなことを、最近になってようやく「ちょっとだけ」時間できるようになってきた。
それだけに、小中高と優等生で、子供のころから読書を重ねている人はどこまでスゴイのだろうかと、いまさらながら空恐ろしくなっている。

思えばぼくは「美術が本業」という思いが強いこともあり、「考える」ということをずいぶんと舐めていた。
「絵」というものが基礎が無くて下手糞でも「センス」があれば「良い絵」になってしまうように、「考える」事に関しても基礎が無くてもセンスがあればどうにかなるような気になっていたのだ。
それでぼくはある程度読書したところでそれを中断し、後は自分のセンスを信じて文章を書いていこうと思ったのだけど、そうしているうちにその方法では「いつも同じ文章」しか書けないということに気付いた。
つまり、「絵を描くこと」と「考えること」の性質を同列には語れないのである。

で、どうなのかというと、小浜逸郎さんの『頭は良くならない』にあるように、元から頭の悪い人間が遅れて始めてもどうにもならない「領域」というものがあり、それは本当にどうしようもない。
だいぶ前、美術評論家の椹木野衣さんに「コンセプチュアル・アートはある程度IQがある人じゃないとできないよ」というように言われたことがあるが、それが椹木さんの「親切なアドバイス」であったことが、今では身に沁みて分かる気がする。

しかし少なくとも今現在は読書をして考えを構築することが「面白い」と自分なりに感じているわけで、それによって何が得られるかは不明だが、とりあえずしばらくは続けるしかない。
もとより「思想家」などになるつもりも無く、作品とコンセプトの「合わせ技」でどうにかしようと目論んでいるのである。
その「どうにかしようと目論む=どうにかなるだろう」という根拠は、結局「基礎が無くともセンスでどうにかなるかもしれない」という、あらゆる意味で根拠のない楽観論なのだが、それがどの時点で挫折を迎えるのか現時点では皆目予測が付かない以上、ともかくこのまま前に進むしかない。

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2008年9月23日 (火)

アカボシゴマダラで原理主義と機能主義

この記事のコメント欄にアカボシゴマダラについての話題があったのだけど、元記事の内容自体が良くなかったので、あたらめて記事を書くことにする。

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それでまずは、昔から日本にいたゴマダラチョウ。

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そしてこちらが問題のアカボシゴマダラで、ウィキペディアによると典型的な外来種で、幼虫がゴマダラチョウと同じエノキを食べるので、競合が心配されているらしい。

で、ぼくはこういう外来生物の問題は池田清彦さんが『環境問題のウソ 』という本で提示されていた立場を採用していて、それは「外来種の移入は無いに越したことはないが、日本の環境に適応してしまったものは仕方ないので、無理に排除しない方がいい」というものである。
これについて、以前にもこのブログでも書いたかもしれないが、いや書いたかどうかも忘れてしまったので、あらためて「原理主義と機能主義」という切り口で書いてみたいと思う。
「原理主義と機能主義」の対比については内田樹さんの『こんな日本でよかったね』に書いてあることの受け売りなのだが、これは池田清彦さんが書かれていることにもマッチするように思う。

まず外来種の問題でよく言われるのが、「日本には固有の自然環境があるから、それを守るためにも外来種は徹底して排除すべき」という原理である。
例えばブラックバスという北米原産の魚は肉食で、日本固有種をどんどん食べてしまうし、台湾からの外来種のタイワンザルはニホンザルと交雑できてしまうので、そのうち純潔のニホンザルがいなくなってしまうことが危惧されている。
アカボシゴマダラもこのまま勢力を拡大すれば、ゴマダラチョウの姿が日本の風景から消えてしまうかもしれない。

この原理はとりあえず理屈は通っているように思えるから、それに基づいて「ブラックバス」や「タイワンザル」などの駆除が実際に行なわれている。
しかし池田清彦さんが書かれているように「外来種の徹底排除」という方法は、どうしても上手くいかないらしい。
どんな外来種でも、ある程度日本で増えてしまったものは、徹底排除したつもりでもまたどこかでいつの間にか増えてしまう。
つまり元が外来種であっても、ある程度増えてしまったものは日本独自の生態系に組み込まれてしまっていて、生態系というのはシステムだから、そのようなシステムの「一部の要素」だけを排除することは事実上不可能なのだ。
それとブラックバスのような魚はともかく、人間に近しい姿のタイワンザル(とその混血ザル)を、ちょっとした遺伝子の違いで駆除(殺害)するのは、倫理上どうもよろしくない気がする。
サルの「純血」にこだわる行為と、「アーリア人の純血」にこだわりユダヤ人を排除しようとしたナチスドイツの行為とが、重なって見えてしまう。

で、このように「原理」を実際の問題に適応して上手くいかない場合、「原理に間違いは無く、だからもっと徹底すべきだ」と考えると、それが「原理主義」になる。
それに対し、「原理はその実際の機能を見ながら、適宜変更していけば良い」と考えると「機能主義」になるだろう。
「機能主義」とは、「原理」それ自体の存在は否定しないが、はじめの原理にこだわらず、原理が実際にどのように機能するのかを観察しながら、原理を次々に変化させてゆく、という思考の方法論だと言える。

はじめに「外来種は徹底的に排除すべき」という原理があるとして、しかしそれを実行するまでは、その原理が本当に有効に機能するかどうかは誰にも分からない。
そしてある程度その原理を実行したところ、ほとんど効果は無く、その代わりに「生態系は柔軟なシステムで、人間によるコントロールが困難である」というさらに新たな原理が見出されたわけである。
だから機能主義的な思考としては、実際あまり役に立たない原理は捨て去って、より実際の機能に即した原理を採用すればいい。
そうして新たに採用した原理も「当面上手く機能しそうな原理」というだけだから、様子を見ながら改変したり、全面的に交換したりする可能性も折り込み済みである。

で、アカボシゴマダラの件なのだが、これが日本で急増した発端はマニアの放蝶ではないかと言われているが、この行為自体は良くないんじゃないかと思う。
それは池田清彦さんが書いていたように、「他人の恣意性の権利を不可避に侵害する行為」だからで、これも機能主義的な考え方だ。
そして、実際に増えつつあるアカボシゴマダラについては、各自好きにすれば良いんじゃないかと思う。
結局のところ、各自が好きなように自然に親しむしかなく、どのような原理も他人に強制できないからだ。
ただ、どうせ自然に親しむんだったら、より楽しく豊かであった方が良いわけで、つまらない「原理」に囚われると損をしてしまう。
だから、より楽しく豊かに自然に親しむための「原理」を創造し続けるため、色々本を読んだり、自然観察を実践したり、そして自分が良いと思った「原理」を他人に公表したりするわけだ。

例えばいくら好きにすればいいといっても、原理主義的にアカボシゴマダラの徹底排除だけに熱中するのであれば、それはあまり楽しくないし、豊かな自然との接し方ではないと思う。
そもそも自然が好きで虫が好きな人は、虫を殺すのもかわいそうだと思ってしまうので、「ゴマダラチョウが減少するのは忍びないし、かといって目の前のゴマダラチョウを駆除するのも躊躇する」という具合に葛藤があったりして、そのような葛藤が「豊か」ということなんじゃないかと思う。
そのような葛藤の上に、各自が「好きなように」考えれば、豊かで多様な原理が創造し続けられるのかもしれない。

結局のところ原理主義というのは、ひとつの原理だけを採用し、その他の原理が有効である可能性を考えないという立場だから、逆説的だが「原理について考えない主義」と表現することができる。
これを機能主義的に表現すれば、「原理について考えずに楽をする」という機能を実現するための方法論、ということになるだろう。
反対に、機能主義は実際の機能を生かすために、原理について考え続けるという方法論だから、逆説的に「原理について考える主義」ということになる。

まぁ、「原理主義」も「機能主義」も所詮は理屈だから、誰もがこれを意識して行動しているわけではないだろう。
しかし、物事を何でも簡単に済ませようとする人は「原理主義」的に振る舞い、自然についても「通り一遍のもの」を見て満足するのではないかと思う。
それに対し、理屈以前に自然の豊かさそのものに関係を受けてしまったような人は、意図せずに機能主義的な考えになるのだと思う。

人間の思考の外に存在する「自然」は、人間にとって不可解な「機能」となって現れる。
アカボシゴマダラの急速な増加も自然の「機能」の現れであり、しかもそこに人間の力が関与しているからこそ、いっそう「不可解」なものとしてたち現れている。
その「不可解さ」にまず引っかかれば、その人の考えは自然と機能主義的になるだろう。
しかしあらかじめ「原理主義」にとらわれている人は、自然の豊かさのたち表れを、ことごとく見過ごしてしまい、それは非常に損なことではないかと思う。

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2008年9月22日 (月)

「理念」は「現実」が支えている、の訂正

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前回の投稿からだいぶ間が空いてしまったのだが、後で読み返してみて『「理念」は現実」が支えている』という記事内容があまりにも良くないので、その訂正をしてみたいと思う。
そもそも、この記事は内田樹さんの著書『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』の「前書き」だけ読んで、本文を読まずに書いたものだ。
なぜそう言うことをしたのかというと、本を一冊読み終わってから感想を書くと、本の途中に書いてある内容を忘れてしまうことが多いので、それで全部読み終える前に「まえがき」だけ読んで思いついたことを書いたのだ。
しかし『こんな日本でよかったね』の本文を読んでみると、実はぼくが書いた記事とは「逆の趣旨」のことが書いてある。
それで無くとも前回の記事は、自分の中で凝り固まった「古い考え」にあまりにも引っ張られすぎのような気がする。
というわけで、前回と同じようなテーマの訂正文を書いてみようと思う。
ただ、この文章も内田樹さんの本をきっちり参照しながら書いているわけではないので、また色々間違いがあるかもしれないが、辻褄が合っていればとりあえずいいだろうと思う。

まず、内田樹さんの公言している「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのは「理念」などではない、ということだ。
内田さんはこの本の「原理主義と機能主義」という章で、形而上学的な原理(理念)に基づく行動は、時として自分にとって不幸な結果をもたらす、というようなことが書かれている。
そもそも、人間が「理念」に基づいて行動しようとするのは、それが自分の「幸福」をもたらす方法であると確信しているからだ。
しかしその「理念」に忠実にあろうとすると自分の「幸福」を犠牲にしなければならないことがあって、そんな風に自分が不幸になってしまうと「理念」を実現する目的が本末転倒してしまう。

その原理主義の不幸を避ける方法として内田さんが提示しているのが「機能主義」という立場だ。
機能主義は、現実を超えた(形而上の)原理や理念ではなく、現実的な(形而下の)機能の実現を目標に行動しようとする心構えだ。
つまり、自分が「幸福」になることが目的だったら、抽象的な理念に振り回されること無く、「幸福になる」という実際の「機能」を実現させるよう、考えたり感じたり判断したりして行動することで、それが合理的な近道になるのだ。

だから「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのは-これについて直接この本には書かれていないが、「機能主義」と合わせて考えると-これは「理念」ではなく、実際の「機能」を目的にしているはずだと思う。
それがどういう「機能」をもたらすかというと、内田樹さんは現代思想家で大学教授で物書きであるから、「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」という風に公言してしまった方が、自分がものを考えたり書いたりする場合に「やりやすい」と感じているからなのかもしれない。
人間の考えることや書くことは、必然的に他人の考えたことや書いたことのコピーの切り貼りになるのだから、自分の書いたことのコピーライトも主張する必要が無い・・・と、そういう風に「ごく自然」に思えて、それを実行した方が「やりやすい」と感じられるなら、それが「機能主義」なのだろう。
しかしぼくの記事のように同じ内容を「理念」と捉えて、それを自分が実現できない言い訳をアレコレ考えたりするのは、明らかに「原理主義」の立場である。
しかも、ぼくが「原理主義」で考えた「言い訳」の内容自体も、内田樹さんの著書の本文でキッパリ否定されているのだ。

ぼくは「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのをひとつの「理念」と捉え、その理念が実現できるかできないかを「お金」の問題で説明していた。
つまり内田樹さんはお金があって生活に余裕があるから「理念」が実現できるけど、お金が無くてギリギリの生活をしているぼくには「理念」を実現する余裕も無い、という文脈だ。
そういうぼくの解釈について、『こんな日本でよかったね』の本文のいろいろなところで否定されている。
簡単に言うと、ぼくは日ごろから「世の中にはお金に換算できない価値があって、むしろそっちの方が大事なのだ」などと言いながら、結局は「お金を至上とする原理主義」にはまっていたのだ。

確かに現代人の現実(生活)は「お金」に支えられているが、しかし現実の全てがお金に支えられているわけではない。
例えば、内田さんは長いあいだ相当な貧乏生活をされていたそうで、しかし本当に収入がなくなると誰かが見かねて適当なアルバイトを紹介してくれて、それで何度もギリギリのところをしのいだそうだ。
つまりそういう身の周りの「豊かな人間関係」が内田樹さんの「現実」の一端を支えており、その現実の延長として「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」と公言できる気持ちがあるのかもしれない。
逆に言うと、ぼくは人付き合いをないがしろにする傾向があり、そのおかげで根性がセコくなり「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」などという気にはとてもなれない・・・のかもしれない。

まぁ、内田樹さんは自分のことを「他人を挑発する言い方、書き方をする人間だ」というようなことを書いておられるので、「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのも「他人への挑発」なのかもしれない。
ぼくはその挑発にまんまと乗せられれ、にいろいろ考えた挙句頓珍漢なことを書いたりするのだとすれば、それはそれでいいんじゃないかと思う。

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2008年9月 8日 (月)

「理念」は「現実」が支えている

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内田樹さんの『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』は、ご自身のブログの文章を切り貼りした本なのだが、その内田さんは「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」と公言している。
つまり、内田樹さんのブログの文章を無断で自分のブログにコピペして「自分が書いた文章」として発表するのはもちろん、「自分の著作」として出版し印税を得ることも可能なのだ(その場合の印税は内田樹さんに配分する必要は無い)。
その理由は内田さんの文章を直接当たるのがより確実だが、とりあえず自分なりに以下のように短くまとめてみた。

人間は「言葉」を使ってものを考えるが、その「言葉」は自分で考えたものではなく、自分以外の「他者」から教えられたものだ。
だから、「自分の考えを文章にする」ということは、「どこかで聞いたような言葉」や「何かで読んだ言葉」を、適当に切り貼りする行為と言い換えることが出来る。
このような「書くこと」の原理から考えると、「自分が書いた文章」は果たして「自分の所有物」と言えるかどうか、曖昧になってくる。
むしろ「自分が書いたものは、自分の所有物ではない」と捉えたほうが、合理的である。

これは現代思想の「理念」であり、似たようなことはほかの現代思想の入門書にも書いてある。
しかし「理念」は単独では存在しえず、それぞれの「現実」に支えられながら成立するものである。
内田樹さんの「著作権フリーの理念」は、内田樹さんご自身が「大学教授」という職を持ち、それなりの社会的地位と経済基盤を得ていると言う「現実」が支えている、と言って良いのではないかと思う。
実際に内田さんは「自分は必要な収入は足りているから、それ以上に著作権で儲ける必要が無い」と言うようなこともどこかに書いている。

逆に言うと、ぼくは定職を持たずフリー作家としての地位も低く経済基盤が軟弱だ、と言う「現実」がある。
そういうぼくの「現実」では、「著作権フリーの理念」を支えることが出来ない。
だからぼくは理念的には自分のブログの内容を「著作権フリー」にすべきなのかもしれないのだけれど、現実的にそれが出来ないでいるのである。
まぁ、この「ブログ3」の文章は大したものではないとしても、「ブログ1」や「ブログ2」の写真は(いちおう写真のプロを名乗ってるだけあって)いろいろ使い道があるのではないかと思う。
それだけに、これらのブログにアップした素材を「著作権フリー」にしてしまったら、ぼく自身の生活基盤が築くことに支障が出るかもしれない。

理念的には、ぼくは少なくとも自分の写真は「著作権フリー」にすべきなのかもしれない。
「非人称芸術」のコンセプトに照らせば、ぼくの写真はぼくの作品ではない。
ぼくの写真は、作者不在の「非人称芸術」のコピーであり、作者不在の「非人称芸術」には著作権は存在し得ない。
だから「非人称芸術」と言うコンセプトに忠実に従うならば、ぼくは自分の写真の著作権を放棄すべきなのである。

しかし前途したように、ぼく自身の置かれた「現実」からその理念を実現するのは不可能である。
本来なら、まっとうな仕事に就いて生活基盤を安定させ、その上で「理念」を実現すれば良いのである。
しかし、ぼくはどういうわけか「まっとうな仕事」をするのが苦手で、出来れば「それ以外の手段」で生計を得たいのである。
これは実に自分の「わがまま」でしかなく、そのために自分が提示した「理念」の実現を、自分自身が阻んでいることになる。
それに対し、「皆さん」には非常に申し分けなく思っている。
そのようなわけで、とりあえずぼくのブログの写真や文章については、ぼくの生活基盤を脅かさない限りは自由に使っていただければと思うのだが、そのガイドラインを示すのはなかなか難しい。

以上のように考えをまとめたのは、仲正昌樹さんの『「不自由」論-「何でも自己決定」の限界』を読んだからである。
この本ではハンナ・アーレントという人が指摘した、民主主義(討論で成立する政治)に対する矛盾が紹介されている。
ぼくなりに要約すると、民主主義の原点は古代ギリシアの「ポリス」が原点なのだが、ポリスの「市民」は、現代的民主主義国家の「市民」とは、実は概念が大きく異なる。
ポリスの「市民」は、実はその家の「家長(長男)」しかなることはできず、家長=市民は「家」では暴君のように振る舞い、生活的にも精神的にも全面的に「家族」や「奴隷」に支えられていた。
そして、そのように完全なる生活基盤に支えられていた「市民」たちだからこそ、個人の利害関係に囚われない純粋な「民主主義」についての討論が可能だったのである。
しかしこれは人間を「市民とそれ以外」に分けることで実現した「理念」でしかない。
それに対し、近代の民主主義国家は「全ての人間は市民である」という前提で、民主主義の「理念」を実現しようとしている。
この場合の「市民」は、ポリスの「市民」と異なり、各自が自らの生活基盤を支えながら、民主主義という政治に参加することになる。
しかしそうなると、市民同士の政治的討論の中に「経済的利害」という要素が入り込み、本来あるべき「民主主義」の理念が阻害されてしまう。
つまりアーレントが指摘したのは、民主主義の「純粋な理念」は「完全なる生活基盤」の上でしか成立し得ない、という矛盾である。

いや、ちょっと要約しすぎかもしれないが、ともかく現代の人々の生活は経済基盤によって支えられている。
ということは、あらゆる「理念」もそれぞれの人々の経済基盤に支えられている事になる。
だから経済基盤が軟弱になれば、さまざまな「理念」が実現困難になり、その意味で「経済」は「理念」の阻害要因となる。
というようなことを理解していれば、いろいろ行き詰ったときに気持ちの切り替えが出来たりして便利かなと、思った次第である。

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2008年9月 2日 (火)

入門書の入門

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ぼくは最近、この手の(現代思想系の)入門書をいろいろと読んでるのだけど、それは自分の美術のコンセプトを強化するためである。
強化というか、コンセプトというものは構築するもので、構築し続けなければならない。
コンセプトを構築する中で、弱い部分が見つかればそこを強化しなければならないだろうし、コンセプトが行き詰った場合、強化どころか全部壊してはじめからやり直し、なんて場合もあるかもしれない。

ぼくが美術のコンセプトにこだわるのは、それは自分の美術作品が「大したこと無い」ということを知っているからである。
というか、美術なんてものはある程度才能があれば、みんな「ドングリの背比べ」みたいなものである。
まして「写真」なんて機械に頼るような表現は、作品の良し悪し(もしくは才能の有無)の判定が、ますますあいまいになる。
そういう世界の中で、並みの才能しかない自分がプラスアルファの要素で何とか生き残ろうと思ったところに、「コンセプト」という要素があったわけだ。

これをぼくは、美大の受験に例えて理解しているのだけれど、受験用の石膏デッサンはある程度訓練すれば誰でも上手く描けてしまうもので、よほど突き抜けて上手い人以外はやはり「ドングリの背比べ」状態だ。
そんな中での合格の秘訣はというと、他人より一枚でも多くデッサンを描くこと・・・ではなく、デッサンの訓練はそこそこにして、あとは「学科」に励むことである。
学科に励むといっても、所詮は美大受験だから、一般大学の受験ほどがんばる必要が無い。
そもそも美大受験を目指すような生徒は「勉強が嫌いだから」美大を目指しているのが大半だろうと思う(ぼくもそうだったのだが)。
だからデッサンに自信のある生徒ほど、学科の勉強がおろそかになったりする。
しかし、美大であっても大学だから、受験には学科もあって、学科による足切りもある。
それでぼくは嫌々ながらも受験の直前に集中的に勉強し(付け焼刃とも言うが)、そのおかげで東京造形大学に合格することができた(一浪だったけど)。
ちなみにぼくは、武蔵野美術大学は学科で足切りされ、東京芸術大学はデッサンで落とされている。
まぁ、受験の状況は毎年変わるようだし、ぼくの大昔の話が今のどれだけ当てはまるかは分からないけど、ともかく美大受験生に「学科の勉強」が必要だった様に、美術家にも「コンセプトの構築」が必要なのではないか、と思うのである。

さて、美大の受験の学科は国語、数学、理科、社会、とかだったが、美術のコンセプトに必要な学科は何だろうか?
これは人によって違うだろうが、ぼくはごく大雑把に「美術史」と「現代思想」というくくりで考えてみた。
美術史を学ぶ事は、美術の歴史の流れでの自分の位置を確認する行為で、基本中の基本だから誰もが少なからず意識していることだろうと思う。
美術の歴史の流れは、それを支えるコンセプトの流れでもあるから、それを追うことで自分が構築すべきコンセプトも見えてくるわけだ。

そして「現代思想」とは何かと言えば、最近ぼくが傾倒している高田明典さんや内田樹さんの説を採用すると、「考えるための道具」ということになる。
美術のコンセプトを構築することは「美術とは何か」を改めて考えることであり、それにより自分なりの新しい「美術のあり方」が創造されるのである。
その「美術とは何か」を考えるために有効なのが「考えるための道具」としての「現代思想」なのだ。
また、美術史は「美術とは何か」の移り変わりの歴史でもあり、それを「現代思想」で読み解き、自分のコンセプトの構築に役立てることもできる。

「現代思想」というといかにも難しそうだが、分かりやすくて面白い「入門書」は結構いっぱいあって、そういう本で十分だと思う。
そもそも自分は美術家であり、なにも現代思想の専門家を目指しているわけではないのである。
現代思想が「考えるための道具」ならば、現代思想の専門家は「道具を作る人」であり、ぼくのような美術家は「道具を使う人」であればいい。
道具というものはどの分野でも、扱いの難しいプロ専用から、素人にも扱えるフルオートマチックの簡単なものまで、いろいろ揃っているものである。
美術家は「現代思想」については素人だから、素人向けの簡単な「入門書」を読むだけで十分だろうと思う。

というか、ぼくはどうがんばっても「入門書」以上の本を読めるようなアタマが無いのである。
入門書には巻末にブックガイドが載っているものが多く、それを参考に「ステップアップ」しようとしてみるのだが、ちょっと難しいことが書いてあるとすぐ分からなくなり、アタマがパンクしてしまう。
で、そういうぼくが最近辿り着いたのが、「入門書を何冊も読む」という方法だ。
現代思想の入門書は、例えば「エクリチュール」などという耳慣れない概念を、分かりやすく説明してたりする。
ところが、そもそも「エクリチュール」は専門家の間でも解釈が分かれるような難しい概念で、入門書的な言葉でその全てが語り尽くせるわけが無い。
だから、入門書に書かれた「エクリチュール」についての解説は、その一面的な解釈の断片にしか過ぎない。
入門書を一冊読んだだけで、「エクリチュールの全部が分かる」なんて事はありえないのだ。
だから、「エクリチュール」に付いてもっと深く理解したければ、ロラン・バルトが書いた原著を読めばいいのだが、それは自分には不可能なのだ。
しかし「エクリチュール」の理解を深めるための別の方法があり、それが「別の入門書を読む」ということである。
別の入門書を読むと、先に読んだ入門書とは違う文脈で「エクリチュール」という用語が出てきたりして、またちょっと違う解説がされたりしている。
そのようにして、いろいろな入門書を読めば「エクリチュール」についての理解がだんだん深まってくるわけだ。

というか、実はその語を正確に理解する必要は無く、正確な理解を目的にするのは本末転倒だ。
目的は、あくまで自分の「美術」を成立させることで、それを支えるコンセプトを構築することである。
コンセプトの構築に必要なのは「考えるための道具」としての現代思想であり、例えば「エクリチュール」の理解が生半可であっても、あまつさえ間違いであっても、「考えるための道具」として機能しさえすれば良いわけだ。
むしろ、結果として機能しさえすれば、どんな解釈であれそれが「正解」となる、というのが現代思想としての立場なのだと思う。

まぁ、ぼくはエクリチュールという概念について、分かったような分からないような気でいるのだが、それは分かったようで実のところ使い方が分からず、だからやっぱり理解していないということになる。
それよりも「構造主義」という概念は自分なりにだいぶ理解しているつもりで、ぼくの美術のコンセプトも「構造主義」なしでは成立し得なかったと思っている。
そこの構造主義について、この『図解雑学 ポスト構造主義入門』では何と説明されているかというと、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」とある。
しかし、ぼくが以前読んだ他の入門書にはどれも「構造主義は変化する現実を捉えられない、と考える人は構造主義を誤解している」と書いてあり、つまり「構 造主義は変化する時代を捉えるための思想」としている(そしてポスト構造主義との関連は、別の文脈により説明されている)。
つまり同じように「現代思想の専門家」によって書かれた本であるにもかかわらず、構造主義について正反対の解釈がされている。
で、そのどちらが「正解」なのかは、現代思想的立場からは一概に決定できない、ということになる。

ぼくはもちろん、「構造主義は変化する現実を捉えるための思想」という解釈を採用しており、そのおかげで「非人称芸術」とか「路上ネイチャー」などのコンセプトを構築し、それらのコンセプトの基に作品を制作することができた。
ぼくの「構造主義」についての解釈は一面的かもしれないし、専門家から見手間意外だったりデタラメだったりするのかもしれないけど、少なくとも自分が「分かったつもり」になり、それが「役に立ったように思えた」ことが肝心である。
そういうぼくにとって、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」という説明は、正解とか間違い以前に「分かりづらい」のである。
説明そのものは日常語で分かりやすいのだけど、その文脈では「構造主義」についても「ポスト構造主義」についても、何の概念も掴むことができない。
その説明から、「道具としての概念」が何も得られない。
これはその説明自体に問題があるというより、ぼく自身のセンスというか、思考の癖のようなものとの相性の問題なのだと思う。

反対に、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」という説明のほうが判りやすくて相性がいい、という人もいるだろう。
こっちの文脈の方が自分の使う道具として役立つのであれば、それはそれで「正解」なのだ。
「構造主義」以外にも、専門家によって解釈の異なる用語というのはいくつもあるだろうし、それはそれぞれの専門家の思想の文脈の中に位置している。
だから現代思想の入門書は、一冊だけ読んで終わりにするようなものではなく、何冊も読む必要がある。
入門書に書かれるテーマはそれぞれだけども、多くの部分は重なっており、同じ言葉が反対の意味で書かれていることもある。
そういう本を何冊か読むうちに、自分の創作に役立つ「考えるための道具」がヒョイと取り出せたりするわけで、そうすると「分かった」という気になるのである。
ともかく、ぼくが最近傾倒している現代思想の入門書はどれも、「現代思想は目標を達成する手段である」という立場に徹している。
そして美術、あるいは美術に隣接する表現分野はどれも「目的」が明確だから、手段としての現代思想とは相性がいいはずだと思うのだ。

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2008年9月 1日 (月)

生きるアート作品

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昨日撮影した写真なのだが、子供のシャツに注目して欲しい。
なんと、あの「DOB君」がプリントされているではないか!
DOB君は現代アートの第一人者、村上隆さんが生み出したキャラクターで、その姿はさまざまなイメージに変形し、また表現形式も絵画から彫刻、バルーン、オマケフィギュアなどさまざまな媒体へと変容する。
それがついに「子供服」に登場である。
これには特別の意味があり、DOBくんのイメージが子供たちの身体を借りることで「生きるアート」になるのだ。
コンセプトはそれだけでは抽象的なものだが、それだけにコンセプトが実現する「現場」を目撃するのは、なかなか感慨深いものがある。
まさに、DOB君たちが自由に、楽しそうにはしゃぎ回っているのである。

そうは言っても、アートに関心が無い人から見れば、はしゃぎ回っているのは子供たちで、Tシャツにプリントされているのはあくまでイラストにしか思えないだろう。
また、仮にTシャツにプリントされたDOB君が「生きるアート」になるなら、ミッキーマウスだって、ドラえもんだって、どんなキャラも「生きるアート」になる・・・という人もいるかもしれない。
しかし、これこそがコンセプト上の問題で、コンセプトというのは文脈である。
DOB君というキャラクターは、ミッキーマウスやドラえもんのような物語の登場キャラではない。
しかしDOB君は、「アートの歴史」の物語の登場キャラであり、また「村上隆のアートの変遷」の物語の登場キャラである。
そのような「文脈」を追っていく先に、「子供服にプリントされたDOB君=生きたアート」としての存在がありありと見えてくる。

アートの歴史を遡るとそれは絵画や彫刻など「静止した作品」として登場している。
しかし歴史を重ねるに従い、アートの中に「動き」の要素が次第に入り始め、現代ではヴィデオやインスタレーション、パフォーマンスなど「動くアート」がもはや当たり前となっている。
村上隆さんのDOB君も、アートの歴史をなぞるようにはじめは絵画として登場し、やがてさまざまな媒体へと変容している。
動くアートにもいくつか種類があり、例えば「動きを記録したアート」や「アーティストによって動かされたアート」や「自律的に動くアート」などがある。
そのうち、「子供服にプリントされたDOB君」は、自律的に動くアートの延長上にあるだろう。

これは「子供服」というところに意味があり、大人のファッションでは成立し得ないコンセプトだ。
自我の確立していない幼児が、「何だか知らないキャラクター」としてのDOB君を身にまとうことにより、幼児の身体を借りたDOB君が「自律的に動くアート」になる。
これがもし大人向けのTシャツだったら、単なるミュージアムグッズになってしまうだろう。
大人はTシャツのDOB君の「意味」を理解する自我を持っており、キャラクターの自律性も封殺されてしまう。

子供服にプリントされたDOB君は、そのままでは静止した絵画でしかない。
それが実際に子供に着用されることで「生命」が与えられる。
同じように、静止した絵画に生命を与える手法に「アニメーション」がある。
そもそもアニメーションという言葉自体が、生命の意味を表している。
だから「子供服にプリントされたDOB君」は、新しい形態のアニメーションだと言うことが出来るだろう。
しかしこのコンセプトは、先に書いたようにDOB君でしか成立し得ない。
実に幾重にも仕掛けられた、巧妙なコンセプチュアル・アートなのである。

*追記
誰も突っ込んでくれそうに無いので、関連リンクを貼っときます。
http://shiropenk.exblog.jp/3913103/
http://d.hatena.ne.jp/aniota/20040221/p3
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060425
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040217
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