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2009年3月28日 (土)

「みんなちがって、みんないい」の真理

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この記事は前回の続きなのだが、初めてご覧になる方は、

「多数派に安住する感性」の暴力
「みんなちがって、みんないい」の仲間
「みんなちがって、みんないい」の条件
「みんなちがって、みんないい」の立場

という順番で読み進めていただければと思う(長いけど)。
この一連の記事の最初の『「多数派に安住する感性」の暴力』は、哲学者の中島義道さんの『人生に生きる価値はない』を読み、思ったことを書いたものだ。
その記事に対し、「教科書にあった「みんなちがって、みんないい」という言葉を思い出し、心に響きました」というようなコメントをいただいた。

しかし、ぼくとしては「みんなちがって、みんないい」という理念こそが、「多数派に安住する感性」に思えてならない。
そこで、その言葉の元となった、金子みすゞの詩『わたしと小鳥とすずと』を分析し、この詩がいかに偽善的であり、少数派に対する暴力装置として機能するかを、明らかにしたのが、次の記事『「みんなちがって、みんないい」の仲間』である。

ところが、そのように考えながらふと気付いたのが、「みんなちがって、みんないい」は条件によって成立し、偽善的ではなくなる場合がある。それは「みんなちがって、みんないい」の「みんな」に「人間以外の生物」を当てはめた場合である。そして、そのような意味での「みんなちがって、みんないい」の理念をぼくはすでに「路上ネイチャー協会」というブログで実践していた。
と、このように書いたのが『みんなちがって、みんないい」の条件』である。

人間以外の生物に当てはめる限り「みんなちがって、みんないい」がなぜ成立するかを改めて考えると、人間は、その他の生物に対し「支配的立場」にあるからで、だから余裕を持って「みんなちがって、みんないい」と思えるのだ。
しかし現代社会は、人間が他の人間に対し「支配的立場」にあることを許さない。
人間と人間を比較して「みんなちがって、みんないい」と思えるのは、人間に対し「支配的立場」にあると想定される「神様」だけなのだ。
だから人間が同胞に対し「みんなちがって、みんないい」と思うのは、思い上がりであり、偽善であり、少数派に対する暴力でしかないのだ。
というように書いたのが、前回の『「みんなちがって、みんないい」の立場』である。

そのようなわけで、ぼくが中島義道さんの本に書かれていることに同調し、影響を受けて学んだことは、世間一般に流布している「みんなちがって、みんないい」という綺麗事で済ませるセンスと、真正面から対立する。
それを改めてクドクドと考えていたのだが、さらにまたふと気付いてしまったのだ。
それはつまり、

金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」と、
中島義道さんの「人生に生きる価値はない」という言葉は、
「同じこと」を言ってる!

ということである。
数式に表すと、

「みんなちがって、みんないい」=「人生に生きる価値はない」

というようになる(式にするまでもないが)。
はじめはまったく正反対だと思っていたふたつの言葉が、よく考えたら「同じこと」を表しているのに気付いたのである。
この「同じこと」というのは「真実」とか「正解」というものではなく、あくまで「そういうものの見方も成り立つ」ということの発見である。
金子みすゞの詩『わたしと小鳥とすずと』には別に「正解」が示されているわけではなく、だからさまざまな解釈の可能性に開かれている。
だからぼくは、金子みすゞの詩そのもにイチャモンを付けていると言うより、世間一般でなされている「解釈」が偽善的だと、指摘したのだ。
そしてぼくは同じ詩に対し、別の解釈の仕方があることに、気付いたのである。

ポイントは、人間同士を比較して「みんなちがって、みんないい」と思うのは「神の視点」である、ということだ。
もちろん人間は「神」ではないし、「神」を見ることはおろか、「神」が存在するのかしないかさえ知ることはできない。
しかし人間はその知恵によって、「神」の存在を想定し、「神の視点」に立って物事を考えることができる。
この意味で「神」とは、人間の思考ツールのひとつだと言えるのだ。

そのように「神の視点」を想定すると、人間は誰でも例外なく「みんなちがって、みんないい」と言うことになる。
平和に生きる人々も、平和を乱す犯罪者も、優等生でスポーツ万能でハンサムなひろしくんも、何もかも人並みな目立たないよしおくんも、変わり者だけど絵が上手でみんなから一目置かれているたかしくんも、何もかも平均以下で性格も悪くクラスの嫌われ者のよしこさんも、下校中に凶悪犯に包丁で刺さて即死したちなつさんも、ちなつさんを殺した犯人も、「神様」から見たら「みんなちがって、みんないい」のである。
なぜなら「神様」というのは、人間社会の「外部」に存在し、人間そのものを「超越」した存在として、想定されるからである。

「神の視点」に立つと、人間がいかに努力しようが、努力せずにサボろうが、幸福に満ちて生きようが、不幸のどん底で一生を終わろうが、他人に親切にしようが、他人に危害を加えようが、他人から尊敬されようが、他人から軽蔑されようが、金持ちになろうが、清貧に生きようが、全ての「違い」は「無意味」になる。
なぜなら「神様」にとっては、人間が何をしようとも、何もしなくとも、「みんなちがって、みんないい」のである。
つまり「みんなちがって、みんないい」とは「何をしても無意味」と同じ意味なのである。

例えば、ぼくは小学生のころは勉強の成績は中の下くらいで、体育の成績は下で、しかし図工の成績は優秀だった。
だから図工の時間だけは、ぼくは先生から「みんなとちがって、みんなよりいい」というふうに誉められ、それが自分のよりどころになっていた。
しかしぼくが描いた「上手い絵」と、そのほかの子が描いた「下手糞な絵」を比べ、「みんなちがって、みんないい」ということで同じ点数にされてしまったら、ぼくはふて腐れてしまったかもしれない。
自分が「ちがう」と言う理由だけで「いい」のだったら、絵が上手でも「いい」し、絵が下手でもどっちでも「いい」のだ。
それはおろか、勉強ができなくとも、運動ができなくとも、友達と仲良くできなくとも、何ができなくとも、何をしなくとも「いい」のである。
こうなると、自分が何か努力したり、頑張ったり、生きがいを見出したりすることの全てが「無意味」になる。
先生が生徒に対し「神の視点」で、「みんなちがって、みんないい」などと言えば、生徒の努力や向上心の全部が「無意味」になる。

さいわい、ぼくが小学生のころは、このように極端に「神様気取り」の教育は行なわれてなかったように思う。
しかし最近の小学校では、例えば体育のかけっこのさい、ビリの子の到着をみんなで待って、みんなで手をつないで一緒にゴールしたりとか、そういう「恐ろしい」教育がされているとどこかで聞いたことがある。
でもそうした「不自然」な教育課程を我慢して過ぎて社会に出れば、人間は誰でも「自然な競争」が行なわれる人間社会に参加することになる。
近代社会とは、人々が「自然な競争」あるいは「公平な競争」を通し、人それぞれの「幸福」を実現することを、目指している。
「目指している」と言うのは、それはあくまで「理念」であり、現実的にその「理念」が世界の誰もが実現できているとは、到底言い難い。
だからその「理念」をできうる限り実現させようと、努力しながら考えているのが、高田明典さんが言うところの「現代思想」であり、宮台真治さんのいうとことろの「社会学」なのだと、ぼくは捉えている。

ところが、あらためて「神の視点」で考えると、近代社会の理念も、人々が追求する幸福も、現代思想や社会学の努力も、何もかもが無意味でむなしいのである。
なぜなら、人間が何をしようとも、「神の視点」からは「みんなちがって、みんないい」になってしまうからだ。
そして、中島義道さんは『人生に生きる意味は無い』をはじめとする数々の著書で、「哲学的に考えると、人間は何をやっても無意味で、むなしい」と言うように書いている。
ある人がいかに豊かに、あるいは幸福に、または栄光に満ちて生きようとも、人間は「どうせ死んでしまう」のである。
人間は何をしても、何を感じても、等しく「どうせ死んでしまう」という残酷な運命から逃れることはできず、何もかもが無意味でむなしいのだ。
そして、「どうせ死んでしまう」という「真理」が理解できなず、「自分は幸福だ」などと信じ込んでいる人間は、頭も感性も鈍い馬鹿者であり、そのような馬鹿であることが、人間にとってもっとも不幸なのだ、と言うように書いている。

そして、ぼく自身は正直に告白すると、中島義道さんが言うところの「どうせ死んでしまう」という「真理」が、どうしてもピンとこないでいるのだ。
いや、理屈としては分かるのだが、これがわが身に降りかかることとして、どうしても実感できないのだ。
だからぼくはある部分では中島義道さんの感性に同調しながら、結局は中島義道さんが毛嫌いするところの「馬鹿の一員」でもあるのだ。
ぼくは他人に馬鹿にされると、反発して何とかそれを分かろうとするのだが、分からないものは分からないのだ。
しかし、「人生に生きる価値はない」と「みんなちがって、みんないい」が、実は「同じこと」を示してると気付いたことで、その理解にちょっと近づいたように思えたのである。

つまり哲学者とは、人間でありながら「神の視点」の存在に気づき、それが「真理」として頭から離れなくなってしまった人なのである。
もちろんそれが唯一の哲学の定義ではないが、そういう見方も成立する、と言うことである。
人間が何をしようとも、幸福な人も不幸な人も、「神の視点」で見れば皆等しく「どうせ死んでしまう」という、不幸でむなしい存在なのだ。
そういう「真理」を知ってしまった以上、そこから目を背けることもまたむなしく、結局は自らの不幸を直視しながら生きるしかないのだ。

 小鳥と、すずと、それからわたし
 みんなちがって、みんないい。

という詩は、人間に対し非常に不幸な「真理」を突きつけている。
そしてこれを読んだ詩人は、26歳の若さで服毒自殺している。
まぁ、詩人がどんな気持ちでこの詩を書いて、どんな理由で死んだのか、その「正解」は知る由もない。
しかし「神の視点」の残酷さを知ってしまった人間は、自殺を含めてそれぞれの対応をするんじゃないかと思う。
中島義道さんは、「自分は自殺をしたいとは思わないし、自殺はしてはいけない」と書いているが、そう書かなければいけないほど、中島義道さんの周囲には自殺者や自殺未遂者が少なからずいるらしい。
ぼくも自殺願望はないけれど、自分なりに「神の視点」は「芸術」の概念とつなげて考えられそうな気がしている。
ここで言う「神の視点」とはつまり「哲学」であり、ぼくは中島義道さんの本から「哲学と芸術は全く別物であり、自分は哲学とは無縁の芸術家である」と思っていた。
しかし最近は、芸術もやはり哲学的に考えなければならないのかも?と思ってたりする。
まぁ、ぼくのいう「哲学」は入門書レベルのブリコラージュでしかないのだが(笑)。

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コメント

詩の解釈はそれこそ「皆違ってみんないい」なのかもしれませんが(笑)わたしも解釈してみました。

まず、前提として、この詩は叙事詩でも叙景詩でもなさそうなので抒情詩、つまり、「キモチ」を表現しているのだろうと勝手に決めることにします。

抒情詩に論理が組み込まれているのは珍しいことだと思いますが、そこに作者は「キモチ」の動きを表現しているのでしょう。

このロジックを整理すると次のようになります。

条件Aにおいて 小鳥>みすず → 条件Bにおいて みすず>小鳥

条件Aにおいて 鈴 >みすず → 条件Bにおいて みすず>鈴

        ∴ 小鳥・鈴・みすず>???

・・となりますが、ここで 小鳥と鈴の比較も入れれば輪が閉じて三段論法が成立するのですが、そうなってはいないし、そもそも結論がおかしい(笑)

それには理由があるはずで、そこがポイントですね、要するに問題は自分と他者の関係であって「他者-他者」の関係は最初から比較する気がないのです。

おそらく、条件Aは世間一般のモノサシであり、条件Bは世間一般が選ばないモノサシです。
小鳥と鈴を比較しないのは、そんなものに世間一般のモノサシが成立しないからで、「鈴」というヘンなものを入れた意図はそこにあるでしょう。

おそらく、みすずはこのロジックで世間の固定的な価値評価からの自己開放を試みたのでしょう。


投稿: 遊星人 | 2009年3月29日 (日) 11時04分

「わたし」というのは誰にとっても代替不可能な「わたし」ですから、この詩も「わたしと(x)と(y)と」というように代入項が二つであろうというパターンも、ぼくも考えてはみました。
いずれにしろ「正解」はないわけで、自由な解釈が可能です。
であるからこそ、「何のために、そう解釈するのか」が重要になるわけです。
戦前に詠まれ、人々に忘れられていたこの詩を、なぜ最近になって小学校の国語の教科書に載せるようになったのか?その理由が大事だと思うわけです。

投稿: 糸崎 | 2009年3月30日 (月) 19時21分

>戦前に詠まれ、人々に忘れられていたこの詩を、なぜ最近になって小学校の国語の教科書に載せるようになったのか?

教科書に載せた意図は、どうも「イジメ」と関係がありそうな気がします、もし、教師がそのような解説をしているとすれば、あまりいい感じはしません。

太平洋戦争に突入する10年ぐらい前の日本の世間的な空気がどのようなものだったか・・・というのがありますね、カネにもならない詩作にのめり込んでいた彼女には世間の目は冷たくてつらい時代だったのではないでしょうか。

私の父は金子みすずより6~7歳下かと思いますが、同級生で資産家の子息だった高田誠が画家への道を進んだのがうらやましかったらしいのです、たぶん、当時は貧乏人の息子には考えられない選択肢だったのでしょうねえ、でも、それが可能だったとしても父に画家として大成する才能があったとは思えませんが(笑)

ご指摘の通り、詩の場合、解釈が自由であることも大切な要素だと思います。


投稿: 遊星人 | 2009年3月30日 (月) 20時13分

奥が深いなぁ〜。
金子みすずの作品集を持っています。僕も詩を書くので。
去年度の「にほんごであそぼ」で『わたしと小鳥とすずと』がありまして
コニちゃん(小錦氏)と子ども達が歌っています。
http://www.youtube.com/watch?v=4BVBDenWrlo (Tube・動画)

投稿: 雲海日吉 | 2009年4月 1日 (水) 23時19分

「ヒポポタマスの歌」ってついこの間知ったんですが、「みんなちがって、みんないい」の対極かなと思いましたw
http://www.youtube.com/watch?v=f_vmj-14kBA

投稿: 糸崎 | 2009年4月 2日 (木) 01時13分

これは難しいテーマですね。
十人十色ということですよね。

投稿: シロクマ | 2009年4月 2日 (木) 14時28分

>教科書に載せた意図は、どうも「イジメ」と関係がありそうな気がします、もし、教師がそのような解説をしているとすれば、あまりいい感じはしません。

まさに、中島義道さんが『人生に生きる価値はない』でイジメ問題に言及しており、それをぼくなりに解釈しつつ、金子みすゞの詩に絡めて書いたのがこの一連の記事です。

>十人十色ということですよね。

そうですね、「みんなちがって、みんないい」=「十人十色」だとすれば、これはいずれも「神の視点」であるわけで、人間がおいそれと口にできることではありません。
難しく考えなければいけない言葉を、みな軽々しく口にしているわけです。

投稿: 糸崎 | 2009年4月 3日 (金) 17時21分

はじめまして。
「みんな違って、みんないい」一連の記事楽しく拝見させて
頂きました。とっても面白かったです。有難うございます。

ところで、ひとつだけ。

>「どうせ死んでしまう」

人生を語る文章で、よく出てくるこの部分。
この部分を読むといつも、奥さんが良く言う次の言葉を思い出します。

「胸の大きな人ってさぁ、歳を取るとたれちゃうんだって」

私は、これを聞くといつも、

「若いとき大きけりゃいいんだよ。歳を取ったらたれてもいいの!」

これは真理だと思うのですが、私は間違っているのでしょうか?

貴殿のブログで、楽しい時間を過ごせました。感謝します。
また拝見させてください。


投稿: 近代映画 | 2014年2月 4日 (火) 23時59分

コメントありがとうございます。
確認するともう5年も前の記事ですが、遡って読んでいただきありがとうございます。

一つ驚くのが、改めて自分の記事を読み返してみると・・・以外にも読みにくいということです。
文章が下手、と言うこともあるし、雑誌に載せる文章ではないのであまり推敲してない、と言うこともあるでしょう。
しかし一番は、問題意識が今の自分とは随分と違っていて、この人(過去の自分ですが)が何を言わんとしているのかが、今ひとつ理解できなくなってる事ではないかと思うのです。

例えば当時の自分は、中島義道さんに随分と心酔していたようですが、現在の自分はそれがすっかり抜けきってしまっています。
また、この記事では「神」という言葉が使われていますが、これも非常に難しい言葉でして、今の自分とは随分と捉え方が違います。

というわけで、同じ自分であっても、時系列によって「みんなちがって、みんないい」のですね(笑)

>「胸の大きな人ってさぁ、歳を取るとたれちゃうんだって」

>私は、これを聞くといつも、

>「若いとき大きけりゃいいんだよ。歳を取ったらたれてもいいの!」

>これは真理だと思うのですが、私は間違っているのでしょうか?

面白いたとえですが、まさにその通りではないかと思います。
何事もなるようにしかならず、受け入れることしか出来ません。

投稿: 糸崎公朗 | 2014年2月 5日 (水) 16時52分

こんばんは。寒い日が続きますがお元気ですか。
ご返事を頂きまして有難うございます!

中島義道さんという方ですが、私、不勉強で知らなかったのです。
教えて頂いてから、色々調べてみたのですが、面白い方なんですね。
とても勉強になりました。
でも、糸崎さまは、今は中島義道さんから抜け出しているのですね。
どう変わったのでしょうか?お時間のあります時にでも、
教えて頂ければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。
また拝見させてください!どうぞお体を大切に。
有難うございました。

投稿: 近代映画 | 2014年2月13日 (木) 20時54分

コメントありがとうございます。

ぼくは中島義道さんに限らず、哲学や思想や宗教の入門書ばかり読んでましたが、あるときからプラトンや諸子百家や初期仏典などの古典を読むようになったのです。
そうすると、中島義道さんはどうしても物足りなくなってしまい、心酔していた気持ちも抜けてくるのですね。
入門書を読んでいたのは自分は頭が悪くて、原書は難しくて読めないと思い込んでいたのです。
しかし、実際には、古典は読みやすい上に奥が深く内容豊かなのです。
哲学や思想に入門するには、現代に書かれた入門書を読むより、古典を読む方が正道で近道だった、というわけです。
もちろん、だからといって中島義道さんのちょしょが無価値だと言うつもりはなく、読んだ分だけためになったと思っています。

投稿: 糸崎公朗 | 2014年2月14日 (金) 01時10分

上記の答えですが、どうも不十分でした。
ぼくが中島義道さんにシンパシーを感じたのは、ぼく自身が、日本人全体に対してある種の「違和感」があって、その感覚を中島義道さんも共有されているように思えたからです。
この「違和感」は、様々な角度から検討できるはずですが、ですので、中島義道さんに同調する以外の見方を、だんだんとするようになったのです。
最近では、山本七平『日本教について』の影響を受けましたし、太宰治『人間失格』も日本人に対する違和感がテーマとして描かれていました。

投稿: 糸崎公朗 | 2014年2月16日 (日) 03時02分

大雪が降るなど寒い日が続きますがお元気ですか。

ご丁寧に数度に渡るご返事を頂きまして大変恐縮しています。
中島義道さん教えていただきまして大変面白い方だなと思いまして
色々と著書などを読んでいる所です。
山本七平さんの『日本教について』も読んでみます!
人間失格、も今はネットで読めるようですので、もう一度読んでみようかと
思います。

>日本人全体に対してある種の「違和感」

というのは大変興味深いお話ですね。私もそんな感じを受けていますが
それが何なのか、今ひとつつかめずにいます。

ご丁寧なご返事本当に有難うございました!
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

投稿: 近代映画 | 2014年2月20日 (木) 14時09分

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