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2009年4月14日 (火)

「暴力にあふれる自然』と人間の国家

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今、竹田青嗣さんの『人間の未来』を読んでいる最中なのだが、本に書かれていたことと、自分の思い付きを適当に混ぜて書いてみる。

自然は暴力であふれている。
どんな生物も、暴力によって相手の生命を奪うことで生きながらえることを、原理としている。
安定した自然環境は、生物同士の暴力のバランスが均衡している状態を指す。
この場合の均衡とは、「種の個体数が一定に保たれている」と言う意味であり、生物個体のそれぞれが暴力をふるい、また暴力にさらされていることには違いはない。
自然はまさに暴力にあふれる、地獄のような世界なのである。

このような自然に対し、人間には地獄と言うより、のどかで心地い気分を感じてしまう。
なぜそのように感じるのかと言うと、現代人はもはや「暴力にあふれる自然」の「外」に存在するからだ。
いや、完全に外に出たわけではなく、たまに細菌やウィルスの暴力におかされることもある。
しかしいまや数多くの病気は克服され、また人間が他の猛獣に襲われる心配はほぼ100%なくなった。
さらに人間は、農耕や牧畜によって自然をコントロールし、「暴力にあふれる自然」に身を投じることなく食料を調達する術を身に付けた。
このような人間にとって、「暴力にあふれる自然」はまさに「他人事」であり、だから無責任に「のどかだ」とか「心地良い」などと思えるのだ。

人間が「暴力にあふれる自然」から脱することができたのは、農耕を始めたからである。
だから農耕を始める以前の人類は「暴力にあふれる自然」の中を生きていた。
その中で人間たちは、お互いに協調し合い、身を寄せ合って「平和」に生きていた。
なぜなら人間同士の平和が保たれていなければ、「暴力にあふれる自然」から自分の生命を守ることができないからである。

ところが人間が農耕を始めると、人間は「暴力にあふれる自然」から身を守る必要が、基本的には無くなった。
しかし農耕により、生産物の「蓄財」という概念が発生すると、その「蓄財」を奪い合う人間同士の暴力が発生するようになった。
つまり人間の敵としての自然が退けられると、今度は人間が人間の敵として立ち現れ、「平和な社会」が「暴力にあふれる社会」へと移行することになった。
このような「暴力にあふれる社会」を解消するために、「国家」という概念が生み出された。
国家とは、「暴力を振るう権利」を王や貴族などの一部の人間だけが持ち、大多数の民衆はそれを持つことを許されない、言う社会構造である。
つまり「国家」と言うシステムは、人間観に発生する「暴力」の総量を減少する働きがある。
王様や貴族は支配する国家では、民衆はさまざまな我慢を強いられるが、基本的には常に他人からの暴力におびえることもなく、また自然からの暴力におびえることもなく、安定した生活を送ることができるのである。

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