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2008年9月23日 (火)

アカボシゴマダラで原理主義と機能主義

この記事のコメント欄にアカボシゴマダラについての話題があったのだけど、元記事の内容自体が良くなかったので、あたらめて記事を書くことにする。

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それでまずは、昔から日本にいたゴマダラチョウ。

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そしてこちらが問題のアカボシゴマダラで、ウィキペディアによると典型的な外来種で、幼虫がゴマダラチョウと同じエノキを食べるので、競合が心配されているらしい。

で、ぼくはこういう外来生物の問題は池田清彦さんが『環境問題のウソ 』という本で提示されていた立場を採用していて、それは「外来種の移入は無いに越したことはないが、日本の環境に適応してしまったものは仕方ないので、無理に排除しない方がいい」というものである。
これについて、以前にもこのブログでも書いたかもしれないが、いや書いたかどうかも忘れてしまったので、あらためて「原理主義と機能主義」という切り口で書いてみたいと思う。
「原理主義と機能主義」の対比については内田樹さんの『こんな日本でよかったね』に書いてあることの受け売りなのだが、これは池田清彦さんが書かれていることにもマッチするように思う。

まず外来種の問題でよく言われるのが、「日本には固有の自然環境があるから、それを守るためにも外来種は徹底して排除すべき」という原理である。
例えばブラックバスという北米原産の魚は肉食で、日本固有種をどんどん食べてしまうし、台湾からの外来種のタイワンザルはニホンザルと交雑できてしまうので、そのうち純潔のニホンザルがいなくなってしまうことが危惧されている。
アカボシゴマダラもこのまま勢力を拡大すれば、ゴマダラチョウの姿が日本の風景から消えてしまうかもしれない。

この原理はとりあえず理屈は通っているように思えるから、それに基づいて「ブラックバス」や「タイワンザル」などの駆除が実際に行なわれている。
しかし池田清彦さんが書かれているように「外来種の徹底排除」という方法は、どうしても上手くいかないらしい。
どんな外来種でも、ある程度日本で増えてしまったものは、徹底排除したつもりでもまたどこかでいつの間にか増えてしまう。
つまり元が外来種であっても、ある程度増えてしまったものは日本独自の生態系に組み込まれてしまっていて、生態系というのはシステムだから、そのようなシステムの「一部の要素」だけを排除することは事実上不可能なのだ。
それとブラックバスのような魚はともかく、人間に近しい姿のタイワンザル(とその混血ザル)を、ちょっとした遺伝子の違いで駆除(殺害)するのは、倫理上どうもよろしくない気がする。
サルの「純血」にこだわる行為と、「アーリア人の純血」にこだわりユダヤ人を排除しようとしたナチスドイツの行為とが、重なって見えてしまう。

で、このように「原理」を実際の問題に適応して上手くいかない場合、「原理に間違いは無く、だからもっと徹底すべきだ」と考えると、それが「原理主義」になる。
それに対し、「原理はその実際の機能を見ながら、適宜変更していけば良い」と考えると「機能主義」になるだろう。
「機能主義」とは、「原理」それ自体の存在は否定しないが、はじめの原理にこだわらず、原理が実際にどのように機能するのかを観察しながら、原理を次々に変化させてゆく、という思考の方法論だと言える。

はじめに「外来種は徹底的に排除すべき」という原理があるとして、しかしそれを実行するまでは、その原理が本当に有効に機能するかどうかは誰にも分からない。
そしてある程度その原理を実行したところ、ほとんど効果は無く、その代わりに「生態系は柔軟なシステムで、人間によるコントロールが困難である」というさらに新たな原理が見出されたわけである。
だから機能主義的な思考としては、実際あまり役に立たない原理は捨て去って、より実際の機能に即した原理を採用すればいい。
そうして新たに採用した原理も「当面上手く機能しそうな原理」というだけだから、様子を見ながら改変したり、全面的に交換したりする可能性も折り込み済みである。

で、アカボシゴマダラの件なのだが、これが日本で急増した発端はマニアの放蝶ではないかと言われているが、この行為自体は良くないんじゃないかと思う。
それは池田清彦さんが書いていたように、「他人の恣意性の権利を不可避に侵害する行為」だからで、これも機能主義的な考え方だ。
そして、実際に増えつつあるアカボシゴマダラについては、各自好きにすれば良いんじゃないかと思う。
結局のところ、各自が好きなように自然に親しむしかなく、どのような原理も他人に強制できないからだ。
ただ、どうせ自然に親しむんだったら、より楽しく豊かであった方が良いわけで、つまらない「原理」に囚われると損をしてしまう。
だから、より楽しく豊かに自然に親しむための「原理」を創造し続けるため、色々本を読んだり、自然観察を実践したり、そして自分が良いと思った「原理」を他人に公表したりするわけだ。

例えばいくら好きにすればいいといっても、原理主義的にアカボシゴマダラの徹底排除だけに熱中するのであれば、それはあまり楽しくないし、豊かな自然との接し方ではないと思う。
そもそも自然が好きで虫が好きな人は、虫を殺すのもかわいそうだと思ってしまうので、「ゴマダラチョウが減少するのは忍びないし、かといって目の前のゴマダラチョウを駆除するのも躊躇する」という具合に葛藤があったりして、そのような葛藤が「豊か」ということなんじゃないかと思う。
そのような葛藤の上に、各自が「好きなように」考えれば、豊かで多様な原理が創造し続けられるのかもしれない。

結局のところ原理主義というのは、ひとつの原理だけを採用し、その他の原理が有効である可能性を考えないという立場だから、逆説的だが「原理について考えない主義」と表現することができる。
これを機能主義的に表現すれば、「原理について考えずに楽をする」という機能を実現するための方法論、ということになるだろう。
反対に、機能主義は実際の機能を生かすために、原理について考え続けるという方法論だから、逆説的に「原理について考える主義」ということになる。

まぁ、「原理主義」も「機能主義」も所詮は理屈だから、誰もがこれを意識して行動しているわけではないだろう。
しかし、物事を何でも簡単に済ませようとする人は「原理主義」的に振る舞い、自然についても「通り一遍のもの」を見て満足するのではないかと思う。
それに対し、理屈以前に自然の豊かさそのものに関係を受けてしまったような人は、意図せずに機能主義的な考えになるのだと思う。

人間の思考の外に存在する「自然」は、人間にとって不可解な「機能」となって現れる。
アカボシゴマダラの急速な増加も自然の「機能」の現れであり、しかもそこに人間の力が関与しているからこそ、いっそう「不可解」なものとしてたち現れている。
その「不可解さ」にまず引っかかれば、その人の考えは自然と機能主義的になるだろう。
しかしあらかじめ「原理主義」にとらわれている人は、自然の豊かさのたち表れを、ことごとく見過ごしてしまい、それは非常に損なことではないかと思う。

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コメント

種というのは概念とか理念とか原理とか、要するに脳に属するもので実在しないのかもしれません、
それに対して実体があり実在する個体を排除するというのは、やはり純血主義の様な気がします。

こんなの見つけました。
>「種」という現象は生物の「交配」という機能から副次的に生じた一つの現象であり、生物にとって根元的なものでもなければ、
生物全体にあてはまる普遍的なものでもない、これは明らかです。
http://www.gao.ne.jp/~tgs1698/dm/demehome.htm

投稿: TAKAO YAMADA | 2008年9月23日 (火) 22時07分

生物種とは分類のことですが、あらゆる分類には実在としての根拠はありません。
しかし分類そのものは無意味ではなく、分類には根拠は無くとも「機能」があります。
われわれは例えば「水」と「油」と「ガソリン」を別のものとして分類しますが、そうしないと水と間違って油やガソリンを飲んでしまうかも知れず、そうならないための「機能」としてこのような分類があるわけです。
生物種は主に進化論を元に、階層的なグループとして分類されていますが、その分類もあくまで「機能的」だから採用されているに過ぎません。
現在の分類学は、多様な生物種を人間がさまざまに利用可能にするため、合理的に考えられたものです。

分類が「機能」のためにされるのであれば、「機能」の違いによって分類の仕方も異なってきます。
生物学的にはセロリとタンポポは同じ「キク科」に分類されますが、食材をして考えるとセロリは「食べ物」、タンポポは「食べられない物」に区別されます。
しかしアメリカではタンポポをアク抜きしてサラダにするそうで、そういう人にとってタンポポは「食べ物」に分類されます。
そのようにあらゆる分類には実体としての根拠は無く、どのような機能を実現したいのか?によって分類の仕方が異なるのです。

人種差別の問題も、倫理的という以前に「機能」としての問題があります。
人種を生物学的に分類することはある面では機能的ですが、しかし生物学的な人種を社会階層の分類に適応することは、全く機能的ではありません。
かつてのナチスドイツは純血のアーリア人とユダヤ人を社会階層的に分類しましたが、これが社会機能を著しく阻害したことは歴史を見れば明らかであるし、それはアメリカの黒人差別など、あらゆる人種差別問題に共通です。

まぁ、ぼくにとって虫はどれも「カワイイもの」に分類されますが、それは「チョウはかカワイイどガはキライ」とか「虫はみんなキライ」などという分類法よりも、いろいろな意味で「機能的」じゃないかと思うわけですw

投稿: 糸崎 | 2008年9月26日 (金) 02時00分

私も最近まで勘違いしていたのですが、「原理主義」というのは翻訳の不適切で中身は「原典主義」らしいのです。

つまり、聖書やコーランの記述に忠実というか、それが絶対に正しいとする考えのようです。

キリスト教の場合、新約聖書は内容が抽象的で解釈が分かれるので柔軟さもあるわけで、創世記の素朴な物語で説教していたローマ教会に対し、グーテンベルクの印刷機で聖書が出回ってから原典の中に「はじめに言葉(ロゴス)ありき」・・のような部分を見つけて反発して生まれたプロテスタント系が原理主義の名前の由来のようです。

今では、むしろ、創世記の素朴な物語をひっくり返したダーウィン進化論に反発しているのが原理主義に見えますが・・・

これがイスラームの場合は内容が具体的なので、時代の変化や価値観の変化に対応する柔軟性がないんでしょうね、人間社会には遊びというか、イイカゲンな部分は必要なようです(笑)

投稿: 遊星人 | 2008年9月30日 (火) 21時22分

その昔、宗教や生活習慣の違う異民族同士の争いが絶えない地域で、「みんなで同じひとつの神様を信じれば、争いが無くなりみんなが幸福になれるハズ」ということで考え出されたのがイスラム教である・・・と言うのをどこかで読んだことがあります。
雑学的知識で申し訳ないですが、ぼくの理解がそれほど外れていなければ、「原理主義」より「原点主義」のほうがしっくりするかもしれません。

>人間社会には遊びというか、イイカゲンな部分は必要なようです(笑)

あえて逆に解釈すれば、人間は遊んだりイイカゲンばかりしてると、いつの間にか「原理主義」に捉われて、大戦中の日本やドイツみたいになることもあるわけです。
人々が「原理主義」にはまる理由のひとつに「考えを省略して楽をしたいから」ということがあります。
遊びやイイカゲンは必要ですが、それを「どこに」適応するかでだいぶ違う結果になります。

投稿: 糸崎 | 2008年9月30日 (火) 23時47分

昔のマニュアルカメラはそれなりに勉強して自分で原理を理解する必要があったわけですよね、そうすると自分の目的に合ったカメラもはっきりするし、いろいろ工夫したり自作したりもするし、カメラもそれができるようになっていました。

それが今はカメラ任せなわけで、写真の原理なんて知らなくても撮れちゃうわけですが工夫の自由度は低くなってますよね、それでも、気に入らなければ新しいのを買えばいい・・・というのが現代人なのでマニュアルは高級機の付加機能で、ストロボもマニュアルは純粋なプロ用しか無くなりました。

・・・んで、このカメラを「思想」に置き換えれば同じことだなあ・・・と思うのですね。

 山崎正和さんは情報化社会というのは難解な書物を読んで勉強して自分で考えを組み立てる能力を身につけるより、新しい(他人が考えた)知識の断片を使い捨てることを好む社会だという意味のことを書いてますが、確かにそうだなあと思うわけです。

たとえば、ネット上も新情報は歓迎されますが、少しヤヤコシイ話をしようとすると疎まれているのがヒシヒシ伝わってくるわけで(笑)

池田清彦さんは論争好きな論客なので、「原理主義」という刺激的な言葉で比喩して反論を誘っている感じがありますね。

私もこれを読んだときには、日本人は長文の論理には鈍感だけど一言の比喩にはとても敏感なので、「原理主義」は上手い表現だなあ・・・と笑ってしまいました。

投稿: 遊星人 | 2008年10月 1日 (水) 20時56分

遊星人さんがおっしゃる

>新しい(他人が考えた)知識の断片を使い捨てること

にも、「原理主義」と「機能主義」の二通りのパタンが考えられます。

まず先に「機能主義」に付いてですが、この場合重要なのは「目の前の問題を解決すること」であり、そのための「機能」としての解決法を求めます。
「目の前の問題」とは、それぞれの人が置かれた「現場」で発生している問題あり、解決法(機能)もそれぞれ違います。
ですからそのような具体的問題の解決のために、既成のテキストや一般論などの「他人が考えた解決法」は基本的に役に立ちません。
しかしいくら自分固有の問題とはいえ、その解決法を自分だけでゼロから構築することは至難の業です。
そこで「他人が考えた解決法」を丸ごと採用するのではなく、複数の「他人が考えたの解決法」を断片化し、それらを適当につなぎ合わせ「目の前の問題」の「新しい解決方法」にアレンジするのです。
そして「目の前の問題」は現実的に日々刻々と変化しますから、その解決法も適宜更新する必要があります。
具体的な例を出すと、ネイチャーフォトのカメラ機材は「ネイチャー」と言う現場に合わせて市販のカメラやレンズにさまざまなアレンジ(改造など)を加える必要があります。
また、その技法も「ネイチャフォトの正しい撮影法」など固定したテキストに縛られること無く、被写体である「ネイチャー」の変化に伴い常に更新され続けてゆきます。
以上のような意味において「機能主義」は、「新しい(他人が考えた)知識の断片を使い捨てること」を実践していると表現できます。

次に「原理主義」ですが、これをカメラに置き換えるとその原理は「カメラ雑誌」という原典に書かれてますから、そのまま「原典主義」と言い換えても差し支えないでしょう。
同じくネイチャーフォトを例にすると、カメラ雑誌には「きれいな花の写真」とか「きれいな鳥の写真」とか「きれいな山の写真」などのスレテオタイプの「正しいネイチャーフォトの見本」が毎号掲載され、そのような写真をいかに撮影するかの「正しいマニュアル」が掲載されています。
カメラ雑誌に掲載されるような「正しくきれいなネイチャーフォト」は、そんじょそこらでは撮影できませんから、撮影地のガイドも掲載されています。
そして雑誌を読んだ人は、記事のとおりのカメラを買い、記事に示された場所へ行き、記事で示されたとおりの方法で撮影し、「雑誌と同じ写真が撮れた!」と喜ぶわけです。
このような人たちは、「問題の解決法」はもちろん「問題の発生現場」までも「雑誌に書かれていた解決法」に合わせてしまうわけで、だから「原典主義」なのです。
そしてカメラ雑誌の記事内容も時代や流行によって変わりますから、「原典主義」の読者も古い原典からの知識はどんどん捨てて行きます。
カメラがデジタルの時代になると、銀塩カメラの知識の多くは不要だし、進化の早いデジカメの知識の大半は覚えた端から古くなります。
以上のように、「原理主義(原典主義)」もまた「新しい(他人が考えた)知識の断片を使い捨てること」を実践していると表現できます。

以上で示したように「機能主義」や「原理主義」というのはあくまで問題をどう捉えるかの「姿勢」であって、カメラで言うとそれがいくらデジタル化されようが、もしくは自動化されようが、どちらの立場も実現可能だと思います。
例えばぼくは「機能主義」の立場で「ネイチャーフォト」を撮ってますが、その際は(カメラ雑誌のテキストに反して)主にフルオートのコンパクトデジカメを使ってます。
オートだと自分の意のままの写真が撮れないように思えますが、それに対しぼくは「カメラのオート機能をだます」というテクニックを使います。
「カメラのオート機能」は「他人が考えた知識体系」のを具現化したものですが、それを「断片化」して捉えることで、部分的にコントロールできるのです。
ぼくの実感としては、カメラという道具の自由度は、少なくともここ30年間くらいは高くも低くもなっていない・・・要するにやりようはいくらでもあると思ってます。

あと、以下のことについてですが、

>難解な書物を読んで勉強して自分で考えを組み立てる能力

昔の人のほうが読書量が多かったと言うのはよく言われることですが、ぼく自身そういう「頭の良い人たちの世界」のことは良くわからないし、「頭の悪い自分がいかに効率的に思考できるか?」の方法論として「既成の思考の断片の切り貼り」を試してるわけです。
もちろん、難解で長い書物を読むことは出来ないので、せいぜい「入門書」の断片を切り貼りするのが関の山です。
はじめに書いたように「機能主義」は「目の前の問題解決」を重要視しますから、頭の程度に関係なく、各自が「入手できる範囲の素材」をアレンジし「自分の問題解決の方法」を模索できればいいんじゃないかと思います。
そうじゃなければ、「頭の悪い人間は決して幸福になれない」ということになるし、それは「人は金が無いと幸福になれない」という考えと同じになってしまいます。
まぁ、確かに「バカ」は不幸なことではありますが、「バカ」とか「りこう」の意味をあらためて考えることで、いろんな解決の可能性が見えてくるんじゃないかと思います。

投稿: 糸崎 | 2008年10月 7日 (火) 00時43分

余計な事ですが、
生物学的にはセロリとタンポポは同じ「キク科」に分類
セロリはセリ科です。
無意味に絵文字を入れてみました。

投稿: おいかわ飯店 | 2008年10月15日 (水) 15時11分

しまった・・・野菜のうち以外にもキク科なのはセロリじゃなくて「レタス」でした・・・
こういう間違いは本筋からは些細なことですが、非常に気になりますよね。
ぼくは最近『進化論5つの謎―いかにして人間になるか』と言う本を読んで感銘を受けたのですが、その反面、この本は「ハンマーオーキッドの花弁にスズメバチが止まると、ハンマーのようにひっくり返り・・・」などの間違い(正解はツチバチ)が何箇所かあり、非常に気になってしまったのですw
http://www.amazon.co.jp/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E3%81%AE5%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%AC%8E%E2%80%95%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E6%96%B0%E6%9B%B8-88-%E8%88%B9%E6%9C%A8-%E4%BA%A8/dp/4480687874

>無意味に絵文字を入れてみました。

( ´_ゝ`)フーン と言う感じで、FACE機能を使ってみました。m9(^Д^)プギャー

投稿: 糸崎 | 2008年10月15日 (水) 19時27分

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