« 生きるアート作品 | トップページ | 「理念」は「現実」が支えている »

2008年9月 2日 (火)

入門書の入門

Sr8393031

ぼくは最近、この手の(現代思想系の)入門書をいろいろと読んでるのだけど、それは自分の美術のコンセプトを強化するためである。
強化というか、コンセプトというものは構築するもので、構築し続けなければならない。
コンセプトを構築する中で、弱い部分が見つかればそこを強化しなければならないだろうし、コンセプトが行き詰った場合、強化どころか全部壊してはじめからやり直し、なんて場合もあるかもしれない。

ぼくが美術のコンセプトにこだわるのは、それは自分の美術作品が「大したこと無い」ということを知っているからである。
というか、美術なんてものはある程度才能があれば、みんな「ドングリの背比べ」みたいなものである。
まして「写真」なんて機械に頼るような表現は、作品の良し悪し(もしくは才能の有無)の判定が、ますますあいまいになる。
そういう世界の中で、並みの才能しかない自分がプラスアルファの要素で何とか生き残ろうと思ったところに、「コンセプト」という要素があったわけだ。

これをぼくは、美大の受験に例えて理解しているのだけれど、受験用の石膏デッサンはある程度訓練すれば誰でも上手く描けてしまうもので、よほど突き抜けて上手い人以外はやはり「ドングリの背比べ」状態だ。
そんな中での合格の秘訣はというと、他人より一枚でも多くデッサンを描くこと・・・ではなく、デッサンの訓練はそこそこにして、あとは「学科」に励むことである。
学科に励むといっても、所詮は美大受験だから、一般大学の受験ほどがんばる必要が無い。
そもそも美大受験を目指すような生徒は「勉強が嫌いだから」美大を目指しているのが大半だろうと思う(ぼくもそうだったのだが)。
だからデッサンに自信のある生徒ほど、学科の勉強がおろそかになったりする。
しかし、美大であっても大学だから、受験には学科もあって、学科による足切りもある。
それでぼくは嫌々ながらも受験の直前に集中的に勉強し(付け焼刃とも言うが)、そのおかげで東京造形大学に合格することができた(一浪だったけど)。
ちなみにぼくは、武蔵野美術大学は学科で足切りされ、東京芸術大学はデッサンで落とされている。
まぁ、受験の状況は毎年変わるようだし、ぼくの大昔の話が今のどれだけ当てはまるかは分からないけど、ともかく美大受験生に「学科の勉強」が必要だった様に、美術家にも「コンセプトの構築」が必要なのではないか、と思うのである。

さて、美大の受験の学科は国語、数学、理科、社会、とかだったが、美術のコンセプトに必要な学科は何だろうか?
これは人によって違うだろうが、ぼくはごく大雑把に「美術史」と「現代思想」というくくりで考えてみた。
美術史を学ぶ事は、美術の歴史の流れでの自分の位置を確認する行為で、基本中の基本だから誰もが少なからず意識していることだろうと思う。
美術の歴史の流れは、それを支えるコンセプトの流れでもあるから、それを追うことで自分が構築すべきコンセプトも見えてくるわけだ。

そして「現代思想」とは何かと言えば、最近ぼくが傾倒している高田明典さんや内田樹さんの説を採用すると、「考えるための道具」ということになる。
美術のコンセプトを構築することは「美術とは何か」を改めて考えることであり、それにより自分なりの新しい「美術のあり方」が創造されるのである。
その「美術とは何か」を考えるために有効なのが「考えるための道具」としての「現代思想」なのだ。
また、美術史は「美術とは何か」の移り変わりの歴史でもあり、それを「現代思想」で読み解き、自分のコンセプトの構築に役立てることもできる。

「現代思想」というといかにも難しそうだが、分かりやすくて面白い「入門書」は結構いっぱいあって、そういう本で十分だと思う。
そもそも自分は美術家であり、なにも現代思想の専門家を目指しているわけではないのである。
現代思想が「考えるための道具」ならば、現代思想の専門家は「道具を作る人」であり、ぼくのような美術家は「道具を使う人」であればいい。
道具というものはどの分野でも、扱いの難しいプロ専用から、素人にも扱えるフルオートマチックの簡単なものまで、いろいろ揃っているものである。
美術家は「現代思想」については素人だから、素人向けの簡単な「入門書」を読むだけで十分だろうと思う。

というか、ぼくはどうがんばっても「入門書」以上の本を読めるようなアタマが無いのである。
入門書には巻末にブックガイドが載っているものが多く、それを参考に「ステップアップ」しようとしてみるのだが、ちょっと難しいことが書いてあるとすぐ分からなくなり、アタマがパンクしてしまう。
で、そういうぼくが最近辿り着いたのが、「入門書を何冊も読む」という方法だ。
現代思想の入門書は、例えば「エクリチュール」などという耳慣れない概念を、分かりやすく説明してたりする。
ところが、そもそも「エクリチュール」は専門家の間でも解釈が分かれるような難しい概念で、入門書的な言葉でその全てが語り尽くせるわけが無い。
だから、入門書に書かれた「エクリチュール」についての解説は、その一面的な解釈の断片にしか過ぎない。
入門書を一冊読んだだけで、「エクリチュールの全部が分かる」なんて事はありえないのだ。
だから、「エクリチュール」に付いてもっと深く理解したければ、ロラン・バルトが書いた原著を読めばいいのだが、それは自分には不可能なのだ。
しかし「エクリチュール」の理解を深めるための別の方法があり、それが「別の入門書を読む」ということである。
別の入門書を読むと、先に読んだ入門書とは違う文脈で「エクリチュール」という用語が出てきたりして、またちょっと違う解説がされたりしている。
そのようにして、いろいろな入門書を読めば「エクリチュール」についての理解がだんだん深まってくるわけだ。

というか、実はその語を正確に理解する必要は無く、正確な理解を目的にするのは本末転倒だ。
目的は、あくまで自分の「美術」を成立させることで、それを支えるコンセプトを構築することである。
コンセプトの構築に必要なのは「考えるための道具」としての現代思想であり、例えば「エクリチュール」の理解が生半可であっても、あまつさえ間違いであっても、「考えるための道具」として機能しさえすれば良いわけだ。
むしろ、結果として機能しさえすれば、どんな解釈であれそれが「正解」となる、というのが現代思想としての立場なのだと思う。

まぁ、ぼくはエクリチュールという概念について、分かったような分からないような気でいるのだが、それは分かったようで実のところ使い方が分からず、だからやっぱり理解していないということになる。
それよりも「構造主義」という概念は自分なりにだいぶ理解しているつもりで、ぼくの美術のコンセプトも「構造主義」なしでは成立し得なかったと思っている。
そこの構造主義について、この『図解雑学 ポスト構造主義入門』では何と説明されているかというと、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」とある。
しかし、ぼくが以前読んだ他の入門書にはどれも「構造主義は変化する現実を捉えられない、と考える人は構造主義を誤解している」と書いてあり、つまり「構 造主義は変化する時代を捉えるための思想」としている(そしてポスト構造主義との関連は、別の文脈により説明されている)。
つまり同じように「現代思想の専門家」によって書かれた本であるにもかかわらず、構造主義について正反対の解釈がされている。
で、そのどちらが「正解」なのかは、現代思想的立場からは一概に決定できない、ということになる。

ぼくはもちろん、「構造主義は変化する現実を捉えるための思想」という解釈を採用しており、そのおかげで「非人称芸術」とか「路上ネイチャー」などのコンセプトを構築し、それらのコンセプトの基に作品を制作することができた。
ぼくの「構造主義」についての解釈は一面的かもしれないし、専門家から見手間意外だったりデタラメだったりするのかもしれないけど、少なくとも自分が「分かったつもり」になり、それが「役に立ったように思えた」ことが肝心である。
そういうぼくにとって、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」という説明は、正解とか間違い以前に「分かりづらい」のである。
説明そのものは日常語で分かりやすいのだけど、その文脈では「構造主義」についても「ポスト構造主義」についても、何の概念も掴むことができない。
その説明から、「道具としての概念」が何も得られない。
これはその説明自体に問題があるというより、ぼく自身のセンスというか、思考の癖のようなものとの相性の問題なのだと思う。

反対に、「構造主義は画期的思想だが、変化する現実を捉えることができない思想なので、ポスト構造主義に取って代わられた」という説明のほうが判りやすくて相性がいい、という人もいるだろう。
こっちの文脈の方が自分の使う道具として役立つのであれば、それはそれで「正解」なのだ。
「構造主義」以外にも、専門家によって解釈の異なる用語というのはいくつもあるだろうし、それはそれぞれの専門家の思想の文脈の中に位置している。
だから現代思想の入門書は、一冊だけ読んで終わりにするようなものではなく、何冊も読む必要がある。
入門書に書かれるテーマはそれぞれだけども、多くの部分は重なっており、同じ言葉が反対の意味で書かれていることもある。
そういう本を何冊か読むうちに、自分の創作に役立つ「考えるための道具」がヒョイと取り出せたりするわけで、そうすると「分かった」という気になるのである。
ともかく、ぼくが最近傾倒している現代思想の入門書はどれも、「現代思想は目標を達成する手段である」という立場に徹している。
そして美術、あるいは美術に隣接する表現分野はどれも「目的」が明確だから、手段としての現代思想とは相性がいいはずだと思うのだ。

|

« 生きるアート作品 | トップページ | 「理念」は「現実」が支えている »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 入門書の入門:

« 生きるアート作品 | トップページ | 「理念」は「現実」が支えている »