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2009年2月

2009年2月10日 (火)

写真を始めたきっかけ・作られる記憶

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つい先日『日本カメラ』誌の取材を受け、それは今月20日発売号の特集に掲載予定である。
そこでライターさんに「写真を始めたきっかけは何ですか?」と聞かれたぼくは、「学生時代に自分のアートの才能に挫折して、そのあと赤瀬川さんのトマソンを知って、それから写真を撮るようになりました・・・」みたいに答えてしまった。
しかし、これと同じような話はこれまでにいろんなところでしているので、自分としてはまったく面白くない。
インタビューに答えながら、ふとそのことに気付いてしまったのだが、しかし実際どうも他に答えようが無い、ということにもまた気付いてしまった。
そうは言っても「学生時代に自分のアートの才能に挫折して、そのあと赤瀬川さんのトマソンを知って、それから写真を撮るようになりました・・・」というのは本当だから、普通に考えてそう答えるしかないのである。
ぼくは普通の人とはちょっと変な写真を撮るから、「写真を始めたきっかけは?」というふうに質問されることも恐らく他の人よりも多く、それで何度も同じ話をすることになってしまうのだ。

しかし改めて考えると「本当のこと」とは一体なんだろうか?
例えば、歴史は「本当のこと」が記述されていると思われているが、厳密に考えると単純にそうだとも言い切れない。
歴史とは過去の事実の全てではなく、過去に起きた「無数の事実」から、そのごく一部をピックアップしたものに過ぎない。
ではどういう基準で「無数の事実」から歴史としてピックアップするのかというと、それは「現在の状況を説明するため」なのである。
だから国家の歴史も「現在の国家の状況を説明するため」に存在する。

例えば学校の歴史の授業では、「江戸時代は士農工商の身分制度が厳しく、身分の低い農民は虐げられていたつらい時代だった」というように教わる。
しかし江戸時代は264年続いた世界でもまれに見る安定した社会であり、農民も一時期の飢饉を除けば結構豊かに暮らしていた、という説もある。
そしてその説によると、「江戸時代は身分制度が厳しかった」というイメージを流布したのは明治政府であり、つまり当時の政府は自らの素晴らしさを説明するために、「無数の事実」から「士農工商」とか「年貢の取立て」などだけをピックアップして歴史をつくり、それが現在にまで続いている、というのである。
この話は、明治政府が流布した「歴史のウソ」を暴くのではなく、「イデオロギーが異なれば歴史も異なる」ということを示す例である。
「江戸時代の農民は、実際は豊かだった」という歴史にしたって、「現在の日本社会は、決して豊かではないかもしれない」と思う人が、その状況説明のためにピックアップして作った歴史だったりするのだ。
歴史とは現在のイデオロギーを過去にさかのぼって説明することだから、イデオロギーの数だけ「異なる歴史」が存在するのだ。

このことは「個人の歴史」にもそのまま当てはまる。
自分は子供のころ何をして、若いころにどういうきっかけで現在の自分に至ったのか。
そういう「個人の歴史」も、実は自分の過去をそのまま説明したものではなく、あくまで「現在の自分の状況」を過去にさかのぼって説明しているだけである。
自分過去に起きたことも、「無数の事実」の集積であり、その全てを「個人の歴史」として記述したり、意識化することは不可能だ。
だからあくまで現在の自分の状況を説明するため「過去にあんなことがあって、その次にこんなことがあり、そして今の自分がある」というふうに説明し、それが「個人の歴史」である。

人は生きていく中で、不意に「現在の自分の状況」を説明する必要に駆られることがあり、そして「ええっと、なにがあったんだっけ・・・?」というふうに必死に過去を思い出そうとする。
しかし思い出すのは、あくまで「現在の自分の状況」を説明するためピックアップされた記憶であり、それを素材に「現在の自分の状況」を説明するためのストーリーが組み立てられ、「個人の歴史」として意識されるのである。
そうやって一度意識された「個人の歴史」は、それ以降は自分の中で「既成事実」と認識され、何度も同じ内容を繰り返し語ることになる。
いつも同じ内容の「個人の歴史」を語る人は、つまり「現在の自分の状況」に変化が無い人だとも言える。
「現在の自分の状況」が変化すれば、それを新たに説明するため、再び過去にさかのぼり「ええっと、なにがあったんだっけ・・・?」というふうに新たな「個人の歴史」を思い出すことになる。

というわけで、ぼくが最初に「学生時代に自分のアートの才能に挫折して、そのあと赤瀬川さんのトマソンを知って、それから写真を撮るようになりました・・・」みたいに答えたのは恐らく10年位前で、そこから「現在の自分の状況」はずいぶん変わったはずだから、もっと別の「個人の歴史」を思い出すこともできるはずなのである。
また、「現在の自分の状況」とは、単一で不動の状況ではなく、多面的であるし揺らぎもある。
だから同じ「写真を始めたきっかけは?」という質問に対して、その都度異なる内容の「個人の歴史」を思い出すことも可能なはずだ。

ただ、何度も答えているフレーズはつい自動的に繰り返してしまい、「新たに思い出す」ということをサボってしまうのだ。
というか、ぼくは自分なりに日ごろからいろいろ考えてるつもりだが、「写真を始めたきっかけ」なんてもはや考えなくなってしまっているので、不意に他人からその質問が出ると、つい「決まったフレーズ」が出てきてしまうのだ。
だからこの次に何かインタビューされたときは、「質問のたびに考え込んで、新たな過去を思い出す」というのを試してみようかと思う。
そうすれば、「芸術家というのは、寡黙にして深遠なことを考えているんだな」などと思ってもらえるかもしれない(笑)

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同時存在平行世界

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ぼくは特にSFをたくさん見てるわけじゃないが、しかし「平行世界」という概念があるのは知っている。
今、われが生きている世界は唯一のものではなく、次元を異にしたいくつもの「平行世界」が同時存在している、という架空の世界観である。
世界というのは時間の進行とともに、さまざまな可能性の分岐点があり、その分岐点の数だけ(ほぼ無限に)少しずつ異なる世界が平行して存在する、というような概念だったきがする。
そういう「平行世界」に主人公がふと迷い込んだりするSFを、子供のころにいくつか見た。

例えば、NHK少年ドラマシリーズの『その町を消せ』は、主人公の中学生が自分の世界とはちょっとずれた「平行世界」に迷い込む物語だった。
そこは一見自分が住む町とそっくりだが、警察がやたら権限を持っていて、ビートルズの音楽が「危険思想」として取締りの対象になっていて、レコードを持ってるだけで逮捕されたりとか、そんな感じだったように思う。
石森正太郎のマンガ『番長惑星』も同様の設定で、この主人公が迷い込んだ「平行世界」もやはり一見自分の日常にそっくりだが、警察官がロボットだったり、人を殺したら過失であっても死刑と法律で決まっていたり、ディテールが異なっている。
まぁ、だいぶ昔に見たきりなので、具体的にはどんな話だったのかは思い出せないが、両方の物語とも、主人公がいろいろタイヘンな目にあって、最後は元の世界に戻ってホッとする・・・みたいな感じだったように思う。

日常とちょっとだけずれた「平行世界」には、独特の不気味さとリアリティがある。
主人公が迷い込むのは一見自分の日常と同じだから、かえってどこが違っているのかが予測できず、それが不気味で恐ろしい。
また、物語の主人公と同じように、自分も知らないあいだに「平行世界」に迷い込んでいるかもしれない、と思うとリアリティがあるのだ。
もちろん、大人になった今は「平行宇宙」にリアリティなど感じないが、子供のころはけっこう怖かったのだ。

このちょっと後の高校生のときに見た、SFロボットアニメ『超時空世紀オーガス』では、またちょっと違う切り口で「平行世界」を扱っていた。
舞台は近未来の地球で、大きな戦争が起きて「時空振動弾」という最終兵器が使われる。
その結果、どういうわけだか、同じひとつの地球に、さまざまに異なる「平行世界」がパッチワーク状に存在するようになってしまった。
例えば、触角を持つ人間が住み科学技術が高度に発達した「エマーン」、強力な軍事国家である「チラム」、自らを生み出した人間を抹殺したロボットが支配する「ムー」など、まったく異なる「平行世界」がパッチワーク状に存在しながら戦争をしたりして、そのめちゃくちゃな世界を正常に「修復」しようと主人公が活躍したりとか、そういう物語だった。
なかなか壮大で面白そうな設定だが、しかし実際の物語はそれほど面白くなく、ぼくは主にロボットの戦闘アクションを目当てに、このアニメを見ていたのだった(これに出てくる戦闘デバイス「ナイキック」はSFアニメロボの最高傑作のひとつだと、個人的には思う)。

それでまぁ、ぼくは特にSFマニアでも、熱心なアニメファンでもないので、「平行世界」も「オーガス」もすっかり忘れていたのだが、しかしつい先日「オーガスで描かれた世界は、現在のポストモダン状況と似てるかもしれない」と突然思い当たったのである
現在のポストモダン状況とは「ひとつの世界」ではなく、さまざまに異なる「平行世界」が、パッチワーク状に同時に存在している状況なのである。

例えば、ぼくが存在している世界には「携帯電話」というものは存在しない。
これは冗談ではなく、マジな話である。
その証拠に、ぼくがこれまで見た、未来世界を描いたマンガや映画などのSFに、「携帯電話」なるものは一切登場しないのだ。
『ウルトラセブン』には似たような通信機器が登場するが、あくまで業務用のトランシーバーが発展したもので、「携帯電話」とはだいぶ趣が違う。
「携帯電話」はぼくが見た限りどのSFにも登場せず、どんなに遠い未来を描いていても、例えば宇宙船の中でグルグルのコードが付いた受話器を耳に当てて「もしもし!」とか叫んだりしている。
そういう未来を描いたSFに無いものが、現在にあるわけも無く、だからぼくは「携帯電話」を持っていないのである。

ところがしかし、あるころからいつの間にか「携帯電話が存在する平行世界」が、自分の世界に隣接していることに気付いた。
この「平行世界」は自分の世界と地続きに存在するから、ぼくはともかく「携帯電話」が耳障りでしかたが無い。
そして、なぜみんながそんなものを必要としてるのか、まったく理解できないでいる。
ぼくが「携帯電話」の意味を理解できないのは、そもそも自分の世界に存在しないものだからである。
あちらの世界のみんなは「ケータイぐらい買えばいいのに」と言うが、自分の世界に存在しないのだから、例え買いたくても買えないのだ。

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ぼくの世界には「携帯電話」は無いけれど、パソコンやインターネットは存在する。
これらの利便性はぼくはよく理解できるし、自分と同じ世界に存在するものだから売っていれば買うこともできる。
実は現在のようなパソコンやインターネットは、過去のSFには一切登場しない
過去のSFに描かれたコンピューターは、高度に発達した挙句に人間並みの知性や感情を持ったり、揚句の果てに人類に謀反を起こしたりする。
現在のパソコンやインターネットは、過去のSFに描かれたコンピュータとだいぶ趣の異なる別物である。
なぜ過去に描かれた未来に存在しないパソコンやインターネットが現在存在できるのかというと、そんなのは当たり前である。
SFとは文字通りの単なるフィクションであり、現実は人々が予想もせず、誰も望まないような方向に変化するものなのである。

で、芸術の話をすると、やはりぼくの存在する世界に、異なる「平行世界」がパッチワーク状に同時存在している。
ぼくの存在する世界では、芸術というものはデュシャンのレディ・メイドによって「死」を宣告され、赤瀬川原平の超芸術トマソンでとどめを刺されてしまっている。
それ以降、芸術は新たに「非人称芸術」として路上に見出されることになり、退屈だと思われていた「日常」が、「非人称芸術」に満たされたれた、非常に豊かな世界に変化することとなった。
しかしそう思っていたらいつの間にか、自分の存在する世界に隣接して、異なる「平行世界」が同時存在していることに気付いたのだ。
その世界には、こちらの世界と同じようにデュシャンもトマソンも存在するのだが、にもかかわらず芸術は死んではおらず、人々の誰もが芸術を信じて疑わないのだ。
そして、その世界には「アートマーケット」というものが存在し、現代芸術の作品が活発に売買されており、そのことで芸術は生命を得ているようなのである。

アートマーケットは自分とは異なる「平行世界」に存在するが、そこは自分の存在する世界と地続きである。
だからぼくもその「平行世界」に、行こうとすれば行くことができる。
そしてぼくの作品(非人称芸術の記録写真)を、アートマーケットに持ち込むことも可能なのだ。
ただし、あちらの世界には「非人称芸術」が存在しないから、ぼくの作品を持ち込めばそこでは単なる「人称芸術」に変化してしまう。
しかし、そこは「人称芸術」がいまだに生き続けている世界だから、ぼくの作品に「人称芸術」としての価値が認められれば、アートマーケットに迎え入れてもらえるかもしれない。
そして、そのように異なる「平行世界」をつなげるためのアイテムがぼくの作品であり、それを「相互的非人称芸術」と名付けたわけだ。
というわけで、今はコマーシャルギャラリー(作品販売を目的としたギャラリー)での初個展の準備中で、販売できるクオリティーを持つ作品形態を、いろいろ模索しているのである。

以上の例に限らず、自分の世界にはいつの間にか、さまざまに異なる「平行世界」が隣接しながら同時存在するようになった。
その境界は多くの場合明確ではなく、自分が「平行世界」に足を踏み入れたとしても、そのことにすぐ気付くことは難しい。
そしてあるとき突然、予測不可能な「平行世界との違い」に遭遇し、狼狽するのだ。
これはまさに、子供のころに見たSFの「ちょっとだけ違う平行世界」の不気味さと、同じものである。

もちろん、そうした不気味さを感じているのはぼくだけではなく、今の時代は「お互い様」なのだといえる。
ポストモダン状況では、誰もがちょっとづつ異なる「平行世界」に住んでおり、それがパッチワーク状にひとつの地球に同時存在している。
そしてこのめちゃくちゃな状態は、かつてのような「ひとつの世界」に修復するのは不可能である。
「ひとつの世界」に修復しようとすると、必然的にその他のさまざまな「平行世界」は全部消えることになってしまい、だからそれを実行しようとすると異なる「平行世界」の間で戦争が起きてしまう。
『超時空世紀オーガス』ではまさにそのような争いに主人公が巻き込まれるのだが、最後は何だか適当にお茶を濁して終わっていた気がする。
現実にどう対処すればいいのか?は、まぁいろいろ考えて試してみるしかないだろう。
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2009年2月 9日 (月)

復元フォトモ

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ここしばらく更新が出しなかったが、こんな感じで「復元フォトモ」を製作していた。
フォトショップで写真を切ったり、貼ったり、塗ったり、変形したり・・・

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するとこんなふうになる。
これまでの「復元フォトモ」の最高傑作のヨカン・・・ベースもこれまでの最大でB3サイズ。
名古屋市民から提供された6枚の写真から、「昭和40年代の名古屋市電金山橋駅付近」を復元している。
まぁ、素材の写真が限られているので、実際の風景そのままではないが、可能な限りそれらしく復元している。

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上から見ると、こんなパーツ構成になっている。

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近くで見ると、本物のようにリアル・・・
写真で見ると懐かしい風景も、フォトモにすると現実のようにリアルなので、かえって「懐かしい」という感じがしなかったりするから面白い。
とは言え、このブログに載せているのも「写真」だから、ぜひ実物の「復元フォトモ」を見てもらいたいと思う。
会期はちょっと先で、3月17日(火)~5月17日(日)。
名古屋都市センターで開催する『フォトモで甦る金山の記憶と風景』で公開予定。

それより先に、2月14日から香川県丸亀市のギャラリーアルテで個展『ブリコラージュで考える』の開催があるから、そっちの準備も急がないと・・・

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