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2008年9月28日 (日)

「入門書の入門」の訂正

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9月2日に投稿した「入門書の入門」と言う記事だが、改めて読むとこれも内容が良くない・・・なのでこれも訂正してみようと思う。

まず以下の箇所

ぼくが美術のコンセプトにこだわるのは、それは自分の美術作品が「大したこと無い」ということを知っているからである。

これはずいぶんと不遜な物言いである。
作品が「大したものかどうか」は、あくまで観客が判断するものであって、作家が一元的に決めるものではない。
一度世に出た作品は「作家のものではない」から、作家はあくまで作品の良し悪しを判断する「観客の一人」に過ぎない。
ぼくはそのように「作家」と「作品」の関係を捉えていたはずだ。
大体において、作品を評価する観客に対し、作家が「その作品はたいしたものじゃない」と言うのは「オメーらそんな低レベルで満足しちゃってるワケ?」なんて、いかにも不遜な態度である。
そして、それに続く以下の箇所。

というか、美術なんてものはある程度才能があれば、みんな「ドングリの背比べ」みたいなものである。
まして「写真」なんて機械に頼るような表現は、作品の良し悪し(もしくは才能の有無)の判定が、ますますあいまいになる。
そういう世界の中で、並みの才能しかない自分がプラスアルファの要素で何とか生き残ろうと思ったところに、「コンセプト」という要素があったわけだ。

これも、他人の作品を十把一絡げにして「ドングリの背比べ」と判断するあたりが「何様のつもり」である。
それに美術の何がどうドングリの背比べなのか具体性に欠けるし、そもそも記事の文脈上「他人のこと」をとやかく言うのは「大きなお世話」である。
重要なのは他人が云々ではなく、「自分がどうしたいのか」と言うことである。
そこで、ちょっとこの辺について補足してみようと思う。

ぼくが自分の美術のコンセプトの構築にこだわるのは、まずコンセプトの構築が「面白いから」に他ならない。
コンセプトの構築は広い意味での「造形」であるから、絵画を造形したり写真を造形したりするのと同じくらい面白い、そのように自分が感じているからである。
で、ぼくは画家の道は断念したので絵画の造形はもうやらないけど、学校で習った絵画造形の基本を応用し、今は主に写真の造形をしている。
ぼくは一応美大を卒業したので、その方面の造形においては(どんなにヘタレと判断されようとも)一応はクロートである。

一方コンセプトのほうは、美術史や思想哲学の専門教育を受けたわけではなく、独学のシロートである(生物学についても、もちろん同様にシロート)。
しかもその独学もかなりいい加減で、大学卒業後くらいにちょっと入門書を読み始め、しばらく適当に読んだ後数年ほどあまり本を読まない時期があり、そしてごく最近またあわてていろいろ読み始めた、と言う程度である。

これは絵に例えると、ある程度の大人になってから絵を始めた日曜画家のように、プロとは比較にならないレベルで「まぁ趣味なんだから好きに描けばいいんじゃないの?」なんていう感じかもしれない(また他人を引き合いにしてしまったけど)。
絵というのは基礎が無くて下手糞でも、センスによって「良い絵」を描くことは可能だ。
しかし、良いかどうかはともかく「上手い絵」を描くにはそれなりの訓練が必要で、そのための基礎はデッサンで、描けば描くほど上手くなると言われている(ぼくは極めるだいぶ手前で挫折したのだけど)。

で、美術のコンセプト構築など「ものを考えること」の基礎は、何といっても「読書」だろうと思う。
コンセプトの構築とは、つまり言葉による表現だが、これがしたくてもいまひとつできないのは読書が足りないせいで、逆に読書をすればするほど色々な言葉や概念の組み合わせが声や文字となって出てくる。
というようなことを、最近になってようやく「ちょっとだけ」時間できるようになってきた。
それだけに、小中高と優等生で、子供のころから読書を重ねている人はどこまでスゴイのだろうかと、いまさらながら空恐ろしくなっている。

思えばぼくは「美術が本業」という思いが強いこともあり、「考える」ということをずいぶんと舐めていた。
「絵」というものが基礎が無くて下手糞でも「センス」があれば「良い絵」になってしまうように、「考える」事に関しても基礎が無くてもセンスがあればどうにかなるような気になっていたのだ。
それでぼくはある程度読書したところでそれを中断し、後は自分のセンスを信じて文章を書いていこうと思ったのだけど、そうしているうちにその方法では「いつも同じ文章」しか書けないということに気付いた。
つまり、「絵を描くこと」と「考えること」の性質を同列には語れないのである。

で、どうなのかというと、小浜逸郎さんの『頭は良くならない』にあるように、元から頭の悪い人間が遅れて始めてもどうにもならない「領域」というものがあり、それは本当にどうしようもない。
だいぶ前、美術評論家の椹木野衣さんに「コンセプチュアル・アートはある程度IQがある人じゃないとできないよ」というように言われたことがあるが、それが椹木さんの「親切なアドバイス」であったことが、今では身に沁みて分かる気がする。

しかし少なくとも今現在は読書をして考えを構築することが「面白い」と自分なりに感じているわけで、それによって何が得られるかは不明だが、とりあえずしばらくは続けるしかない。
もとより「思想家」などになるつもりも無く、作品とコンセプトの「合わせ技」でどうにかしようと目論んでいるのである。
その「どうにかしようと目論む=どうにかなるだろう」という根拠は、結局「基礎が無くともセンスでどうにかなるかもしれない」という、あらゆる意味で根拠のない楽観論なのだが、それがどの時点で挫折を迎えるのか現時点では皆目予測が付かない以上、ともかくこのまま前に進むしかない。

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