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2008年9月22日 (月)

「理念」は「現実」が支えている、の訂正

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前回の投稿からだいぶ間が空いてしまったのだが、後で読み返してみて『「理念」は現実」が支えている』という記事内容があまりにも良くないので、その訂正をしてみたいと思う。
そもそも、この記事は内田樹さんの著書『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』の「前書き」だけ読んで、本文を読まずに書いたものだ。
なぜそう言うことをしたのかというと、本を一冊読み終わってから感想を書くと、本の途中に書いてある内容を忘れてしまうことが多いので、それで全部読み終える前に「まえがき」だけ読んで思いついたことを書いたのだ。
しかし『こんな日本でよかったね』の本文を読んでみると、実はぼくが書いた記事とは「逆の趣旨」のことが書いてある。
それで無くとも前回の記事は、自分の中で凝り固まった「古い考え」にあまりにも引っ張られすぎのような気がする。
というわけで、前回と同じようなテーマの訂正文を書いてみようと思う。
ただ、この文章も内田樹さんの本をきっちり参照しながら書いているわけではないので、また色々間違いがあるかもしれないが、辻褄が合っていればとりあえずいいだろうと思う。

まず、内田樹さんの公言している「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのは「理念」などではない、ということだ。
内田さんはこの本の「原理主義と機能主義」という章で、形而上学的な原理(理念)に基づく行動は、時として自分にとって不幸な結果をもたらす、というようなことが書かれている。
そもそも、人間が「理念」に基づいて行動しようとするのは、それが自分の「幸福」をもたらす方法であると確信しているからだ。
しかしその「理念」に忠実にあろうとすると自分の「幸福」を犠牲にしなければならないことがあって、そんな風に自分が不幸になってしまうと「理念」を実現する目的が本末転倒してしまう。

その原理主義の不幸を避ける方法として内田さんが提示しているのが「機能主義」という立場だ。
機能主義は、現実を超えた(形而上の)原理や理念ではなく、現実的な(形而下の)機能の実現を目標に行動しようとする心構えだ。
つまり、自分が「幸福」になることが目的だったら、抽象的な理念に振り回されること無く、「幸福になる」という実際の「機能」を実現させるよう、考えたり感じたり判断したりして行動することで、それが合理的な近道になるのだ。

だから「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのは-これについて直接この本には書かれていないが、「機能主義」と合わせて考えると-これは「理念」ではなく、実際の「機能」を目的にしているはずだと思う。
それがどういう「機能」をもたらすかというと、内田樹さんは現代思想家で大学教授で物書きであるから、「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」という風に公言してしまった方が、自分がものを考えたり書いたりする場合に「やりやすい」と感じているからなのかもしれない。
人間の考えることや書くことは、必然的に他人の考えたことや書いたことのコピーの切り貼りになるのだから、自分の書いたことのコピーライトも主張する必要が無い・・・と、そういう風に「ごく自然」に思えて、それを実行した方が「やりやすい」と感じられるなら、それが「機能主義」なのだろう。
しかしぼくの記事のように同じ内容を「理念」と捉えて、それを自分が実現できない言い訳をアレコレ考えたりするのは、明らかに「原理主義」の立場である。
しかも、ぼくが「原理主義」で考えた「言い訳」の内容自体も、内田樹さんの著書の本文でキッパリ否定されているのだ。

ぼくは「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのをひとつの「理念」と捉え、その理念が実現できるかできないかを「お金」の問題で説明していた。
つまり内田樹さんはお金があって生活に余裕があるから「理念」が実現できるけど、お金が無くてギリギリの生活をしているぼくには「理念」を実現する余裕も無い、という文脈だ。
そういうぼくの解釈について、『こんな日本でよかったね』の本文のいろいろなところで否定されている。
簡単に言うと、ぼくは日ごろから「世の中にはお金に換算できない価値があって、むしろそっちの方が大事なのだ」などと言いながら、結局は「お金を至上とする原理主義」にはまっていたのだ。

確かに現代人の現実(生活)は「お金」に支えられているが、しかし現実の全てがお金に支えられているわけではない。
例えば、内田さんは長いあいだ相当な貧乏生活をされていたそうで、しかし本当に収入がなくなると誰かが見かねて適当なアルバイトを紹介してくれて、それで何度もギリギリのところをしのいだそうだ。
つまりそういう身の周りの「豊かな人間関係」が内田樹さんの「現実」の一端を支えており、その現実の延長として「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」と公言できる気持ちがあるのかもしれない。
逆に言うと、ぼくは人付き合いをないがしろにする傾向があり、そのおかげで根性がセコくなり「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」などという気にはとてもなれない・・・のかもしれない。

まぁ、内田樹さんは自分のことを「他人を挑発する言い方、書き方をする人間だ」というようなことを書いておられるので、「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」というのも「他人への挑発」なのかもしれない。
ぼくはその挑発にまんまと乗せられれ、にいろいろ考えた挙句頓珍漢なことを書いたりするのだとすれば、それはそれでいいんじゃないかと思う。

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