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2009年4月 7日 (火)

哲学者と芸術家

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(*写真と本文は関係ありません)

ぼくはつい最近まで、芸術と哲学はまったく別物だと思っていた。
いや、つい最近であるところの現在も、芸術と哲学は同一だと思ってるわけではなく、その区別が曖昧になってきているのだ。
そこでとりあえず、ぼく自身が捉えていた「哲学」と「芸術」の違いについて、整理してみようと思う。

ここで言う「哲学」とは、哲学者の中島義道さんが著書で示した「哲学観」である。
もちろん、「哲学観」を規定できるのは一人中島義道さんではないから、もっと別のいろいろな「哲学観」があるかもしれない。
さらに、素人のぼくごときが、専門家である中島義道さんの「哲学観」をどれだけ理解してるか、保証はない。
だがとりあえず、自分なりに「哲学」とか「芸術」を捉えなければ、考えは進まない。
考えを進めなければ、「芸術」の創作が行き詰ってしまうかも知れず、それは困るのである。

さて、ぼくが最初に読んだ中島義道さんの本は『哲学の教科書』で(ぼくが買った当時は文庫ではなく単行本)、冒頭に本人の哲学観が、かなり分かりやすく示されていた。
中島義道さんによると哲学者とは、「哲学病」という病の患者なのである。
「哲学病」の患者は、普通の人が気にもとめないような「哲学的問題」に躓き、いちいちそこで立ち止まって考え込み、そのため普通の人のように普通の生活を送るのが困難な、そういう「病気の人」である。
「哲学的問題」とは、例えば「死とは何か?」とか、「存在とは何か?」とか、「時間とは何か?」とか、「何が善で何が悪なのか?」などの「根源的な問い」である。
このような「根源的な問い」は、人類史上連綿と考え続けられてきた問題だが、いまだ明確な答えが得られないような、難しい問題である。
難しい問題でありながら、しかしちょっと考えれば誰の目の前にも横たわっている、日常的でありきたりな問題である。
しかし実のところ、このような「根源的問題」は、人間が生活するうえで、まったく考える必要の無い問題でもある。
日常生活を送る上で、「死とは何か?」とか、「存在とは何か?」とか、「時間とは何か?」とか、「何が善で何が悪なのか?」などについてまったく考えなくとも、常識や法律に従って前任として生きることが出来れば、実生活には何の差し障りもない。

しかし「哲学病」に罹った哲学者は、このような「根源的な問い」に躓いてしまう。
「根源的な問い」とサッとよけながら、実生活を送ることが出来ない。
普通に生活しながらも「根源的問い」が頭から離れず、実生活がついおろそかになったりする。
「根源的な問い」は、最終的な「解答」の出しようのない問いである。
しかしだからこそ、人類史上さまざまな哲学者が「根源的な問い」に対しての解答を試みている。
「根源的な問い」について、いかに言葉を尽くして精密に分析してみても、どうやっても理論に「穴」が出来てしまう。
そして、それに続く別の哲学者が、その「穴」を埋める形で新たな理論を構築する。
しかしそれでも別のかたちでの「穴」は出来てしまい、その穴を埋めるためにさらに別の哲学者が理論を構築し・・・というように、哲学の歴史は続いている。
理論の「穴」は絶対に塞ぎ切れないはずなのに、それが分かってもなお、「根源的な問い」に捉われざるを得ない・・・そういう人種が「哲学者」である。

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(*写真と本文は関係ありません)

そのように哲学者を定義すると、哲学者は「芸術家」になれないし、「芸術」も理解できないのでではないか。
中島義道さんの本を読んで、ぼくはそのように哲学と芸術を区別してみた。
なぜなら、「哲学的な問い」で躓いてしまった人は、そこから先にある「芸術」にまでたどり着けないからである。
「芸術」にたどり着いてそれを理解するには「哲学的問い」をスルーして、そこまでたどり着かなければならない。
しかしそれは「哲学者」の定義上、出来ないことなのだ。
哲学者はその定義上、「哲学的問い」をスルーできず、「芸術」の認識にたどり着くことが出来ないはずである。
そのことを示すように、中島義道さんの著作からは、ご本人がいかに「芸術オンチ」かが伺える。
中島義道さんは、趣味として絵画鑑賞や音楽鑑賞をし、子供のころはピアノを習い、大人になってからは油絵教室に通ったこともあるらしく、その生活は芸術とは無縁ではない。
しかし、中島義道さん自身の好む芸術は、どれも大衆好みの俗的なものであり、とてもじゃないが「芸術通」とは言えないレベルなのである。
中島義道さんは、もちろん哲学に関してはプロだが、しかし芸術に関してはまったくの素人なのである。

では反対に、芸術家はどうなのか?ということで、ぼく自身のことを考えてみようと思う。
ぼくはもちろん哲学者ではなく、中島義道さんの言う「哲学的センス」のない人間なのだが、そのかわり「芸術家」を自認している。
芸術家は「哲学的問い」なんぞに躓くことなくスルーしてしまうが、そのかわり「芸術」に躓いてしまう。
芸術には、「異常なもの」、「非日常的なもの」、「最高なもの」があらわれている。
芸術家はそんな「芸術」につい心を奪われ、その場で躓いてしまう。
そんなふうに「芸術」に躓いていたら日常生活がまともに送るのが困難になり、だから芸術家は「芸術病」という別の病気の患者なのである。

哲学者は、「哲学的問い」に躓いて、「芸術」にまでたどり着くことが出来ない。
芸術家は、「哲学的問い」をスルーし、そのかわり「芸術」に躓いてしまう。
そしてどのどちらでもない「普通の人」は、「哲学的問い」にも「芸術」にも躓くことなく、無視したり軽く受け流したり、あるいは他人事のように「教養」として理解したりして、健康な日常生活を送ることができるのだ(もちろん、人それぞれにさまざまな葛藤はあるのだろうが)。

だから、中島義道さんの本にたびたび「何をしてもどうせ死んでしまう」というように書いてあって、ぼくはどうしてもその問題にピンと来ないのだけど、自分は「哲学者」ではなく「芸術家」なんだからそれで構わないし、それこそが「哲学者」と「芸術家」の違いなんだと思っていた。
しかし最近、同じく中島義道さんの『人生に生きる価値はない』を読んで、ぼくの中であらためて「哲学」と「芸術」が接近してきたのだ。
本当はそれについて書きたいのだが、今回もまた前振りだけで終わってしまった。
いや実はつい昨日、中島義道さんの『孤独な少年の部屋』を読んで、中島さんは中学までの少年時代「偉大な芸術家」だったことが判明し、非常に驚いているのだった。
つまり哲学者の幼虫は芸術家であったわけで、そういう視点で哲学と芸術の関係を考えてみるもの、面白そうである。

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コメント

芸術も「根源的な問い」とようなものを孕んでいるような気もするし、哲学にも美しい理論があったりするような気がします。
いかがでしょうか。

投稿: | 2009年4月13日 (月) 00時56分

コメントありがとうございます。
しかしながら、名前欄に記入の無い発言は、マジメに議論する気があるのかどうか判別が付かなくて困ります・・・
議論と言うものは、発言者の主体がハッキリしないことには成立しないわけで、名前(ハンドルネームでけっこうです)が無くては、まさに話が始まらないのだと思います。
ただ、このブログのコメントは名前欄が「任意」に設定されています。
ぼくとしてはここを「必須」にしたいのですが、gooブログの設定では、名前の記入を必須にすると、同時にメールアドレスの記入も必須になってしまい、それでは投稿に際しての敷居が高くなってしまいます(別に相手のメールアドレスまで知りたいわけではないので)。
もちろん、2ちゃんねるなどの「名無し」の発言が主体のメディアにも、特有の面白さのあることはぼくも認めています。
ですから、端からマジメに議論する気の無い相手に対しては、ぼくも議論とは別モードに切り替えてお話しすることもあります。

投稿: 糸崎 | 2009年4月13日 (月) 02時43分

先程投稿した者です。
大変失礼いたしました。
議論をしたくて投稿したというより、なんとはなしに想ったことがあったので、お尋ねしてみたくなりました。

投稿: たしろ | 2009年4月13日 (月) 03時39分

マジメな投稿だったようで、安心しました。
議論と言うと大げさなようですが、何とはなしに思ったことでも、それに対しまた別の人が思ったことを言ったりすれば、それがどんなに軽くてくだらない内容だったとしても、結局は議論なんだと思います。

まず「美しい理論」についてですが、近代以前のキリスト教神学の世界では「完全なる神が創られた世界は完全であるから、そこから導き出される理論も完璧で美しいはずである」とされていました。
ところがその「完璧で美しい理論」の解明を推し進めて行った結果、「神」の存在そのものが否定されてしまい、そして近代哲学と近代科学が生まれました。
「神」などという概念を理論に持ち込むことは、もはや不合理であり、不合理な理論は美しくない、というわけです。

ただ、哲学も科学も「美」よりも、本来的に「真」を優先させます。
哲学や科学を「概念の道具」だとすれば、デザインよりも機能を優先させるということです。
道具はデザインが美しいに越したことはないですが、多少見てくれがいびつでも「ちゃんと機能する道具」が優先させるべきです。
似非哲学(宗教)や似非科学は、デザイン的な美しい理論を装いますから、注意が必要です。

次に、芸術が孕む「根源的な問い」についてです。
ぼくの友人の美術家、西尾康之さんは、作品集『http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.athens.co.jp/store/goods_image/A362_I1.jpg&imgrefurl=http://www.athens.co.jp/store/98_362.html&usg=__ELlCD0UJD4ciWqIRW8SKycGW-PA=&h=281&w=220&sz=60&hl=ja&start=6&sig2=4oA6Y4QTbjQmSyvZ3d43sg&um=1&tbnid=Fp7Tit_RbEd3gM:&tbnh=114&tbnw=89&prev=/images%3Fq%3D%25E5%2581%25A5%25E5%25BA%25B7%25E5%2584%25AA%25E8%2589%25AF%25E5%2585%2590%2B%25E8%25A5%25BF%25E5%25B0%25BE%25E5%25BA%25B7%25E4%25B9%258B%26hl%3Dja%26lr%3Dlang_ja%26safe%3Doff%26client%3Dfirefox-a%26rls%3Dorg.mozilla:ja:official%26sa%3DN%26um%3D1&ei=aq3iSabCCqf66gPJsrnACw">健康優良児』の中で「小学生の頃ですが、死の恐怖のピークが来ました。」と書いています。
さらに、キリスト教徒である両親に「根源的」な事柄について質問攻めにして困らせたと言いますから、これはたいした「哲学的センス」の持ち主だと言えます(ぼくはそういうセンスに欠けるのですが)。
で、西尾さんの「死の恐怖」の克服法は、「死」をテーマにした絵を描くことで、死というものを「絵空事」にしてしまう、と言うものでした。
それが現在の表現スタイルまで継続して、西尾さんは死体画や幽霊画のほか、死のイメージから派生したエロスや破壊のイメージを描き続けています。

このように西尾さんの芸術は自身の「根源的問い」が出発点になっているのですが、しかし決して根源的な問いに対する「答え」にはなっていないのです。
「死とは何か」を問うて西尾さんの作品を見ても、そこに何らかの答えが見出されるわけではありません。
これは西尾さんに限らず、どのようなアート作品も同様のはずです。
なぜなら「根源的な問い」と言うのは「概念」であって、これにたいする答えも「概念」でなくては人を納得させることはできません。

西尾さんはいわば、「哲学的問い」を芸術的創造の手段として使用してるのです。
元記事の表現に従えば、「哲学的問い」をスルーして、芸術を始めたわけです。
それに対し哲学者の中島義道さんは、小中学生の頃は「哲学的問い」を解消するように細密画を描くことに熱中していたのが、高校受験を期にそのような芸術的な熱意も才能も一気に失せてしまったと言います。
つまり「哲学的問い」をスルーして芸術に進もうとしていたのだけど、結局は「哲学的問いに躓いた地点」に戻らざるを得なくなり、そして芸術家にならず哲学者になったのです。

ちなみに美術家のhttp://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/">彦坂尚嘉さんも、西尾さんとはまた別の形で、哲学を芸術の創造に利用しているのではないかと思います(その方法論の全貌は把握してませんが)。
芸術と哲学の関係は、人それぞれにアプローチの仕方があるはずです。
ぼくとしては「芸術と哲学は別物だ」と決め付けたわけではなく、まず別物だと決めてかかって、その上で共通点を探ってみようかなと、そういう作戦を立ててるわけです。

投稿: 糸崎 | 2009年4月13日 (月) 12時14分

 私は、芸術家であるとともに、度の高い哲学的人間でもあります。
あなた様のおかげで、初めて「中島義道病」という言葉が浮かびましたが、あなたがお一人目ではなく、早くともお二人目ということなのですね。もちろんお一人目は中島義道氏ご自身です。
 彼の著作はいくつか読んでおりますが、なにしろ閃きがないので「思考する」は常「苦悩する」に裏付けられており、そこが、人々にアピールするというか、「人々の哲学に対するイメージ」
 どおりの哲学を披露してくれる人物として受け入れられているわけです。
 「受け売り哲学」「哲学の輸入業者」的部分にはいりきらない、「身を以て哲学する」というところが好感されるのもわかる理屈です。
 ただし、「哲学を哲学する」というのは、ミイラ取りがミイラになる道で、彼も、義道の名前のとおりそうやって墓穴を掘っているようだ。
  「『哲学』は動詞ですが、それが絶対に対象にしていけないのが名刺『哲学』です」というのはいかがでしょうか?
 形としては「他の哲学を哲学している」形式を踏んだとしても、どうしようもない哲学的純粋デーモンが「対象にしていた哲学を無に帰さしてしまう(無化)」ぐらいでないと!
 
私は、芸術家であるとともに、度の高い哲学的人間でもあります。

以下、ご案内させていただきます。
まあ、教養な下記の通りでたいしたことないのですが、80ページ以降には「死後」についてもしっかり哲学しております。
 
「われ、敵を愛する
のみならず、
なおかつ
何時の友を憎む」
(その心は、「大切なものを無視するのが一番よくない!」)

あなた様方のようなご関心とご造詣ある方には、
下記の拙作をご紹介せずにはおれません。

私の名前でもあるロクリア旋法(音階)は
二重螺旋的であり、なおかつ、メビウスの輪的
深層構造を持っておりますゆえ-

ロクリアン哲学創建!
哲学は動詞だ!
真の「哲学する」を世に問う、
哲学の祖、パルメニデス以来の挑戦
「八木哲学*の生体解剖からロクリアン哲学へ」
(*八木雄二氏の「生態系三部作」に対しての批評文)
全部95ページ、堂々公開です。
2015年8月29日に
ホームページに(「ロクリアン」ですぐ出ます)アップしました。

そう、もし、わたくしLMの哲芸関係にご興味の分は、ユーチューブに多数楽曲を出しておりますし、一部、絵画もあります。
とにかく、今回は、あなた様の文章に出会えてよかった(あらたに生じるものがありました)。感謝!

作曲家、ロクリアン正岡拝


URLについては、「ロクリアン」でHPを開いていただければ即座にお分かりになると存じます。

投稿: ロクリアン正岡 | 2015年9月 4日 (金) 14時27分

ロクリアン正岡さん、コメントありがとうございます。
この私の記事そのものが2007年と古く、そのような古い記事を読んで下さる方がおられることに、驚きと共に感謝致します。
今あらためて当時の自分の文章を読んでみると、現在の自分とはずいぶん違っていて、これにも驚かされます。
この当時の私はまさに中島義道先生に心酔していましたが、現在は全く違うのですね・・・

と言うのも、この頃までは哲学は中島義道先生の著作をはじめ、入門書ばかりを読んでいたのです。
ところがその後、プラトンやラカンやフッサールなど原著(翻訳ですが)を読むようになって、そうして振り返ると中島義道先生がいかに「ダメ」なのかが分かってきてしまったのです。

ですので今の私の考えは、この記事を書いた当時の自分とは全く違います。
記事のテーマに即して言えば、哲学的思考はあらゆる学問の幹であって、芸術も又その枝葉であると、フッサールの影響もあってそのように捉えています。
つまり、フッサールの現象学には包括性と、応用的広がりを持つのですが、中島義道先生の哲学は「哲学」と「芸術」とがぶつ切りになっているのです。

もちろん、中島義道先生は専門家として今でも尊敬していますが、中島先生が仰るとおり「哲学とは何か?」は人によって異なり、私にとっての哲学は中島先生のそれとはずいぶん異なってしまった、と言うことです。
このブログ(ココログ)は使いづらくなってきたので、現在は「はてなブログ」にて継続してまして、よろしければこちらもご覧頂ければと思います。
http://kimioitosaki.hatenablog.com/
上記のブログですが、Twitterで下書きしてます。
http://twitter.com/itozaki

ロクリアンさんのサイトも拝見しました。
ボリュームのある文章なのでゆっくり拝読し、また返信致しますので、どうぞよろしくお願い致します。

投稿: 糸崎公朗 | 2015年9月 4日 (金) 21時59分

ロクリアン正岡さま

HPからおすすめいただきましたテキスト、ぜんぶは読めなくて申し訳ありませんが、やはり「哲学とは何か?」の見解が現在の私とはだいぶ異なるように思いました。
あるいは、2007年にこの記事を書いた当時の私なら、もっと違う反応をしたかもしれません。
だからこそ、ロクリアンさんが時間を超えて記事にコメントしてくれたのかもしれず、それも含め色々な意味で興味深く思います。
ブログを書き溜めていた意味がありました、どうもありがとうございます。

投稿: 糸崎公朗 | 2015年9月 5日 (土) 10時57分

In the Divine Comedy, Dante goes down the circles of Hell meeting the world’s most illustrious sinners. 700 years after his death, this series explores the contemporary meaning of the seven cardinal sins.

投稿: Ronaldoptog | 2021年4月29日 (木) 20時26分

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