冤罪と哲学
(*写真と本文は無関係です)
ちょっと前、さる大学教授が電車内で女子高生からチカンの疑いをかけられ、これが裁判で冤罪であることが明らかになったと言うニュースがあった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009041502000057.html
これに限らず世間では電車内でのチカンの冤罪事件が問題になっている。
ぼくが改めて言うまでもないだろうが、現在は電車内で女性からチカンの容疑をかけられたら、それがあからさまに女性の狂言であっても、例外なく警察に逮捕され、ほとんどの場合有罪の判決を受けてしまう。
チカン事件の場合、裁判所はまず「女性はウソをつかないし、ウソをつく理由もない」という前提で裁判を行なうため、疑いをかけられた男性が「あの女はウソをついている!」と訴えてもそれが聞き入れられることは滅多にないらしい。
今回の事件は、その滅多にないケースであり、男性側の主張が受け入れられたと言うことで、話題になっている。
で、この事件についてぼくが思ったのは、もしこの被害男性が中島義道先生だったらどうだろう?ということである。
中島義道先生は、電車内で携帯電話をかけている人や、化粧をしている女性に対し「やめてください!」というように注意することを当然のごとくやっておられるので、その腹いせに相手の女性からチカンの冤罪をかけられる可能性はゼロではないだろう。
実際に無実の人をチカン呼ばわりしたところで、誰も見ていなければ証明のしようがないし、裁判所は自分の見方をしてくれるだろうし、そう考えるとこれは実に「簡単」なことである。
しかし、今のところ中島義道さんがそのような被害に会ったという話は聞かないので、それだけ「良心」を持っている人が多い、ということだろう。
いや、そもそも「良心」を持っているのであれば、電車内で携帯電話をかけたり化粧をしたりなんてことは、しないのである。
中島義道先生は、そのように「良心」のない人を不快に思って注意しているのであるが、注意されたほうの人は少なくとも、仕返しに「この人はチカンです!」というウソをついたりはしない、という「良心」は持っている、というだけの話である。
ここで言う「良心」とは「平気でウソをつかない」ということである。
電車内で、人目をはばからずに携帯電話をかけたり、化粧をする人は、つまりは「平気でウソをつく人」であり、だから「言葉の意味を大切にする人」人にとって不快な存在なのである。
しかし少なくとも現在の日本では、日常的に平気でウソをつくことが「奇麗事」という形で推奨されておりる、その結果「平気でウソをつく人」がそこいらじゅうに蔓延している。
中島義道さんは、少なくとも自分だけは世間に蔓延している「ウソ」に同調しないことに決め、そして結果的に日々世間と戦っておられる。
そして、そういう中島義道さんにとって、電車内で平気で携帯電話をかけたり化粧をする「ウソつき」と、他人を冤罪に陥れるような「ウソつき」は、同じ「ウソつき」として同罪なのではないだろうか?と思うのだ。
または、自分は電車内で携帯電話はかけないが、しかし他人がその罪を犯してる場合に見て見ぬ不利をして注意しない人々も、「ウソつき」であることでは同程度に不快なのではないだろうか?
そうなのであれば、もし中島義道さんがチカンの冤罪に陥れられた場合、はじめに例に挙げた大学教授とはまったく異なる反応をするはずである。
おそらく、中島義道さんは、不名誉な嫌疑で逮捕されようとも、不当な裁判で不当な罪を着せられようとも、実のところあまり困らないのでは?と思うのである。
というのも、中島義道さんは「人間は何をしてもどうせ死んでしまう」という哲学的問いから出発して、日常的に人生のどん底におられる。
全ての「幸福」は「どうせ死んでしまう」という前提において「欺瞞」であり、そうした欺瞞は哲学的にとても受け入れることができない。
まして、世間は「平気でウソをつく人」が蔓延し、この意味でも生き地獄である。
だとすれば、自分がやってもいないチカンの容疑で逮捕されようとも、それ以前の日常生活と比べて理不尽で地獄のような生活であることには変わらず、その意味では一向に困らないのではないだろうか?
普通の人は「幸福」に生きているので、チカンの容疑がかけられると「不幸」になるが、中島義道さんはもともとが「不幸」なので、無実の罪で逮捕されても「不幸」であることには変わりなく、その意味で普通の人のように困ったり、絶望したり、ことさら怒りを感じたり、そういうことは実はないのかもしれない。
中島義道先生は、周囲の環境がどうであれ、少なくとも自分だけはなるべく「真実」に基づいて生きることを「決定」されている。
だとすれば、「チカン容疑で逮捕される」というふうに環境が変化したとしても、そんなものは屁とも思わないかもしれない(もちろんぼくの想像でしかないのだが)。
いや、ぼくは普通の弱い人間なので、チカンの容疑で逮捕されるのは御免こうむりたいが、しかし中島義道さんがチカンの嫌疑をかけられて、実際にどういう対応をされるのか不謹慎ながらちょっと見てみたい気もする。
恐らくその際、中島義道さんは見事な論法で自己弁護されるかもしれないし、その裁判の過程は絶対に本に書くだろうし、そうなればベストセラーになるのは間違いないだろうと思う。
チカンの裁判はたとえ冤罪であっても女性に有利に働くが、相手が中島義道先生だとそうもいかないかもしれない。
ほかならぬ中島義道先生にチカンの冤罪に陥れようとすることは、相当な「リスク」があるのは間違いないが、それを分かっていながら「あえて」それを実行する女性がいたら、大したものだと思う。
いや、別にそそのかしているわけではないが、とにかく法律に触れるような悪いことはやっちゃいけないし、それが「善人」としての務めのはずである。
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コメント
こーゆーのって見かけの印象で損したり得したりが大きいような気がしますね。
表情や態度がオドオドした人というのは無用に不審尋問を受ける可能性が高いですよね、見かけが堂々としていると人格は低劣でも疑われないみたいな・・・
電車通勤するようになって感じているのは、心の中が排他的攻撃心でトゲトゲしているらしき人物が少なくないことで、観察しているとそういうのは分かる人は分かっているらしい・・・ということです。
被害者意識にも「悲しい思いの人」と「怒りの人」とがあって、その中に「排他的な怒りの人」という加害者も少なからずいると思います、そういうのの見極めは痴漢とは縁遠い人のほうが鈍いので冤罪を蒙りやすいかもしれませんね。
でも、中島義道さんは大丈夫だと思います(笑)
投稿: 遊星人 | 2009年4月28日 (火) 21時02分
>こーゆーのって見かけの印象で損したり得したりが大きいような気がしますね。
いやこうしたケースに限っては、むしろ見た目の印象が関係していない傾向にあるんじゃないかと思います。
上の記事で取り上げた大学教授も、一般的に見て「いかにもチカンをしそうな顔」には当てはまらないんじゃないかと思います。
逆に、チカンの疑いをかけられて、状況証拠的にも自分は絶対にチカンはしてないのは明らかだし、堂々と正直に話せば疑いは晴れるはずだと思って駅員室に行くと、そのまま警察を呼ばれて連行され、そうなると誰も自分の話しを信じてくれず、そうした状況で裁判になるらしいのです。
だからチカンの疑いをかけられたら、「さりげなく逃げる」ほうが良いという人もいますが、これこそがまさに怪しい人の行動なわけで、どちらにしろリスクは大きいです。
人を見かけで判断する、ということは「記号処理」ですが、それとはまったく別の「記号処理」がなされる空間というのがあり、だからこそそこに取り込まれてしまう可能性は、誰にでもあるのです。
「排他的攻撃心」という言葉はぼくは使ったことないですが、けっこう便利かもしれません。
日本人の多くは「排他的攻撃心」を自ら自覚しないように、にこやかに、あるいは穏やかに排他的攻撃をするので、鉄壁の強さを誇るのかもしれません。
「排他的攻撃心」をあらわにした攻撃は、その意味では弱っちいのですw
投稿: 糸崎 | 2009年4月29日 (水) 12時29分