« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008年10月20日 (月)

「行動プログラム」の捉え直し

Sp9240212

前回までの記事で「行動プログラム」を「遺伝的プログラム」の一側面として捉えてみたのだが、この考えを進める先で矛盾が出てきて行き詰ってしまった。
そもそも「遺伝的プログラム」と言う概念自体、もともと人間が日常的に利用している「プログラム」の概念を、生物の現象に当てはめ概念化したものである。
だからちょっと考えを転換し、まずは「行動プログラム」を人間のこととして考え、そこから出発してみようと思う。

人間にとっての「行動プログラム」とは、例えば「法律」がそうである。
法律には例えば「他人のものは盗んではならない」と書いてある。
しかし「えんぴつを盗んではいけない」とか「自転車を盗んではいけないとか「靴を盗んではいけない」などの具体的な項目は列挙されず、ただ抽象的に「他人のものは盗んではいけない」と書かれている。
抽象的に書かれていても、それが個々の具体例をも同時に指しているのであれば、それこそが「行動プログラム」である。

「行動プログラム」は、人間の行動を規定するとともに、いかに行動すべきかの指針を人間に与える。
人間の赤ん坊は、自分がどう行動してよいものかを知らずに生まれてくる。
いや、正確には「遺伝的プログラム」に従う以外の行動ができず、しかし人間に備わった遺伝的プログラムに従うだけでは、赤ん坊は生きてゆけないのだ。
だから赤ん坊は成長するに従い、親をはじめとする大人たちから、さまざまな「行動プログラム」を学ぶことになる。
母乳を飲む赤ん坊の行動は、遺伝的プログラムに従っているだけである。
しかし離乳食は、それが具体的にどのような食品なのかは遺伝的プログラムでは決まっていない。
だから母乳以外の何をどう食べたら良いのかという「行動プログラム」を親から学ばなくてはならない。

離乳食を食べるようになった子供は、やがて立って歩くようになったり、言語を覚えたりするようになるが、これは遺伝的プログラムの現われである。
このうちの人間の言語について、その枠組みとしての「構造」は遺伝的プログラムで決まっているが、しかし言語としての構造に、具体的にどんな「語」を当てはめるかまでは決まっていない。
だから人間の言語は「日本語」や「英語」や「ヒンドゥー語」など、文化によってさまざまである。
しかしいかに異なる言語であっても、その構造は同一の遺伝的プログラムに規定されているため、お互いに翻訳が可能となる。
子供が親から言語を学ぶ行為自体は遺伝的プログラムの発現だが、具体的には「行動プログラム」としての母国語を学ぶのだと言える。

人間にとって「言語」とは、遺伝的プログラムによらない「行動プログラム」を構築するための道具であり、また「行動プログラム」を人間同士で共有するための道具と言える。
子供が言葉を覚えると言うことは、遺伝的プログラムによらない、生きるために必要なさまざまな「行動プログラム」を学ぶことと同意である。
言葉の意味は「行動プログラム」であり、言葉を学ぶことは「行動プログラム」を学ぶことと同意なのだ。

人間という動物は、生得的に備わった遺伝的プログラムのみでは生きてゆくことができない。
人間の遺伝的プログラムは、それさえあれば人間が生きてゆけるようには設定されていない。
いや、人間の遺伝的プログラムには、「言語を用いて行動プログラムを構築する」という行動そのものがプログラムされているのだ。

昆虫や両生類などの変温動物の行動は、その全てが遺伝的プログラムによって規定されている。
チョウの幼虫は自分の食べ物をはじめから知っているし、サナギへの変身の仕方も知っている。
チョウはサナギからの羽化の仕方を知っているし、飛び方やえさの探し方や交尾や産卵の方法など、生きるうえで必要な何もかもをあらかじめ知っている。
チョウは成長の過程で何も学ぶことは無く、全ては遺伝的プログラムで決まっているのだ。
もちろんプログラムは大まかな構造が決まっているだけで、具体的なプログラムの実現はそのチョウが置かれた環境や状況に左右される。
しかし少なくとも、チョウ自身は「いま自分が何をすべきか」の全て知っており、いつでも迷い無くそれを実行することができる。
それはミミズやカエルやダンゴムシでも同じことである。

しかし人間には「いま自分が何をなすべきか」についての遺伝的プログラムが存在しない。
さらには「自分はこれからどのように生きてゆけばよいのか?」「人間の生きる意味とは何か?」などなど・・・人間はあらゆることを知らないままに生まれてくる。
こうした人間の根源的なことについて考えを巡らせる営みは、宗教だったり、哲学だったり、思想だったり、科学だったりするのだけど、つまりそれらは人間の「行動プログラム」を構築する営みだとも言える。
「いま自分はいかに行動すべきか?」を明らかにするには、その前提として「世界がどうなっているか」を明らかにする必要がある。
それに対し宗教は「世界は神が創った」と答え、哲学は「人間の理性だけが知りえるものだ」と答え、科学は「宇宙はビッグバンにより始まった」と答える。
まぁ、便宜上とは言え簡単にまとめ過ぎだが、ともかく人は誰でも自分なりの「世界観」を構築しながら日常を生きている。
そのような「世界観」は人間の「行動プログラム」の一環であり、人間にとっての行動範囲のイメージを明らかにする。

実のところ、自分の世界観の中でのあらゆる名前のついたもの、言語で言い当てられるもののそれぞれが「行動プログラム」なのだと言える。
例えば目の前の「コップ」は、そこに液体を注いだり、中の液体を飲んだり、飲み終わったコップを洗ったり・・・人間にさまざまな行動を誘発させる「行動プログラム」としてそこに存在する。
天に広がる「青空」を見て元気な気分になるのは、「青空」自体が人間にとっての「行動プログラム」として機能しているからだ。
道端の「石ころ」は、「そんなものは無視していい」という内容の「行動プログラム」となっている。

人間の世界観は、さまざまな「行動プログラム」で満たされている。
そして、そのような「行動プログラム」を次々に実現してゆくことが、「人間が生きる」と言うことなのである。
「行動プログラム」は、人間を規定しながら、その一方で自由を与える。
「行動プログラム」を知らない人間は、自分が何をして良いかわからず不自由である。
その意味で、子供は大人よりも不自由な存在だと言えるかもしれない。
大人になっても不自由を感じる人は、自分にとっての「行動プログラム」を十分に知り得ていないのかもしれない。
「行動プログラム」のなんたるかを知っている大人は、自由に生き生きと行動しているように見える。
自由に見える大人は、よりたくさんの種類の「行動プログラム」についての知識がある。
そのような人は「行動プログラム」のさまざまな選択肢の中から、自分のすべき行動を、自由に選択することができる。
人間の自由とは「行動プログラムを実現する自由」であり、不自由とは「行動プログラムの実現を阻害されること」および「行動プログラムを知らないこと」だと表現できるのかもしれない。

以上、結局は内田樹さんが「言葉の意味は使役である」とどこかの本で書いていたのを、「行動プログラム」と言う言葉に置き換えて説明しただけになった感がある。
しかしこれが、人間以外の恒温動物、イヌやネコやカラスの話につながってゆき、再び人間の話に戻ってくる・・・つもりでいるのだが、いかんせんそうした動物についての基礎知識が不足してるので、この問題はちょっと後回しにするかもしれない。
--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月19日 (日)

本来ならボツ

Sr8404165

動物の行動は「遺伝的プログラム」のうちの「行動プログラム」に規定されている。
しかし他の動物と異なり人間の「行動プログラム」は不完全であり、それを補うために人間は言語を用いて、文化的な「行動プログラム」を構築する。

大体このようなことを言いたくて、さらに話を続けたいのだが、しかしその前に明らかにしなくてはならない前提がある。
それは人間以外の動物でも、鳥や獣などいわゆる高等動物と、それ以外のいわゆる下等動物では「行動プログラム」が異なり、その違いを把握するということだ。
それをしてからでないと、人間がさらに特殊であることが説明しづらくなってしまう。

ところで、日高敏隆さんの『人間は遺伝か環境か』では「遺伝的プログラム」の概念を「成長プログラム」と「行動プログラム」に分ける記述は無く、便宜上ぼくが分けたまでのことである。
「成長プログラム」と「行動プログラム」は表裏遺体で相補的な概念である。
「成長プログラム」を具体化するには、エサを食べたり筋肉を動かしたりなどの「行動プログラム」が不可欠である。
反対に「行動プログラム」の具体化には、その種に固有な身体を形成するための「成長プログラム」が不可欠だ。
このうち、ぼくが言いたいことの便宜上、主に「行動プログラム」について話を進めたいと思う。

それにしても、高等動物、下等動物、と言う言い方は個人的にはどうも気に入らない。
このように人間を基準に序列をつけた概念は、多くのことを見誤らせる。
そもそもぼくは、そうした序列にこだわらず、人間を「動物の一種」として捉えようとしているのだ。
一般に「高等動物」といわれてるものは鳥類と哺乳類であり、これらはまとめて「恒温動物」としてカテゴライズされる。
だから以後は動物を「恒温動物」と「変温動物」に分け、両者の違いを「高等・下等」と言う序列以外の概念で語ってみようと思う。
ただしぼくは恒温動物のことはあまり詳しくなく、だからとりあえずは『人間は遺伝か環境か』の本に示された例を元に書くことにする。
理論としての制度は甘くならざるを得ないが、自分の言いたいことの大体の意味が表現できればと思う。

恒温動物はその他の変温動物とでは「行動プログラム」にどのような違いがあるのか?
もちろん温血動物にも色色いて一概には言えないが、とりあえず本に示された例からざっくりと考えてみたい。

ぼくははじめ「人間の行動プログラムは不完全だから子供は学習の必要があるが、その他の動物は生まれながらにして行動プログラムを完全な形で備えている」というようなことを書こうとしていた。
しかし、虫などの変温動物のことばかり考えているとついそのように思い込んでしまうが、恒温動物には人間と同じく、親からの学習がないと正常に育たない種がある。
例えばネコの子供は、親からどんなものがエサとなり、それをどのようにして捉えるかを学習する。
ネコに限らず、キツネやライオンなど多くの哺乳類の子供が親から色々なことを学習する様子が、テレビの自然関係の番組でちょっちゅう放映されている。
その様子はまるで人間のようで、事実視聴者が感情移入しやすいからいくつも番組が作られるのだろう。

日高さんの本で出ていた面白い例が、鳥類のさえずりの学習についてだ。
例えば、ウグイスのヒナは親から隔絶して人間の手だけで育てられると成鳥になっても「ホーホケキョ」とさえずることが無い。
そこで「ホーホケキョ」というテープレコーダーの音声を流しながらヒナを育てると、ヒナはその音声に熱心に聞き入り、成長して自分も同じさえずりができるようになる。
ウグイスの「ホーホケキョ」というさえずりは、ヒナのころの学習によって体得されるのである。
ではウグイスのヒナに「カーカー」というカラスの鳴き声を聞かせながら育てると、ウグイスは「カーカー」となくようになるのか?
実験してみると、ウグイスのヒナはテープレコーダーの「カーカー」の音にはまったく無関心のまま育ち、生長になっても「カーカー」とも「ホーホケキョ」ともさえずることは無い。
つまり、ウグイスのさえずりは学習によるものだけど、どのようなさえずりを学習するかは意遺伝的に決まっているのだ。
同じような現象は、ウグイスに限らずさまざまな種類の鳥で見られるはずである(もちろん異なる場合もある)。

これはどういうことなのか?と言うと日高さんの本では「遺伝的プログラムとは、ともかくそういうものだ」と言うように書かれている。
そこで、ぼくなりに掘り下げて「行動プログラム」を「内部遺伝」と「外部遺伝」という二つの概念に分けて捉えてみることにした。
これらの概念も、ぼくが適当に思いついたことであり、権威的裏づけはまったく無い。
行動プログラムは、親から子へ遺伝する。
そして、子が生まれながらにして親から受け継いだ行動プログラムが、「内部遺伝」された行動プログラムである。
そして「内部遺伝」されず、従って子が身に着けていない行動プログラムは、親から学習によって得ることができる。
このように学習と言う形で伝えられる行動プログラムを「外部遺伝」と呼ぶことにする。
細胞レベルで内部遺伝するとしても、学習という形で外部遺伝するとしても、どの道「行動プログラム」は親から子へ伝えられてゆく。
そして恒温動物の行動プログラムは「内部遺伝」と「外部遺伝」と言う二つの経路を持ち、その他の変温動物は「内部遺伝」と言う経路のみが存在する。

・・・と、ここまで書いて行き詰ってしまった。
遺伝と言う概念で考えたら、「獲得形質は遺伝しない」ことは常識だから、「外部遺伝」と言う概念は成り立たない。
「親は子供に何を教え、子は親から何を学ぶのか?」という内容のプログラム自体が「内部遺伝」するため、そうなると「外部遺伝」とセットの対概念自体が不要になる。
そもそも「行動プログラム」と言う概念自体、元の「遺伝的プログラム」の概念から微妙にずれてきているような気がする。
やはり、ぼくにとって恒温動物の存在は厄介な問題で、それを捉えるための概念はまた別につかむ必要がありそうだ。
というわけで、本来ならこの記事はボツなのだけど、なんかの参考くらいになるかもしれないので、とりあえず掲載しておくことにする。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月17日 (金)

「イヌ」は何だか分からなくて怖い

933f7e3b611a701969a860de6e3575b6

ぼくはこのブログで、自分の新たな芸術のコンセプトである「鑑賞主義」について書きたいのだけど、「芸術」を知るには「人間」を知らねばならず、人間を知るアプローチはいくつもあるだろうが、ぼくはそのうちの「生物としての人間」に興味があり、それで生物のことをアレコレ書こうとしている。
それで以前投稿した「完全生物としての人間の恐るべき能力」だが、自分としてはイイ線行ってるつもりでいたが、読み返してみるといかにも内容が荒すぎる。
だから改めて書き直しを始めてみたのだが、ちゃんと書こうと思うとだいぶ長くなってしまいそうで、それではじめの部分として「成長プログラムと行動プログラム」を書いた。

で、今回はその続きなのだが、書こうとしてすぐに行き詰ってしまった。
ぼくは「行動プログラム」と言う概念で、人間とそれ以外の動物の比較をしたかったのだが、自分自身に鳥や獣についての知識がスッポリ抜けているのに気付いたのだ。
昆虫をはじめとしカエルやヘビなどを含む「蟲」については、実際の観察を含め適当に知ってるつもりでいるが、鳥や獣などのいわゆる「高等動物」についてはほとんど何も知らないでいる。
ぼくにとって「高等動物」は、なんだか分からない未知の存在であり、その意味で「怖い」対象である。
いや、実際にイヌでもネコでもカラスでも、普通に「かわいいな」とは思うけど、しかし「意味不明の存在」としては十分に怖い。

例えばイヌは、ぼくを見ると尻尾を振り、うれしそうにじゃれ付いてきたりするのが怖すぎる。
いや、実際には「ちょっと鬱陶しい」くらいにしか感じないのだが、しかし「その行動の意味が分からない」という点では恐怖である。
ぼくにとって恐怖=分からなさのポイントは、「イヌは人間の存在を認識し、ある程度コミュニケーション可能である」と言う点である。
これに対してぼくが慣れ親しんでいる「蟲」は、人間を存在として認識しないし、もちろんコミュニケーション不可である。
蟲は人間と同じ環境に存在しながら、まったく別の「環世界」に生きている。
「環世界」とは生物種がそれぞれの方法で環境を認識し、構築する世界観のことである。
人間であるぼくの「環世界」には、トンボやカエルやヤモリなどの「蟲」たちが、存在として立ち現れる。
しかし、トンボやカタツムリやカエルたちの環世界には、存在としてのぼく(人間)は立ち現れることは無い。
確かにトンボもトカゲも、不用意に人間が近づくと逃げるし、カタツムリは触ると体を引っ込めるなどの反応を示す。
しかし、それは「環境の変化」の認識であって、存在としての人間を認識したとは思われない。

しかしイヌと接すると、その環世界には「存在としての人間」が立ち現れているようにしか思えない。
イヌは自分の主人には迷わず甘えたりするのに、初対面のぼくは匂いをかいだりする。
イヌは人間個人を区別して認識するような反応を示すが、それはイヌの環世界に「存在としての人間」が立ち現れていることの、証拠ではないだろうか。
イヌは人間がなでるとじゃれ付いてきて、さらに人間がイヌにじゃれ付くとイヌはさらに調子に乗ったりする。
その反対に、じゃれ付いたイヌに人間が嫌がって後ずさりすると、イヌもあきらめたようにそっぽを向いたりする。
このように、人間とイヌとの間にはある程度のコミュニケーションが成立する、と考えられる。
イヌ以外であっても、またペットではない野生動物であっても、「高等動物」が存在としての人間を認識し、ある程度のコミュニケーションが成立するように見える例はいくらでもあるだろう。

で、ぼくが怖いと思うのは、「存在としての人間を認識し、ある程度コミュニケーション」というのは、そもそも人間同士がそうである、という点である。
人間二人が互いに話し合いをしているとき、お互いに相手を存在として認識し、コミュニケーションしている。
しかし人間同士がいくら言葉を重ねたところで、原理的に「完全なコミュニケーション」は成立し得ない。
人間はお互いの「心のうち」を認識することができず、だから人間同士のコミュニケーションはある程度しか成立しない。
だったらそれは「イヌ」との間のコミュニケーションと同じなのだ。
そう考えると、自分にとってイヌと人間の区別が分からなくなり「イヌは人間なのだろうか?」などと考えると怖くなるのだ。

人間同士のコミュニケーションには主に「言葉」が用いられるが、言葉は万能ではなく、それを補うように相手の表情を読んだり、身振り手振りを交えて何とかコミュニケーションを成立させようとする。
そして人間とイヌの間は、言葉が交わされることは無いにしろ、声を掛けたり吠えたりという音声や、表情を読んだり身振り手振りで示したりしてのコミュニケーションが可能である。
現在の認識論では、「言葉」以外の表情や身振りも「言語の一種」として解釈されている。
その意味で、人間とイヌとは言葉が通じ合うと言えるかもしれない。
であれば、人間とイヌは区別する必然はないし、サルやカラスも「人間」に含めてしまってもいいように思えてしまう。
しかし、ぼく自身の感覚的な判断では、イヌはやっぱり人間とは異なる「イヌ」であり、サルやカラスも人間とは別の動物である。

ぼくが日ごろ慣れ親しんでいる「蟲」は、人間とずいぶんと異なる存在ではある。
しかし人間と共通の要素も多いように思われ、その意味で人間とその他の動物の差異は曖昧だといえる。
しかし、人間とその他「高等動物」は、その「差異の曖昧さ」そのものが曖昧なため、ぼくとしてはどう捉えていいものか分からない。

まぁ、「あまりに分からなすぎて考えるのを止めていた」ともいえるのだが、いよいよこの問題について考えなくてはならない時がきたようだ。
そうは言ってもぼくは鳥や獣のことはぜんぜん知らないし・・・と思っていたのだが、日高敏隆さんの本をちょっと読み返したらいろいろ理解に役立ちそうなことが書いてあったので、この続きはそのあたりのことを書いてみようと思う。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月16日 (木)

成長プログラムと行動プログラム

Sr8404169

以前、このブログの『「超生物」としての人間の恐るべき能力』と言う記事で、生物の「身体のデザイン」と「行動のデザイン」という言葉を使用した。
これらの言葉には、生物の「身体のかたち」と「行動のかたち」を、同じ「かたち」と言う土俵で対比させる意図があった。
しかしぼくが適当に思いついた言葉でもあるので、どうも汎用性がなさそうな気もする。
そもそもこれらの言葉は、日高敏孝さんの『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論』で紹介された「遺伝的プログラム」の概念が元になっている。
だからそれに倣って、それぞれ「成長プログラム」と「行動プログラム」に置き換えたほうが、後々楽かもしれない。
ともかくぼくは「現代思想」という土俵では「言葉のつたない幼児」のような存在なので、いろいろ試すしかない。
というわけで、「成長プログラム」と「行動プログラム」について説明したい。

まず「遺伝的プログラム」について、日高敏孝さんは「入学式のプログラム」に例えて説明している。
小学校の入学式はプログラムが決まっているけれど、そのプログラムをどこの誰が実行するかによって、それぞれ微妙に異なる入学式になる。
例えばプログラムに「校長先生の挨拶」があったとして、その挨拶の内容はそれぞれの校長によって異なるし、同じ校長も毎年同じ言葉を述べるとは限らない。
また、新入生の一人が間違ってイスをひっくり返したり、途中で地震があったり、大小さまざまなアクシデントが起きることも考えられる。
アクシデントが起きた場合プログラムは中断するが、しばらくすると再開しやがてプログラムは終了する。
つまり「プログラム」というものは、それを実行する個体や環境の変化に柔軟に対応する性質を持っているのだ。

生物の「遺伝的プログラム」は、生物の身体の成長や行動の「全て」を規定しているものではない。
「遺伝的プログラム」は個体や環境の変化に柔軟に対応する。
だから同じ種の生物であっても、身体や行動に微妙な個体差や地域差があり、この点が大量生産される工業製品とは異なるのだ。

生物の「遺伝的プログラム」は、「成長プログラム」と「行動プログラム」の二つに分けて捉えることができる。
しかしこれは厳密には「動物」に限ってのことである。
植物や菌類は「成長すること」と「行動すること」の区別があいまいで、「遺伝的プログラム」を二つの要素に分ける意味はなさそうだ。
そもそもぼくはこの概念で「人間」について考えたいので、だから人間が属する「動物」に限って考えてみようと思う。

動物は「もの」としての身体と、「はたらき」としての行動と、二つの要素で捉えることができる。
そのことから動物の「遺伝的プログラム」は、身体を形成する「成長プログラム」と、行動を規定する「行動プログラム」の二つに分けて捉えることができる。
動物種はそれぞれ固有の「成長プログラム」を持ち、それによって種に固有の身体が、段階的に形成される。
チョウは卵、幼虫、蛹を経て成虫になる。
カエルは卵からオタマジャクシになり、カエルになる。
ヒトは母体内で卵からオタマジャクシやカエルのような姿を経て、赤ん坊として産まれ、大人の身体へと成長する。
このような観点で、人間はその他の動物種と同じである。
つまり、人間は誰でも生物学的にヒトという種において同一であり、それが近代的な「平等」の概念の基礎にもなっている。

「成長プログラム」によって形成された「身体」は、その種に固有の「行動プログラム」と表裏一体の関係にある。
種に固有の「身体」は、「行動プログラム」の実現のために存在する。
チョウの羽は「空を飛ぶ」と言う「行動プログラム」を実現し、ストローのような口は「花の蜜を吸う」という「行動プログラム」を実現する。
カエルの太い後足は「跳ねる」と言う「行動プログラム」を実現し、長い舌は「虫を捕る」と言う「行動プログラム」を実現する。

われわれ人間のことを考えると、例えば「二本の足」が「歩く」と言う「行動プログラム」を実現する。
不思議なのは、人間は自分がどうやって歩くのかを「知らずに」歩いているということだ。
ごく大雑把には「二本の足」を交互に動かして歩いているのだが、実際には足だけでなく、身体のさまざまな筋肉や骨格や神経などが高度に連動しながら「歩くこと」を実現している。
しかし人間の意識は、そのような具体的で細かな身体の動きを感知できず、にもかかわらず歩くことができてしまう。
つまり、人間の「歩く」という行動は、理性では捉えきれない「行動プログラム」の表れなのである。

人間の歩き方は、種としての「行動プログラム」によって規定されている。
しかし実際には人間の歩き方は、時代や文化の違いによって異なる(明治以前の日本人は現代人と異なる「ナンバ歩き」をしていた)。
また同じ人物であっても年齢によって歩き方は変化するし、走ったり、飛び跳ねたり、足音を立てずに歩いたり、その時々によっても歩き方は変わる。
そのように人間の歩き方には多少の「幅」はあるが、しかし共通した要素があるのもまた確かで、それを規定しているのが「行動プログラム」である。
「行動プログラム」は行動の基本を規定するもので、そのアレンジや具体的な運用は、各個体の「自由意志」に任せられている。
人間の歩き方は「行動プログラム」により規定されているが、「歩き方のテンポ」や「どこへ歩いてゆくか」などは個体の「自由意志」に任せられている。

「行動プログラム」と言う概念は、これまで「本能」と言われた概念に変わるものだ。
例えば、「動物は本能によってのみ行動する」などと言われるが、しかし例え昆虫であっても実際に観察していると、ある程度「自由意志」で行動しているように見えてしまう。
また、「母性愛は人間の本能である」などとも言われるが、フェミニストからは「それは文化であり、本能ではない」などと指摘されている。
つまり「本能」と言う概念では、どこまでが本能で、どこまでが自由意志で、どこまでが文化なのか、その境界の曖昧さがどうにも整理し切れないのだ。
しかし「行動プログラム」はあくまでも「プログラム」であるから、それをどう実現させるかは動物個体の「自由意志」や、人間の「文化」のあり方によって異なる。
このように説明されると、実際の生物の観察や、人間の文化や社会から得られた情報と符合することが多く、従って「行動プログラム」と言う概念は「本能」よりも妥当性が高いと判断できる。

花畑に行くと、たくさんのチョウが飛んでいるのを見ることができる。
チョウたちは種に固有の「行動プログラム」に規定されながら、飛んだり、蜜を吸ったり、交尾したり、産卵したりする。
しかし「行動プログラム」はチョウの行動の「全て」を規定しているものではない。
だからチョウたちは「行動うプログラム」の規定の範囲内で、自由に飛び回り、自由に花の蜜を吸い、自由に交尾し、自由に産卵する。
しかし花畑には、チョウをエサとするカマキリも潜んでいる。
カマキリは棘だらけの前足や鋭い顎や大きな複眼を持ち、それが「チョウを捕らえて食べる」と言う「行動プログラム」を実現する。
そしてその「行動プログラム」の規定の範囲内で、自由にチョウを捕らえて食べる。

一方、カマキリに捕らえられたチョウは、「自由」を失ってしまう。
この場合チョウが失った自由とは、「行動プログラムを実現する自由」である。
カマキリに捕らわれたチョウは「行動プログラムを実現する自由」を取り戻すため、必死に抵抗する。
反対に、カマキリがチョウにことごとく逃げられてしまったとすれば、それはカマキリにとっての「行動プログラム」が実現できない、「不自由」な状態だと言える。
つまり動物個体にとっての「自由」とは、「行動プログラムを実現する自由」と同意であると言うことができる。
人間の場合を考えると、例えば足を縛られると「歩く」という「行動プログラム」が阻害され「不自由」を感じる、と表現することができる。
また目隠しをされると「視覚的に自分の位置を確認する」と言う「行動プログラム」が阻害され、これも人間にとっての「不自由」である。

しかし人間の場合、行動を規定しているのは「遺伝的プログラム」としての「行動プログラム」だけではなく、別の要素も関与している。
その続きは『「超生物」としての人間の恐るべき能力』を書き直しながら、考えたいと思う。

--

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年10月10日 (金)

「鑑賞主義」でどうでしょう?

51h0acgfcl_ss500_

ぼくは2007年に出版した作品集『フォトモの物件』の巻末に添えたテキストの最後の章で、「芸術的価値判断」と名づけた新たなコンセプトについて書いている(全文はこちらにアップしてます)。
しかし実のところ、どうも「芸術的価値判断」という言葉は一般的過ぎて、何か特定の概念を表すには相応しくないように思えてならなかった。
そうは言っても他に適切な言葉も思い当たらず、このあたりがまさに「言葉足らずの幼児」のようでもどかしく感じていた。
しかし最近、「芸術的価値判断する」という言葉は「鑑賞する」の一言に置き換えられるだろうということで、「鑑賞主義」という言葉を思いついた。
この「鑑賞主義」という言葉も、コンセプトの名称として相応しいかどうか疑問だが、とりあえずは「鑑賞主義」ということで行ってみたいと思う。
そのように適当なところで見切り発車しないと、肝心のコンセプトそのものの妥当性が、いつまで経っても吟味できないままになってしまう。
もちろん「鑑賞主義」よりも適切な言葉が見つかれば、そっちを採用するかもしれない。
ともかく、まずは『フォトモの物件』に掲載したテキスト最終章の「芸術的価値判断」という言葉を「鑑賞主義」に置き換えて掲載してみる。
ちょっと違和感があるものの、大体の辻褄は合ってるように思えるが、どうだろうか?

--

フォトモから「鑑賞主義」という提言

 物事にはさまざまな価値判断の基準が適用できます。たとえば目の前に名も知らぬ木の実がなっているとして、それに対して「おいしいかまずいか?」とか「薬としての効果があるか?」とか「売ったらいくらになるか?」などさまざまです。もともと木の実は、人間の食べ物としても、薬としても存在しているわけではないし、もとより値段がついているわけではありません。にもかかわらず、人間は物事に勝手な価値基準を当てはめて判断するのです。

 そこでぼくは、新たな価値判断の基準を提言したいのです。それは「これは芸術ではないけれど、もし芸術だとしたら、芸術的価値はどれくらいだろう?」というものです。芸術的価値は、本来芸術のみに当てはまる価値観ですが、それをさまざまな事物の判断基準にしてみようということで、ぼくはこれを「鑑賞主義」と名づけてみました。

 この「鑑賞主義」の一例が「非人称芸術」なのです。そのほかには、たとえば言い争いをしている2人の主張の、どちらの理屈に整合性があり、どちらが正義なのかの判断ができない場合を想定してみます。するとそこに「2人の主張がもし芸術だったとして、どちらがお話として面白いか?」という判断が成り立つのです。これはぼくもまだ考え中のことで、実際にどのように応用できるのかはわかりません。

 しかしながらぼくは、自然の生き物に対しては、この「鑑賞主義」を導入しています。ぼくは昆虫をはじめとする生き物に魅せられていますが、それはその形態や特殊な生態に対し「もしこれが芸術だとしたら、たいへんに素晴らしい」という価値判断をしているのです。

 世間での自然保護運動は「子どもの未来のために地球を守れ」のように、どうも人事のようなよそよそしさを感じます。これに対し「自然の芸術的贈与を享受したい」というのは切実であり、自然保護の強力な動機になり得ます。

 この想いを作品化したのが、本書と同時発売になる『東京昆虫デジワイド』の昆虫写真「デジワイド」です。これは特殊なデジカメを使い、路上で見つけた昆虫を、背景の街並みとともに写し込んだシリーズです。「都会に自然なんかない」と多くの人が思うのは先入観で、実際には意外に多くの昆虫が街中の環境に適応し住みついているのです。昆虫はそれ自体がまるで芸術のような造形であり、思わず目を近づけて見入ってしまいます。昆虫が街中にたたずんでいる光景は、まるでシュールレアリズムの絵画のようであり、まさに「非人称芸術」の一形態といえるのです。

 フォトモとデジワイドは表現が大きく異なりますが、「非人称芸術」や「鑑賞主義」というコンセプトでつながっており、その応用範囲はさらに広がる可能性があります。

 というわけで、ぼくは以上のようなことを考えながら路上を歩き、フォトモを作っています。正直なところ、ぼくの考えていることにどれほどの「価値」があるのかはわかりません。しかし少なくともフォトモが、誰もが理屈なしに自由な感性で楽しめるアートであることは、間違いないと思っています。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 9日 (木)

ブリコラージュとブリコルール

Skajima_bricolage
こののどかな看板の風景はぼくが撮ったのではなく、写真家の糸井潤さんがメールで送ってきてくれたものだ。
DIYに「ブリコラージュ」は、言葉の意味を考えると当たり前であるが、日本人になじみ名の無いフランス語を使うあたりがオシャレということで、店名が決められたのかもしれない。

このブログのタイトルにもなっている「ブリコラージュ」と言う言葉を、ぼくはレヴィ・ストロースの『野生の思考』で知ったのだが、この本には「ブリコルール」と言う似た言葉も出てくる。
この二つの単語はどう違うかと言うと、ブリコラージュには「器用仕事」、ブリコルールには「器用人」という和訳が当てられている。
つまり「ブリコラージュ」は手法の名称であり、「ブリコルール」は「ブリコラージュの名人」を指している。
だからぼくとしては「思考のブリコラージュ」の実践を心掛けることは出来ても、「思考のブリコルール」などと大それたタイトルを自分のブログに冠することはできない。

ぼくはブリコラージュを「既製品の切り貼り」という風に理解しているが、その意味でブリコラージュは特殊な手法ではなく、誰もが日常的に行っていることでもある。
例えば、普通の人の家の中には、さまざまな生活必需品が並べられている。
そのような生活必需品は、元々はお店に陳列され売られていたモノである。
店でモノを買うということは、店の陳列からその一部を「切り取る」ことでもある。
そして、そのように切り取られたモノたちは、家の中で家族や個人の都合の良いように並べられ、それが独自の生活空間となる。
つまり、人は誰でも自分の生活空間をブリコラージュしているのだ。
例外はホテルや寮や刑務所などで、これらは室内の生活必需品込みで「既製品」として与えられるものだから、そこに住む人のブリコラージュが入る余地はほとんど無い。
同じように人々のファッションも、ブリコラージュの手法で構成される。
この場合の例外は「制服」と言うことになるが、学校の制服には(ルーズソックスやかばんのアクセサリーなど)微細なブリコラージュが加えられることも多かったりする。

生活空間やファッションは目に見える「モノ」であるが、直接は目に見えない、人々の頭に想い描く「世界観」も、ブリコラージュの手法で構成される。
「世界観」とは、例えば「人は死んだら無になる」とか「宇宙はビックバンより始まった」とか「神様なんか信じない」とか「人間はいかに生きるべきか」などなど・・・人は誰でも「世界がどうなっているか」について、何となくにせよ理解したつもりになっているもので、それがその人独自の「世界観」である。
「世界観」は例えば学校で教わった物理法則や、NHKで見たサイエンス番組、友人が語った薀蓄話など、様々な情報の断片の切り貼り=ブリコラージュによって構成される。
たいていの人は、親や先生や友人など周囲の人間から、またはテレビや出版やネットなどのメディアから、様々な情報を提供される中で「常識的に考えて、世界とは大体こうなっているだろう」というような感じの「世界観」をブリコラージュする。
例え同じ宗教団体に属する人々の間であっても、人によって理解力や感性にバラつきがある以上、宗教が与えた「世界観」の解釈もそれぞれに違ってくる。
結局は、人それぞれの仕方で「宗教的世界観」を断片化し、実生活から得られた情報の断片とも組み合わされ、その人独自の「世界観」がブリコラージュされる事になる。

このように、手法としてのブリコラージュは、誰もが日常的に行っていると言えるのだが、しかし同時にその多が無自覚に行っていることでもある。
多くの人が無自覚で行っているということは、多くの人が「ブリコラージュ」と言う概念を知らない、ということでもある。
ブリコラージュという概念を知らなければ、実際にその手法を使っていたとしても、意図的にコントロールしたことにはならない。
反対に、ブリコラージュと言う概念を理解し、その手法を意図的に使えば、例えば「既製品として売られていないモノ」を、自らの手で作り出すことができる。
または自分が無自覚に構築した「世界観」を意図的に改変し、硬直した「世界観」に囚われていた故の悩みを解決することもできる。
だから意図的に行うブリコラージュは「器用仕事」と訳され、その名人であるブリコルールは「器用人」と訳される。
ぼくは自分自身が「思考のブリコルール」を名乗れるようなエライ人になれるとは思ってないが、「思考のブリコラージュ」という概念そのものは、なるべく意識した方が何かと便利なのではないかと思う。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

言葉足らず、という状況

Sr8404043

門外漢のシロートが「現代思想」なんかに足を突っ込んで何か語ろうとするのは、「現代思想のプロ」から見ると、幼児が「自分の考えたこと」を言葉足らずに語るようで、微笑ましかったりするのかもしれない(画像参照『よつばと!』4巻より引用)。
現代思想のプロと門外漢のシロートとでは、まずは読書量が絶対に違うだろう。
つまりシロートは「現代思想」を語るうえでの語彙が決定的に不足しており、それで必然的に「言葉足らずの幼児の語り口」になってしまう。

幼児というのは成長するに従い人並みに言葉を覚えて大人になるのだが、「現代思想」というのはあくまで特殊分野のひとつでしかないから、その営みに参加できるだけの語彙を誰もがマスターできるとは限らない。
その意味で、ぼくはもともと頭も良くないし、いまさら勉強を始めても大して知識が身に付くわけでもなく、「プロの現代思想家」には程遠いにも程がある永遠のシロートだ。

そういう自分が「現代思想」に興味を持つのは、幼児が「大人のしてること」に興味を持ち、形だけでも真似したがるのと似ているのかもしれない。
幼児が無理に大人びたことを口にすると、それが周囲の大人を微笑ませたり、大爆笑させたり、絶句させたりするものだが、ぼくもそんなような「大人たちの反応」を期待しながら、このブログを書いているのかもしれない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年10月 7日 (火)

「超生物」としての人間の恐るべき能力

Sr8403503t

人間はなぜ同種で殺し合うのか?それがいいことか悪いことかは置いといて、そのなぜ?について考えてみた。
なぜ人を殺してはいけないのか?という問いに対し「同じ人間だから」という一般的な答えがある。
人は食べるために牛や豚は殺すが、それが別種の動物だから、食べるためには仕方が無い。
しかし同種である人間は、いくら食べるためとはいえ殺してはいけないと、一般的にはされている。
しかし、結局は直接食料にせずとも、さまざまな理由で人は戦争を起こし、人間同士の殺し合いを国家の名の下、合法的に行っている。
死刑制度というのも、その是非はさておき、殺人行為を合法化したものである。
また、実際に行動に行動に移さないまでも「殺してやる!」などと思うことだけは、日常茶飯事である。

「人間は同種である人間を殺してはならない」という建前があるにもかかわらず、実際には戦争が絶えないし、平和な日常にも「殺してやりたい」という衝動は存在する。
この矛盾を、自分なりに考えてふと思いついたのは、「すべての人間は同種の生物のようでいて、実は別種の生物である」ということである。
例えば、「ネコ」でも「アリ」でも「ナメクジ」でも、それぞれの集団は生物学的に「同種」として分類される。
世界移住運に存在するすべてのネコは、「ネコ」と言う種として同一だが、人間を同じように「同種」と考えることは出来ない、と言うことである。
これは生物学的分類とは、違うレベルの話で、人間と言う種の特殊性に由来する。

まず、あらゆる生物種は固有のデザインの身体を持つ。
生物の身体は、その種に固有のプログラムに従い、形成される。
そのようにしてあらゆる生物種は、固有のデザインの身体を持つ。
人間は固有のデザインの身体を持つ生物を分類し、それが「種」の概念である。
生物種はまた、固有の行動プログラムを持つ。
行動プログラムは「行動のデザイン」と言い換えても良いだろう。
生物の「身体のデザイン」は、その種の「行動のデザイン」と一体のものである。
例えばネコの「身体のデザイン」は、ネコの餌のとり方をはじめとするさまざまな身体運用法である「行動のデザイン」と一体である。
ミツバチの「身体のデザイン」は、構造の巣を作り集団生活するミツバチの「行動のデザイン」と一体である。
生物は身体としての「物」と、行動としての「事」の要素で出来ているが、それは一体化した不可分の「生きるためのデザイン」である。

しかし、人間はこの点だけがほかの生物種と違い例外的なのである。
人間の種としての「身体のデザイン」は、ほかの生物と同じように遺伝的プログラムによって構築された、同一のものである。
しかし人間の「行動のデザイン」は、生物種としては決まっておらず、それは人間自らの手によって、いかようにもデザイン可能なのである。
もちろん、人間が二足歩行したり、手で物をつかんだり、どのように交尾するのか、と言うある程度の「行動のデザイン」は決まっていると言える。
しかし「どのように餌をとるか?」をはじめとして「人間としていかに生きるべきか?」にかかわるほとんど全ての「行動のデザイン」が、遺伝的プログラムとして決められていない。
その代わり人間は「言語」と言うツールが遺伝的プログラムから与えられている。
そして人間は「言語」と言うツールを使い、自ら種としての「行動のデザイン」を構築することになる。
言語を用いた「行動のデザイン」はいかようにも構築可能で、つまり人間は種としてのカタチがあいまいな生物だと捉えることが出来る。
逆に言えば、人間は言語を介し「行動のデザイン」をさまざまに作り変えることで、さまざまな別の生物に生まれ変わることが出来る。
その結果、あらゆる人間は国家単位、民族単位、人種単位、家族単位、個人単位で、その「行動のデザイン」大小さまざまな差異を持つことになった。

生物種は、一般に「身体のデザインが異なるもの」と認識されているが、実際には「身体のデザイン」は似通っていながら「行動のデザイン」が大きく異なる別種、という例も数多く存在する。
例えばエンマコオロギと、タイワンエンマコオロギは「身体のデザイン」はほぼ同一ながら、鳴き声=行動のデザインがまったく異なっている。
身体と行動を総合した「デザイン」で生物種を分類するなら、「人間」と言う同一種の集団は、実のところ「行動のデザインが異なる別種の生物」の集団と捉えることも出来る。

このような(生物としての)人間像は、例えば永井豪の漫画『デビルマン』に登場する悪魔的種族「デーモン」のようなものだと、ぼくはイメージしている。
デーモンをウィキペディアの「テビルマン」から抜粋すると、以下のようになる。

人類出現以前、古生代に地球を支配していた知的生物。(中略)デーモンの能力で特筆すべきは合体能力である。これは他の生物・無生物と合体する事でその能力を獲得する物で、元々は人間と同じような姿だったデーモンは合体を繰り返す事で異様な姿と数々の超能力を持つ超生物へと変化していった(後略)。

または荒木の漫画『ジョジョの奇妙な冒険・第2部』のラストに登場する、究極生命体「カーズ」のようにもイメージできる。
カーズはデーモンのような合体能力は無いが、地球上のあらゆる生物に変身できる能力を持つ、不老不死の究極生物として描かれる。
あるいは映画「遊星からの物体X」には、体内に吸収した生物の遺伝情報を読み取り、あらゆる生物に変身可能な宇宙生命体「THE THING」が登場するが、これも人間とイメージが似ている。
このような架空の生物は、種としての固有の「身体のデザイン」を持っておらず、その代わり「身体のデザイン」をさまざまに変化させることで、あらゆる別な生き物へと変身する。
もちろんこのような生物は、物理法則上から実際には存在しえず、あくまで想像の産物でしかない。
しかし人間は実際に、生物としての「合体能力」や「変身能力」を持っており、これは想像の産物ではない。
人間の「身体のデザイン」は固定されているが、「行動のデザイン」は「言語」というツールを介して変幻自在である。
人間は「行動のデザイン」を変化させ、または他人の「行動のデザイン」を自分の「行動のデザイン」と合体させ、さまざまな別な生き物へと変身することを繰り返し、あらゆる生物を凌駕する超生物へと変化していったのだ。
人間は外見的には同じ「身体のデザイン」をしていながら、内面的にはそれぞれが大きく異なる「行動のデザイン」を獲得しており、もはや「同種」とはいえないほど多様化している。
もちろん、異なる人間同士で同一の「行動のデザイン」の獲得を目指し、「同種」として集団的に振舞うことも可能だ。

だから人間は「同じ家族」、「友達同士」、「同郷人」などさまざまな理由で「同種」としての親近感を覚えながら、「嫌いな家族」「嫌な友達」「敵国人」などさまざまな理由で「別種」としての敵対心を覚えたりするのだ。
もちろん、別種の生物だからといって、それが即敵対心に結びつくわけではなく、道端で寝ているネコに敵対心を覚える人はいない。
しかしそのネコがトラのように凶悪な力を持ち、人間の利害を犯すようなことがあれば、すぐに敵対心が発動される。
同様に、「嫌な隣人」が自分と同等以上の力を持ち、かつ自分の利害を侵そうとする場合、例えそれが血を分けた家族であっても「別種」とみなされ「敵対心」が向けられる。

人間とはつまり、「お互いが同種か別種なのか、あらかじめ決まっていない」生物の一群なのだとも言える。
人間同士が同種の生物である根拠は「血のつながり」には無く、「血のつながりを根拠とすること」は人間が「言語」を使って構築した「行動のデザイン」の一バリエーションにしか過ぎないのだ。
ともかく、人間は古今東西、あらゆる仕方で種としての「行動のデザイン」の構築を試みてきた。
歴史上に積み重ねられた、宗教、哲学、思想、政治、経済などのさまざまな思考体系は、人間の種としての「行動のデザイン」をいかに構築するか?の模索の表れである。

で、何が言いたいのかと言うと、「憎い相手は別種だから、別に殺してもいい」ということではない。
むしろその反対に、「別種である人間同士が共存する方法」を模索できないかと考えているのである。
人間が互いに「別種」の生き物へと分化した原因は、「どんな種類の生き物にも変化可能」という特殊な性質のおかげだが、その性質は同時に「人間の自由」の表れでもあるのだ。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »