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2009年3月

2009年3月28日 (土)

「みんなちがって、みんないい」の真理

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この記事は前回の続きなのだが、初めてご覧になる方は、

「多数派に安住する感性」の暴力
「みんなちがって、みんないい」の仲間
「みんなちがって、みんないい」の条件
「みんなちがって、みんないい」の立場

という順番で読み進めていただければと思う(長いけど)。
この一連の記事の最初の『「多数派に安住する感性」の暴力』は、哲学者の中島義道さんの『人生に生きる価値はない』を読み、思ったことを書いたものだ。
その記事に対し、「教科書にあった「みんなちがって、みんないい」という言葉を思い出し、心に響きました」というようなコメントをいただいた。

しかし、ぼくとしては「みんなちがって、みんないい」という理念こそが、「多数派に安住する感性」に思えてならない。
そこで、その言葉の元となった、金子みすゞの詩『わたしと小鳥とすずと』を分析し、この詩がいかに偽善的であり、少数派に対する暴力装置として機能するかを、明らかにしたのが、次の記事『「みんなちがって、みんないい」の仲間』である。

ところが、そのように考えながらふと気付いたのが、「みんなちがって、みんないい」は条件によって成立し、偽善的ではなくなる場合がある。それは「みんなちがって、みんないい」の「みんな」に「人間以外の生物」を当てはめた場合である。そして、そのような意味での「みんなちがって、みんないい」の理念をぼくはすでに「路上ネイチャー協会」というブログで実践していた。
と、このように書いたのが『みんなちがって、みんないい」の条件』である。

人間以外の生物に当てはめる限り「みんなちがって、みんないい」がなぜ成立するかを改めて考えると、人間は、その他の生物に対し「支配的立場」にあるからで、だから余裕を持って「みんなちがって、みんないい」と思えるのだ。
しかし現代社会は、人間が他の人間に対し「支配的立場」にあることを許さない。
人間と人間を比較して「みんなちがって、みんないい」と思えるのは、人間に対し「支配的立場」にあると想定される「神様」だけなのだ。
だから人間が同胞に対し「みんなちがって、みんないい」と思うのは、思い上がりであり、偽善であり、少数派に対する暴力でしかないのだ。
というように書いたのが、前回の『「みんなちがって、みんないい」の立場』である。

そのようなわけで、ぼくが中島義道さんの本に書かれていることに同調し、影響を受けて学んだことは、世間一般に流布している「みんなちがって、みんないい」という綺麗事で済ませるセンスと、真正面から対立する。
それを改めてクドクドと考えていたのだが、さらにまたふと気付いてしまったのだ。
それはつまり、

金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」と、
中島義道さんの「人生に生きる価値はない」という言葉は、
「同じこと」を言ってる!

ということである。
数式に表すと、

「みんなちがって、みんないい」=「人生に生きる価値はない」

というようになる(式にするまでもないが)。
はじめはまったく正反対だと思っていたふたつの言葉が、よく考えたら「同じこと」を表しているのに気付いたのである。
この「同じこと」というのは「真実」とか「正解」というものではなく、あくまで「そういうものの見方も成り立つ」ということの発見である。
金子みすゞの詩『わたしと小鳥とすずと』には別に「正解」が示されているわけではなく、だからさまざまな解釈の可能性に開かれている。
だからぼくは、金子みすゞの詩そのもにイチャモンを付けていると言うより、世間一般でなされている「解釈」が偽善的だと、指摘したのだ。
そしてぼくは同じ詩に対し、別の解釈の仕方があることに、気付いたのである。

ポイントは、人間同士を比較して「みんなちがって、みんないい」と思うのは「神の視点」である、ということだ。
もちろん人間は「神」ではないし、「神」を見ることはおろか、「神」が存在するのかしないかさえ知ることはできない。
しかし人間はその知恵によって、「神」の存在を想定し、「神の視点」に立って物事を考えることができる。
この意味で「神」とは、人間の思考ツールのひとつだと言えるのだ。

そのように「神の視点」を想定すると、人間は誰でも例外なく「みんなちがって、みんないい」と言うことになる。
平和に生きる人々も、平和を乱す犯罪者も、優等生でスポーツ万能でハンサムなひろしくんも、何もかも人並みな目立たないよしおくんも、変わり者だけど絵が上手でみんなから一目置かれているたかしくんも、何もかも平均以下で性格も悪くクラスの嫌われ者のよしこさんも、下校中に凶悪犯に包丁で刺さて即死したちなつさんも、ちなつさんを殺した犯人も、「神様」から見たら「みんなちがって、みんないい」のである。
なぜなら「神様」というのは、人間社会の「外部」に存在し、人間そのものを「超越」した存在として、想定されるからである。

「神の視点」に立つと、人間がいかに努力しようが、努力せずにサボろうが、幸福に満ちて生きようが、不幸のどん底で一生を終わろうが、他人に親切にしようが、他人に危害を加えようが、他人から尊敬されようが、他人から軽蔑されようが、金持ちになろうが、清貧に生きようが、全ての「違い」は「無意味」になる。
なぜなら「神様」にとっては、人間が何をしようとも、何もしなくとも、「みんなちがって、みんないい」のである。
つまり「みんなちがって、みんないい」とは「何をしても無意味」と同じ意味なのである。

例えば、ぼくは小学生のころは勉強の成績は中の下くらいで、体育の成績は下で、しかし図工の成績は優秀だった。
だから図工の時間だけは、ぼくは先生から「みんなとちがって、みんなよりいい」というふうに誉められ、それが自分のよりどころになっていた。
しかしぼくが描いた「上手い絵」と、そのほかの子が描いた「下手糞な絵」を比べ、「みんなちがって、みんないい」ということで同じ点数にされてしまったら、ぼくはふて腐れてしまったかもしれない。
自分が「ちがう」と言う理由だけで「いい」のだったら、絵が上手でも「いい」し、絵が下手でもどっちでも「いい」のだ。
それはおろか、勉強ができなくとも、運動ができなくとも、友達と仲良くできなくとも、何ができなくとも、何をしなくとも「いい」のである。
こうなると、自分が何か努力したり、頑張ったり、生きがいを見出したりすることの全てが「無意味」になる。
先生が生徒に対し「神の視点」で、「みんなちがって、みんないい」などと言えば、生徒の努力や向上心の全部が「無意味」になる。

さいわい、ぼくが小学生のころは、このように極端に「神様気取り」の教育は行なわれてなかったように思う。
しかし最近の小学校では、例えば体育のかけっこのさい、ビリの子の到着をみんなで待って、みんなで手をつないで一緒にゴールしたりとか、そういう「恐ろしい」教育がされているとどこかで聞いたことがある。
でもそうした「不自然」な教育課程を我慢して過ぎて社会に出れば、人間は誰でも「自然な競争」が行なわれる人間社会に参加することになる。
近代社会とは、人々が「自然な競争」あるいは「公平な競争」を通し、人それぞれの「幸福」を実現することを、目指している。
「目指している」と言うのは、それはあくまで「理念」であり、現実的にその「理念」が世界の誰もが実現できているとは、到底言い難い。
だからその「理念」をできうる限り実現させようと、努力しながら考えているのが、高田明典さんが言うところの「現代思想」であり、宮台真治さんのいうとことろの「社会学」なのだと、ぼくは捉えている。

ところが、あらためて「神の視点」で考えると、近代社会の理念も、人々が追求する幸福も、現代思想や社会学の努力も、何もかもが無意味でむなしいのである。
なぜなら、人間が何をしようとも、「神の視点」からは「みんなちがって、みんないい」になってしまうからだ。
そして、中島義道さんは『人生に生きる意味は無い』をはじめとする数々の著書で、「哲学的に考えると、人間は何をやっても無意味で、むなしい」と言うように書いている。
ある人がいかに豊かに、あるいは幸福に、または栄光に満ちて生きようとも、人間は「どうせ死んでしまう」のである。
人間は何をしても、何を感じても、等しく「どうせ死んでしまう」という残酷な運命から逃れることはできず、何もかもが無意味でむなしいのだ。
そして、「どうせ死んでしまう」という「真理」が理解できなず、「自分は幸福だ」などと信じ込んでいる人間は、頭も感性も鈍い馬鹿者であり、そのような馬鹿であることが、人間にとってもっとも不幸なのだ、と言うように書いている。

そして、ぼく自身は正直に告白すると、中島義道さんが言うところの「どうせ死んでしまう」という「真理」が、どうしてもピンとこないでいるのだ。
いや、理屈としては分かるのだが、これがわが身に降りかかることとして、どうしても実感できないのだ。
だからぼくはある部分では中島義道さんの感性に同調しながら、結局は中島義道さんが毛嫌いするところの「馬鹿の一員」でもあるのだ。
ぼくは他人に馬鹿にされると、反発して何とかそれを分かろうとするのだが、分からないものは分からないのだ。
しかし、「人生に生きる価値はない」と「みんなちがって、みんないい」が、実は「同じこと」を示してると気付いたことで、その理解にちょっと近づいたように思えたのである。

つまり哲学者とは、人間でありながら「神の視点」の存在に気づき、それが「真理」として頭から離れなくなってしまった人なのである。
もちろんそれが唯一の哲学の定義ではないが、そういう見方も成立する、と言うことである。
人間が何をしようとも、幸福な人も不幸な人も、「神の視点」で見れば皆等しく「どうせ死んでしまう」という、不幸でむなしい存在なのだ。
そういう「真理」を知ってしまった以上、そこから目を背けることもまたむなしく、結局は自らの不幸を直視しながら生きるしかないのだ。

 小鳥と、すずと、それからわたし
 みんなちがって、みんないい。

という詩は、人間に対し非常に不幸な「真理」を突きつけている。
そしてこれを読んだ詩人は、26歳の若さで服毒自殺している。
まぁ、詩人がどんな気持ちでこの詩を書いて、どんな理由で死んだのか、その「正解」は知る由もない。
しかし「神の視点」の残酷さを知ってしまった人間は、自殺を含めてそれぞれの対応をするんじゃないかと思う。
中島義道さんは、「自分は自殺をしたいとは思わないし、自殺はしてはいけない」と書いているが、そう書かなければいけないほど、中島義道さんの周囲には自殺者や自殺未遂者が少なからずいるらしい。
ぼくも自殺願望はないけれど、自分なりに「神の視点」は「芸術」の概念とつなげて考えられそうな気がしている。
ここで言う「神の視点」とはつまり「哲学」であり、ぼくは中島義道さんの本から「哲学と芸術は全く別物であり、自分は哲学とは無縁の芸術家である」と思っていた。
しかし最近は、芸術もやはり哲学的に考えなければならないのかも?と思ってたりする。
まぁ、ぼくのいう「哲学」は入門書レベルのブリコラージュでしかないのだが(笑)。

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2009年3月27日 (金)

「みんなちがって、みんないい」の立場

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金子みすゞの詩、「わたしと小鳥とすずと」の最後の一節、「みんなちがって、みんないい」の理念を検証する3回目。
前回の記事では、まずこの詩を次のような数式に置き換えた(いや数式とはいえないが)。

  (x)と、(y)と、それから(z)、
  みんなちがって、みんないい

そして、(x)、(y)、(z)、のそれぞれに「生物」を代入する場合に限り、「みんなちがって、みんないい」が成立することを示した。
あらゆる生物は人間の製作物ではなく、人間の登場以前から存在していた、いわば「神の創造物」である。
人間には「神の創造物」に対し、その「本質的な良し悪し」を判断する権利を持たない。
つまり、人間が生物に対して良し悪しの判断をするのは「思い込み」でしかなく、だから生物を比較する限りにおいて「みんなちがって、みんないい」が成立するのである。
ぼくのもうひとつのブログ「路上ネイチャー協会」は、まさにそのような理念に基づいている。
ところが、そう考えるのなら人間もまた「神の創造物」なのである。
人間は人間に作られるのではなく、生物としての人間から産まれる。
だから人間は「神の創造物」であり、「みんなちがって、みんないい」が成立しそうだ。
というのが、前回から持ち越された疑問である。

それでいろいろ考えてみたのだが、やはり人間と人間の比較において「みんな違って、みんないい」は成立しないんじゃないかとおもう。
早い話、いろいろな人間を比較して「みんなちがって、みんないい」と言えるのは「神様」だけであって、「人間」にはそんなことを言う権利がないのだ。
つまり人間に対し「みんなちがって、みんないい」などと平気で言える人は、人間のクセに神様気取りで、とってもエラソーなのだ。
「神様」とは、いわば人間社会の「外部」の存在である。
「神様」は人間社会の外部に存在するから、人間に対し「みんなちがって、みんないい」と言えるのである。
しかし人間は、人間社会の「内部」に存在し、だから同じ人間に対し「みんなちがって、みんないい」なんてことを言う権利が無いのだ。

人間以外の「生物」もまた、人間社会の「外部」に存在する。
そして基本的には、人間以外のあらゆる生物が、人間の「支配下」にある。
人間は、人間以外の生物を食べたり、飼育栽培したり、品種改良したり、駆除したり、保護したりすることが許されている(もちろん例外もあるが)。
このような意味で、人間以外の生物は、人間の支配下にある。
人間がそれ以外の生物を支配する権利は、「神様」から与えられたものではなく、人間同士がそのような取り決めをしているのだ(そうしないと人間が生きてゆけないから)。
つまり人間は、その他の生物に対し「神様」のような立場にあり、その立場からあらゆる生物を比較し「みんなちがって、みんないい」と判断できるのだ。
ところが現代社会では、人間が他の人間に対し「神様」の立場にあろうとすることを許していない。
だから人間が、他の人間に対し「みんなちがって、みんないい」などということも、許されないはずなのだ。

例えば、ある人が小鳥を三羽飼っていたとしよう。
この3羽をはじめ同じ鳥かごに入れて飼育していたら、そのうち一羽だけが凶暴な性格で、他の二羽をくちばしで突っつくなどしていじめはじめた。
そこで彼は鳥かごをもうひとつ買ってきて、凶暴な性格の一羽を隔離した。
それ以来、鳥同士のいじめはなくなり、その意味で平和になった。
彼にとって、大人しい性格の二羽も、凶暴な性格のもう一羽も、それぞれに異なる魅力があり、どれにも思い入れがある。
つまり、「みんなちがって、みんないい」のである。

人間社会の場合、他人に暴力をふるって怪我をさせるような凶暴な人は、反省するまで刑務所に隔離する。
さらに何人も殺したりするような凶悪犯は、反省の余地なく一生刑務所か、死刑にされる。
これは鳥かごの中の三羽の小鳥のうち、暴力的な一羽だけを別のかごに入れて隔離するのと、外見的には同じである。
しかし人間は、隔離した小鳥のように、隔離された犯罪者を「みんなちがって、みんないい」と思うことはできない。
犯罪を犯さない平和的な自分と、凶悪な犯罪を犯した犯罪者とを比較し、「みんなちがって、みんないい」とは思えないだろう。
そもそも犯罪を犯すのはいけないことであって、みんなが同じルールを同じように守らなくてはいけないのである。
みんなの中に、みんなとちがって犯罪を犯すような人がいては、いけないのである。

自分が買っていた三羽の小鳥のうち、凶暴な一羽がもう一羽を殺してしまったとしよう。
その場合、凶暴な一羽を「憎い」とおもって殺してしまう人も、いるかもしれない。
しかし「小鳥に対し、憎いなんて感情を持つことは大人気ない」と思い、残った二羽をそれぞれ別のかごに移し、両方大事に飼い続ける人もいるかもしれない。
だが、「凶悪事件の犯人に対し、憎いなんて感情を持つのは大人気ない」という理由で「だから犯罪者を愛しましょう!」という主張をする人は、恐らく世間から相当白い目で見られるだろう。

この違いは何なのかを考えると、まず飼い鳥がいくら凶暴で暴力的であろうとも、人間社会には直接何の影響もないのである。
しかし凶暴で暴力的な人間は、人間社会にダイレクトな影響を与える。
だから人間は犯罪者を憎み、反省や、損害賠償や、刑罰を課すことを要求するのである。
だが仮に「神様」の立場になって考えてみると、下界の人間がどんな凶悪な犯罪を犯そうとも、「神様」自身には全く何の影響もないことが分かる。
「神様」は人間界を見下ろし、人々が皆平和に暮らし、しかし中には凶悪な犯罪者がいて、一方では戦争が起きている地域があり、それらを比較しながら「みんなちがって、みんないい」と思うのである。
しかし人間は、チョウを捉えたカマキリを見て「みんなちがって、みんないい」とは思えても、カマを持った男が通行人を襲うのを見たら「こんなふうに違った人は、いてはいけない」と思うしかないのだ。

実のところ、「平和」ということを考えると、あらゆる人間が「同じ」であることが理想なのである。
なぜなら、世の平和を乱す争いごとは、人間がお互いに「ちがう」ことが原因であり、だから人間が皆「同じ」であれば、何の争いごともなく平和なはずなのだ。
例えば「携帯電話の話し声が耳障りだと思う人」と、「携帯電話の話し声が気にならない人」の感性の「違い」が、電車内での争いの原因になる。
携帯電話に対する感性が、人間皆同じであれば、争いごとは起きようがない。
日常的な争いごとが、最大規模に発展すると国家間の戦争になる。
戦争は、国家間での思想、信条、宗教の「違い」によって起きる。
だから戦争を無くすいちばんの方法は、人間みんなが同じ思想、同じ信条、同じ宗教に属すことなのである。
そして、そのことが皆分かっているからこそ、それを目指して戦争をするのだ。
つまり、戦争に勝つことができれば、自国の思想、信条、宗教に、相手国を従わせることができる。
そのように一番強い国家の思想、信条、宗教に、戦争で負けた全ての国家が従えば、それ以降戦争が起こることはないのである。

ところがこれは理想論でしかなく、実際に理想道理のことは実現しそうにない。
その理由は、やっぱり人間同士の「違い」に原因がある。
人間は、人間の製造した製品と異なり、それぞれが個性豊かで違ってしまっている。
元が違う人間全員を、同じ思想、同じ信条、同じ宗教の下に統一することは不可能なのだ。
学校のクラスにイジメがあるもの、生徒それぞれに個性があるのがそもそもの原因だ。
もし、クラスの全員が同じ頭の程度で、同じ身体能力で、同じ背の高さ、同じ体重、同じ正確で、同じ感性を持ち、同じ顔だったら、さぞかし平和だろうと思う。
まぁしかし、「全員が同じ」というのはいかにも不自然で、絶対に実現不可能であり、理想にすらならないことは、誰の目にも明らかだろう。

そこで「同じ」に変わって採用されたのが、「普通」という概念ではないかと思う。
「普通」という概念は、ある範囲の「誤差」を許容している点で、「全員が同じ」よりも実現性が高い。
クラスの生徒はそれぞれ個性豊かだけど、その個性を「普通」の許容範囲に収まるように矯正するのが、学校教育だといえる。
生徒がみんなが「同じ」になるのは不可能だが、それぞれが「普通」の許容範囲内に収まることは何とかできそうであり、そうすれば「平和」は実現できる。
もちろん、普通に収まりきれない「例外」はどんな場合にも存在するだろう。
そのような、どんなに努力しても「普通」になれないような「例外」は「落ちこぼれ」として切り捨てるしかない。
そして、そのような「落ちこぼれ」の存在が、「普通」という理念の素晴らしさを示すための「いけにえ」になるのだ。

つまり、金子みすゞの詩の

  (x)と、(y)と、それから(z)、
  みんなちがって、みんないい

のx、y、zのそれぞれに「人間」を代入することは、「普通の誤差範囲に納まるのはいいこと」であり「普通から落ちこぼれることは恐ろしい」ことを暗示する。
これはあくまで暗示であって、明示していないのがミソである。
つまり、「普通の誤差範囲」に収まった生徒は、「普通からの落ちこぼれ」の生徒を蹴落として、その場所を手に入れたのであるが、一方でそれを意識しないようにしているのである。
「普通の誤差範囲」に収まる人々の「平和」は、言ってみれば「普通の誤差範囲外」の落ちこぼれの生徒に対する「暴力」の上に成り立っている。
そして、そのような「暴力」を意識すると、気がとがめて「普通の人の平和」が穏やかではなくなってしまう。
だから「暴力」を隠蔽する必要があり、それが「みんなちがって、みんないい」という「綺麗事」なのである。

「みんなちがって、みんないい」を綺麗事として解釈すると、次のようになる。
まず、「普通の誤差範囲」に収まったみんなは、その限りにおいて「みんなちがって、みんないい」である。
そして、「普通からの落ちこぼれ」は、「普通のみんな」から劣ったかわいそうな存在であり、「普通のみんな」からの「支配下」にある。
「普通からの落ちこぼれ」は、「小鳥」や「すず」と同じように、「普通のみんな」の支配下にある。
だからその意味でも、「みんなちがって、みんないい」のである。
そして「みんなちがって、みんないい」という綺麗事は、そこに内在する暴力を、すべて隠蔽してしまうのである。

「みんなちがって、みんないい」は深く考えずに雰囲気で理解すると、「みんな」以外の存在に対する暴力になる。
「みんなちがって、みんないい」を「文字通り」に解釈して分析すると、そのような「暴力」の構造が明らかになる。
だが、「みんなちがって、みんないい」はあくまで一編の詩の一節でしかない。
そこには「真の意味」は存在するわけではなく、さまざまな解釈の可能性がある。
だから「みんなちがって、みんないい」を生き物に当てはめ、それを理念とすることもできる(その実例のひとつが「路上ネイチャー協会」である。
さらに「みんなちがって、みんないい」に「人間」を当てはめながら、さらにそれが綺麗事や偽善に陥らない解釈の仕方もあるのだ。
これについてはまた次回に持ち越すことにする。
我ながらしつこいが、結局自分は「みんなちがって、みんないい」という言葉が気に入ってしまったのかもしれない(笑)

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2009年3月26日 (木)

「みんなちがって、みんないい」の条件

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前回、『「みんなちがって、みんないい」の仲間』という記事で、金子みすゞの詩『私と小鳥とすずと』を、「偽善的ではないか」ということで批判した。
しかし、その後ふと気付いたのだが、ぼくのもうひとつのブログ「路上ネイチャー協会」は、まさに「みんなちがって、みんないい」をコンセプトにしていたのだ。
いや、意識的に「みんなちがって、みんないい」を掲げていたわけではないが、結果的にそのような理念を実践していたのである。
これはこっちのブログで批判したことと矛盾するのかしないのか?
ということを考えてみたい。
まずは再び、金子みすゞの詩を引用しよう。

    わたしと小鳥とすずと 

        わたしが両手をひろげても
        お空はちっともとべないが、
        とべる小鳥はわたしのように、
        地べたをはやくは走れない。

        わたしがからだをゆすっても、
        きれいな音はでないけど、
        あの鳴るすずはわたしのように
        たくさんなうたは知らないよ。

        すずと、小鳥と、それからわたし、
        みんなちがって、みんないい。 

前回の記事でも指摘したように、この詩は「わたし」と「小鳥」と「すず」という、比較しても無意味な三者が比較されている。
しかしこの三者を、比較する意味のある、別のことばに置き換えてこそ、この詩の意味が本当に理解できるわけである。
いや、比較の意味に関わらず、いろいろな言葉を代入して考えてみましょう、というのがこの詩のコンセプトなのかもしれない。
つまりこの詩は、以下のような数式に置き換えることができる。

  (x)と、(y)と、それから(z)、
  みんなちがって、みんないい

いや、こんなのは数式とは言えないが(算数も苦手なんですw)、ともかくこの詩の(x)、(y)、(z)の位置に、それぞれ別の言葉を代入して考えることができる。
つまり、別の言葉を代入しても「みんなちがって、みんないい」の等式が成立するのか?数式としてこの詩は正しいのか?を検証するのである。
それで前回の記事では、成績が普通程度のクラスメートの「ぼく」と「けんたくん」と「ひろしくん」の三者を代入したり、同じクラスメートだけど「勉強が大好きで友達と遊ぶのが嫌いなよしみちくん」や、「成績が悪くて顔も不細工でクラスの嫌われ者のよしこさん」や、あるいは「携帯電話の話し声が耳障りだと感じる人」と「携帯電話の話し声が気にならない人」とを代入してみた。
そのようにいろんな人を代入してみると、「みんなちがって、みんないい」が成立する場合と、「みんなちがって、みんないい」とはとても言えない状況との、二種類の結果があることがわかった。
だから少なくとも、「みんなちがって、みんないい」が「どんな場合にも成立する」と言い切ることは「ウソ」なのだ。
だがしかし、世の中はそういう「ウソ」が蔓延してるのではないか。
と言うことを、指摘したのである。

ところが、後でふと気付いたのは、ぼくはこの詩の(x)、(y)、(z)の位置のすべてに「人間」を代入していたのである。
しかし金子みすゞの元の詩を見ると、人間は「わたし」だけであり、あとは動物(小鳥)と、道具(すず)なのである。
だから詩の中のルールにより忠実に従うと、(x=動物)、(y=道具)、(z=人間)を代入しなければならない。
すると例えばこのようになる。

 ウサギと、茶碗と、それから吉田くん、
 みんなちがって、みんないい

なんか吉田くんが微妙にバカにされてる感じで(笑)、どうもこの等式は成り立たない。
まぁ、金子みすゞの詩そのものに厳しいルール規定があるわけではないので、別のアレンジも可能だろう。
そこで、はじめに全部に人間を代入して失敗したので、今度は全部に動物を代入してみよう。
つまり(x=動物)、(y=動物)、(z=動物)というルールである。
例えばこんな感じ。

 ウサギと、イルカと、それからゾウ
 みんなちがって、みんないい

今度はいい感じで成立してるんじゃないだろうか?
しかし、ウサギも、イルカも、ゾウも、子供たちに人気の「無難」な動物である。
そこで「街の嫌われ者」として一般に認知されている、カラスを代入してみよう。

 ウサギと、イルカと、それからカラス
 みんなちがって、みんないい

微妙な感じになると思いきや、実はけっこうイケてるんじゃないだろうか?
普段は嫌われ者のカラスでも、それは人間の一方的な思い込みで、カラスはカラスなりに懸命に生きているのである。
ちゃんとした詩に仕上げれば、そういうメッセージを伝えることができそうである。
こういう詩を提出したら、きっと先生に誉められるだろうと思う(笑)
では次に、さらに「みんなの嫌われ者」であるところのハエを代入してみよう。

 ウサギと、カラスと、それからハエ、
 みんなちがって、みんないい

こんな詩を生徒が提出したら、普通の先生はきっと困るだろうと思う。
もしかすると「先生をからかっちゃいけません!」と叱って、再提出させられるかもしれない。
普通の感覚であれば、ウサギを見れば「まぁ、かわいい!」と思い、カラスがごみ集積所に集まれば「あっちへ行け!」と追い払い、そしてハエが部屋にいたら「即死刑!」でたたき殺そうとする。
「まぁ、かわいい!」のウサギと、「あっちへ行け!」のカラスが、「みんなちがって、みんないい」というのは納得できる。
しかしそこに「即死刑!」のハエを加えるのは、どうにも無理がある。
つまり一般常識に照らすと、

 ウサギと、カラスと、それからハエ、
 みんなちがって、みんないい

という等式は成り立たないのである。
ところが!
ぼく自身は実のところ、一般常識に反して、ウサギとカラスとハエを比べ「みんなちがって、みんないい」というふうに、「本気で」思っているのである。
ウサギがかわいいのと同じように、カラスもかわいいと思うし、そしてハエもかわいいと思う。
むしろ、ウサギよりハエのほうが、確実にかわいいと思う。
いや「ウサギよりハエがかわいい」というのはぼくの個人的な趣味であって、本来的にあらゆる生物は「みんなちがって、みんないい」のであり、ぼくはそういう「理念」に従っているのだ。

だから、もうひとつのブログ「路上ネイチャー協会」では、道端で見つけた生物を何でも片っ端から撮影し、アップしている。
とはいえ、今のところ植物より動物のほうが圧倒的に多く、動物の中でも虫の比率が高いのだが、実作業として追い付かないだけで、理念的には全てを網羅しなければと思っている。
「路上ネイチャー協会」には小鳥も、トカゲも、チョウも、ハエも、ナメクジも、何でも分け隔てなく掲載している。
そしてそのどれもが、「みんなちがって、みんないい」のである。

ぼくは、少なくとも虫に限っては、どんな虫でも分け隔てなくかわいいと思うのだが、実は例外があってそれがゴキブリなのだ。しかし虫好きな自分が、ゴキブリが嫌いではイケナイので、年々徐々に慣れるように訓練し、ゴキブリが苦手なのはだいぶ克服された。
あらためて気付いたのは、ゴキブリはカマキリに近縁の昆虫で、そう思うとなかなかに興味深いのだ。
当初の「ゴキブリが気持ち悪い」というぼくの感覚は単なる先入観であって、ゴキブリそのものに「客観としての気持ち悪さ」が備わっているわけではない。
だから「ゴキブリが気持ち悪い」というのはゴキブリに非があるのではなく、そう思う自分の気持ちが悪の根源だったのだ。
そのように解釈し、対処するのが「みんなちがって、みんないい」という「理念」に従うことである。

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考えてみれば、ゴキブリに限らずあらゆる生物は、人間が作り出したものではない。
人間以外のあらゆる生物は、人間が地上に出現する前から、この世に存在していたのである。
例えるなら、あらゆる生物は「神様」が創ったものであり、それに対し人間が「良し悪し」を判断できるはずがないのだ。
つまり、ある生物を「気持ち悪い」と思うのは単なる思い込みでしかなく、その生物に「客観としての気持ち悪さ」が備わっているわけではない。
そして同じように、ある生物を「かわいい」と思うことも単なる思い込みで、その生物に「客観としてのかわいらしさ」が備わっているわけではない。
このように、人間は「神様」が作った生き物に対し、単なる「思い込み」で判断するしかないのだ。

つまり、ある生物に対し「かわいい」と思うか「気持ち悪い」と思うかは「どっちでもいい」問題なのである。
そして「どっちでもいい」からこそ、どんな場合も自分の意思で積極的に「かわいい」と思うことを選択して行こうと、ぼくは決めたのである。
それこそが「みんなちがって、みんないい」の理念であり、その理念の実践例がブログ「路上ネイチャー協会」なのである。
ということで、(x=動物)、(y=動物)、(z=動物)というルールに従う限り、「みんなちがって、みんないい」は等式として成立するのである。

と、ここまで考えて、新たな疑問が出てきた。
生物は人間が作ったものではなく、「神様」が創ったものだから「みんなちがって、みんないい」が成立する。
だから恐らく(x=道具)、(y=道具)、(z=道具)というルールでは「みんなちがって、みんないい」は成立しないだろうと思う。
道具は人間が作ったものだから、その出来不出来について判断し、評価したり文句を言う権利は人間にはある。
だから道具は、「みんなちがって、わるいものはよけて、いいものだけを選びたい」になる。
だから道具には、例えば同じすずであっても、さまざまな「値段」によって差別化されているのだ。

道具はいいとして、では「人間」についてあらためて考えるとどうだろうか?
実は人間は、人間自身が作ったものではない。
人間のテクノロジーがいかに発達しようとも、人間は人間を作ることは出来ないだろう。
人間は、生物としての人間から産まれる。
つまり人間もまた生物であり、それは「神様」の創ったものだから、「みんなちがって、みんないい」が成立してもよさそうである。
ぼくは先に言ったことを、自ら否定しなければならないのか?
それが新たに出てきた疑問ではあるが、それについてはまたこんど書いてみようと思う。

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2009年3月25日 (水)

「みんなちがって、みんないい」の仲間

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「多数派に安住する感性」の暴力事という記に以下のようなコメントがついたので、その返信のかたちで記事を書いてみようと思う

>小学校の子どもの教科書に、
>「みんなちがって、みんないい」
>という言葉が書いてありました。

>人がそれぞれの違いを認め合うことが大切なのでしょうね。
>「多数はに安住する感性」の暴力の記事、
>なんだかとても心に響きました。
>ありがとうございます。

>投稿: みんなちがって、みんないい | 2009年3月24日 (火) 13時20分

このことばはぼくが使ってた教科書には載ってなかったのだが、調べたら金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」の一節であることが確認できた。
http://www.asahi-net.or.jp/~pw2t-mnwk/Favorite/Misuzu.html
あらためてこの詩を分析するため、引用してみよう。

わたしと小鳥とすずと 

わたしが両手をひろげても
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地べたをはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。 

この詩は「わたし」と「小鳥」と「すず」という、比較しても無意味な三者が比較されている。
しかしこの三者を、比較する意味のある、別のことばに置き換えてこそ、この詩の意味が本当に理解できるわけである。
この詩は小学校の教科書に載っていたということで、まずは小学生の「ぼく」と、クラスメートの「けんたくん」と「ひろしくん」の三者に置き換えてみようと思う。

ぼくとけんたくんとひろしくんと

ぼくは算数が苦手だけど
算数が得意なけんたくんは
国語の成績がぼくより悪い。

ぼくは逆上がりがどうしてもできないけど
逆上がりのできるひろしくんは
ぼくができる縄跳びの二重跳びができないよ。

けんたくんと、ひろしくんと、それからぼく
みんなちがって、みんないい。

とこんなふうに、実際の国語の時間でも、生徒に別のことばを代入させて詩を作らせるのかもしれない。
とは言え、ぼくが作ったこんな詩では、あまりいい点は期待できそうにない(笑)
ぼくは理屈っぽい反面、どうも詩や文学が苦手なのだ。
でも、生徒の詩の良し悪しに関わらず、全員に100点満点を与え「みんなちがって、みんないい」ということを教えようとする、粋な先生もいるかもしれない。
だがしかし、例えばこういう詩を書く生徒がいたら、どうだろうか?

ぼくと勉強と遊びとクラスメートと

ぼくは勉強が大好きだけれど
クラスメートと遊ぶのは好きじゃない。

ほかのクラスメートは勉強より遊びが好きで
休み時間はみんな一緒に遊んでる。

でもぼくだけはちがって
休み時間も一人で勉強してる。

勉強と、遊びと、クラスメートと、それからぼく
みんなちがって、みんないい

こんな詩を「本気で」書く生徒がいたら、相当に変わっている、というかまともじゃない。
先生も、どうコメントしてよいか困ってしまうだろう。
実際こんなことを書く小学生がいるのか?といえば、恐らくいるんじゃないかと思う。
ぼくは残念ながらこんな子供じゃなかったけれど、この詩は中島義道さんの本に書いてあった子供時代の記述をもとに、でっち上げたものである。
小学生時代の中島義道さんだったらこんな詩を書いたかもしれないし、もっとましな、あるいは全然ちがう詩を書いたかもしれない。
さらに中島義道さんの子供時代の記述から、ぼくが作った詩。

たくさん勉強すればわかるかな?

ぼくがいつも休み時間に一人で勉強していると
クラスメートが一緒に遊ぼうといって
勉強のじゃまをする。

先生は「勉強ができても協調性がなきゃダメなのよ」といい
休み時間にみんなと遊ばせようとして
やっぱり勉強のじゃまをする。

「みんなちがって、みんないい」と教科書に書いてあるのに
「みんなとちがってたらダメ」と先生もみんなもぼくに言う。

教科書がウソなのか
先生やみんながウソつきなのか
どっちもウソなのか
たくさん勉強すればわかるかな?

次は、中島義道さんとぼくの間で共通すると思われる「ある感性」に基づいた詩。
言ってみれば、ぼくの今の気持ちを詠んだ詩である。

みんないい、じゃ済まされない

電車に乗った隣の席で
携帯電話をかけはじめた人がいた。

その向こうの隣に座っている人をはじめ
周囲の乗客は誰もそれを気にしていないようだった。

しかし、ぼくにとって携帯電話の話し声は非常に「耳障り」だ。
だからぼくは、「携帯電話は耳障りだから止めてください」と注意した。

幸いにも、注意された人はすぐ携帯電話を切ったけど
ぼくの気持ちはいまひとつ晴れない。

携帯電話が気にならない人と
携帯電話を耳障りだと感じる人と

みんなちがって、みんないい・・・
じゃ済まされない問題があると思うんだけど?

というわけで、これはもう詩ではなく、単なる説明である(笑)
ついでながら、ぼく自身が携帯電話が嫌いな理由を、さらに補足説明してみたい。

ぼくが携帯電話の話し声が嫌いなのは、音量のせいではない。
だから同じ電車の中でも、実際にそこに居る人同士の話し声は、それほど気にならない。
もちろん、あまりに大声の場合は気になるが、それはあくまで「音量に伴って」ということである。
しかし携帯電話の話し声は、音量の大小に関わらず耳障りだ。
ぼくは音量ではなく、携帯電話で「会話の断片」を聞かされることが、どうにも耐えられないのだ。
なぜかといえばそれが理屈を超えた「感性」だからなのだが、あえて理屈で説明すると次のようになる。

ぼくはそもそも「ことば」を非常に大切にする性質だ。
「ことば」の「意味」を大切にし、「ことば」の「筋」を通そうとする。
だから意味の分からない、筋の通らない「会話の断片」を聞かされるのが、非常に苦痛なのである。
別に他人の会話に聞き耳を立ててるわけではない。
しかし無意識に耳に入ることばであっても、意味が途切れ途切れだと非常に不自然な感じがし、不快感を覚える。
いっぽう、その場にいる人同士の会話は、自分が意識して聞いていなくとも、自然と右の耳から耳へと流れてゆき、よっぽど大声でなければそれほど気にならない。

もうひとつ携帯電話が嫌いな理由がある。
実は、不快感というのは慣れの問題でもあるので、もしかしたら携帯電話の「会話の断片」にも徐々に慣れ、気にならなくなるのかも知れない。
だがしかし、ぼくはそもそも「ことば」を大切にする性分なのである。
そして「ことば」を大切にする人は、自分にとって耳障りな携帯電話を、人前でかけたりしないはずだと、ぼくは思っている。
さらに、どこの電車でも「車内での携帯電話はお止めください」という放送がされているから、「ことば」を大切にする人はその「ことば」に従い、電車内で携帯電話をしないはずなのだ。
だから電車内で携帯電話をする人は、「ことばをないがしろにする人」を代表してるようで、なおさら憎いのである。

そもそも日本には、「ことばをないがしろにする」という風潮がまかり通っていて、ぼくはそれが不快で仕方がない。
この点でぼくと中島義道さんの感性は、共通しているとおもう。
そしてその感性は、大多数の日本人の感性と大きく異なっている。
実際ぼくは、自分以外の人間が、電車内で携帯電話をかける人を注意しているのを、見たことがない。
中島義道さんは次々に本を出版される売れっ子で、その主張も多くの人に読まれてるはずだけど、どういうわけなんだろうか?

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さて、ふたたび金子みすゞの詩に戻ってみよう。
この詩は先に書いたように、「わたし」と「小鳥」と「すず」という、比較しても無意味な三者が比較されている。
意味がないということは、「無難」ということである。
金子みすゞは、比較しても無難なものを比較し、「みんなちがって、みんないい」と詠ってるのである。
だからはじめにぼくが作った詩は、それに習って無難なものを比較して書いたのである。
「ぼく」と「けんたくん」は勉強のトータルの成績がだいたい同じくらいで、だから算数や国語などの苦手科目の違いを比較しても「無難」なのである。
また「ぼく」と「ひろしくん」は体育の成績がだいたい同じくらいで、だからお互いの得意不得意を比較しても「無難」なのだ。
そのように無難なものを比較する限りにおいて、「みんなちがって、みんないい」が成立するのだ。

反対に、無難でない比較を、この詩に代入してはいけないのだ。
学校の成績がまあ普通の「ぼく」と、勉強がダメで、体育もダメで、音楽も図工もダメで、おまけに顔が不細工で性格が暗く、クラスの嫌われ者の「よしこさん」とを比較して、「みんなちがって、みんないい」と詠んではいけないのだ。
ごく平凡な「ぼく」と、何もかもが例外的に普通以下の「よしこさん」を比較し、「みんなちがって、みんないい」というのはどう考えてもウソだし、そう思い込むには無理がある。
そういう内容の詩を、もしクラスで発表したら、教室の空気が一瞬ピキーンと凍り付いてしまうだろう。
小学生もある学年以上になると、これくらいのことは分かってくるようになる。
先生は「無難なものだけを比較しましょう」などとハッキリ言わないし、教科書にもそんなことは書かれていない。
でも、先生は「暗黙のうちに」それを教えようとし、生徒もそれを「暗黙のうちに」理解するのだ。

「みんなちがって、みんないい」はある条件の上では成立するが、その条件から外れると「ウソ」になる。
つまり本当は、「みんなちがって、みんないい」はウソなのである。
しかし、それを「ウソだ」と指摘するのは悪いことだし、それが「ウソだ」ということを意識すること自体が悪いことなのだ。
生徒たちはそういう「暗黙の了解」を、先生の「暗黙のことば」から学び取る。
つまり生徒は学校で「ウソのつき方」を教わり、「黙ってウソをつく」方法を学ぶのだ。

「みんなちがって、みんないい」という場合の「ちがい」は、ある「誤差範囲」におさまっていなければならない。
その範囲とは「普通」ということであり、大多数の人間が属している範囲である。
小学校の生徒は皆、成績がおおむね普通で、そういう普通の生徒どうしであれば、「みんなちがって、みんないい」の関係が成立する。
また、たとえ勉強の成績が平均以下でも、体育や図工などの成績が普通以上であれば、トータルで「普通」とみなされる。
そういう「普通」の生徒たちは、「みんなちがって、みんないい」の仲間として迎え入れられる。
その反対に、「普通」の誤差の範囲を超えて落ちこぼれた生徒は、「みんなちがって、みんないい」の仲間から除外される。
「普通」から外れた生徒は、みんなとはちがう「例外」として扱われ、哀れみや、イジメや、無視の対象になる。

先生は、「みんなちがって、みんないい」の仲間から除外されるのがどんなに恐ろしいかを、生徒に伝えようとする。
だから先生は生徒が「普通」から外れると、「普通にしなさい」と注意する。
「普通にしなさい」という注意は、どんな生徒も少なからず受ける。
しかし、普通以上に何度も注意を受ける生徒は、クラスの中で徐々に「普通から外れた存在」として浮かび上がってくる。
先生はクラスの中から、そのような「普通から外れた存在」を、注意という方法によってあぶりだす。
「普通から外れた存在」は、「普通から落ちこぼれると大変なことになる」という価値観を生徒に示すための「いけにえ」として、生徒たちの目の前に差し出される。
しかし同時に、目の前に「いけにえ」があっても、それは見て見ぬふりをしなければいけないことも、教える。
それは「黙ってウソをつく」方法であり、「みんなちがって、みんないい」という「キレイごと」で済ませる方法論である。

「みんなちがって、みんないい」は、いうなれば「みなみな詐欺」で(笑)、そういう詐欺をみんなで働けば詐欺ではなくなることを、学校で教えるのだ。
ぼくの小学校時代の教科書には、「みんなちがって、みんないい」の詩は載ってなかったが、別の仕方で「みなみな詐欺」の教育が行なわれていた。
しかしぼくはどういうわけか、そういう詐欺にはいまひとつ引っかからず、それでいろいろとつらい目に遭っているのである。
ただ、ぼくの場合は中途半端に「みなみな詐欺」に引っかかり、少なからず「みなみな詐欺」の片棒を担いでいる。
そのことが、中島義道さんの本を読んで、判明したのである。
中島義道さんは「みなみな詐欺」を声を大にして告発し、「みなみな詐欺」と全面的に戦っておられる。
しかし世の中に蔓延した「みなみな詐欺」と全面戦争をするのは並大抵の精神力ではなく、ぼくはこれからどうしたものかと考えている。

ということを書いつもりだったのが「多数派に安住する感性」の暴力という記事なのだ。

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最後に一句。

サギの名で
サギはたらかず
サギの群れ

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2009年3月23日 (月)

「反社会的特権社会」と「虫がよすぎる話」

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(*写真と本文は無関係です)

中島義道さんは『人生に生きる価値はない』の中で、引きこもりの青年が、そこから脱出するための方法について触れている(P.30「哲学と心の病」)。
これについて、ちょっと自分のことに当てはめながら考えてみようと思う。

もっとも、ぼくには「引きこもり」の経験はないのだが、しかし”世間が要求する「普通」のレベルから転落してしまっている”という点において「引きこもりの青年」と同じなのだ。
自分は、世間の誰もが当たり前いにできるはずの「普通」からの落伍者であり、そのような「落伍者」に対し世間の「普通人」は容赦なく攻撃を加える。
両親をはじめとする世間の「普通人」は、「普通なんて誰でもできるんだから、あんたもちゃんとしなさいよ!」というようにせっつくのだが、しかし自分にはその「普通レベル」に届く能力がどうにも不足している。
だからこその「落伍者」であり、「普通人」の助言や応援がそのまま自分への「攻撃」になり、いたたまれなくなる。
そして、そういう立場の人間の何割かが「引きこもり」になるのだ。

そのような「引きこもり」および「引きこもり予備軍」は、表現を変えれば「普通人:落伍者」という「二項対立」に捉われ苦しめられている。
だからそこから逃れるには、その二項対立を「脱構築」すればいいのである(中島義道さんは「脱構築」という用語は用いてないが)。
この場合の脱構築とは、「反社会的特権社会」に属することである(これは中島義道さんが使っていた用語)。
「反社会的特権社会」とは、芸術、文学、哲学、といった分野である。
そこに属する者は、「普通に生きるなんて、バカらしい」というふうな態度をとりながら(反社会的)、その存在価値が世間から認められているのだ(特権社会)。

「反社会的特権社会」に属してさえしまえば、例え「普通からの落伍者」であっても、そのことを「普通人」は問題視せず見過ごしてくれる。
それだけでなく、これまでさんざん自分を見下してきた「普通人」を、さらに上の立場である「反社会的特権社会」から見下すことだってできるのだ。
「たいして意味のない、つまらなくてイヤな仕事を、毎日こなすのはバカらしい」などという具合に、「普通人」であることを見下すことができる。
そして自分については、「創造的で、自分にしかできない、意味のある仕事をしているのだ」などと威張っていればいい。
いや、そんなふうにあからさまに見下したり威張ったりすれば、さすがに反感を買うかもしれないが、しかし大なり小なりそういう「心構え」が暗黙のうちに許されるのが「反社会的特権社会」なのである。
そのような「反社会的特権社会」の価値を「普通人」は認め、その存在を支えてくれるのだ。
つまり「普通人:落伍者」の二項対立の苦しみが脱構築され、「反社会的特権社会:普通人」という自分に有利な二項対立に移行できたのである。

しかしもちろん、「反社会的特権社会」に属することができるのは、ごく一部の人間である。
「普通からの落伍者」だからといって、その誰もが「普通以上の才能」を持っているとは限らないのだ。
だから一縷の望みをかけて「反社会的特権社会」を目指したとしても、それが叶わなければ、それこそ絶望の淵に落ち込んでしまうかもしれないのだ。
そして、そうなることが半ば予想できるから、「引きこもり」の多くは、いま一歩踏み出せないままでいるのだ。

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(*写真と本文は無関係です)

で、ぼく自身はあからさまな「普通からの落伍者」でありその典型なのだが(笑)、そのぼくがこれまで「引きこもり」の経験をせずにすんだのは、曲がりなりにも「反社会的特権社会」に属しているおかげである。
とはいえ、ぼくの芸術家としての立場はいまだ十分認められているとはいえず、生活も自転車操業的である。
だから、いつ「反社会的特権社会」から落伍しないとも限らない、まさに末端にぶら下がっている状態である。
それでも今のところは「助かっている」状態が何とか続いている。

ところが実は、ぼくがそのような状態でいられるのは、普通の脱構築とは異なる「二重の落伍」と「二重の脱構築」のおかげなのだ。
どういうことかというと、「普通からの落伍者」であるぼくは、「反社会的特権社会」を目指したものの、それが叶うことなく完全に落伍した経験を持つのだ。
かつてのぼくは「芸術家」を目指したものの、結局はその才能がないことが判明し、芸術家にはなれなかったのである。
そして、「二重の落伍」から失意のどん底に陥る直前、ひょんなことから「反社会的特権社会としての芸術」そのものを「脱構築」する方法に行き当たったのである。
「普通人:落伍者」の二項対立を脱構築したのが、「反社会的特権社会:普通人」という新たな二項対立であり、そこに移行できなかったぼくは、さらに脱構築を繰り返したのである。
その「二重の脱構築」の結果が「非人称芸術」という概念であり、そこから生じたのが「非人称芸術:人称芸術」という新たな二項対立である。

芸術家を目指したぼくは、その才能がない事で「反社会的特権社会としての芸術」から見下されていた。
しかし「反社会的特権社会としての芸術」を脱構築した「非人称芸術」の概念は、「芸術家が作る芸術作品」を「芸術の必要条件」から除外してしまった。
つまり「非人称芸術」の立場では、「自分に芸術の才能がないこと」が全く問題視されなくなるのだ。
さらに「非人称芸術」の立場から「反社会的特権社会としての芸術」を、「古い概念の芸術」とか「芸術の十分条件を欠いた芸術」などという理由で見下すこともできる。
「芸術の才能のない自分」が、「芸術の才能に恵まれた人たち」に対し優位に立つことができるのだ。

だがしかし、実際のぼくは何の優位な立場も得ていない。
先に書いたとおり、実際のぼくは「反社会的特権社会としての芸術」の末端に、何とかぶら下がっている状態である。
なぜそうなのかといえば、つまり「非人称芸術」という概念を、「反社会的特権社会としての芸術」が承認しないのだ。
承認しないものは存在しないことと同じで、だからぼくは「立場がない」状態なのだ。
実際のぼくは、「反社会的特権社会としての芸術」から、フォトモなどの作品によってそれなりの「芸術の才能」を認められているに過ぎない。
別の言い方をすれば、ぼくはフォトモなどの作品によって、自分にわずかながらも「芸術の才能」があるように「偽装」しているのかもしれない。

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(*写真と本文は無関係です)

ここでぼくがあらためてヘンだと気付いたのは、「非人称芸術」が成立するためには、自分が否定したはずの「反社会的特権社会としての芸術」からの「承認」を必要とする、というロジックである。
しかしそもそも、「反社会的特権社会としての芸術」が成立するためには、自分たちが否定したはずの「普通」の人々からの「承認」」を必要とするのである。
ところがそれに倣って、「非人称芸術」を「反社会的特権社会としての芸術」に「承認」してもらおうと思ったら、それがどうも拒否されてしまうのである。

なぜ拒否されるのかといえば、良く考えると簡単なことなのだが、早い話「虫がよすぎる」のである。
そしてその「虫のよさ」は、「引きこもり」が持つ「虫のよさ」と同じものである。
つまり、「引きこもり」の青年は、自分の親を軽蔑しながらも、その親から「承認」されたくて「パフォーマンス」をしているのだ。
そして結局は、自分の生活の面倒を親にみてもらっているわけで、これは「虫がよすぎる」話である。

で、この理屈でいえば、実は「反社会的特権社会」に甘んじることも、同じように「虫がよすぎる」と言えるのだ。
「反社会的特権社会」に属する人、自分たちが軽蔑する「普通の人々」から承認されたいがために、芸術や文学や哲学などの「創造的仕事」をおこなう。
そして、自分の作品や著作物などを買ってもらうことで、「普通の人々」から自分の生活を支えてもらっているのだ。
つまりは「反社会的特権社会」も、「引きこもり」も、「普通の人々」も、みな「虫がよすぎる」という点は同じなのだ。
結局、「脱構築」したつもりで「虫がよすぎる」という「構造」になんら変化はないのだ。
「反社会的特権社会」と、「引きこもり」と、「普通の人々」の立場が入れ替わっただけで、根本的な「構造」は保存されたままなのだ。
これでは真の「脱構築」とは言えないのではないか。

「真の脱構築ではない」というのは「どこかに正解がある」という意味ではなく、「どこかにごまかしがある」ということである。
「どこかにごまかしがある」からこそ、その方法はうまく行かず、それが「非人称芸術」に適応しようとしたことで明らかになったのだ。
いや明らかになったというより、中島義道さんの本を読み、試みにそのように解釈してみることにしたのだ。
中島義道さんの本のタイトル『人生に生きる価値はない』とは、「ごまかしがないこと」を示したものだといえる。
つまり「人生に生きる価値はない」ということをベースに考えれば、「虫がよすぎる」という「構造」から逃れることができるかもしれないのだ。

実は、「人生に生きる価値はない」のだとすれば、「何の価値のないものが芸術である」というのが「非人称芸術」としての立場なのである。
だからこの二つの概念は、もしかしたらうまく融合できるかもしれない。
次回は(というかいつになるかは不明だが)その辺のことを掘り下げてみようと思う。

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2009年3月21日 (土)

「多数派に安住する感性」の暴力

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(*写真は本文と無関係です)

先日名古屋に行く直前、中島義道さんの『人生に生きる価値はない』を買って道中読んでたのだが、あらためて気づいたことがある。
それは、ぼくはこれまで中島義道さんの本を何冊も読んでいながら、大きな誤読をしていたのだ、ということである。
ぼくは中島さんの本に書いてあることのうち、自分に都合の良いところだけを拾い読みし、それ以外の箇所を読み飛ばしていたのだ。
まぁしかし、これは自分のいつもの本の読み方であり、ブリコラージュ的な読書法だともいえるかもしれない。
しかし中島義道さんの一連の本に対し、そういう読み飛ばしをしている自覚があまり無く、「分かったつもり」になっていたのだ。

ぼくは中島義道さんと、ある「共通の感性」を持っている。
それを手短に表現すると、「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々が、身の毛がよだつほど嫌い」というような感性である。
ぼくは昔から、「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々が、身の毛がよだつほど嫌い」だったのだが、この感性は世間のそれとは間逆であり、ほとんど誰にも理解されないでいた。
しかし中島義道さんの一連の著書には、「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々が、身の毛がよだつほど嫌い」という事自体がテーマに書かれている。
まさに自分の長年のわだかまりを代弁してくれたようで、その点で同調し理解したつもりになっていたのだ。
だが中島義道さんの本を冷静に読んでみると、「自分と共通する感性」のほかに「自分とは異なる感性」についても書かれているのである。
そしてぼくは、このうちの「自分とは異なる感性」について書かれた箇所を、自覚することなく読み飛ばしていたのである。
だがこういう読み方こそ、中島義道さんの趣旨に反する、まさに「間違った理解の仕方」だったのだ。

今回あらためて気付いたのは、中島義道さんにとって、世間と自分の感性の違いの、個々の具体的な事例は「どうでもいいこと」なのである。
「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々が、身の毛がよだつほど嫌い」という具体的な内容も、実は「どうでもいいこと」なのである。
それより重要なのは、「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々が、身の毛がよだつほど嫌い」という感性が、世の中の大多数の感性と「異なっている」ということなのだ。
つまり中島義道さんが指摘してるのは、内容がどうであれ「自分とは異なる感性」の存在を認め合うことの、重要性だったのだ。
中島義道さんが警告しているのは、「自分の感性が多数派に属していること」事態に安住している事が、そのまま「異なる感性」への暴力になる、ということである。
つまり「暴力がいけない」のであれば、「異なる感性への暴力」は否定されるべきなのである。
そして、自分に対し「異なる感性への暴力」が向けられた場合、少なくとも「暴力を振るわれたこと」を表明しなくては、文字通り泣き寝入りになってしまう。

中島義道さんの本から「異なる感性への暴力」の存在に気付いたのであれば、その次に気付かなければならないのは、自分の中に潜む「異なる感性への暴力」の存在である。
自分が持っている「大多数の人と異なる感性」を大切にしたいのなら、同時に自分が持っている「大多数の人と同じ感性」について意識しなければならない。
なぜなら、具体的内容がどのようであれ「大多数の人と同じ感性」は、そのまま「少数の人の感性」への暴力に直結するからである。

具体例を出すと、中島義道さんはいろいろな本の中で、自分の「偏食」について語っている。
ところがぼくは、好き嫌いというものがほとんど無い。
「偏食」ということに関して、ぼくは間違いなく「多数派」に所属している。
そして、ぼく自身がそういう多数派に「安住」している限り、それは少数派に対する暴力になるのだ。
例えば、「自分は好き嫌いが無くてよかった」とか「好き嫌いがある人は、その美味さが分からず損をしているのだ」とか「好き嫌いは無いほうが健康にいい」とか「好き嫌いがある大人は子供っぽい」などと、そう思う感性である。
そのように、自分の感性がたまたま多数派だからと言うことで、それを絶対視して他人を非難するのは、実は何の根拠も無いのだ。
さらに、多数派の立場から少数派の感性を哀れむことは、実に「大きなお世話」でしかないのだ。
好き嫌いがあって、おいしい(はず)のものが食べられない、というのは多数派の思い込みでしかなく、少数派の偏食家にとってまずいものを無理して食べても不健康なだけである。
それに人の趣味はそれぞれだから、「食」に対して何の楽しみも見出せない人がいても、それは本人にとってまったく問題が無いのである。
好き嫌いのある人に対しては、「ああそうですか」というふうに自分との「感性の違い」をただ認識し、放っておけばいいのである。
しかし世の中の多数派の人々は、少数派の人をただ放ってはおかず、「余計なおせっかい」という形の「暴力」を働くのだ。

こういうことは、自分が少数派に属する完成については理解できるつもりでも、自分が多数派に属することについて、まったく想像力が働かず、われながらまったくもってバカなことである。
「多数派に安住する」ということは、つまりは自分が毛嫌いする「善人ぶるために日常的にウソをつき、自分にウソの自覚の無い人々」の一員に、自分自身がなってしまうことなのだ。
そんなわけで、ぼくの中には「多数派に安住する感性」がドロドロと膿のように溜まっており、それを押し出そうとしない限り、自分の「少数派の感性」も中途半端に終わってしまうのではないかと思うのだ。

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2009年3月20日 (金)

「網膜の向こう側」と「視覚の神様」

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安城市の中部電力のショールーム、いろんな大きさの小雪さんがいるが・・・

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この小雪がひときわ小さくて、まさに小雪の中の小雪である。
言ってみればフォトモの一般使用例なのだが、このように写真から人物を切り抜くと、「小さな人」に見えてしまうのは、以前の記事に書いたとおりである。
この「フォトモの小雪」は、それが置かれた状況を写した写真にも「小さな人」として写っている。
それはなぜかと言えば、「フォトモの小雪」だけが、写真全体を支配する「遠近法」から外れているからである。
逆に、一枚目の写真の「ポスターに写る小雪」は、ポスターの中の遠近法に従っており「小さな人」とは感じられない。

それだけでなく、「フォトモの小雪」以外の写真に写る全てモノは「実物大」として認識される。
例えばフライパンを見ると、一枚目の写真にはモニター上で直径2cmあまり、2枚目の写真ではおよそ8cmの大きさに写っている。
にもかかわらずわれわれの眼には、どちらの写真にも直径30cmほどの、「同じ大きさのフライパン」が写っているように思えてしまう。
「思えてしまう」というのはまさに「錯覚」ということである。
実際には約2cmと8cmのミニチュアのフライパンの映像が、両方とも同じ「実物大」として錯覚されるのだ。
つまり、フォトモが小さく見えることも不思議だが、しかしそもそも写真に写るものが「実物大」に見えてしまうこともまた不思議なのだ。

で、その不思議さについてあらためて考えると、これはまぁ当たり前のことなのだ。
つまりわれわれ人間は、日ごろから小さな映像を「実物大」と錯覚しながら生活しているのだ。
何のことかと言うとそれは「網膜」のことで、つまり「目玉に映る像」である。
人間がものを「見る」ということは、網膜に「小さな像」を映し出すことで、それを人間は「見る」のである。
人間の目に見える全ての「大きなもの」は、ダイオウイカも、東京タワーも、富士山も、すべてが「ミニチュアの像」として網膜に映っているに過ぎない。
大きなものだけではなく、例えば人間の目玉の直径が5cmだとすれば、5cm以上の大きさのものは全て「実物以下の大きさ」で網膜に映ることにいなる。

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333mの東京タワーを見上げて「大きいなぁ」と思っても、実際に網膜に映るのは、せいぜい5cmのミニチュアの東京タワーである。
つまり5cmのミニチュアを、実物大の東京タワーだと「錯覚」しているのである。
そして同じ理屈で、写真に写る東京タワーも「大きいなぁ」と錯覚してしまうのだ。
この錯覚から逃れるには、網膜をバリバリッと突き破り、その向こう側にそびえ立つ「実物大の東京タワー」を直接見るしかない。
「実物大の東京タワー」は、自分がまさに今見ている東京タワーの、その「向こう側」に存在するのだ。
しかし、人間が「ものを見る」ということの定義上、それは不可能なのだ。
人間が「ものを見る」ということは「網膜に映るミニチュアの像を見る」ことであり、人間には「網膜の向こう側」の「実物大の世界」を「見る」ことができないのだ。

人間はよく考えるとそのように不可思議な世界に生きているのだが、良く考えたりしなければその不可思議さは日常的に見過ごされたままである。
しかし「フォトモ」が不可思議なものに見えてしまうのは、そもそも人間の視覚世界が不可思議だということの、あらわれではないかと思うのだ。
「フォトモ」がミニチュアに見えるのは、そこに独自の「遠近法」が存在するからだ。
それが逆に、普段意識しない「網膜の遠近法」の存在を浮き彫りにする。
そこで脳が混乱し、「何だか知らないけど面白い」という気分になるのではないかと思う。

ともかく、人間には「網膜の向こう側」は見えないのであるが、しかし理屈で考えると「網膜の向こう側」の存在は想定できる。
そのような認識の向こう側に想定できる領域を、人は「神」と呼んでいるのかもしれない。
そう考えるとフォトモとは「視覚の神様」のご神体であって、一家にひとつ、神棚に奉ってあってもいいのかもしれない(笑)

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2009年3月16日 (月)

「芸術の神様」と偶像崇拝

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(*写真は本文と関係ありません)

前回の投稿で「自分にはアートのことはよく分からない」と言うようなことを書いた。
しかしながらぼくは、曲がりなりにも「美術家」を名乗り、しかも「非人称芸術」などというコンセプトまで立てているのだから、本当は「アートが分からない」と言うなんてことは、ないはずなのだ。
それにぼくは「ギャラリーにアートを見に行くことは滅多にない」と言うことも書いたが、しかし実はぼくは別の形で「アート」を毎日のように見ていて、それなりに「アートを見る目」が肥えているはずなのだ。
おかしな話だが、そのような絶対的な自信を持って、その上で「あらためてアートが分からない」と書いたのである。

これはどういう事かというと、つまり「宗教が違う」のである。
いや、「宗教」と言うのはあくまで「例え」なのだが、アーティストも、鑑賞者も、ギャラリストも、コレクターも、アートに関わる人たちはみな「芸術の神」を信仰しているのだと例えることができる。
アート作品には「芸術の神」が現れていて、だからアートの価値は独特のものであり、イラストレーション(挿絵)などとは異なるのだ。
「芸術の神」は、アーティストというシャーマン(霊媒師)の手を通じ、「アート作品」としてこの世に現れる。
そのアート作品を、神社(もしくは神殿や教会)に相当する「ギャラリー」に奉納し、皆がそれを拝みに行くのである。
先日ぼくが行ったVOCA展も、いろいろなアート作品に姿を借りた新作の「アートの神様」が奉られた祭典であり、多くの参拝客でにぎわっていた。

で、ぼくはその祭典に対し不遜にも、「芸術の神様」がいまひとつ見えないではないか?と疑問に思ってしまったのである。
他でもない権威ある「芸術の神様」の祭典を、そんなふうに疑うのは修行の足りない不心得者か、さもなくば「邪教の徒」である。
それで前回の投稿では「修行が足りなくてすいません」と言うような書き方をしたのだ。
しかしVOCA展からの帰りの道すがら、ぼくが本当に思ったことは、自分はつくづく「邪教徒」なんだな、と言うことなのだ。
いや、ぼくも「美術家」を名乗る以上、「芸術の神様」を信仰してる点では、ほかのアート関係者と同じである。
しかしどのような形で「芸術の神」を捉え、解釈するのかが、全く異なっているのだ。

早い話、ぼくが信仰する「芸術の神様」はアニミズム的なのである。
アニミズムとは、多神教であり、汎神論である。
アニミズムによる「神」はいろいろな姿を借りて(多神教)、そしてあらゆる場所に現れる(汎神論)。
このアニミズムとしての「芸術の神様」が、すなわち「非人称芸術」なのである。
「非人称芸術」としての「芸術の神様」は、路上のあらゆるものに姿を借りて、あらゆる場所に現れる。
「非人称芸術」という信仰形態に従えば、「芸術の神様」が現れるのは「アート作品」に限らず、だからこそ「アート作品」をわざわざ見に行ったり、崇めたりする必然性も減少してしまうのだ。

しかしそうは言っても、「非人称芸術」は決してアーティストによる「アート作品」を否定するわけではない。
アニミズム的な観点では、「アート作品」にも「芸術の神様」が現れることは、認められるはずだからである。
しかし「芸術の神様」がどこにでも現れるのだとすれば、「アート作品」への信仰の比重が相対的に少なくなる。
つまり前回の記事で書いたように、ギャラリーでアートを見ることが少なくなり、そしてアート(みんなが信仰する「芸術の神様」)のことがだんだん分からなくなってくるのだ。

そのかわりぼくは、「非人称芸術」という形での「芸術の神様」に、濃密に接している。
路上を歩けば、あらゆるところに「非人称芸術」を発見することができ、その規模は「作品」や「ギャラリー」などに収まる範囲を超え、無限に拡大する。
だからぼくは日ごろから、大量の「非人称芸術」をこの目で見ているのであり、「非人称芸術を見る目」も肥えているのだ。
いや、日ごろといっても常に集中するのは疲れるから、実際には程々にしているのだが、しかし「見る」と言うことで比べると、ギャラリーだけで「アート作品」を見ている人よりは、よっぽどたくさんの「非人称芸術」を見ているのかもしれない。

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(*写真は本文と関係ありません)

信仰としての「非人称芸術」のもうひとつの特徴は、「偶像崇拝の否定」である。
例え話ではない実際の宗教のいくつかも、偶像崇拝を否定している。
イスラム教や、原始仏教、原始キリスト教などは、偶像崇拝を否定している。
それは「神」は人間の存在を超越した存在であり、人間の目には見えないはずだから、安易に偶像に置き換えて拝んだりすると、かえって「神」の超越性を見誤ってしまう、と言うことの戒めである。
しかし偶像崇拝を否定する宗教は、その概念を他人に伝えることが難しいのが欠点だ。
そこで、偶像崇拝を肯定する宗教が現れ、それが信徒を増やし規模を拡大し、結果としてより多くの人に「宗教の恩恵」を与えることになったのである。
このように比較すると、偶像崇拝の否定と肯定の、どちらかが正しかったり、優れたりしているわけではなく、ただ「神」の捉え方が全く異なっているのである。

「偶像崇拝の否定」を説明するために、ここであらためて「非人称芸術」の定義を確認してみよう。
まず、「非人称芸術」はそれを価値付ける鑑賞者の視点(意識)によって創造される。
つまり鑑賞者が、あるモノに対し「非人称芸術がある」と感じれば、「非人称芸術」はそこに存在する。
しかし、同じモノに対し何も感じなければ、そこに「非人称芸術」は存在しない。
「非人称芸術」は、その鑑賞者の目の前にありありと存在するが、しかし鑑賞者の目の前にしか存在し得ないのが「非人称芸術」なのである。
つまり、「非人称芸術」は何らかの実体をさすのではなく、「非人称芸術」と言うものを見出す「視線」そのものなのである。
それに対し、「通常のアート」は「アート作品」と言う「モノ」として存在する。
「モナリザ」や「ダビデ像」などの作品=モノが、アートだとされている。
その意味で、「通常のアート」は「偶像崇拝肯定」であり、「非人称芸術」は「偶像崇拝否定」なのである。

しかし実際は、「非人称芸術」を信仰するぼく自身、「フォトモ」や「ツギラマ」や「2コマ写真」というかたちの「作品=偶像」を製作し、さらに通常の「アート作品と」同じようにギャラリー(神社)に奉納し、参拝客を集めたりしている。
これは言ってることと矛盾する行為のようだが、しかし多少の矛盾はあっても、「非人称芸術」の存在そのものを世間にアピールするために、作品(偶像)は必要なのである。
フォトモやツギラマなどの作品によって、「非人称芸術」の全てを説明することはできないが、そういう概念(宗教観)があることだけは、世間に示すことができる。
「非人称芸術」の偶像を、通常の「アート作品」と同じようにギャラリーに展示することは、同じ「芸術の神様」を別の仕方で信仰する宗教が存在することの、アピールなのだ。
そうしたアピールが必要なのは、「非人称芸術」は歴史も浅く、それを知る人がいまだに少ないことが理由である。
それが以前にも書いた「相互的非人称芸術」の意味である。

別な見方をすれば、フォトモやツギラマなどの作品は、世間的なアピールに必要なだけであって、「非人称芸術」とは本質的なところで必然的に結び付いているわけではない。
本来的には作品なんかなくたって、「非人称芸術」はそれだけで十分に成立するのだ。
例えば、ぼくは最近いろいろ忙しくてあまり「路上鑑賞」をしてないのだが、しかし2月に丸亀に10日ほど滞在した際は、ここぞとばかりに路上を歩き回った。
途中、ひょんなことから腰をギックリやってしまい、本当にトボトボとしか歩けなくなってしまったが、そうした歩みの遅い分、濃厚に「非人称芸術」を堪能した(東京に戻るころには腰は回復したが)。
「非人称芸術」というものは、路上のどこかにあるというよりも、路上全体が「非人称芸術」であり、その中にまたいくつもの「非人称芸術」を見出すことができるのだ。
その途上で、ぼくは申し訳程度に「路上ネイチャー」と「2コマ写真」を撮影をしたのだが、それはほんのお土産程度の「偶像」に過ぎない。
そのような作品には、確かに「非人称芸術」の一端が写っており、それなりには面白い。
しかし本当の意味での「非人称芸術」は、路上を歩く自分のみを包み、目の前に広がりながら過ぎてゆく、その場限りの体験としての「非人称芸術」である。
モノとして存在し得ない「非人称芸術」は、常に一回性の経験としてあらわれる。
例えば、自分が「非人称芸術」を感じて通り抜けた路地を、もう一度戻ると別の「非人称芸術」が感じられ、さらにもう一度戻ると「非人称芸術」は消えてしまっている・・・という具合である。
そのような経験全体としての「非人称芸術」のごく一部が、偶像としての作品に現れている。
だから、偶像としての作品を「非人称芸術」そのものとして崇めるのは間違いであり、その意味で「偶像崇拝否定」なのである。

そう考えると、より純粋に「非人称芸術」を信仰するなら、作品など一切製作せず、ただひたすら路上を歩き回り、堪能すればいいのである。
しかしぼく自身は、ただ路上を歩くだけでなく、カメラが好きだったり、写真のブログを編集したり、フォトモなどの作品を制作し、展示や本の企画をするのが面白かったりする。
それはやっぱりぼく自身が時代の狭間の人間であり、「非人称芸術」を提唱しながらも自らその信仰に完全に帰依しきれず、部分的に「通常のアートの信仰」を引きずっているせいなのかも知れない。
だからもしかすると、ぼくに続く誰かが純粋な「非人称芸術」を体現し、そういう人によって理論もさらに精緻化され、ぼくは「中途半端でダメな人」として非難されるかもしれない(笑)

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(*写真は本文と関係ありません)

ところで、「非人称芸術」がアニミズム的だとすれば、「通常のアート」は言ってみれば「一神教」的である。
なぜなら「通常のアート」は、アーティストによる作品しか「アート」と認めないからである。
そして「アーティストではない人」が作った作品を「工芸品」や「サブカルチャー」として、区別している。
最近は「アート」がサブカルチャーの要素を取り入れることも流行っているが、それはあくまでアーティストが「アート」を自覚して制作した作品に限ってのことである。
逆にサブカルチャーがアートの要素を取り入れることもあるが、しかしサブカルチャーとして作られた作品は、アートとは区別される。
アーティストが製作したフィギュアは「アート作品」であり、アート的なフィギュアはあくまでも「フィギュア」でしかないのである。
その理屈で言うと、どこの馬の骨ともわからない「非人称」による「非人称芸術」の可能性なんて、まったく相手にされないのは当然といえるかもしれない。
一神教的な「通常のアート」の常識では、「非人称芸術」の多神教的なあり方は、絶対に認められないのかもしれない。

「通常のアート」が一神教的なのは、当然のことながらその源流にキリスト教があるからだろう。
もちろん現在のキリスト教は、かつての勢力を失ってしまったが、一神教的な世界観は「科学」や「モダニズム」へと形を変え、現代の主流となっている。
そのような主流の中に、一神教的な「モダンアート」が位置し、それがここで言う「通常のアート」なのだといえる。
しかし、時代は「モダン」から「ポストモダン」へと移行している。
「モダン」とは「モダニズム」という思想が支配する時代で、乱暴にまとめると「新しいことは素晴らしい」という価値観が支配した時代である。
しかし「ポストモダン」は「モダンのその後」という漠然としたものを示したことばであり、つまり「新しいことばかりが素晴らしいとは限らず、かと言って・・・」と結論が見付からずに混乱して悩んでいる状態を指す。
だから現代の「ポストモダニズム」は一つの思想として存在せず、さまざまな種類の「ポストモダニズム」が、さまざまな悩み方をしつつ同時存在しているのだといえる。

そういう時代の潮流と関係するのかしないのか、ともかくぼくは「非人称芸術」という概念に行き着いてしまったのである。
いや、ぼくも当初は「通常のアート」を信仰し、アーティストにあこがれそれを目指していたのだ。
しかしぼくにはどうも、「芸術の神様」を自らに憑依させるするシャーマンの資質がなく、そのことに悩んでいたのである。
ところが、ひょんなことからまったく別の方法で「芸術の神様」を召喚する「邪教」を知ってしまい宗、そしてそれまでの「正しい信仰」から離れたのである。
つまり、ぼくは当初は正義のジェダイになろうと思ってフォースの修行をしてたはずが、ひょんなことから暗黒面に反転してしまったのだ(笑)。
それ以来、ライトセーバーを使わずとも、手から電撃を発する事ができるようになり、しかし公式の場ではライトセーバーでチャンバラもしたりして・・・
と、何の例え話か分からなくなってきたが、そもそも今回のような長い例え話が、どれだけの人に「分かった」と言ってもらえるのか、どうにも不明なのである。

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2009年3月15日 (日)

あらためて「アート」がよくわからない

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*写真は本文と無関係です)

昨日、上野の森美術館で開催された「VOCA展2009」の受賞パーティに行ってきた。
友人のアーティストが誘ってくれたのと、以前、豊科近代美術館の企画展で一緒だった、三瀬夏之介さんが「VOCA賞」を受賞されたからだ。
VOCA展というのは、実はぼくもよく知らなかったのだが、ホームページから抜粋すると以下のようなものである。

1994年に始まったVOCA(ヴォーカ)展は今回で16回目を迎えます。VOCA展は全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により、毎回、全国各地から未知の優れた才能を紹介してきました。

つまり、誰でも応募できる公募展とはシステムが違い、非常に権威のある展覧会なのである。

で、そのVOCA展2009を見たぼくの感想なのだが、正直言うとどうもよく分からない。
いや、決してつまらない展示ではなかったのだが、「これがアートなのか?」と言われると、そうもそれがよく分からないのだ。
それは結局のところ、ぼく自身が「アート」のことをよく分かってないことの表れかもしれない。
それであらためて、VOCA展のホームページを見ると「選考所感」のページがあり、過去の分も含めてざっと目を通してみた。
すると例えばこんな記述があった。

本江邦夫(もとえくにお) <多摩美術大学教授・府中市美術館館長>

いつになく充実した内容で、久しぶりに楽しく緊張した審査でした。全体に、絵画というものをもういちど原点に戻って見直そうとの意欲がみなぎっています。三瀬さんの大賞作品が「絵画の豊かさ」の模範を示すのに対し、竹村さんは「絵画の2次元性」を3次元から問い直し、樫木さんはむしろ平面性を絶対化します。今津さんは現代の黙示録的なビジョンをとらえ、櫻井さんは現代人の心の奥底に迫ろうとしています。いずれにしてもみな、ただの絵ではありません。

で、同じ審査員が、2007年ではこのように書いている。

本江邦夫(もとえくにお) <多摩美術大学教授・府中市美術館館長)
いつになく低調な内容で不安を覚えざるをえない。既成の枠組みから脱出しようとの意欲もなく、かといって洗練をきわめようとの集中力もなく、山本太郎(大賞)の斬新な構図、田口和奈(佳作賞)のイメージの神秘化を数少ない例外として、すべては混迷のうちにある。奮起を期待したい。

つまり過去に正直に苦言を呈するような審査員が、今年はいつになく誉めているのである。
もちろんこれは、一介のアマチュアがブログに書いた勝手な感想ではなく、アートの専門家としての審査員が書いてるのだから重みが違う。
しかしそう言われても、ぼくにはその「良さ」というものが、どうもよく分からない。
もしかすると今回の作品は、ぼくには難解過ぎるのかもしれない。
いや、展覧会全体の傾向としては一般に「難解」と思われるようなものではなく、むしろ一般の人にもわかりやすく、親しみやすい作品が多かったように思う。
しかしぼくにはそうした作品が、「イラスト」とどう違うのかいまひとつ分からず、どのように「アート」なのかが分からないのである。

VOCA展に並んでいた作品は、言ってみれば雑誌『イラストレーション』の「ザ・チョイス」コーナーに掲載されるような作品と、決定的にどこが違うのか、ぼくには分からない。
いや『イラストレーション』誌の「チョイス」はイラスト業界の登竜門として最も権威があり、決してレベルが低いわけではない。
しかしイラストとアートは同じ絵画であっても目指すところが違うわけで、当然それは作品の違いとして現れてくるはずなのだ。
そういう「違い」がぼくに分からないということは、ぼくには「アートを見る目」がない」と言えるのかもしれない。
作品の表層のイラストレーション的な部分しか見ることができず、それらの作品の「アートの深み」にまで見通す力がない、と言い換えることもできるだろう。
そもそもぼくは、「ギャラリーにアートを見に行く」なんて事は年に数えるほどしかないから、そんなんで「アートを見る目」が養われるはずが無いのだとも言える。
アートというものは、数を見なければその良し悪しを判断する「目」は養われないだろうし、さらに「本当によいアートは、哲学のように難解なものだ」という人もいるのである。

でまぁ、このように「自分にはアートというもがよく分からない」ということがあらためて分かったのが、VOCA展を見ての収穫だったように思う(笑)

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2009年3月14日 (土)

復元フォトモと非人称芸術

   

3月17日から開催の「復元フォトモ」の企画展の情報が、会場のサイトにアップされていたので、あらためてお知らせする。
『フォトモで甦る金山の記憶と風景』
会期:3月17日(火)~5月17日(日) 
会場:名古屋都市センター まちづくり広場 

で、今回は「復元フォトモ」と「非人称芸術」の関係について書いてみようと思う。
まず普通のフォトモの場合だが、これはぼく自身が「非人称芸術」のコンセプトに基づいて撮影した写真を素材に製作するから、完成したフォトモに「非人称芸術」が表現されているのは当然のことといえる。
しかし「復元フォトモ」は、「過去に他人が撮影した写真」を素材に製作したフォトモである。
もちろん、元の写真の撮影者に「非人称芸術」の意図などあろうはずもないから、その写真に写る空間をできうる限りリアルに再現しようとした「復元フォトモ」は、「非人称芸術」とは無関係のように思えるかもしれない。
しかしぼく自身には、完成した「復元フォトモ」のうちに素晴らしい「非人称芸術」の姿が、ありありと見えるのである。

まず確認したいのは、前回記事の最後でも触れたように、「非人称芸術」とは何らかの実体を指すのではなく、鑑賞者の「視点」や「価値観」によって生ずるものである、ということだ。
だから、もともと「非人称芸術」の意図がなく製作されたフォトモであっても、「非人称芸術」の意図を持った鑑賞者が見れば、そこに「非人称芸術」を見出すこともまた可能なのである。
そうであるからこそ、ぼくは「復元フォトモ」を美術家としての自分の仕事として、引き受けたのである。

今回の企画展では10点の「復元フォトモ」を製作したが、そのどれにも素晴らしい「非人称芸術」が表現されており、その意味でもハズレがないといえる。
と言うよりも、今回製作しながら改めで思ったのは、もとの写真がどのような内容であっても、フォトモにアレンジしてしまえば、そこに「非人称芸術」が必然的に現れるのではないか、ということである。
「非人称芸術」とは「雑然とした街並み」を芸術的に再解釈する視点である。
だから撮影者がどんなつもりであろうと、すくなくとも「雑然とした街並み」が写ってさえいれば、それを元に製作したフォトモに「非人称芸術」が見出せるのは、当然のことなのだ。

いや、そこまで言うのなら、別にフォトモにするまでもなく「雑然とした街並み」が写っていれば、どんな写真であっても「非人称芸術」の表現として、再解釈できるのではないか?
そういう質問は当然出てくるだろうが、ぼくの答えはYESなのである。
どんな写真であっても、何らかの形でそこに街並みが写っていさえすれば、そこに「非人称芸術」を見出すことは可能である。
実際にぼくは、いわゆる「街角スナップ」の写真集や写真展を見ながら、元の写真の文脈を無視して勝手に「非人称芸術」を読み取って堪能したりするのだ。

いやそもそも、「非人称芸術」として堪能すべきは、写真ではなく現実の「雑然とした街並み」そのものである。
「非人称芸術」は、自分が生きる世界を「よきもの」として捉えるための術である。
ポストモダン的な「世界を良くするための方法論」の一つとして、「非人称芸術」は提示される。
日常にはさまざまな不幸が渦巻いているけれど、しかしそうした日常の何もかもが「非人称芸術」として再解釈できれば、そうした不幸を押しのけることができるかもしれない。
いや不幸云々はともかく、「非人称芸術」をマスターすることで、「芸術」というものに対し日常的に、より濃密に深く接することができるわけで、それは人に非常な幸福感をもたらすはずである。
だから理想的には、なんでも「非人称芸術」と解釈できることなのかもしれないが、しかしそれでは日常生活に支障が出るかもしれないし、感動ばかりしてると疲れてしまうから、ぼくの場合は「ほどほど」にしている。

しかし、「表現」ということを考えると、積極的な意味で「なんでも非人称芸術」とは言えないだろうと思う。
表現というのは、「非人称芸術というコンセプトの表現」という意味である。
この意味で、「どんなつもりで撮られた写真であっても、それは非人称芸術のコンセプトの表現である」ということにしてしまったら、それがある意味事実であったとしても、かえって「非人称芸術」なるものが見えにくくなってしまうように思える。
だから少なくとも、「フォトモ」や「ツギラマ」や「2コマ写真」や「路上ネイチャー」などの形態で表現されたものを、「非人称芸術の表現」ということにしましょう、という「取り決め」をしたのである。
この取り決めは、ぼくが世の中に対して勝手に一方的にしたものに過ぎないが、それがつまり「宣言」であり「コンセプト」なのである。

以上整理すると、こういうことになる。
1:日常の何もかもを「非人称芸術」として再解釈しようとする行為は、自分の美術家としての生活そのものである。
2:「非人称芸術」を「フォトモ」などの作品で表現する行為は、「非人称芸術」というコンセプトを対外的にアピールするための行為であり、これを「相互的非人称芸術」と呼ぶ。
3:「非人称芸術」の意図がなく撮影された他人の写真から、勝手に「非人称芸術」を読み取る行為は、言ってみれば自分の「趣味」である。
そして、「復元フォトモ」はこのうちの「2」に該当する。
だからぼくは、「復元フォトモ」に「非人称芸術」が表現されていることを公式に認め、宣言するのである。

これを具体例を伴って、もう一度説明してみようと思う。

S2010001 S202

まず「復元フォトモ」の素材となる2枚の写真だが、これらは当然「非人称芸術」の意図がなく撮影されている。
しかし「雑然とした街並み」が写るこの写真の中に、撮影者の意図を超えて「非人称芸術」を見出すことは可能である。
だがそれを公言すると、いったい何が「非人称芸術」なのかがアピールしにくくなるから、そう思うのは自分の「趣味」の範囲内にとどめておくことにする。

Sp3074085b

だが、先の写真をこのように「復元フォトモ」にアレンジしたものは、そこに「非人称芸術」が現れていることを、公言することができる。
なぜなら、このフォトモは、元の写真を「非人称芸術」として解釈するぼくの視点を通して加工されていることを、対外的にアピールできるからである。

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さらにフォトモはこんなふうに上から見てみたり・・・

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こんなふうに覗き込むこともできたりして、実に楽しい。
いや実際のフォトモは、このような普通の写真で再現できない、独特の面白さがある。
その、フォトモ独特の面白さが、「非人称芸術」のコンセプトの特殊性と結び付き、「対外的なアピール」として機能するのではないかと、思うのである。

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2009年3月13日 (金)

自己表現と非人称芸術

ネットサーフン(笑)してたら、ぼくの本から影響を受けて、オリジナルのフォトモを作っておられる方がいらっしゃったので、画像を引用しつつ紹介させていただこうと思う。
http://otonchin.soreccha.jp/e42031.html

4月に山口で開催するグループ展に出展との事だが、ちょっと遠いのでいけそうにないのが残念・・・
この方のブログを見ると、オリジナルのペーパークラフトを作るなど、なかなかの技術をお持ちのようで、そういう方の作るフォトモは一見の価値があるのではないかと思う。

で、個人的に興味があるのはこの方のフォトモが、「非人称芸術」というコンセプト抜きに製作されている点である。
例えば、フォトモの中の人物2名が「ピース」をしているが、これはつまり近代的な「私」の表れではないかと思う。
その「私」のピースは、撮影者である別の「私」に向けられている。
そして背景の建物は、このフォトモの製作者(撮影者)である「私」がグループ展を行なう会場である。
そう考えるとこのフォトモは、「私」をテーマとした「自己表現」といえるのではないかと思う。
この点から、この方のフォトモは「非人称芸術」というコンセプト抜きで製作されていると判断できるのだ。

誤解しないで欲しくないのは、「非人称芸術から離れているのがけしからん」ということではなく、違う解釈もあるんだなということを、指摘しただけのことである。
そして、そのように違う解釈と比較することで、ぼくのフォトモに対する解釈の「特殊性」が浮き彫りになるのではないかと、思うのだ。
「フォトモ」とうのは文字通りに解釈すれば写真+模型が融合したメディアであって、それを使って何をどんなふうに表現するかは、各自の自由のはずなのだ。
だからこそ、現代は「近代人個人」の時代であり、だから表現といえば「自己表現」になるの方が当たり前なのだ。
以前紹介した「結婚式の引き出物」のフォトモは、さらに端的な「自己表現」になっていると言えるだろう。

また、正確な意味ではフォトモではないかもしれないが、池田朗子さんの作品も、ある種のアートのスタンダードに即した「自己表現」ではないかと思う。



しかしぼくの場合は、そうした近代的な「当たり前」に逆らって「自己表現」を否定し、そして「非人称芸術」を表現するためのフォトモを製作している。
いや、ぼくも当初から「自己表現」を否定していたわけではなく、「自己表現」の可能性を突き詰めた結果、それを否定する「非人称芸術」のコンセプトにたどり着いたのだ。

そもそも芸術としての「自己表現」とは、実は日常世界に縛られた「私」を超越した表現であり、だから貴重で尊い「芸術」になるのだと言える。
芸術家としての「私」を通じて、その「私」自身を超えようとすることで、人間の可能性を追求する行為が、近代的な「芸術」のあり方なのだ。
つまり芸術に現れている「私」は、「私」であって「私」ではく、そのために芸術家みな「私ではない私」になるための術を模索しているのだと言える。
ぼくは「芸術」というものをそのように捉え、そして「私ではない私」を、「私」の外部に存在する「非人称」に置き換える方法論にたどり着いたのである。

フォトモという表現手段は「非人称芸術」の表現に非常に適しているが、しかしフォトモと「非人称芸術」は必然的に結び付いているわけではない。
だからもし、これから先「技法としてのフォトモ」が普及するようなことになれば、恐らく「自己表現」といてのフォトモが一般的になるのではないかと思う。
そしてそうなると、ぼくのフォトモの特殊性が、あらためて浮き彫りになるかもしれないのだ。

ぼくの想像では、「技術としてのフォトモ」が普及した場合、それはホビーとして広がるのであって、「芸術」の表現に結び付くのは難しいのではないかと思う。
フォトモという表現方法はある意味面白過ぎで、分かりやす過ぎで即物的で、どうもあり種の「神秘」を目指すところの芸術とは相性が悪いような気がするのだ。
だからこそ、池田朗子さんの作品は、あえて「フォトモ未満」の技術にとどめている、と言えるのかもしれない。
そしてこのような理由から、ぼくのフォトモは現在主流の美術界からは、あまり評価されていないのだと思う。

最後に付け加えると、はじめにあげた「ピースサインする人物」のフォトモだが、これが「非人称芸術」とは無関係だとは決して言い切れない。
むしろこのようなフォトモにこそ、製作者の意図を超えた「非人称芸術」が現れているかもしれないのだ。
「非人称芸術」とはそもそも何らかの「実体」としてそこにあるものではなく、鑑賞者の「視点」や「解釈」によって立ち現れるものなのだ。
だからぼくのフォトモがホビーとしての「面白アート」に解釈されることもあるだろうし、「自己表現」としてのフォトモのうちに「非人称芸術」を見ることもまた可能なのである。
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2009年3月11日 (水)

作者のことば 「フォトモから復元フォトモへ」

本当は「復元フォトモ」と「非人称芸術」の関係について書きたいのだが、そう思ってるといつになるか分からないので、といあえず名古屋で開催する企画展に掲示する予定の「作者のことば」を、ここに転載する。
以前に投稿した「写真を始めたきっかけ・作られる記憶」に書いた反省を踏まえ、なるべくこれまでのテキストとは違う内容を目指してみた。
展示の会場で読ませるテキストとしては、やや長いような気もするが、ぼくの今の実力ではこれ以上短くするのは不可能である。
もっとも、「非人称芸術」などのややこしいことばを使わなければ、もっと短く分かりやすくかけるだろうが、それでは単に「面白アート」の解説になってしまうようで、ぼく自身が物足りない。
それで自分の言いたいことをできるだけ盛り込みつつ、ちまちまと文章を削りながら推敲を繰り返し、えらく時間をかけてできたのが以下のテキストなのだ。
自分で気に入っているのが、「フォトモとまちづくり・祝福と呪詛」に書いた「国誉め」の概念を盛り込んだことなのだが、そうしたことを含めこの短いテキストでどれだけ他人に伝わるか、それはまったく不明である。

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作者のことば「フォトモから復元フォトモへ」

ぼくは幼稚園年長から小学校3年まで、名古屋市 郊外の高蔵寺ニュータウンに住んでいました。当時の名古屋市内の記憶はほとんどありませんが、名鉄「パノラマカー」のカッコよさだけは覚えています。その ような多少の縁が関係したのか、このたび金山のまちをテーマにした「復元フォトモ」を製作する事になりました。 

小学生のころぼくは プラモ作りに夢中になり、中学生時代は写真部に所属していました。そして美大を卒業してほどなく、この二つが融合し「フォトモ」になりました。フォトモは 写真(フォトグラフ)を素材とした模型(モデル)の意味で、プラスティックモデルを「プラモ」と略すのに倣い、そう名付けました。フォトモを製作するに は、まず建物や街並みのを複数の角度から撮影します。そして写真に写るモノをハサミで切り抜き、それらをプラモのパーツのように立体的に組み立てると、独 特のリアリティーを持つ「フォトモ」が完成します。

ぼくはいろいろなまちを歩きながら「非人称芸術」というコンセプトに基づき、何 をフォトモにするかを選びます。この場合の「非人称」は一人称(私)、二人称(あなた)、三人称(彼・彼女)のうちの「誰も意図していない人間の行い」と いう意味です。ぼくはアートの可能性を探るうち、雑然とした街並みが、誰も意図しない「非人称」の作用によってできたアートのように見えることに気が付き ました。そのように自分の見たものを解釈するコンセプトを「非人称芸術」と名付け、それを記録するメディアとしてフォトモがあるのです。

その後ぼくは、「他人が過去に撮影した写真」からもフォトモが製作できることに気付きました。写真だけに残された失われた風景を、フォトモとして立体的に 「復元」することが可能なのです。そこでこの技法を「復元フォトモ」と名付けました。他人が撮影した写真から作る「復元フォトモ」は、何をフォトモにする のかをぼく自身が選んでいないのも特徴です。しかしだからこそ、思いがけないシーンの「復元フォトモ」ができ、その中にもまた素晴らしい「非人称芸術」が 発見できるのです。

ぼくのコンセプトをひとことで表現すると、「あるがままのまちの姿は素晴らしい」ということです。だから立体で 復元された過去の金山を見て「懐かしい」と感じていただければ、それが「あるがままのまちの姿は素晴らしい」という発見になるのだと思います。また現在の 金山は「復元フォトモ」の時代からすっかり変わっているようで、意外に昔からの建物も残っており、そういう比較から「あるがままの金山」の新たな魅力が見 出されるのです。このように「復元フォトモ」で過去を振り返る視点が、現在から未来へのまなざしにつながると、よりおもしろいのではないかと思っていま す。

最後に、貴重な写真を提供していただいた市民のみなさんをはじめ、関係者各位に感謝の意を述べさせていただきます。

糸崎公朗

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「フォトモ」と「フォトモじゃないもの」

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池田朗子さんと言うアーティストの『光景』という写真集を資料として買った。
これは何の資料かというと・・・

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「フォトモ」と共通の技法を使いながら、「非人称芸術」とは全く無関係に作品を製作されており、その実例としての資料である。
スナップ写真に写る人物だけを切り抜き、ピョコッと立たせてあるだけの、シンプルなもの。
それがにインスタレーション的に置かれ、撮影されている。
作者自身はこの作品に対し「模型」の意図はないかもしれない。
しかし二次元の写真に写る人物を切り抜くと、三次元空間内で「ミニチュアの人物」になるという特性を利用してる点は、「フォトモ」と共通しているのではないかと思う。
通常の写真には実は「ミニチュアの人物」が写っているが、しかし写真の遠近法のマジックで「実物大の人物」と錯覚しているに過ぎない。
だから写真の人物だけを切り抜くと、遠近法のマジックが解けて「ミニチュアの人物」になってしまうのだ。

池田朗子さんの作品は、写真から人物だけが単独で切り抜かれている。
そして切り抜かれた人物の足元には、自分がかつてそこにいた写真的遠近法の世界が、影のように横たわっている。
その作品には、写真の世界から不意に追い出された、小さな人物の孤独や不安が表れているようで、そこがアート好きな人々に評価されているのかも知れない。
つまり池田朗子さんの作品は、「フォトモ」と共通の技法を使いながら、「非人称芸術」などという余計なコンセプトを立てず、ある種のアートのスタンダードに従っている好例ではないかと思うのだ。

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ちょっとこじつけかもしれないが、池田朗子さんの作品は、ぼくが最近実験している「普通の写真」にテイストが近いような気がする。
ぼくは「普通の写真」として、こんなふうにポツンと立ってる子供を撮ることが多いのだが、こうすると何だか人目を引く良いっぽい写真が撮れることを、最近覚えたのだ。
現実世界に馴染み切っていない子供は、母体内から現実世界へ不意に追い立てられた、不安で孤独で小さな存在であり、そうした独特の雰囲気が人目を引くのではないかと思うのだ。
そして、こういう子供を撮った写真と、池田朗子さんの作品に、ある種の共通したテイストがあるようで、それが「ある種のアートのスタンダード」ではないかと思ったりしたのだ。

で、ぼくは本来「ある種のアートのスタンダード」なんかとは無縁なのだが、それが何なのか解明するために「普通の写真」の実験をしたりしてるのだが、この際だから実験として池田朗子さんの「マネ」をしてみることにしたのだ。

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その実験の結果がこれなのだが、なんかちがう・・・

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人物おおぜい切り抜きすぎだし、背景まで立ててしまったら、くどすぎてアート的雰囲気から程遠く・・・「マネをしたら別物になった」というぼくのいつものパターンである(笑)。
まぁつまり、池田朗子さんの作品をヒントに、一枚の写真から「復元フォトモ」を作る技法を思いついてしまったのだ。
この作品は「昭和48年ごろの金山橋付近」を撮影した写真をもとにしており、今月17日から名古屋都市センターで開催の企画展に展示予定である。
このように一枚の写真から切り出すフォトモを「ワンピースタイプ」と名付けてみたのだが、しかしぼくの最初期のフォトモには「ワンピースタイプ」が少なからず存在したのだ。
しかし当時はセンスが未熟で、その方法は発展性がないと判断してしまったのだ。

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ところが今は、例えば「名鉄パノラマカー」の写真にこんな不可解な切れ込みを入れ・・・

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理屈を超えた感覚による「折り」や「曲げ」を加えることで、十分に立体的な「復元フォトモ」ができるようになったのである。
名古屋都市センターでの企画展は、どういうわけかサイトに情報がアップされず、チラシもいまだできていない状態だが、必ず開催されるはずなので(笑)また改めてお知らせすることにする。

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2009年3月10日 (火)

復元フォトモと中世のパース

ここのところ、名古屋都市センターで3月17日(火)から開催の企画展『フォトモで甦る金山の記憶と風景』に出品予定の「復元フォトモ」の製作でかかりきりだったが、ようやく全作品もできてちょっと落ち着いた。
ちなみに会場のサイトにはいまだ何の告知もされていないようだが(笑)、そういうこととは関係なく、自分としては全力で製作に取り組んだので、かなり面白い展示になるはずである。

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で、名古屋市民の皆さんから提供された、昭和時代の「名鉄金山橋駅」周辺の写真4枚を合成すると・・・

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こんなフォトモになる。

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接写すると、今流行の?模型のような実景のような写真に(笑)

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元の写真とは違う角度から鑑賞できるのも、フォトモの魅力。

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フォトモを裏から見るとこんな感じ。
駅舎と駅前の街並みがつながって、ワンパーツになっているところがポイント。

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フォトモのパーツを切り出す前の画像で、3枚の写真をフォトショップでいろいろ加工した上で合成している。
つなぎ目は割と自然だが、よく見るとパースがおかしく「ヨーロッパ中世の細密画」のようで、なかなか気に入っている。

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ヨーロッパ中世の細密画というのはたとえばこういうもので、正確な遠近法が確立する以前の時代に描かれたものである(『美しき時祷書の世界』から引用)。
こういう辻褄の合わない「中世的遠近法」は独特の味わいがあって大好きなのだが、しかし「正しい遠近法」を知ってしまった現代人が真似て描いても、結局は「ワザと」になってしまって面白くない。
中世の細密画は、遠近法を知らない人が「本気で」描いたからこそ、説得力があるのだ。

しかし「復元フォトモ」の場合、製作の上で必然的に「中世的遠近法」になってしまう。
現代において、何もワザとらしいところがなく、本気で「中世的遠近法」が成立してしまうのだ。
そもそも、普通のフォトモであっても「正しい遠近法」は成立せず、ほとんどの場合、中世的というか、感覚的な遠近法に基づいて製作する事になる。
「写真」というものは、カメラという装置によって「正しい遠近法」を投影したものだが、その写真を複数枚組み合わせると「中世的遠近法」をもつフォトモができあがる。
「写真」に投影された遠近法は「一点透視法」というものであり、それを複数枚組み合わせたフォトモは「多点透視法」になるから、それが「中世的遠近法」になるのは当たり前だといえる。

「一点透視法」はヨーロッパで発生したが、これは同じくヨーロッパで発生した「近代的個人」のありかたと連動している。
すなわち、近代人として自己確立した「私」個人の視点が、「一点透視法」として現れるのである。
そのようなわけで近代人は、「私」の視点で絵画を描き、最近はデジカメで写真を撮ったりするのである。
しかし、いい加減「私が!」などと主張されるのもウンザリで、「一点透視法」も単純で退屈に思えてきたりして、そうなると「中世的遠近法」の絵画が魅力的に思えてくるのだ。
中世の絵画は「私の視点」ではなく、「私たちの視点」や「神の視点」で描かれているから、根本の理論というか、世界観が違うのだ。

しかし現代は、近代以前の中世ではなく、近代を通過した「ポストモダン」の時代である。
だから中世に逆戻りしようとしてもワザとらしいだけであり、何らかの方法で「近代」を乗り越える必要がある。
その意味で言うと、フォトモはまず「多点透視法」であり、「私の視点」が分散している。
さらに、ここに挙げた「復元フォトモ」は、複数の人が別々の日に写真を合成してるから、「近代的個人」はさらに曖昧になり、実にいい塩梅で「ポストモダニズム」が体現できているんじゃないかと思うのだ(笑)

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