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2009年4月

2009年4月26日 (日)

冤罪と哲学

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(*写真と本文は無関係です)

ちょっと前、さる大学教授が電車内で女子高生からチカンの疑いをかけられ、これが裁判で冤罪であることが明らかになったと言うニュースがあった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009041502000057.html
これに限らず世間では電車内でのチカンの冤罪事件が問題になっている。
ぼくが改めて言うまでもないだろうが、現在は電車内で女性からチカンの容疑をかけられたら、それがあからさまに女性の狂言であっても、例外なく警察に逮捕され、ほとんどの場合有罪の判決を受けてしまう。
チカン事件の場合、裁判所はまず「女性はウソをつかないし、ウソをつく理由もない」という前提で裁判を行なうため、疑いをかけられた男性が「あの女はウソをついている!」と訴えてもそれが聞き入れられることは滅多にないらしい。
今回の事件は、その滅多にないケースであり、男性側の主張が受け入れられたと言うことで、話題になっている。

で、この事件についてぼくが思ったのは、もしこの被害男性が中島義道先生だったらどうだろう?ということである。
中島義道先生は、電車内で携帯電話をかけている人や、化粧をしている女性に対し「やめてください!」というように注意することを当然のごとくやっておられるので、その腹いせに相手の女性からチカンの冤罪をかけられる可能性はゼロではないだろう。
実際に無実の人をチカン呼ばわりしたところで、誰も見ていなければ証明のしようがないし、裁判所は自分の見方をしてくれるだろうし、そう考えるとこれは実に「簡単」なことである。
しかし、今のところ中島義道さんがそのような被害に会ったという話は聞かないので、それだけ「良心」を持っている人が多い、ということだろう。

いや、そもそも「良心」を持っているのであれば、電車内で携帯電話をかけたり化粧をしたりなんてことは、しないのである。
中島義道先生は、そのように「良心」のない人を不快に思って注意しているのであるが、注意されたほうの人は少なくとも、仕返しに「この人はチカンです!」というウソをついたりはしない、という「良心」は持っている、というだけの話である。
ここで言う「良心」とは「平気でウソをつかない」ということである。
電車内で、人目をはばからずに携帯電話をかけたり、化粧をする人は、つまりは「平気でウソをつく人」であり、だから「言葉の意味を大切にする人」人にとって不快な存在なのである。
しかし少なくとも現在の日本では、日常的に平気でウソをつくことが「奇麗事」という形で推奨されておりる、その結果「平気でウソをつく人」がそこいらじゅうに蔓延している。

中島義道さんは、少なくとも自分だけは世間に蔓延している「ウソ」に同調しないことに決め、そして結果的に日々世間と戦っておられる。
そして、そういう中島義道さんにとって、電車内で平気で携帯電話をかけたり化粧をする「ウソつき」と、他人を冤罪に陥れるような「ウソつき」は、同じ「ウソつき」として同罪なのではないだろうか?と思うのだ。
または、自分は電車内で携帯電話はかけないが、しかし他人がその罪を犯してる場合に見て見ぬ不利をして注意しない人々も、「ウソつき」であることでは同程度に不快なのではないだろうか?

そうなのであれば、もし中島義道さんがチカンの冤罪に陥れられた場合、はじめに例に挙げた大学教授とはまったく異なる反応をするはずである。
おそらく、中島義道さんは、不名誉な嫌疑で逮捕されようとも、不当な裁判で不当な罪を着せられようとも、実のところあまり困らないのでは?と思うのである。
というのも、中島義道さんは「人間は何をしてもどうせ死んでしまう」という哲学的問いから出発して、日常的に人生のどん底におられる。
全ての「幸福」は「どうせ死んでしまう」という前提において「欺瞞」であり、そうした欺瞞は哲学的にとても受け入れることができない。
まして、世間は「平気でウソをつく人」が蔓延し、この意味でも生き地獄である。

だとすれば、自分がやってもいないチカンの容疑で逮捕されようとも、それ以前の日常生活と比べて理不尽で地獄のような生活であることには変わらず、その意味では一向に困らないのではないだろうか?
普通の人は「幸福」に生きているので、チカンの容疑がかけられると「不幸」になるが、中島義道さんはもともとが「不幸」なので、無実の罪で逮捕されても「不幸」であることには変わりなく、その意味で普通の人のように困ったり、絶望したり、ことさら怒りを感じたり、そういうことは実はないのかもしれない。
中島義道先生は、周囲の環境がどうであれ、少なくとも自分だけはなるべく「真実」に基づいて生きることを「決定」されている。
だとすれば、「チカン容疑で逮捕される」というふうに環境が変化したとしても、そんなものは屁とも思わないかもしれない(もちろんぼくの想像でしかないのだが)。

いや、ぼくは普通の弱い人間なので、チカンの容疑で逮捕されるのは御免こうむりたいが、しかし中島義道さんがチカンの嫌疑をかけられて、実際にどういう対応をされるのか不謹慎ながらちょっと見てみたい気もする。
恐らくその際、中島義道さんは見事な論法で自己弁護されるかもしれないし、その裁判の過程は絶対に本に書くだろうし、そうなればベストセラーになるのは間違いないだろうと思う。
チカンの裁判はたとえ冤罪であっても女性に有利に働くが、相手が中島義道先生だとそうもいかないかもしれない。
ほかならぬ中島義道先生にチカンの冤罪に陥れようとすることは、相当な「リスク」があるのは間違いないが、それを分かっていながら「あえて」それを実行する女性がいたら、大したものだと思う。
いや、別にそそのかしているわけではないが、とにかく法律に触れるような悪いことはやっちゃいけないし、それが「善人」としての務めのはずである。

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2009年4月15日 (水)

進歩

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人間は進歩という名の回転運動を繰り返す。

カブロ・カバネア

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2009年4月14日 (火)

エリートと大衆

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エリートとは大衆に奉仕する奴隷である。

クルツ・シュライッヒャー

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「暴力にあふれる自然』と人間の国家

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今、竹田青嗣さんの『人間の未来』を読んでいる最中なのだが、本に書かれていたことと、自分の思い付きを適当に混ぜて書いてみる。

自然は暴力であふれている。
どんな生物も、暴力によって相手の生命を奪うことで生きながらえることを、原理としている。
安定した自然環境は、生物同士の暴力のバランスが均衡している状態を指す。
この場合の均衡とは、「種の個体数が一定に保たれている」と言う意味であり、生物個体のそれぞれが暴力をふるい、また暴力にさらされていることには違いはない。
自然はまさに暴力にあふれる、地獄のような世界なのである。

このような自然に対し、人間には地獄と言うより、のどかで心地い気分を感じてしまう。
なぜそのように感じるのかと言うと、現代人はもはや「暴力にあふれる自然」の「外」に存在するからだ。
いや、完全に外に出たわけではなく、たまに細菌やウィルスの暴力におかされることもある。
しかしいまや数多くの病気は克服され、また人間が他の猛獣に襲われる心配はほぼ100%なくなった。
さらに人間は、農耕や牧畜によって自然をコントロールし、「暴力にあふれる自然」に身を投じることなく食料を調達する術を身に付けた。
このような人間にとって、「暴力にあふれる自然」はまさに「他人事」であり、だから無責任に「のどかだ」とか「心地良い」などと思えるのだ。

人間が「暴力にあふれる自然」から脱することができたのは、農耕を始めたからである。
だから農耕を始める以前の人類は「暴力にあふれる自然」の中を生きていた。
その中で人間たちは、お互いに協調し合い、身を寄せ合って「平和」に生きていた。
なぜなら人間同士の平和が保たれていなければ、「暴力にあふれる自然」から自分の生命を守ることができないからである。

ところが人間が農耕を始めると、人間は「暴力にあふれる自然」から身を守る必要が、基本的には無くなった。
しかし農耕により、生産物の「蓄財」という概念が発生すると、その「蓄財」を奪い合う人間同士の暴力が発生するようになった。
つまり人間の敵としての自然が退けられると、今度は人間が人間の敵として立ち現れ、「平和な社会」が「暴力にあふれる社会」へと移行することになった。
このような「暴力にあふれる社会」を解消するために、「国家」という概念が生み出された。
国家とは、「暴力を振るう権利」を王や貴族などの一部の人間だけが持ち、大多数の民衆はそれを持つことを許されない、言う社会構造である。
つまり「国家」と言うシステムは、人間観に発生する「暴力」の総量を減少する働きがある。
王様や貴族は支配する国家では、民衆はさまざまな我慢を強いられるが、基本的には常に他人からの暴力におびえることもなく、また自然からの暴力におびえることもなく、安定した生活を送ることができるのである。

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2009年4月13日 (月)

非人称芸術研究室

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(*写真と本文は関係ありません)

たびたびで申し訳ないのだが、このブログのタイトルを「ブリコラージュ芸術論」から「非人称芸術研究室」に変更しようと思う。
本当はブログのタイトルを頻繁に更新するのは、読者に混乱をもたらしてよくないのかもしれない。
しかし、このブログは自分にとって実験的要素が強く、内容や方針も徐々に変わりつつあるので、まぁ仕方ないかなと思う。

これまでのタイトルに使っていた「ブリコラージュ」という言葉は、独自性があって使い勝手も良いと思っていたのだけど、しかしあらためて本やネットなどを見ると割りと一般に使われている概念で、いまひとつ独自性があるとは言い難い。
それよりも、ぼくは自分のコンセプトは「非人称芸術」だと公言しているので、これをタイトルに入れるのが素直で分かりやすいのだ。
ただ、「非人称芸術」をタイトルに入れるとその言葉に拘束され、内容に広がりがなくなる恐れがあり、躊躇していたのだ。

特に最近実験している「普通の写真」は、「非人称芸術」とは別のコンセプトで撮影されており、これが混同されることが不安である。
まぁしかし、そもそも「非人称芸術」は誤解や無理解にさらされているわけで、いまさら瑣末な混同を恐れても仕方がない。
関係のない写真については、「*写真は本文と関係ありません」と言うクレジットを入れれば済む話だ。

それよりも躊躇していたのは、ぼくが「非人称芸術」の上位概念として「鑑賞主義」と言うコンセプトを考えていたのが大きな理由である。
しかし「鑑賞主義」はまだまだ考え中の概念であり、何より名前がマズくて分かりにくいと思う。
概念のネーミングと言うことであれば「非人称芸術」はなかなか良くできていると自分では思うし、だから当面は「非人称芸術」を前面に押し出しながらブログを書き進め、さらにその枠内から大幅にはみ出すようになったら次の事を考えればいいのではないかと思う。

あと、事実上休止状態になっている「ブログ2・2コマ写真」のことだが、どうもブログを3つ同時に更新し続けるのは今の自分にはどうも無理だし、このブログに統合したらどうかな?とも思っている。
「2コマ写真」はまさに「非人称芸術」のコンセプトに基づいているのでその意味では自然である。
しかしそうなると今度は「普通の写真」との混同がますますおきやすくなるかも知れず、まだちょっと迷っているのである。

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2009年4月 7日 (火)

哲学者と芸術家

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(*写真と本文は関係ありません)

ぼくはつい最近まで、芸術と哲学はまったく別物だと思っていた。
いや、つい最近であるところの現在も、芸術と哲学は同一だと思ってるわけではなく、その区別が曖昧になってきているのだ。
そこでとりあえず、ぼく自身が捉えていた「哲学」と「芸術」の違いについて、整理してみようと思う。

ここで言う「哲学」とは、哲学者の中島義道さんが著書で示した「哲学観」である。
もちろん、「哲学観」を規定できるのは一人中島義道さんではないから、もっと別のいろいろな「哲学観」があるかもしれない。
さらに、素人のぼくごときが、専門家である中島義道さんの「哲学観」をどれだけ理解してるか、保証はない。
だがとりあえず、自分なりに「哲学」とか「芸術」を捉えなければ、考えは進まない。
考えを進めなければ、「芸術」の創作が行き詰ってしまうかも知れず、それは困るのである。

さて、ぼくが最初に読んだ中島義道さんの本は『哲学の教科書』で(ぼくが買った当時は文庫ではなく単行本)、冒頭に本人の哲学観が、かなり分かりやすく示されていた。
中島義道さんによると哲学者とは、「哲学病」という病の患者なのである。
「哲学病」の患者は、普通の人が気にもとめないような「哲学的問題」に躓き、いちいちそこで立ち止まって考え込み、そのため普通の人のように普通の生活を送るのが困難な、そういう「病気の人」である。
「哲学的問題」とは、例えば「死とは何か?」とか、「存在とは何か?」とか、「時間とは何か?」とか、「何が善で何が悪なのか?」などの「根源的な問い」である。
このような「根源的な問い」は、人類史上連綿と考え続けられてきた問題だが、いまだ明確な答えが得られないような、難しい問題である。
難しい問題でありながら、しかしちょっと考えれば誰の目の前にも横たわっている、日常的でありきたりな問題である。
しかし実のところ、このような「根源的問題」は、人間が生活するうえで、まったく考える必要の無い問題でもある。
日常生活を送る上で、「死とは何か?」とか、「存在とは何か?」とか、「時間とは何か?」とか、「何が善で何が悪なのか?」などについてまったく考えなくとも、常識や法律に従って前任として生きることが出来れば、実生活には何の差し障りもない。

しかし「哲学病」に罹った哲学者は、このような「根源的な問い」に躓いてしまう。
「根源的な問い」とサッとよけながら、実生活を送ることが出来ない。
普通に生活しながらも「根源的問い」が頭から離れず、実生活がついおろそかになったりする。
「根源的な問い」は、最終的な「解答」の出しようのない問いである。
しかしだからこそ、人類史上さまざまな哲学者が「根源的な問い」に対しての解答を試みている。
「根源的な問い」について、いかに言葉を尽くして精密に分析してみても、どうやっても理論に「穴」が出来てしまう。
そして、それに続く別の哲学者が、その「穴」を埋める形で新たな理論を構築する。
しかしそれでも別のかたちでの「穴」は出来てしまい、その穴を埋めるためにさらに別の哲学者が理論を構築し・・・というように、哲学の歴史は続いている。
理論の「穴」は絶対に塞ぎ切れないはずなのに、それが分かってもなお、「根源的な問い」に捉われざるを得ない・・・そういう人種が「哲学者」である。

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(*写真と本文は関係ありません)

そのように哲学者を定義すると、哲学者は「芸術家」になれないし、「芸術」も理解できないのでではないか。
中島義道さんの本を読んで、ぼくはそのように哲学と芸術を区別してみた。
なぜなら、「哲学的な問い」で躓いてしまった人は、そこから先にある「芸術」にまでたどり着けないからである。
「芸術」にたどり着いてそれを理解するには「哲学的問い」をスルーして、そこまでたどり着かなければならない。
しかしそれは「哲学者」の定義上、出来ないことなのだ。
哲学者はその定義上、「哲学的問い」をスルーできず、「芸術」の認識にたどり着くことが出来ないはずである。
そのことを示すように、中島義道さんの著作からは、ご本人がいかに「芸術オンチ」かが伺える。
中島義道さんは、趣味として絵画鑑賞や音楽鑑賞をし、子供のころはピアノを習い、大人になってからは油絵教室に通ったこともあるらしく、その生活は芸術とは無縁ではない。
しかし、中島義道さん自身の好む芸術は、どれも大衆好みの俗的なものであり、とてもじゃないが「芸術通」とは言えないレベルなのである。
中島義道さんは、もちろん哲学に関してはプロだが、しかし芸術に関してはまったくの素人なのである。

では反対に、芸術家はどうなのか?ということで、ぼく自身のことを考えてみようと思う。
ぼくはもちろん哲学者ではなく、中島義道さんの言う「哲学的センス」のない人間なのだが、そのかわり「芸術家」を自認している。
芸術家は「哲学的問い」なんぞに躓くことなくスルーしてしまうが、そのかわり「芸術」に躓いてしまう。
芸術には、「異常なもの」、「非日常的なもの」、「最高なもの」があらわれている。
芸術家はそんな「芸術」につい心を奪われ、その場で躓いてしまう。
そんなふうに「芸術」に躓いていたら日常生活がまともに送るのが困難になり、だから芸術家は「芸術病」という別の病気の患者なのである。

哲学者は、「哲学的問い」に躓いて、「芸術」にまでたどり着くことが出来ない。
芸術家は、「哲学的問い」をスルーし、そのかわり「芸術」に躓いてしまう。
そしてどのどちらでもない「普通の人」は、「哲学的問い」にも「芸術」にも躓くことなく、無視したり軽く受け流したり、あるいは他人事のように「教養」として理解したりして、健康な日常生活を送ることができるのだ(もちろん、人それぞれにさまざまな葛藤はあるのだろうが)。

だから、中島義道さんの本にたびたび「何をしてもどうせ死んでしまう」というように書いてあって、ぼくはどうしてもその問題にピンと来ないのだけど、自分は「哲学者」ではなく「芸術家」なんだからそれで構わないし、それこそが「哲学者」と「芸術家」の違いなんだと思っていた。
しかし最近、同じく中島義道さんの『人生に生きる価値はない』を読んで、ぼくの中であらためて「哲学」と「芸術」が接近してきたのだ。
本当はそれについて書きたいのだが、今回もまた前振りだけで終わってしまった。
いや実はつい昨日、中島義道さんの『孤独な少年の部屋』を読んで、中島さんは中学までの少年時代「偉大な芸術家」だったことが判明し、非常に驚いているのだった。
つまり哲学者の幼虫は芸術家であったわけで、そういう視点で哲学と芸術の関係を考えてみるもの、面白そうである。

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2009年4月 3日 (金)

アートフェア東京2009

ここは本来アートがテーマのブログなんで、たまにはちゃんとしたアートの記事も書かないと・・・w
というわけで、4月2日は「アートフェア東京2009」の設営と、内覧会がありました。
ぼくは香川のギャラリーアルテの所属作家として参加してます。

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で、アルテブースの参加作家の一人、彦坂尚嘉さんの建築模型彫刻「皇居美術館」の設置風景。
まずはこれを置かないと、他の作品が展示できません・・・

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これはイベントコンパニオン?の説明風景。
なんてものを撮ったりつつ・・・

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設営終わりました。
内側は彦坂尚嘉さんと、糸崎公朗の二人。
まさに「これぞ下品の世界」という感じです。

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外壁には、同じくアルテ所属の吉峯和美さんの油彩画を展示。
こちらは内側とは傾向の異なる、言ってみれば上品でしっとりした作品です。

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ぼくは彦坂さんの横で、割と控えめな展示ですw
スペースの都合上フォトモは3点しか展示してませんが、バックヤードに後3点控えてます。
いずれも発色が良く耐久性もある銀塩プリントで、作者のオリジナルカットwによる作品です。

後ろの丸いのは「東京昆虫デジワイド」からの作品で、銀塩プリントの表面意5mmのアクリルをマウントし円形にカットし、非常に高品質で見栄えのいい作品になりました。

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