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2008年9月 8日 (月)

「理念」は「現実」が支えている

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内田樹さんの『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』は、ご自身のブログの文章を切り貼りした本なのだが、その内田さんは「自分のブログの文章はコピーフリー、転載フリー、盗用フリーです」と公言している。
つまり、内田樹さんのブログの文章を無断で自分のブログにコピペして「自分が書いた文章」として発表するのはもちろん、「自分の著作」として出版し印税を得ることも可能なのだ(その場合の印税は内田樹さんに配分する必要は無い)。
その理由は内田さんの文章を直接当たるのがより確実だが、とりあえず自分なりに以下のように短くまとめてみた。

人間は「言葉」を使ってものを考えるが、その「言葉」は自分で考えたものではなく、自分以外の「他者」から教えられたものだ。
だから、「自分の考えを文章にする」ということは、「どこかで聞いたような言葉」や「何かで読んだ言葉」を、適当に切り貼りする行為と言い換えることが出来る。
このような「書くこと」の原理から考えると、「自分が書いた文章」は果たして「自分の所有物」と言えるかどうか、曖昧になってくる。
むしろ「自分が書いたものは、自分の所有物ではない」と捉えたほうが、合理的である。

これは現代思想の「理念」であり、似たようなことはほかの現代思想の入門書にも書いてある。
しかし「理念」は単独では存在しえず、それぞれの「現実」に支えられながら成立するものである。
内田樹さんの「著作権フリーの理念」は、内田樹さんご自身が「大学教授」という職を持ち、それなりの社会的地位と経済基盤を得ていると言う「現実」が支えている、と言って良いのではないかと思う。
実際に内田さんは「自分は必要な収入は足りているから、それ以上に著作権で儲ける必要が無い」と言うようなこともどこかに書いている。

逆に言うと、ぼくは定職を持たずフリー作家としての地位も低く経済基盤が軟弱だ、と言う「現実」がある。
そういうぼくの「現実」では、「著作権フリーの理念」を支えることが出来ない。
だからぼくは理念的には自分のブログの内容を「著作権フリー」にすべきなのかもしれないのだけれど、現実的にそれが出来ないでいるのである。
まぁ、この「ブログ3」の文章は大したものではないとしても、「ブログ1」や「ブログ2」の写真は(いちおう写真のプロを名乗ってるだけあって)いろいろ使い道があるのではないかと思う。
それだけに、これらのブログにアップした素材を「著作権フリー」にしてしまったら、ぼく自身の生活基盤が築くことに支障が出るかもしれない。

理念的には、ぼくは少なくとも自分の写真は「著作権フリー」にすべきなのかもしれない。
「非人称芸術」のコンセプトに照らせば、ぼくの写真はぼくの作品ではない。
ぼくの写真は、作者不在の「非人称芸術」のコピーであり、作者不在の「非人称芸術」には著作権は存在し得ない。
だから「非人称芸術」と言うコンセプトに忠実に従うならば、ぼくは自分の写真の著作権を放棄すべきなのである。

しかし前途したように、ぼく自身の置かれた「現実」からその理念を実現するのは不可能である。
本来なら、まっとうな仕事に就いて生活基盤を安定させ、その上で「理念」を実現すれば良いのである。
しかし、ぼくはどういうわけか「まっとうな仕事」をするのが苦手で、出来れば「それ以外の手段」で生計を得たいのである。
これは実に自分の「わがまま」でしかなく、そのために自分が提示した「理念」の実現を、自分自身が阻んでいることになる。
それに対し、「皆さん」には非常に申し分けなく思っている。
そのようなわけで、とりあえずぼくのブログの写真や文章については、ぼくの生活基盤を脅かさない限りは自由に使っていただければと思うのだが、そのガイドラインを示すのはなかなか難しい。

以上のように考えをまとめたのは、仲正昌樹さんの『「不自由」論-「何でも自己決定」の限界』を読んだからである。
この本ではハンナ・アーレントという人が指摘した、民主主義(討論で成立する政治)に対する矛盾が紹介されている。
ぼくなりに要約すると、民主主義の原点は古代ギリシアの「ポリス」が原点なのだが、ポリスの「市民」は、現代的民主主義国家の「市民」とは、実は概念が大きく異なる。
ポリスの「市民」は、実はその家の「家長(長男)」しかなることはできず、家長=市民は「家」では暴君のように振る舞い、生活的にも精神的にも全面的に「家族」や「奴隷」に支えられていた。
そして、そのように完全なる生活基盤に支えられていた「市民」たちだからこそ、個人の利害関係に囚われない純粋な「民主主義」についての討論が可能だったのである。
しかしこれは人間を「市民とそれ以外」に分けることで実現した「理念」でしかない。
それに対し、近代の民主主義国家は「全ての人間は市民である」という前提で、民主主義の「理念」を実現しようとしている。
この場合の「市民」は、ポリスの「市民」と異なり、各自が自らの生活基盤を支えながら、民主主義という政治に参加することになる。
しかしそうなると、市民同士の政治的討論の中に「経済的利害」という要素が入り込み、本来あるべき「民主主義」の理念が阻害されてしまう。
つまりアーレントが指摘したのは、民主主義の「純粋な理念」は「完全なる生活基盤」の上でしか成立し得ない、という矛盾である。

いや、ちょっと要約しすぎかもしれないが、ともかく現代の人々の生活は経済基盤によって支えられている。
ということは、あらゆる「理念」もそれぞれの人々の経済基盤に支えられている事になる。
だから経済基盤が軟弱になれば、さまざまな「理念」が実現困難になり、その意味で「経済」は「理念」の阻害要因となる。
というようなことを理解していれば、いろいろ行き詰ったときに気持ちの切り替えが出来たりして便利かなと、思った次第である。

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コメント

理念的には種の多様性を保持すべきであるが、現実に目前にいるアカボシゴマダラを駆除するのは忍びない、、、ということでしょうか。

投稿: TAKAO YAMADA | 2008年9月 9日 (火) 00時38分

どうもココログにアクセスできないようで、更新ができません。
実はこの記事と前回の記事は内容にあまりよろしくない部分があるので、それについて書きたいのですが・・・

>理念的には種の多様性を保持すべきであるが、現実に目前にいるアカボシゴマダラを駆除するのは忍びない、、、ということでしょうか。

これについても少々お待ちを・・・

投稿: 糸崎 | 2008年9月 9日 (火) 22時57分

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