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2008年12月

2008年12月27日 (土)

<外部消化>するヒト

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コンラート・ローレンツの『ソロモンの指環』(早川書房)を読んで、ハッと気付いたことがある。
それは『水槽の中の二人の殺人犯』という章に書かれた、ゲンゴロウの幼虫についての記述である(上図はその挿絵)。
本文を引用すると煩雑になるので、ぼくなりにまとめて説明してみよう。

ゲンゴロウの幼虫は水中に棲み、オタマジャクシやヤゴを捉える肉食だ。
頭部に二本のアゴを持ち、獲物に食らいつく。
このアゴは注射針のように先端が鋭く、穴が開いている。
ゲンゴロウの幼虫は、獲物に突き刺したアゴから<消化液>を注入する。
そして獲物の体内組織をドロドロに溶かした後、それをアゴの先端から吸い上げて体内に取り入れる。
つまりゲンゴロウの幼虫は、<外部消化>する動物なのだ。
<外部消化>する動物は少数派らしいが、他にクモの仲間がこれに該当する。

で、この<外部消化>が何を意味するのかというと、これは<調理>である、ということにぼくは気付いたのだ。
つまりゲンゴロウの幼虫は、「獲物に消化液を注入し、ドロドロに溶かす」という<調理>を行い、それを食しているのだ。
この説明を逆にして人間に当てはめると、人間が行なう<調理>とは、すなわち<外部消化>なのである。

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例えば、これは某ファミレスのハンバーグセットである。
このハンバーグは、ウシやブタなどの肉が細かくバラバラに分解され、さらに火を通したものである。
つまり、そのように獲物が<外部消化>されている。
だからぼくは、これを体内に取り込むことができる。

反対に、ぼくがナマのウシやブタに噛り付いたとしても、それを食物として体内に取り込むことはできない。
ぼくはウシやブタなどの獲物を<外部消化>してからでないと、それを食物として体内に取り込むことができないのだ。
そしてこれが、人間の<調理>の意味なのだ。
このファミレスのメニューは、ハンバーグだけではなく、コメやトウモロコシやジャガイモも火が通されて、ナマの状態よりも柔らかく<外部消化>されている(卵はちょっと違うかもしれないけど)。
ナマのコメやジャガイモに噛り付いても、人間はそれを食物として体内に取り込むことが困難で、だから<外部消化>が必要なのだ。

人間は他の動物と違って、食物を<調理>して食べる。
なぜ人間だけが<調理>をし、他の動物は<調理>をしないのか?
自分にとってはこれが非常に不思議なことだった。
しかし、「<調理>の意味は<外部消化>である」と捉えると、謎は納得へと解消する。
ヒトという種は、ゲンゴロウの幼虫やクモと同じく、<外部消化>するタイプの動物なのだ。
そう考えると<調理>とはヒトだけに備わる特殊能力ではなく、動物に普遍的な属性の一部なのだ。
つまりその意味で、ヒトは他の動物となんら変わることは無いのである。

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「非人称芸術」としての絵画

「こんぴらアート2008虎丸社中」では色々なアーティストの絵画作品を観たのだが、「そういうものなら路上にもある」と言うことで、坂出市で「非人称芸術」としての絵画を探してみた。

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まずは淡いイメージの抽象絵画。
もっとも、路上の絵画はほとんどが抽象である(当たり前だが)。

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このような場所に、唐突に絵画の大作が展示されているわけで、その状況が素晴らしい。

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次はタッチが明快な抽象絵画。

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これはこのような場所に設置され、素晴らしい・・・
「非人称芸術」としての絵画は、それが置かれた場所や状況も含め、更なる「非人称芸術」を形成することが多い。
こうした場合は、純粋な抽象絵画と言うより、全体を含めシュールレアリスムのセンスで鑑賞される。

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こんな複雑なタッチと色合いを持つ平面作品が・・・

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日常的空間に忽然と現れる、その状況が素晴らしいのである。

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これは貴重な具象絵画。
「海辺の階段と波しぶき」が描かれている。

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全体はこんな状況。
もとは喫茶店だったところをガレージに改装する際、入り口の階段を削った痕跡なのかも知れない。

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坂出市の「相互的レディ・メイド」

香川県琴平町のアートイベント「こんぴらアート2008虎丸社中」で講演した際、お客さんに「坂出市のアーケードは、シャッターに名画が描いてあって面白いですよ」と言う情報をいただいた。
「シャッターに描かれた名画」と言うのは、デュシャンが提示した「相互的レディ・メイド」に違いない。
ぼくは、新たな路上のカテゴリーとしての「相互的レディ・メイド」に、非常に興味があるのだ。
で、イベント終了後に坂出市に立ち寄ってみた。

さっそく見つけたのがコレ・・・

ミレーの「落穂拾い」である。
名画もシャッターに描かれると何ともご無体な感じで、それこそが「相互的レディ・メイド」の味わいなのだ。
ちなみに廃業したお店はいつでもシャッターが閉まっているため、いつでも「名画」が鑑賞できる。
これが描かれたのは十数年前だそうで、ペンキの色も褪せている。

こちらがオリジナルの「落穂拾い」で、画像はWikiからの引用。
こんな名画を「名画以外の用途」に使うとは・・・と言う大胆不敵さが、「相互的レディ・メイド」なのだ。

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お次はルノアール。
この原画は・・・

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これなのだが、上記の「相互的レディ・メイド」はかなり大胆なアレンジが加えられ、さらに「ご無体」の度合いが増している。
店のシャッターの枠が、原画に描かれた二本の「ポール」と上手く重なっているようで、実はそうでもなかったりとか、そういうヌルイところが非常に笑える。
他にもツッコミどころ満載で、「相互的レディ・メイド」の味わいとしては、はじめのミレーよりこのルノアールの方が、数段上だろう。

ちなみにネットで検索すると、上記原画を勝手にトリミングした「犬を抱いた少女」と題する複製画も販売されてたりして、「相互的レディ・メイド」の世界は想像以上に恐ろしいのである(笑)

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現代の「宗教的世界」

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現代の日本人の大多数は「自分は無宗教だ」と思っているだろうが、それだけ宗教は過去のものとして「死んでいる」のだと言える。
現代において宗教が過去のものとなったのは、近代的な科学思考の成果である。
しかしぼくは、実のところ逆説的に、自分を含めて多くの現代人が、科学ではなく「宗教的世界」に生きているのだと思っている。

「宗教」を自分なりに定義すると、それは「信じる」事によって成立する、「世界説明」のあり方のひとつである。
いっぽう「科学」は、同じように「世界説明」のありかたではあるが、「実証」と言う概念を導入した点で宗教とは異なる。
科学は「実証」と言う手順を踏むため、ただ単に「信じる」だけの宗教より格段に確実で真実性がある。

科学的な実証は、誰もが追試して確認することが可能であり、だから客観的な事実だとされる。
そのため学校の教育でも、理科の授業でさまざまな「実験」を生徒に体験させる。
このような実験を通し、生徒は宗教的に「信じる」のとは異なる、近代的な「科学的思考法」を身に付けてゆく。

だが、学校で生徒が追試できるようなレベルの「科学的事実」はごく一部の単純なものに限られる。
現在解明されているとされる「科学的事実」の大半は、専門家である科学者でしか追試できないような、複雑高度なものばかりである。
我々のような科学の専門外の素人にとって、「科学的事実」の大半は自分で追試することが不可能だ。
だから素人は、専門家の言うことをただ「信じる」しかないのである。
例え科学の専門家であっても、自分の専門領域以外の分野については、やはりその分野の専門家の言うことを「信じる」しかない。

科学と言うのは「実証」で成り立っているようでいて、実のところ専門家の「実証した」という言説を「信じる」事で成り立っている。
科学の時代と言われる現代においても、実のところ人々は「信じる」ことを根拠にした「宗教的世界」に生きている。
その意味で、多くの人は宗教から逃れることができないのである。

「信じる」を根拠にした「宗教的世界」に生きる人は、他人に騙される可能性を持つ。
本来は、他人に騙されないために「科学的思考」があり、その方法論が「実証」であり「追試」なのだが、実際的には個人があらゆる「実証」を「追試」することは不可能だ。
だから必然的に他人を「信じる」しかなく、それゆえ他人に騙される余地がどうしても生じてしまう。
自分は他人に騙されているかもしれないのだが、それを確認するための有効な手段を持っていないのだ。

このような事態から脱するためには「科学的思考に徹する」と言う方法が有効なようだが、しかし先に書いたようにこれは現実的ではない。
そこで逆転の発想なのだが、「自分は宗教的世界に生きている」と言うことを、自覚してしまえばいいのである。
つまり、「自分は常に騙されているかもしれない」という自覚を持つのである。

これは「全てを疑って、何も信じない」という態度とはちょっと異なる。
全てを疑って、何も信じなければ、人間は何もすることができずに死んでしまうだろう。
お腹がすいて何かを食べようと思っても、全ての食物に毒が入っていることを疑ってしまうと、何も食べられずに餓死してしまう。
毒が混入している可能性があっても、毒が入ってないことを「信じて」何かを食べることで、生き延びるチャンスは開ける。
人間はそのように、他人を「信じる」ことで生きている。

「信じる」という根拠でしか生きられない「宗教的世界」から逃れないのだとすれば、その中で「何を信じるか」が重要な要素となる。
「宗教的世界」での人間の自由とは、「何を信じるか」の選択の自由である。
人間が自由であるためには、「何を信じるか」の選択肢が、複数示されていなければならない。
「何を信じるか」の選択肢が多いほど、人間は自由になれるのである。

だが原理的な宗教は、獲得した信者を教団内に引き止めるため、信者から「選択肢を奪う」という方法論を取る。
例えば、アメリカのキリスト教原理主義は、聖書を絶対視し、聖書以外の知識を仕入れることを「悪行」として禁止している。
悪質な新興宗教に騙されている人は、インチキな教義を教え込まされた上に自由も奪われ、二重に騙されていることになる。
こういう人は他人に騙されて自由を奪われているのだが、「自分は騙されているかもしれない」という自覚が無いため、そこから逃れる手段を持たない。

また、科学をきちんと理解せずに妄信するだけの、「自分は宗教とは無関係だ」と思い込んでいる人も、「何を信じるかの選択肢」が奪われているのだと言える。
実際に「科学的なもの」は簡単に「人の自由を奪う宗教」に転化するから要注意だ。
このような「罠」に陥らないためには、われわれ大衆レベルで理解可能な「科学的事実」のほとんどは「俗信」だ、と捉えることが有効だ。
「自分で理解できる程度の科学的事実は、俗説にしか過ぎない」と思っていれば、「何を信じるかの選択肢」を奪われることは無いのである。

例えば「地球は球体の天体で、宇宙に浮かんでいる」ということは誰でも知ってる「科学的事実」である。
にもかかわらず、それを自分で「確認」した人は滅多にいないだろう。
つまり大多数の人々は「地球は球体の天体で、宇宙に浮かんでいる」と言うことを「俗信」と同じレベルで信じているのである。
「俗信」というのは、「私もあなたもあの人もみんながみんな信じている」、という「信用の連鎖」により「事実」として認証される。
この構造は「貨幣」と同じで、例えば「千円札に千円の価値がある」ことを「私もあなたもあの人もみんながみんな信じている」から、それが「事実」として認証されているのだ。

とまぁ、そういうことを知ってると、色々と自由になれるよという話なのだが、続きはまた今度・・・

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2008年12月26日 (金)

内在する文脈・判断する文脈

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実は最近、彦坂尚嘉さんのブログのコメント欄で油を売ってたのだが、そこで色々気付いたことがある。
彦坂さんは、ぼくが前回の記事で指摘したのと同じように、アートの良し悪しの判断をグルメに例えて捉えている。
その彦坂さんは、自身のブログのこの記事のコメント欄で次のように発言されている。

>つまり、プーサンに限らないのですが、絵画として高度な達成をしているアーティストの作品は、実は、哲学書がむずかしいのと同様に、むずかしいのです。

プーサンの絵というのは、彦坂さんの先のブログ記事にも引用されているが、ぼくには正直それほど大した作品とは思えず「普通の絵」に見えてしまう。
さらにその比較として示された現代のアーティストの絵が「描けていない」と言われても、どうもピンとこない。
ピンとはこないし分からないのだけど、しかし「高度なアートは哲学と同様に難しい」と言われると、納得できる。
ぼくは哲学はぜんぜん分かないが、同様に難しい芸術は分からず、その意味で納得できるのだ。

哲学者をはじめとする知識人は、たくさんの本を読み、たくさんの知識を持っている。
そしてたくさんの知識を比較検討しながら、知識の「良し悪し」の判断をする。
知識人は、知識の「良し悪し」を判断するための「文脈」を持ち、その「文脈」を組み立てるための素材が「たくさんの知識」なのだ。
もちろん、いくら知識をたくさん仕入れても、「文脈」が組み立てられない人もいるだろう。
また、少ない知識から高度な「文脈」を組み立てる才能を持つ人もいるだろう。
いずれにしろ、哲学とは複雑高度な「文脈」であり、その良し悪しを判断するのも、知識人の複雑高度な「文脈」と言うことになる。

グルメの世界も同じようなもので、美食家は多種多様なものを味わい、「食」に関する膨大な知識を持っている。
その膨大な知識は「文脈」として体系化され、それを基に「うまい」とか「まずい」を序列的に判断するわけだ。
美食家が、ある「食」の中に、複雑高度な「文脈」が内在しているのを見出す時、それを「美味い!」と表現する。
対象物に、複雑高度な「文脈」が内在してるかどうかの判断は、自分自身の中に「文脈」を構築した人でないと、成し得ない。
この点で、哲学とグルメは同じなのであり、アートもまた同じなのだ。

プーサンの絵には、恐らくかなり複雑高度な「文脈」が内在しているのだろうと思う(彦坂さんがそう言われるのだから)。
しかしぼくは美術鑑賞の経験が乏しく、そこに内在する「文脈」を読み取るだけの「目」が養われておらず、だからプーサンの絵が「わからない」のだ。
彦坂さんは、同じコメント欄で続けて以下のように書いている。

>プーサンの絵画も、良さが分かる様になると、ほんとうに深いエクスタシーを感じるようになります。それには、しかし、もしかすると20年くらいかかるかもしれません。それほどに、芸術鑑賞の道は、遠くて、深くて、高いのです。

彦坂さんは、もしかすると「詐欺師」かもしれない。
詐欺師と言うのは「お前はまだまだ分かっていないのだ」と相手を不安にさせ、高価な壷を売り付けたりする。
まぁ詐欺師は冗談として、しかし彦坂さんの言うことがどれだけ確からしく、信用に足るのかは、正直ぼくの実力では判断できない。
しかし話には十分に面白く「これだけ面白ければ詐欺師でもかまわない」と判断している。
面白い話は「面白い」と言う文脈において、「ウソ・ホント」とは異なる次元で判断されるのだ。

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2008年12月22日 (月)

価値判断の根拠の「謎」

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「非人称芸術」は、ロラン・バルトによって提唱された「作者の死」という概念を根拠のひとつにしている。

「作者の死」とは、文学やアートの作品は作者ではなく、鑑賞者による創造物である、とする概念だ。
文学やアート作品の意味や価値は、それを生み出した作者が一義的に決定することはできない。
作者によって生み出された作品は、作者の手を離れ、その鑑賞者たちに「どういうものか」が判断される。
「作者の死」とは、「作品について作者は何も判断できない」という意味ではなく、「作者は数多の鑑賞者の一人に過ぎない」とする概念である。
ある作品について、その鑑賞者が作者ひとりだけの場合もあるだろうし、メジャーになるほど鑑賞者は増加するが、いずれにしろ作品の価値は、鑑賞者によって創造されるのだ。

「非人称芸術」には原理的に作者は存在し得ないから、「作者の死」の概念をさらに押し進めた「作者の完全なる死」と表現できるかもしれない。
だがぼくの今のところの経験上、「非人称芸術」に多数の観客が存在するメジャーな状態というのは考えにくく、基本的には「一人の鑑賞者」による個人的な体験としてある。
もし、「非人称芸術」がメジャーになるのだとしたら、それは「相互的レディ・メイド」としての「作品」を通じた「アートの土俵」で実現されるだろう。

アートの価値はその鑑賞者によって創造される、ということは、鑑賞者の「創造の才能」が問われる、ということである。
いやぼくはロラン・バルトをちゃんと読んでないので(読めないので)、本当のところは分からないが、自分なりの筋で考えるとそういうことになる。
なぜなら、従来の「作者が作るアート」という概念では、優れたアートは「創造の才能」のある作者により生み出される、とされていたからで、その「作者」が今や「鑑賞者」に入れ替わったのである。
もちろん「作者の死」の概念も、「作者の才能」の存在を否定しているのではなく、その作者に才能があるかどうかも、鑑賞者によって判断される、としているに過ぎない(と思う)。

ぼくはこれを「グルメ」に例えて理解しているのだが、食通というものは、元々常人より舌のセンスが繊細で、さらに食に対して情熱があり、さまざまな旨いものを食べ比べた経験を持ち、それゆえに「舌が肥えている」のである。
「あの板さんはデキる」という判断も、舌の肥えた食通だからこそできるのである。

グルメをアートに置き換えると、元々美しさを感じるセンスが繊細で、さらにアートの鑑賞に対して情熱があり、古今東西さまざまなアートを見比べた経験を持ち、それゆえに目の肥えた人を「優れた鑑賞者」と言えるのかもしれない。
ただ、同じようにデッサンの練習を重ねても、絵が上手くなる人とそうでもない人がいるように、人間には「才能」の差というものがある。
だから優れた鑑賞者とは、鑑賞者としての「創造の才能」があり、それゆえに「鑑賞に対する情熱」も強く、それだけに「目の肥えた人」、ということになる。

でまぁ、ぼくは元はアートの鑑賞が好きだったのだけれど、あるときから「非人称芸術」の鑑賞に切り替え、それからはそれこそ情熱的にありとあらゆる「路上」を鑑賞して回り、それゆえに「目が肥えている」と自分で推定しているのだ。
しかし先に書いたように「非人称芸術」は個人的経験だから、その才能の有無は客観的に判断不可能な、単なる自己満足でしかない。
では、自分の才能は「相互的レディ・メイド」であるところの「フォトモ」や「ツギラマ」などの作品として現われ、鑑賞者に判断されるのだろうか?

もしそうだとすれば、「アートの作者」としてのぼくは、特に専門家には余り評価されていないようなので、客観的には「鑑賞者としての才能」はあまり無いのかもしれない。
もしくは、ぼくは自分の作品を「懐かしいですね」と誤解されることを嫌がっているのだが、そういう誤解を生み出す物件を選択しているのは、他ならぬ自分の「鑑賞者としての才能」だから、もしかするとそこに問題があるとも考えられる。
もっとも、「非人称芸術」と「相互的レディ・メイド」としての作品は「別物」だから、そのような判断材料とすること自体がナンセンスなのかもしれない。

それよりぼくが気になるのは、「レディ・メイド」の生みの親のマルセル・デュシャン自身が、「レディ・メイド」と「アートの良し悪し」を完全に分離して考えていたことである。
『マルセル・デュシャン全著作』には、自身のレディ・メイド『櫛』について以下の記述がある(P335)。

『櫛』
犬用の普通の金属性櫛で、私はその上に不条理な文を書き込みました。つまり、高さ3,4滴は野生とは何の関係も無い(・・・)
・・・レディ・メイドとしてこの櫛を選んで48年が経ちましたが、その間、その小さな櫛は本当のレディ・メイドとしての特徴を守ってきました。すなわち、美も醜も、この櫛には特に美的なものは何ものも無く・・それは48年間盗まれませんでした!

ぼくは実はこの点について「レディ・メイド」を誤解していた。
「レディ・メイド」はデュシャンが「選択なし」に選択していたことは知っていたのだが、ぼくは選択なしに選択されたレディ・メイドは、結果として「美しいもの」として解釈されるものだと思い込んでいた。
そしてそれが「必然性の無い原因から、拘束力のある結果が生じる」という、「言語の恣意性の原理」に通じるのだと解釈していた。
しかしどうも、実際はそんなに単純なことではないのかもしれない。
「美も醜も、この櫛には特に美的なものは何ものも無く・・それは48年間盗まれませんでした!」というデュシャンの真意はどうにも測りかねるが、もしかするとぼくの「非人称芸術」の欠点は、その良し悪しを自分自身で判断してしまっている点にあるのかもしれない。
ではそうだとすれば、ぼくは一切の根拠を失うことになり、もはやそれが何なのかぜんぜん分からないのだが、現にデュシャンはそういう「謎」を提示しているのである。

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2008年12月21日 (日)

観察から鑑賞へ

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ぼくは「自分は何をやっているか」を説明するために「路上観察」という言葉をしばしば使っていた。
しかし本当のことを言うと、ぼくのやっていることは「路上観察」の概念とは確実にズレており、だからそれに変わる言葉を探していた。

そもそも「路上観察」という言葉は、「超芸術トマソン」を発端とする路上のフィールドワークの概念を広げるため、赤瀬川原平さんによって提唱された。
だから「路上観察」の「観察」という言葉は、芸術的行為である「鑑賞」にこだわらず、そこから逸脱する意味が込められていたと解釈できる。
それが1980年代から始まる「路上観察ブーム」となって、さまざまな分野へと拡大することになる。

しかしぼく自身は、あくまで発端となった「超芸術トマソン」にこだわって、自分なりにその概念を発展させようと試みた。
だから自分にとって、トマソン以降の路上観察学は、ほとんど関係の無い分野であった(もちろん中には興味を惹くものもあったが)。
だが「路上観察」という言葉は世間での認知度が高く説明に便利なので、違和感を覚えつつもつい長い間ズルズルと使い続けてしまったのだ。

しかし最近になって再びコンセプトについてアレコレ考え始めたこともあり、それに変わる言葉として「路上鑑賞」を思い付いた。
まぁ、別に新規性の無い言葉で「観察」が「鑑賞」に変わっただけなのだが、やはり自分にとっては「鑑賞」のほうがフィットする。
ぼくは「路上」にしろ「自然」にしろ狭い視野で「よく見る」のだが、その気分は冷静な「観察」ではなく、あくまで情熱的な「鑑賞」なのだ。

「観察」というのは「科学」に求められる態度で、科学的に見ることには冷静な態度が必要で、だから「観察」なのである。
科学的な現象を情熱的に「鑑賞」してしまったら、得られたデータの判断にバイアスがかかり、結論が捻じ曲げられてしまう。
だから科学者には、冷静な「観察」の目が求められるのである。
これに対し、科学が成立する以前の「博物学」の分野で「見る」ということは、冷静な「観察」ではなく、むしろ情熱的な「鑑賞」に近かったのではないだろうか?
博物学は、言ってみれば科学と芸術が融合した分野であり、ぼくはどうもその線を狙っているように思えるのである。

博物学ということであれば、「路上ネイチャー」は自然観察ではなく「自然鑑賞」ということになる。
自然科学の弊害は、自然物を「因果論」や「機能主義」によってのみ捉える視点に限定してしまったことにあると思う。
しかし自然物へのまなざしの原点は、まず「見て面白い」ということであり、その原点を改めて自覚する意味でも「自然鑑賞」という言葉は筋が通っているように思える。

ただ「鑑賞」という言葉には、美しいとされるものをかしこまって見なくちゃいけないような、教条的なイメージも付きまとっている。
「路上鑑賞」や「自然鑑賞」をそのように誤解されるのもマズイのだが、説明するための用語を決めると言うのは、なかなかタイヘンなことである。

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2008年12月19日 (金)

「相互的レディ・メイド」の効果

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前回から長々と間が空いてしまった。
「こんぴらアート2008・虎丸社中」というアートイベントに参加して、その準備とか、その前に雑誌の入稿を済ませたりとか、こちらのブログに割ける時間がなかったのだ。
琴平に滞在中は、連日濃密に「路上鑑賞」していたため、「アームチェア派」からすっかり遠ざかってしまった(笑)。
しかしこの数日間で、色々な「達人」との出会いもあったりして、たいそうな刺激を受けることができた。
「こんぴらアート2008・虎丸社中」は、香川県琴平町のこんぴら参道にある「虎丸旅館」の客室と、その近くにある「琴平公会堂」を展示会場とした、アートイベントである。
出展したのは総勢14人の、いわゆる「現代アート」の作家なのだけど、ぼくがこういうイベントに参加できたのは、ひとえに「相互的レディ・メイド」の効果なのだと、あらためて実感した。

ぼくは学生時代は現代アートの作家にあこがれていたのだが、才能がないために断念し、その後「非人称芸術」というコンセプトに行き着いた。
「非人称芸術」は、「アーティストによる作品製作」という概念を放棄しており、原理的に「創造はするけど作品が無い」。
しかしその副次的効果によって「相互的レディ・メイド」としての作品が生じ、それによって世の中との接点が生じる。
・・・というようなことを『不動産レディ・メイドと相互的レディ・メイド』という記事に書いたのだが、まさにその通りであることが、今回あらためて実感できたのだ。

ぼくは他のアーティストとぜんぜん違うことをやっていて、つまり「作品」をひとつも製作していないのに、「作品の類似物」を製作しているため、アーティストと同じ土俵に上がることができる。
ぼくの「作品」に見えるものは、その実「相互的レディ・メイド」であり、言ってみれば「喫茶ルノアールのマッチ箱」みたいなものである。
ぼくは展覧会場に色とりどりのマッチ箱を並べ、そうすると観客が「素敵なデザインのマッチ箱ですね」と喜んでくれる。
しかしぼくが本当に見せたいのはマッチ箱に描かれたルノアールの絵画で、その絵画はマッチ箱の中ではなく「外」に存在している。
マッチ箱の「外」とは、具体的には展覧会場周囲の「琴平の街並み」と言うことになる。
だからぼくは、会場に「相互的レディ・メイド」としての作品を設置した後は、ともかく琴平の街中を、「鑑賞」しながら歩き回ったのだ。

真剣に鑑賞している最中は、実は写真撮影は気分的なノイズになる。
例えば、いくらルーブル美術館が撮影OKだとしても、写真ばかり撮ってる人は、ちゃんと絵画鑑賞しいてるかどうか疑問である。
だから「路上鑑賞」の最中は写真を撮らないことが基本であり、むしろ写真にも撮れないその様相に、深く感じ入ったりするのである。
ただ、せっかくカメラも持ってることだし、記録やお土産的なものがゼロなのも寂しいから、ところどころで写真撮影したりもする。
または、個人的行為である「路上鑑賞」を純粋化すると、世間とのつながりがなくなってしまうため、それを一部解消するために「相互的レディ・メイド」としての写真撮影をする。
そのように琴平の路上で撮影した「面白い写真」を、イベント期間中に開催した講演会で上映したのだが、これもなかなか受けが良かった。
つまり現地撮影した写真も「相互的レディ・メイド」としての役目を十分果たすことができたのだ。

ぼくの作品は「喫茶ルノアールのマッチ箱」みたいなものだと書いた。
しかし「マッチ箱」を作るときの自分はまさに「作品製作」の気分であり、自分なりの職人的技術を鍛え上げながら取り組んでいる。
そのような「マッチ箱」が「作品」として他人に誉められたり、喜ばれたりするのは素直に嬉しい。
これは「非人称芸術」のコンセプトの中心から外れるかもしれないが、「相互的レディ・メイド」の効果がもたらす「他者とのコミュニケーション」としての喜びなのかもしれない。
それに対し、純粋な「非人称芸術」はあくまで個人的体験でしかないのだが、こちらには「環境とのコミュニケーション」としての喜びがある。

人間は「他者」と対話し、また「環境」との対話を繰り返しながら、自らの「環世界」を築き上げる。
ぼくはその過程を、自分なりに解釈した「芸術」を媒介にして、行なっているのかもしれない。

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