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2009年6月

2009年6月30日 (火)

「ポストモダン」はオヤジ用語

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昨日、水道橋のアップフィールドギャラリーで開催されている企画展を見に行ったら、出品作家のKさんのほか数人の写真家が集ったので、「じゃ、軽くのみに行きますか」ということになった。
その席でYさん(30代)に、またしても、

「やっぱしモダンとかポストモダンとか、わかんないっすよぅ」

と言われてしまった。
で、いろいろ話してぼくが「分かった」のは、Yさん自身が「モダン」とか「ポストモダン」とか言う概念を「必要としていない」ということである。
概念というものを「考える道具」だとすれば、自分が必要としない概念について、いくら説明されても分からないのは当たり前である。

ではYさんがなぜ「ポストモダン」という概念を必要としないのかといえば、実は彼はもうすでに「考える道具」としての「ポストモダン」を手に入れてしまっているからである。
例えばYさんは自分の写真について、

「何を狙って撮ったがハッキリしないけど、そのぶん見る人にいろいろな解釈の余地を与える写真を目指してます」

というように言っている。
これはまさしく「ポストモダンアート」のあり方であり、彼は何の本も読まずともそのことを既に知っているのである。
一方ぼくは、こうしたポストモダン的なアートのあり方を本を読んで知ったので、以上の言葉がごく自然に彼の口から出てきたので驚いてしまった。
いやYさんだけではなく、ぼくはこれまで他の写真家や美術家からも同じようなことを聞いている。
それで改めて思ったのは、現代という時代は「ポストモダン」的な価値観や考え方が、すっかり常識化していたんだなぁ、ということである。
「自分の意図を明確にせず、観客に解釈の余地を与える表現目指す」と言うのはアートの世界ではもはや常識化しているのだ。
世間で常識化していることは、改めて本を読むまでも無く、周囲の人間からなんとなく学び取ることができる。
そのように身に付けた「常識」について、改めて概念化して意識することは、普通に生きている限り意味はない。
「ポストモダン」的思考や感性を「体得した」人間に対し、「ポストモダン」についての説明は不要なのである。

一方「ポストモダン」についての説明が必要なのは、その概念を体得していない、ぼく自身のほうなのだ。
時代はとっくに「ポストモダン」に移行しているのに、ぼくはその時代の価値観や感性を学び損ねて、どういうわけか古い時代の「モダニズム」に囚われてしまっていた。
だからぼくは自分の状況を把握するため「モダニズム」とそれに対置する「ポストモダン」の概念を知る必要があったのだ。
つまりこれは時代遅れのオヤジの感覚なのである。
自分が「時代遅れ」であることを自覚したオヤジだからこそ、古い時代の「モダニズム」と新しい時代の「ポストモダン」の両方が対象化されるのだ。

逆に言えば、時代に適応した若者にとって「モダニズム」と「ポストモダン」という時代区分そのものが無意味である。
もちろんそれが必要な場合もあるだろうが、それは何か特別な場合に限るのであり、普通に生きている限り意識する必要は無いだろう。
これを裏付けるように、その場にいたもう一人の写真家Fさん(30代)に、

「糸崎さん、今頃ポストモダンとか言ってるとヤバイっすよぅ」
「ポストモダンなんてもうとっくに終わっていてますよぅ」

などと言われてしまった。
これにはちょっとムッとしてしまったが、こういう挑発的な物言いは彼の常套手段なので真に受けてはいけない(笑)
冷静に考えると彼の意見は一方で正しく、一方では正しくない。
「ポストモダンが終わった」という彼の言葉を好意的に解釈すれば、「ポストモダンをことさら話題にする時代は、もう終わりつつあるかもしれない」ということになり、そういう彼の実感を考えれば、まぁ正しいかなと思う。

ただし、思想的な時代区分としての「ポストモダン」は今も続いていて、終わってなどはいない。
その証拠に、高田明典や、宮台真司や、東浩紀などの多くの知識人が「ポストモダン」をテーマにした著作を著している。
ただ、そのような「ポストモダン」の解説書を読み、それについて考える必要があるのは「ポストモダン」を常識として学び損ねたオヤジ世代だろう。
つまり「ポストモダン」は若い人にはもはや不要の「オヤジ用語」なのである。

因みにこのとき同席していた、企画展出品作家のSさんはぼくより3つ年上の40代だが、やはり「ポストモダンについてはどうでもいい」というふうな感じだった。
つまり少なくともアートの分野に限っては、ぼくが物心つくぐらいの時代には「モダンアート」から「ポストモダンアート」に大方移行していたのだ。
ぼくは恐らく同世代でも例外的に「時代遅れ」であり、そのことを改めて実感したのだった。

(*写真は本文と関係ありません。 RICOH CX1)
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2009年6月28日 (日)

トンデモ理論のイタイ人

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このブログでは芸術に限らず、自然科学や、現代思想や、哲学などいろいろなテーマを扱っているが、結果としてどの記事も中途半端で、全体として散漫な印象のブログになってしまっている。

「キミの作品は中途半端で散漫だねぇ」

とは、ダメなアーティストに対してよく言われる批判だが、まさにこのブログはその批判が当てはまる。
一般に、作品の内容が「中途半端で散漫」なのは、自分なりの「テーマ」がちゃんと設定されてないからである。
作品制作における「テーマ」は、人によっては深く考えずパッと決まることもあるだろう。
しかし「なかなかテーマが決まらない」と言うドツボに陥ってしまった場合は、それなりのやり方と時間をかけて「テーマ」を探すしかない。

作品のテーマを決めるやりかたは色々あるだろうが、ぼくは自分の「立ち位置」を見極めることが重要ではないかと思う。
自分の「立ち位置」とは、他人と比べて自分は何が得意で、何が不得意かという「能力」の見極めである。
自分の「能力」がどんなものか分からない場合、とにかくいろいろ試して他人と比較するしかない。
他人と比較する中で「あれは出来ないがこれなら出来る」と言う自分の「立ち位置」が徐々に判明し、自分が取り組むべき作品の「テーマ」も次第に明らかになってくるだろう(それでもダメな人はあきらめるしかないが)。

「ものをつくる」という芸術の分野では、ぼくははじめ絵を描こうと思ったのだが絵が下手なことが判明し、写真に転向しようとしたが写真も下手なことが判明し、そのような「立ち位置」を見極めたうえに「自分独自のテーマ」を見出すに至った。
しかし「ものを考える」という分野において、自分はいまひとつそれができていない。
ぼくはこのブログで自分の「考え」を書こうとしているのだが、しかしそのような分野での自分の「立ち位置」がいまひとつ分からず、「テーマ」もハッキリしないままだ。
だから「書くことで何か表現したい」という欲求が空回りして、ブログがなかなか更新できないでいる。
しかし、人生は限られているのでいつまでも迷ってばかりもいられず、そろそろ「テーマ」を決定しなくてはならない。

「ものを考える」という分野での自分の「立ち位置」を測る方法は、とにかく「読書」を重ねることだと思う。
ということで、ここ3年ばかり読書を重ねて分かったのは、とにかく自分は「読書が苦手」ということである。
読書が苦手な人は、それだけ自分の「立ち位置」を把握するのが難しい。
芸術作品であれば、自分と他人との比較は「見る」だけで直感的に分かってしまう。
しかし本というものは読まなければその全容は分からないず、だから読書が苦手な人は「ものを考える」という能力の自分の「立ち位置」を把握するのが困難なのだ。
まぁ、それはとりもなおさず「立ち位置が低い」と言うことなのだが、そのことが分かったのであれば、その「立ち位置」にふさわしい決定をすればいい。

つまり、自分は「ものを考える」という分野の中で、「高い位置」を望まなければいいのである。
では、「ものを考える」分野でもっとも「立ち位置が低い」のは何かといえば、それは「トンデモ理論」だろうと思う。
結局のところぼくは「キチンと考えること」に最低限必要な量の「読書」をこなすことが出来ないから、必然的にその考えは「トンデモ理論」にしかならない。
一般に「トンデモ理論」を書く人は、自分の理論がトンデモであることを自覚しない「イタイ人」である。
しかし、自分が「イタイ人」であると言う「立ち位置」を正確に把握しようとする限り、最低限「イタイ人」にならずに済むかもしれない。
これが自分の限られた「能力」を最大限に生かす方法ではないかと思う。
もちろん、自分を簡単に「イタイ人」と決める前に、さらに読書に時間をかけるという手もあるのだが、しかしぼくには「芸術家」としての仕事もあるから、その立場を捨ててまで読書量を増やすことは出来ない。
だから自分に出来る範囲の可能性を考えると、腹をくくって「イタイ人のトンデモ理論」を書いてゆくしかない。

ぼくが提唱する「非人称芸術」とその上位概念の「鑑賞主義(仮)」が、「トンデモ理論」でしかないということであれば、かなり気が楽になる。
これまでは「もっとちゃんとしなきゃ」と気張りながら「ちゃんとできない」ことにあせっていたのだが、自分の能力を超えてまで「ちゃんとする」必要はないわけで、そう思うと肩の力が抜ける。
だいたいにおいて「キミの作品は中途半端で散漫だねぇ」と批判されるアーティストは、自分の能力を高く見積もりすぎて気張っている場合が多いのだ。

(*写真と本文は関係ありません。 RICOH CX1)

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2009年6月26日 (金)

モダンアート=進歩主義芸術

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■専門用語を日常語に置き換える

先日、友人の写真家と話をしていて「モダンとかポストモダンとか言われると難しくて分からない」と言われてしまった。
いや、モダンもポストモダンもぼくが理解しているくらいだから特に難しい概念ではないはずである。
だが「モダン」や「ポストモダン」という言葉は日常語ではないから、それを聞いただけでは何を指しているか分からない。ず、その概念を説明する必要がある。
だから言葉の意味を説明せずに「モダン」とか「ポストモダン」とかを会話の中に入れても、「難しくて分からない」と言われてしまうのは道理である。

そこで「モダン」や「ポストモダン」を一言で言い換えられる日常語を考えていたのだが、ふと「進歩主義」という言葉が思い浮かんだ。
つまり「モダン=進歩主義」、「ポストモダン=ポスト進歩主義」ということである。
いや、正確には「モダン」という言葉には立場によってさまざまな解釈の幅があるから、必ずしも「進歩主義」だけを指すわけではない。
だがそのことを踏まえたうえで、あえて「モダン=進歩主義」「ポストモダン=ポスト進歩主義」というふうに言い換えながら、アートをはじめさまざまなことを考えたり説明したりすることは、十分に有効ではないかと思うのだ。

現代という時代は、科学技術により世の中が進歩するのは当たり前で、それが良いことだと広く信じられているから「進歩主義」だと言える。
しかし同時に、科学技術は万能ではなく、戦争や公害という弊害を生み出し、誰もが「進歩=無条件にいいこと」とは信じていない時代でもある。
誰もが単純に「進歩主義」を信じられず、かといって「進歩主義」に変わる新たなイデオロギーも思いつかず、したがって「進歩主義」を完全に捨てきれない・・・そのようにスッキリせず煮え切らない気分が「ポスト進歩主義」である。

「進歩主義」とは「進歩することこそが素晴らしい」という確固たる「主義」であるが、「ポスト進歩主義」は「進歩主義が立ち行かなくなって、これからどうしよう・・・」という迷いの状況を指しており、「進歩主義」のような一枚岩ではない。
だから「ポスト進歩主義」の「ポスト進歩」は「進歩に変わる何か」「進歩の後に来る何か」を漠然と指し示す言葉でしかない。

芸術に置き換えて考えると、「進歩主義芸術」の時代は「進歩してこそ芸術である」と単純に信じていられていたのに対し、「ポスト進歩主義芸術」の時代では「何が芸術にとっての進歩なのか?」とか「果たして進歩と芸術はあ関係があるのか?」などの問いが生じるようになり、「何を持って芸術とするか」が一枚岩でなくなってしまった。
岡本太郎の『今日の芸術』は「進歩主義芸術」について書かれており、だから文章が明快で勢いがあり、読んでいて気分がいい。
しかし『今日の芸術』の理論を実践しようとすると、ことは単純ではなくいろいろと行き詰まり、明快さも勢いもなくなってしまう。

■進歩主義芸術とは

「進歩主義」とは人間の「自由の可能性の追求」である。
それ以前の「封建主義」の時代は、一般に「自由の可能性の追求」は禁じられていた。
「封建主義」が打ち倒され、「人間は誰でも平等である」という概念が成立するとともに人間の「自由の可能性の追求」も開始された。
例えば「科学」とは「科学的方法論」によって成される「自由の可能性の追求」だと言える。
その結果人々は、空を飛んだり、遠くの人と交信したり、記憶を写真に置き換えたりする「新たな自由」を手にいれた。
人間がこれまでに無い「新たな自由」を手に入れることがすなわち「進歩」であり、そのような進歩を価値あることとして目指すのが「進歩主義」である。

この言い方に倣うと、「進歩主義芸術」とは「芸術的方法」によって成される「自由の可能性の追求」である、と言い換えることができる。
「芸術的方法」とは、「色や形のあるものをどのように芸術として表現するか?」であり、「色や形のあるものをどのように芸術として解釈できるか?」ということである。
つまり芸術における「自由の可能性の追求」には、「表現の自由」と「解釈の自由」の二つの可能性が含まれる。
この二つの可能性は、それぞれ別というより表裏一体を成している。
印象派絵画の奔放なタッチや、ピカソの極端にデフォルメされた人物像などは、それぞれが「表現の自由の可能性」と「解釈の自由の可能性」の両方をあらわしている。

「進歩主義芸術」はまた、「見えないものを見たい」という衝動でもある。
「進歩」とは、未知の領域に踏み込むことであり、常に新たな領域を開拓し続けることである。
人間は原理的に五感で感じられる「感覚世界」の「外部」に出ることはできないが、進歩主義的な「新しい芸術」は感覚世界と外部の「境界面」として立ち現れる。
このような「境界面」は、かつての封建主義の時代は人々にとって「神」として立ち表れていたのであるが、「神」が否定された「進歩主義」の時代においてそれは「新しい芸術」として立ち表れる。
だから『今日の芸術』に示されたような「新しい芸術」には、言い知れない魅力があるのだ。

■進歩主義芸術の行き詰まり

しかし前途したように、「進歩主義」は芸術に限らず科学技術をはじめとするあらゆる分野で行き詰ってしまう。
その理由をぼくは「人間の自由は無制限ではない」からだと捉えている。
自由を制限されていた人間は、「進歩主義」によってどこまでも自由になろうとしたのだけれど、その自由は無制限ではなかったのである。
人間の「自由」を制限していたのは何かというと、人間自身の「身体」である。
人間は自身の「身体」の制限を越えて「自由」に振舞うことはできず、だから「人間の自由は無制限ではない」のである。

例えば、どれだけスピードの速い自動車が開発可能だとしても、人間の運動神経には限界がありスピードをコントロールする「自由」が制限されている。
だから、あまりに早すぎる車はたとえ技術的に開発可能であっても、意味が無い。
また、最近のデジカメは「画素数」の競争が激しいが、しかし人間の視覚能力にも限界があり「どれだけ微細な画像を見分けられるか」という「自由」も制限されている。
だから現在の「画素数競争」はやがて頭打ちになるだろうと、一般には予測されている。

もっと直接的には、人間はには例えば石ころや、ガラスの破片や、錆びた釘などを「食べ物として味わう」という自由が無い。
まぁ、こういうものを無理して食べるのはその人の「自由」だが、「身体」が食物として認識しないものを味わうような感性の「自由」が人間には存在しない。
マンガ『美味しんぼ』の「究極のメニュー」とは、あくまで「身体」による「自由の制限」の範囲内で追い求められるものでしかない。

芸術に置き換えて考えると、伝統的で保守的な「アカデミズム絵画」に比べ、自由なタッチ、自由な色彩、自由なモチーフで描かれた「進歩主義芸術」は確かに「進歩主義」の時代にマッチして素晴らしいものであった。
しかし芸術がさらに進歩し、「黒一色で塗られた絵画」や「ゴミを寄せ集めた彫刻」や「絵画や彫刻であることをも捨て去った身体パフォーマンス」や「何もしないことで芸術を表す芸術」などが登場するにつれ、「果たしてこれが芸術として追い求めるべきものなのか?」という疑問が生じるようになった。
つまり芸術が進歩した結果、芸術の示す「自由」が、人間の「身体」を超えてしまったのである。

「黒一色で描かれた絵画」は理論的には「新しくて自由」だが、そこにルノアールの絵画と同等の「芸術的豊かさ」が感じられるだろうか?
「ゴミを寄せ集めた彫刻」や「絵画や彫刻であることをも捨て去った身体パフォーマンス」は確かに新しい表現だが、それは芸術としての絵画や彫刻と「同じ芸術」に分類できるのか?
「何もしないことで芸術を表す芸術」が究極の芸術だとすれば、もうそれ以上芸術は進歩の余地が無いのではないか?
そもそも芸術は、このような「ヘンな芸術」を目指して進歩してきたのか?

芸術についてこのような疑問が生じるのは、ひとえに「人間の自由は無制限ではない」ことが原因である。
人間はその身体によって「知覚の自由」と「感覚の自由」の二重の制限を受けている。
人間は身体に備わった「五感」でしか知覚できず、そのような制限を受けている。
例えば人間は赤外線や紫外線で描かれた絵を見たり、超音波で演奏された音楽を聴くことはできない。
また、芸術を享受するのは人間の感性だが、その感性は「身体としての脳」に制限されている。

人間の知覚と感性がどこまでも自由であれば、何でも「芸術」として享受することが可能であり、芸術はどこまでも「進歩」し続けるだろう。
ところが実際には人間にとって「何でも芸術」ということにはならず、芸術が進歩するにつれその限界点が見えてきてしまい、「進歩主義芸術」は行き詰まってしまった。
そこで「進歩するだけでは芸術にはなり得ない」と気付いた人々によって、「進歩主義」を踏まえながらそれに変わる芸術のあり方が模索されるようになり、時代は「ポスト進歩主義芸術」に移行したのである。

(写真は文章と無関係です。 RICOH GX200 モノクロモード)

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2009年6月25日 (木)

ツギラマとイラスト

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ブログゼロにも告知したのだが、現在発売中の「日経アーキテクチュア」にぼくのツギラマが掲載されている。
自分のツギラマが写真雑誌に「作品」として掲載されたことは何度かあったが、写真以外の雑誌に「イラスト」として掲載されるのは今回が初めてである。
しかも編集部に依頼された被写体を撮影する、いわゆる「カメラマン」としての仕事であり、この点でも自分としては初めての経験である。

依頼内容は「渋谷ハチ公前交差点」を、そのビル群の4箇所に設置された「大型屋外ビジョン」がテーマになるように撮影することである。
編集部としては、そのような表現にこそツギラマが適しているだろうと判断し、ぼくに依頼してくれたのだ。

ただ、ぼくはフォトモと同じくツギラマも「非人称芸術」の記録目的に限定しているから、依頼があればなんでも撮影するというわけにはいかない(そうでなければ「美術家」としての立場が成立しない)。
しかし「渋谷ハチ公前交差点」という場所は、「非人称芸術」と解釈しても十分に魅力的な場所であり、それで仕事を請けることにしたのだ。

撮影はまず昼間に行なったのだが、この時間帯は「屋外ビジョン」に空の反射が写り込んで、ほとんど目立たなくなることが判明した。
しかし夜だと建物のシルエットが判別できなくなって、ツギラマとしてつまらなくなるだろうと思い、その中間の夕方に再撮影したのだ。

この目論見は見事に成功し、なかなかいい雰囲気のツギラマになると共に、肝心の「屋外ビジョン」もはっきりと写すことができた。
実は、周囲のビルと同じ露出値で撮影すると「屋外ビジョン」がオーバーになってしまうため、このコマだけはアンダーにして撮っている。
そのため「屋外ビジョン」の周囲だけが暗くなり、さらにこれを目立たせるというツギラマならではの効果をもたらすこともできた。

誌面に掲載されたツギラマは完全な平面で、実際にプリントをツギハギしたツギラマ本来の醍醐味は失われている。
しかし通常の写真とは異なる「多視点」であることの面白さは、ある程度は表現されているように思う。

しかし何といっても、自分の作品が単体ではなく「カッコいいレイアウト」として掲載されているのは新鮮である。
実は、「芸術至上主義」の理念に忠実に従うと、「カッコいい」とは既存の価値に従うことでしかないから、「芸術はカッコよくあってはならない」のである。
しかし、現在の「ポストモダンアート」は古臭い「芸術至上主義」なんかに囚われず、「カッコいいのがアートである」ということになっている。
つまりぼくはイマドキの「ポストモダンアート」の流儀になかなか乗ることができなかったのだけど、実際にはこんなふうに見えるのかと、あらためて思った次第である。

いやイラストとアートは基本的には異なる分野ではあるが、建築や写真などと共にクロスオーバーしているものまた事実で、「日経アーキテクチュア」はそれを体現した「カッコいい雑誌」のひとつだといえる。
と思ったら、昨日本屋で見かけた小説の表紙に、友人の彫刻家の西尾康之さんの作品が使われたのを発見してしまった。
実はぼくのフォトモも一度だけ本の表紙に使われたことがあるのだが、このようなクロスオーバー的な使用が増えると、アートの分野はもっと面白くなるのかもしれない。
とは言え、自分を含めてアートを目指す人は別にイラストを求めているわけではないから、そこを勘違いすると本末転倒になってしまうだろう。

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時をかけるフォトモ

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神奈川県立近代美術館・鎌倉の中庭部分を撮影した写真なのだが、水平が傾いている・・・
こんな写真を撮ってはプロカメラマンとして失格だが、しかしこれは「フォトモ」の素材なので構わないのである。
写真が傾いた理由は、屋根に上って足元がおぼつかなかったためだろう(特に高所恐怖症でもないけど)。
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で、いろいろ加工するとこんなフォトモになる。
と言っても平面の写真では、この独特の立体感は伝わらないだろうが、ともかくフォトモならではの大胆アレンジが加えられている。

神奈川県立近代美術館・鎌倉は、コルビジェの弟子の坂倉準三による設計である。
ところが、ぼくはフォトモを「非人称芸術」の専用メディアとして考えており、いわゆる「名建築」はフォトモにしないことを公言してきた。
だから神奈川県立美術館から依頼された際、「自分の作品としてではなく、製作監修としてならOK」という条件にした。
しかし結果として、単なる「名建築」の再現を超えたフォトモになったので、「自分の作品」として発表することにした。

その理由はまず、美術館の屋根の向こうに見える、鎌倉市のパノラマ的景観を取り入れることができた点である。
つまり建築単体ではなく「建築がたたずむ景観」という状況が、とりあえずは「非人称芸術」と解釈できるのである。

もうひとつの理由は、この美術館の屋根がトタン貼りに改修されていたことだ。
建設当初の美術館は、屋根にいくつもの天窓が取り付けられ、館内に日の光が降り注ぐという洒落た設計がなされていた。
ところが平成に入ってまもなく、老朽化を理由に全ての天窓はふさがれ、ありきたりなトタン屋根に改修された。
この屋根は実に味わい深い錆び具合なのだが、これはもちろん設計者の意図を超えた「非人称」的な効果である。
つまりこのフォトモには理性の産物である「名建築」と、理性を超えた「非人称芸術」の同居が再現されており、それで製作監修ではなく「自分の作品」として発表することにしたのだ。

このフォトモは「上から見下げたパース」として再現され、そのために美術館の屋根から撮影したのだが、この点も自分としては初めての表現である。
これに加え、さらに新たな実験も試みられている。

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美術館の中庭に、彫刻や観客のパーツが並んでいるが、その中に設計者の坂本準三と、その師であるコルビジェがさりげなく紛れているのである。

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もちろん坂本準三もコルビジェも故人であるから、1955年に美術館を訪れた二人を撮影したこの写真を使用している。
つまりは「復元フォトモ」なのだが、これが「現在のフォトモ」と融合して「時をかけるフォトモ」になっている。
「時間」を考えるとこのフォトモはウソなのだが、「場所」を考えるとウソではないから、そのような意味で融合しているのだ。
加えて、モノクロだった写真をフォトショップでカラーに「復元」しており、いろんな意味で野心的なフォトモになり、自分としてはなかなか楽しめた。

このフォトモについての告知は、近日中に改めて掲載する予定である。
今のところ美術館のサイトにも告知は掲載されていないので、悪しからず・・・

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2009年6月19日 (金)

普通の異常な写真(デジカメネガ現)

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色あせたカラーポジ写真・・・もう何十年も経っていて、このお二人も現在はかなりの年配になっているように思われる・・・
がしかし、このお二人は銀座ニコンサロンで個展を開催された海野和男さんと、その一番弟子の方wで、実は今年の1月の撮影である。

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次の写真もいい塩梅に色あせているが、撮影は今日である(以下同じ)。

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ぼくが最近このブログに掲載している「普通の写真」のスタイルだが・・・色彩だけが「異常な写真」・・・

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・・・「普通の写真」とか言いながら、ついこうした「異常なこと」をしてしまうのが、ぼくのダメなところかもしれないw

じつはこの写真はポジではなくネガフィルムをデジカメ(GX200)で複写し、画像処理ソフト(OLYMPUS Studio 2)で反転しただけである。
そうするとどういうわけだか分からないが、ともかくこのようなノスタルジックな写真になるのだ。

この実験は確か3年位前ふと思いついて試し、その結果を見て「おっ」と思ったのだが、少なくとも「非人称芸術」の表現には使いようがなくそのまま忘れてしまっていた。
それが先日、写真家の友人たちと飲んでいるときにふと思い出したのである。

カメラは珍品名機のOLYMPUS XA1(XAではない)で、新宿の中古屋で衝動買いし、せっかくだから久々にフィルムで撮ってみようと思ったものの、海野さんの個展会場で見せびらかしながら数枚だけ撮ったまま放置していたのだった。
それが最近試している「普通の写真」のコンセプトと結び付けられることに気付き、今日さっそくのころのフィルムを撮影し終えすぐ現像に出したのだ。

この手法を仮に「デジカメネガ現」と名付けてみたのが、先にも書いたようにこれは「非人称芸術」の表現には断じて使うことはできない。
「非人称芸術」の文脈での写真はあくまで「記録写真」に徹しなければならず、だから恣意的な加工を施すことは許されない。
いや、ぼくのフォトモは写真を思いっきり加工しまくっているが、この加工は「必然」があってやっているのであり、恣意的な加工と区別しなければならない。

それに、「デジカメネガ現」の醸し出す「ノスタルジー」の雰囲気も「非人称芸術」のコンセプトに著しく反する。
ぼくのフォトモは一般にはノスタルジーの文脈で受け入れられることが多いようだが、ぼく自身にノスタルジーの感覚は皆無で、機会あるごとにそのことについて説明している。

しかし「普通の写真」の文脈の上であれば、写真を使って何をやってもいいという「自由」があるから、こんな効果もアリなのだ。
ただ「デジタルネガ現」で困るのは、これにはまるとフィルム代や現像代がかかるのはもちろんのこと、余計な中古カメラが欲しくなってしまうかも知れないことで、ほどほどにしておかなくてはならない。

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孤独な芸術

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前回の記事で、自分の「作品」はともかくコンセプトである「非人称芸術」は誰にも評価されずその意味では「孤独」である、というように書いた。
では「非人称芸術」は具体的にどのように孤独なのか、そのコンセプトに至る経緯と共に説明しようと思う。

まず、ぼくの芸術観は岡本太郎が提唱する芸術観に大きな影響を受けている。
とは言っても、岡本太郎の著作をたくさん読んだわけではなく、実のところ『今日の芸術』くらいしか読んでないのだが、だからぼくの芸術観は『今日の芸術』に大きな影響を受けていると言ったほうがいいかもしれない。
ぼくは『今日の芸術』を読んで「ここに書かれていることこそが芸術だ!」と感動し、その言いつけ通りに考えを突き進めて言った結果、「非人称芸術」のコンセプトに行き着いたのだ。
もちろん、岡本太郎以外にも影響を受けた人はたくさんいるのだが、岡本太郎は独自の芸術論を展開したと言うより、ヨーロッパ起源の「芸術至上主義」の概念を日本人向けに判りやすく紹介しているのだ、とぼくは解釈している。
ことに日本人は物事をあいまいにして無難にやり過ごそうとする傾向があるから、岡本太郎の他人の悪口も厭わないズバッと勢いのある断定口調は、それだけでもヨーロッパ的な精神の表れのように思われた。
いや、ぼくは特にヨーロッパかぶれとは思わないけど、しかし日本人特有のなあなあで済ませる感覚は昔から(今でも)大嫌いで、そういう日本人の「悪しき習慣」に真っ向から対立する岡本太郎の芸術論に、ぐいぐいと引き込まれていったのである。

では岡本太郎はどのような芸術論を語っていたのか、あくまでぼくが理解した文脈で書いてみようと思う。
岡本太郎は『今日の芸術』で、最も重要なこととして「芸術は新しくなければならない」と書いている。
過去の何かの芸術に似た亜流の作品は、それだけでもう「芸術ではない」と切り捨てている。
芸術というのは絶えざる「新しさ」の探求であり、人類の「自由」の可能性の追求であり、芸術を介して「世界の新しい局面」を暴き出す試みである。
そうした未知なる新しさが表現されていない、既知の世界に留まっているものは、どんなに上手にきれいに描かれていても「芸術ではない」のだ。
だから岡本太郎は「芸術はうまくあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」「芸術はいやったらしい」と続けて書いている。
「いやったらしい」とは、既知の価値(うまい、きれい)では計ることのできない新たな芸術の価値が、人々の目の前にたち現れた状態を指す。
そのような「新しい芸術」が、これまでの古い芸術とは異なる「現代芸術(モダニズムアート)」の意味である。

では「新しい」とは何か?
それは技法とかモチーフが新しいというのは瑣末なことで、真の意味で「新しい」とは言えない。
真の意味での「新しい」とは「なにものにも囚われない自由な精神」から生じるのだ、と言うように岡本太郎は書いている。
「囚われる」と言うことは「古いものに囚われる」ことと同意で、だから古いものに囚われない「自由な精神」は即「新しい芸術」につながるのである。
古い封建社会を脱した現代社会は、誰もが「自由」に振舞うことが許されている。
だからその気になりさえすれば誰にも「新しい芸術」を生み出すことが可能なのであり、権威なんかクソ喰らえ!なのである。

それでぼくは「その気」になって、自分の精神を自由に開放しようとしたのだけど、実のところこれがどうも上手くいかない。
ぼくははじめは「絵画」を描こうとしていたのだけど、どうやってもつまらない作品にしかならない。
作品がつまらないのは、何者かに囚われて萎縮しているということで、ちっとも「自由な精神」ではない。
芸術を生み出すための「自由な精神」と言うのは誰にでもなれるわけではなく、人間には才能の差と言うのがやっぱりあって、そうでなければ「芸術家」と言う特別な存在もありえない。
と言うわけで、ぼくには芸術家としての才能がないことが分かってしまったのである。

そのように悩んでいたあるとき、ひょんなことから現代思想の「構造主義」という概念に行き当たった(もちろん入門書レベルだが)。
構造主義の「構造」とは、分かりやすく表現すると「文脈」のことである。
構造主義の考え方では、例えば人間がものを見るときに、網膜像を直接認識しているのではなく、それを「言語」に変換し「文脈」に位置付けながら認識するとされる。

例えば目の前のティーカップは「ティーカップ」という「言語」と共に、「紅茶を飲むための器である」とか「陶器でできていて落としたら割れる」とか「この品物は100円ショップで買った安物なのだ」など、さまざまな「文脈」に位置付けられて認識される。
だから逆に言えば「ティーカップ」という「言語」とそれにまつわる「文脈」を知らない人間には、ティーカップは「ティーカップ」として認識されることはない。
例えば縄文時代の日本人にティーカップを見せたら、彼らの「言語」と「文脈」の中で、何かの動物の骨だと認識されるかもしれない。

そのような「構造主義」の考えに基づくと、「新しい芸術」とは「文脈が新しい芸術」だということになる。
印象派絵画が新しいのは「文脈が新しい」のであり、その後に現れたキュビズムやシュールレアリズムもそれぞれ「新しい文脈」を提示していたのだと言える。
岡本太郎の言う「なにものにも囚われない自由な精神」は抽象的で実践が難しいが、これまでの「芸術」がどのような「文脈」で成立しているのかを冷静に分析し、それを解体して「新しい文脈」を再構成するということであれば、より具体的で自分でも実践可能かもしれない。

そして自分なりにあれこれやった結果に構築できたのが、「非人称芸術」のコンセプトである。
「非人称芸術」のコンセプトは、これまでの「芸術」の「文脈」を解体し再構成されている。
だからこれまでの「芸術」と同じ文脈を共有しながら、決定的に異なる文脈なのであり、だからこそ「新しい芸術」だと言えるのだ。
また「非人称芸術」は「写真」を素材とした表現を伴うから、「写真」の文脈を再構成した「新しい写真」も生み出した。

そのようなわけでぼくは「芸術」とも「写真」とも袂を分かち、それ以後「芸術が分からない人」で「写真が分からない人」になったのである。
当然ながら、「芸術」の人からも「写真」人からも「非人称芸術はぜんぜん分からん」と言われ、その意味でぼくは決定的に「孤独」になったのだ。
その「孤独」は自分自身が望みそれを目指し、それが一応はかなったのだから喜ばしいことのはずだ。

しかしぼくが「なんかヘンだな」と気付いたのは、それからだいぶ経ったつい最近のことである。
つまりぼくが「孤独」なのはいいとして、ぼく以外に自分のように「孤独」な芸術家なり写真家がどうもいないのである。
ぼくのように「孤独」な表現者が世の中にたくさんいれば、その意味でぼくは「孤独」ではないのだが、どうも状況を察するにぼくだけが「孤独」で取り残されている。

それであらためて自分なりに考えて気付いたのは「新しい」を追い求める「モダニズム芸術」の考え方自体がとっくの昔に時代遅れになっていたということだ。
そして時代は「新しさにこだわらない」という「ポストモダン芸術」に移行していたのである。
「新しい」に価値があると認められた時代に「新しい芸術」を提示すれば、それは価値あるものとして認められただろうが、自分の知らないあいだに(と言うか実は自分が生まれたころから)時代は変わっていた。
つまり「新しい」ということの「文脈」そのものが変わってしまい、価値を失ってしまったのだ。

いや、ポストモダンの現代においても「新しい」ものはもてはやされているが、「新し過ぎる」ものは価値のないものとして切り捨てられてしまう。
かつての印象派が登場した当時は「新し過ぎる」ことに価値があったのだが、現代はそのような時代ではない。
というわけで「非人称芸術」が「孤独な芸術」なのは、それが「新しい芸術」ではなく「時代遅れの芸術」だからと言うこともできる。
しかし「ポストモダン芸術」は「新しさにこだわらない」からぼくのような「時代遅れの芸術」の存在をも許容し、その意味で「非人称芸術」もまた「ポストモダン芸術」の一形態と位置付けられる。
その意味でぼくは「孤独」であって「孤独」ではなく、「写真家・美術家」の肩書きで仕事をすることも許されているのだろう。

ちなみについ最近、自分以外に「孤独」で「時代遅れ」の芸術家と知り合うことになったのだが、それが「第41次元アート」を提唱する彦坂尚嘉さんである。
ぼくは「41次元アート」の理論をいまひとつ理解できないでいるのだが、それが「孤独」で「時代遅れ」であることだけは理解できる。
それと、ぼくは自分の「古い芸術」とはまったく別に、ポストモダン時代の「新しい芸術」も試してみたくなり、それがこのブログに「無関係」に掲載している「普通の写真」なのである。
これらのことについて、またの機会に書いてみようと思う。

(*写真と本文は関係ありません。OLYMPUS E-3+KIRON 105mm F2.8 Macro)

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2009年6月18日 (木)

芸術は役に立ってはならない

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岡本太郎は『今日の芸術』で、「芸術はうまくあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」「芸術はいやったらしい」と定義しているが、それにあらためて「芸術は役に立ってはならない」を追加してみたい。
「芸術至上主義」の立場に立つ限り、芸術の価値は独特のものであって、だからそれはお金の価値に換算できないのであり、つまりは何の役にも立たないのである。
だから芸術の名のもとに、何らかの「役に立っている」ものはニセモノだと疑ってかかったほうがいいかもしれない。
と、自分ではそういう「基本」は十分理解しているつもりだったのだが、しかし実のところ「自分の芸術が役に立たない」という悩み方をしていることに、今更ながら気付いてしまった。

ぼくの悩みというのは、自分の芸術が「評価されない」と言うことである。
もちろん、フォトモをはじめとするぼくの「作品」は一定の評価を得て、そのおかげで個展ができたり本の出版ができたりしている。
しかし肝心の「非人称芸術」のコンセプトは、美術界や写真界の専門家たちにまったくと言っていいほど評価されてはいない。
「非人称芸術」について評価もされなければ非難されることもなく、つまりは「無視」されている。
「非人称芸術」は「評価される」ことに関して何の役にも立っておらず、いつの間にか自分はそういう悩みに絡めとられていたのである。

もちろん、ぼくは自分の興味と情熱に基づいて「非人称芸術」のコンセプトを構築し、その実証として作品製作をしているのであるが、同時にコンセプトが妥当で「いいもの」であれば必然的に評価されるはずだと信じていた。
それが何年たっても一向に評価される気配がないのは、そもそもコンセプトが根本的に間違っているか、他に原因があるかのどちらかである。
まぁ「非人称芸術」の何もかもが根本的に間違いである可能性はゼロではないだろうが、そうでない他の原因を考えると、つまりは「芸術は役に立ってはならない」ということに突き当たる。

芸術が役にも立ってはならないのであれば、それは「評価される」という役にも立にたつはずもないのは当たり前である。
他人から評価されたいのであれば、他人から評価されるようなことをやればいいのであって、それを目的に芸術をやるのは根本的に間違っている。
芸術というのは「芸術」を目的として行なうのであって、本来的に「芸術」の中で完結しそれ以外の評価軸からは遮断されている。
つまり「芸術」は、「芸術」以外の何の役にも立たないものなのである。

芸術以外に「役に立たないもの」として「哲学」というものがある。
中島義道さんや永井均さんなどの哲学者は「哲学は何の役にも立たない」ときっぱりと断言している。
哲学は例えば「人生の悩み」の解決にはまったく役に立たず、むしろそのような悩みをより深くこじらせてしまうのが「哲学」なのである。
哲学とは「哲学的問題」に絡めとられた人間が、哲学を目的に哲学するものであって、その他の何かのために「役に立つ」ということは断じてない。
中島義道さんは哲学をネタに多数の著書を出版される「モノカキ」でもあるが、しかし自分がモノカキをしてる分だけ哲学から遠ざかっているというようにも書いている。

これに倣えば、「芸術のために」という目的を純粋に追求すればするほど、芸術以外の目的からは遠ざかる。
「お金」はもちろん「他人からの評価」からもどんどん遠ざかり、つまりはどんどん「孤独」になってゆく。
自分の「芸術」のコンセプトを構築すればするほど、他人と価値観がズレてゆき、結果として徹底的に「孤独」になる。
「何の役にも立たない」と言うことは必然的に孤独になると言うことで、だから「芸術は孤独でなくてはならない」と言う定義を付け加えることも可能だろう。
実際、ぼくは芸術家の集まりにも、写真家の集まりにもたびたび顔を出すが、そのような集団内で自分が本質的に「孤独」であることを、いつもひしひしと感じている。
そのように「孤独」を決め込んだ人間に対し、どこからも何の評価も与えることができないのは当たり前だといえる。
つまりは「芸術は評価されてはならない」のである。

ところが実際のぼくは、引きこもりでもないし、それなりにいろんな機会に作品を発表して仕事にもなったりしてるから、それだけ「評価されている」し「役に立っている」し、本人が言うほど「孤独」でもないだろう。
これは直接的には「非人称芸術」のおかげではなく、その副産物である「作品」のおかげである。
フォトモやツギラマなどの作品には見て触れるような「形」があるから、「芸術の概念」や「写真の概念」に照らし合わせて評価することができる。
一方「非人称芸術」は物理的な形のない「概念」だから、その他の「芸術の概念」や「写真の概念」とは相容れない、「対話不能」で「孤独」な存在なのだ。

このように自分の中には「徹底的に孤独な領域」と、それに相反する「対話に開かれた領域」のふたつが同居している。
ぼくはこういうことをきちんと自覚できなかったせいで、「自分の芸術が役に立たないのはなぜだ」と言うおかしな悩み方をしていたのではないか、とあらためて思った次第である。

(*本文と写真は関係ありません OLYMPUS E-620+ZUIKO DIGITAL 7-14mm)

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2009年6月 7日 (日)

人類と独我論

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前回の記事の、寝起きの頭で考えたことの続きである。

「独我論」とは前にも説明したかもしれないが、早い話「自分が死ねば世界は消滅する」という理論である。
「世界」というものは、自分が見て、触れて、そこに行くことができるから存在する。
自分が死ねば、自分というものが「無」になり、見ることも触れることも行くことも出来なくなるから「世界」が存在するとは言えなくなってしまう。

こうした理論は、日常的な生活感覚からは遊離しているが、しかし「認識論」をちょっと齧るとナルホドと納得できるものがある。
しかし、現在の哲学思想の分野では、この「独我論」は成立し得ないものとして完全に論破されている。
ぼくの理解で説明すれば、「独我論」が成立し得ないのは人間は「言語」を使う生物だからである。
「言語」というものは「自分」だけが使うものではなく、「他者」と共通して使用するものである。
例えば「イス」という言葉は、あの人もこの人も「イス」ということばを使うから成立するのである。

これが例えば「イス」ということばを自分独自に「アメフラシ」と置き換え、「コップ」は「アリジゴク」に置き換え、「パソコン」は「ツチグリ」に置き換え・・・というふうに「自分独自の言語」を作ろうとしても、それは「言語」として機能しない。
これは「お金」に置き換えて考えると分かりやすいと思うのだが、円やドルとは別に「自分だけの通貨」を作ったとしても、それは「お金」として機能しない。
「お金」は他人と交換して初めて「お金」として機能するのであり、「言語」も同じく他人と交換して初めて「言語」として機能するのである。

現代の哲学思想の分野では、人間は「言語」を介して「世界」を認識してることになっているから、「言語」を使用する以上「独我論」は成立せず「やっぱり他者は存在する」ということになっている。
忌野清志郎は「世界の終わり」の危惧を歌にしたが、しかし死んでしまった清志朗にとって「世界は無になった」としても、生きているわれわれにとって「世界はまだ存在する」のである。
もちろんぼくが死んでも、ぼくにとって「世界は無になった」としても、それ以外の大多数の生きている人たちにとっては「世界はまだ存在し続ける」だろう。

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では、とふと考えてみたのだが、人類が絶滅してしまったら、それでもなお「世界」は存在し続けるのだろうか?
地球の歴史を見ると、恐竜をはじめとする何度かの大絶滅が確認されている以上、人類の存在も永遠とはいえないだろう。
ぼくは宇宙の歴史には詳しくないが、しかし太陽の寿命に限りがある以上、そのうち人類はおろか地球も太陽系も消えてなくなってしまうらしい。

そのような人類絶滅後に、果たして「客観的な世界」は存在しうるのか?ということである。
ぼくが確か高校生の頃「アフターマン」という本が出版され、「人類絶滅後」に進化したさまざまな想像上の生物が描かれていたのだが、日常的な感覚だと、人類が滅亡しても地球が残ってさえいれば「客観的世界」は存在し続けるように思える。
地球や太陽系が消滅しても、広大な銀河や宇宙はそのまま永遠に存在し続けるだろうと思われる。

しかし「世界」とは、人間が自らの五感で感知した刺激を「言語」に置き換えることによって成立する。
人間の認識する「世界」は「言語」を使用する人間独自のものであり、その他の生物、サルや、ナメクジや、タンポポなどとは大きく異なっているはずだ。
だから、「人類」という種が滅亡してしまえば、少なくとも「人類が認識する仕方で存在した世界」は消滅してしまう。
例えば、「イス」を「イス」と認識する人類が消滅してしまえば、例えそこにイスがあり続けたとしても「イス」の存在は消滅する。
これはちょっとおかしな話のようだが、「言語」というのは単独ではなく「関係性」として存在する。
「イス」はその他の「テーブル」や「床」や「家」や「街並み」と関係しながら存在し、人類が消滅すればその関係性そのものが消滅してしまう。

「言語」を認識する人類が存在せず、「言語」の関係性の存在しない「世界」を、われわれ人類の感覚で「存在する」と果たして言うことができるのだろうか?
人類が消滅しても「神」が存在し続けるとしても、「神にとっての世界」が「人類に認識不可能な世界」だとすれば、それは人類にとって「存在する」といえるのだろうか?

以上、言ってみれば「独我論」を「人類」のレベルに引き上げて考えてみたのだが、まぁこういうことはいかにも何かの本に書いてありそうなことではある。
そういう本があるとして、いったいどんなことが書いてあるんでしょうか?(笑)

(*写真は本文と関係ありません。RICOH CX1)

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寝起きの哲学

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「考え」を素材にものを作ることの基本は、ある意味「死」とか「自分がある」ということにあって、それが「哲学」というものだというように中島義道さんなんかの本には書いてある。
それで中島さんの本とか、そのほかの人の入門書的なものを読んでみようとしたのだけど、そうしたわけかあまり頭に入らないので自分なりに考えてみた。

考えてみたのは明け方の寝起きであるが、養老孟司さんが「人間は寝てるときに意識がなくなって死んだと同じ状態になっているではないか」というようなことを書いていたので、「死」を考える上で「寝起き」は打ってつけなのである。
しかし、いつも寝起きにそのことを忘れて実行できなかったのだが、この日はたまたま覚えていた、という次第である。

自分の「死」を想像して「怖い」と直感するのは、「自分というものが無くなること」の恐怖である。
「自分」というのはいつでもありありとあって、それが「無くなる」とはどういうことか?それがわからなくて「怖い」のだ。

しかし、「自分というものがなくなること」というのは実はしょっちゅうあることで、それは養老さんが指摘されるとおり「睡眠」が最たるものなのだが、しかししっかり目が覚めていて体が活動しているときであっても、ふと「意識が飛ぶ」ということはしょっちゅうあるだろうと思う。
これは「突然気を失う」ということではなく、意識があっても意識がなくなるというか、意識はあっても「今ここに私はある」という確固たる意識がふと抜けることがあるのだ。

以下、ぼくの勝手な理屈であるが、まず人間は「言語」を介して「世界」を認識する。
そして、「言語」は連続ではなく断続的に認識される。
このブログの文章も、文字と文字の間に「断裂」があり、単語と単語の間に「断裂」があり、文と文の間にも「断裂」があり、デジタル的に認識される。
いや読んだり聞いたりすることだけでなく、ざっと自分の部屋を見渡すだけでも「パソコン」「デスク」「壁」「天井」などさまざまな「言語で言い当てられるもの」が目に飛び込み、全体としての「部屋」が認識される。
道を歩いている途上でも「青空」「家並み」「電柱」「スズメの鳴き声」・・・など「言語で言い当てられるもの」が次々に認識され、「世界」そのものが認識される。

そのように、五感の刺激を「言語」に置き換えることにより「世界」は認識されるのだが、先に書いたように「言語」の認識には「断裂」がある。
例えば部屋を見渡すときも「パソコン」「デスク」「壁」「天井」と連続して認識したとしても、ちょっと間が空いて「時計」「午前2時」「もう寝なきゃ」というふうにまた続くのであるが、しかし注意深く思い返すと「認識」と「認識」の「ちょっとした間」というのはたびたびあるような気がする。
ふと思い返すと、「認識」と「認識」の間に「認識しない暗黒状態」があって、そのとき「自分というもの」が「無くなって」おり、そのとき自分は「死んでいた」のである。

思い返すと「認識しない暗黒状態」は日常的にしょっちゅうあるように思え、つまり人間は「簡単に死んでしまう」のである。
人間は目覚めているときに恒常的にしょっちゅう死んで、毎日寝るときに長時間死んで、つまり「自分というものが無くなっている」のにもかかわらず、そういう「死」はぜんぜん怖いとは思わない。
しかし、「最後に死ぬ」ことだけは特別視して非常に恐れる。
自分というものが無になっても、また意識が戻ってくると思えば「自分というものが無くなる」ということ自体は怖いとは思わない。
しかし、最後に死んで「自分というものが永遠に無くなるのだ」と思うと、とたんに言い知れない恐怖に襲われる。

目覚めているときには「自分」というものがありありとあって、それが「無くなる」ということがどうしても分からないのだけども、自分というものが恒常的になくなっていることについては「怖い」とは思わない。
それでいて「永遠に無くなる」と思うとそれは「怖い」となるのはどうしたことだろうか?

これは非常におかしなことであり、きっと人間は何らかの形で「だまされている」に違いない。
もしかすると「自分というものがありありとある」という実感そのものが「ウソ」なのかも知れず、そのウソを打ち破ると何か別の「様態」が見えてくるのかもしれない。
というようなことを厳密に、しかも何世代にもわたって永遠に考え続けるのが「哲学」であって、ぼくなんかの頭ではどうすることもできない分野なのであるが、自分は自分の身の丈に合った「考え」でものを作ればいいのであって、それが誰か他の人にも「面白い」と思ってもらうことができれば儲けものなのだろうと、そのように「自分の立場」を整えてみようと思う(笑)。

(写真と本文は関係ありません。OLYMPUS E-420 + SIGMA Macro 90mm F2.8)

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考える人と作る人

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前回の更新から一月以上も間が空いてしまったが、まぁこんなもんである。
こんなもん、というのは結局は自分は「ものを考える専門家」ではないから、ふとした拍子に気が抜けて「考えなくてもいい人」のモードに突入してしまうのだ。
「ものを考える専門家」というのは「考えずにいられない人」なわけで、だからぼくのように「別に考えなくてすむ人」は「考える専門家」ではないのだ。

ただ、ぼくは「ものを作る専門家」であるから、「何かを作らずにはいられない人」ではある。
それでここのところは、新しい写真技法の開拓と、それに伴うレンズの改造などに熱中していて、「考えること」がおろそかになっていたのだ。
我ながら驚いたというかあきれてしまうのが、「考えること」を止めてしまっても「新しい写真表現の開拓」が可能なことである。
別に何も考えなくても、新たなアートの表現の追求は可能であり、その意味で「アートに理屈はいらない」と言えるかもしれない。

というのは実はだいぶ言い過ぎで、つまり「考えること」とは「考えを変えること」であるから、ぼくは「考えること」を止めていながら「これまでの変わらない考え」に基づいて「新しい写真表現の開拓」を行なっていたことになる。
ぼくが自分なりに身に付けた「これまでの変わらない考え」には、新しい写真表現の開拓をしたり、連載のための原稿を書くだけの「ポテンシャル」がまだいくらか残っており、それで安心して「考えを変えること」を止めてしまったと言えるかもしれない。

ぼくは「ものを作る専門家」であって「ものを考える専門家」ではないと書いたが、しかし「ものを考えること」とは「考えでものを作ること」と言い換えることもできる。
そして「ものを考える専門家」とは、「考え」という素材でものを作る専門家だと言う事ができる。
「ものを作る専門家」であるところのぼくは、「写真」とか「カメラ」とか「ハサミ」とか「ノリ」などを素材にしてものを作るのが得意だ。
もちろん、ぼくの「もの作り」には「考え」という素材も割りと大きな比重を占めるのだが、しかし「考え」という素材を扱うことは、「写真」や「カメラ」や「ハサミ」や「ノリ」を扱うことに比べるとかなり苦手である。
いや、実のところぼくは、写真」や「カメラ」や「ハサミ」や「ノリ」の扱いが名人中の名人というわけではない。
「写真」については専門教育を受けていないし、技法は我流で、写真鑑賞法のセオリーも知らない「写真の見方が分からない人」なのである。
「カメラ」については、ぼくはメーカーの技術者ではないし、工学や光学の専門知識はないし、素人工作のデタラメな改造(本来的な意味でのブリコラージュ)を行なっているだけである。
まぁ、ハサミやノリについては半ば冗談として、少なくともぼくが得意とする「写真」や「カメラ」については、自分よりもはるかに優れた「専門家」がいくらでもいることを自覚している。

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しかし自分がそのように優れた専門家でないことを自覚しながら、ぼくは「写真」や「カメラ」の扱いが得意だと思っているし、そのことについて自信を持っている。
それはつまり、その分野内での自分の「立ち位置」を把握しているので、他人と比較して劣っていることが「自信の揺らぎ」にならないのだ。
「写真の見方が分からない人」というのは意図的にそのような立場に身を置いているわけで、それを指摘されたところで自信が揺らぐことはない。
それに、ぼくは「写真」についての見方を他の写真家とずらすという方法論で、新たな写真表現を生み出すことに、ある程度は成功しているのだ。
「カメラ」については、まさにエンジニアリング(専門技術)とブリコラージュ(素人工作)の違いを自覚しているのであって、この両者は比較対象にならない。
事実ぼくの改造カメラは市販品ではなしえない写真表現が可能であり、「技術がプロのレベルに達していない」と言われても知ったことではない(そんなあさっての批判をする人もいないけど)。

ところが、「考え」を扱うことになると、ぼくは途端に自信を失ってしまう。
「考え」を素材にものを作ることに関しても、ぼくは「ブリコラージュ」を自覚してはいるのだけど、しかしそれだけでは自分の「立ち位置」がいまひとつハッキリせず、どうにも不安で自信がないのだ。
それは「考え」という素材独特の性質であるが、「考え」は読むことはできても見ることができず、つまり「全体を見通すこと」が非常に困難なのである。
「考え」というのはまず「他人の考え」として立ち表れ、それは「書物」の形をしているのが一般的だ(口伝もあるけど)。
「書物」というものは、タイトルや目次を見てなんとなく面白そうだと思っても、実際に全部読み終えるまでは「全体」を見通すことはできない。
まして、ある分野の「全体」をある程度見通すためには、その分野に関しての書物をある程度「全部」読まなくてはならないわけで、これは非常に困難なことである。

これが「写真」や「カメラ」についてだったら「見る」だけである程度の全体像はつかめてしまう。
ある程度の数を「見る」だけで、写真の歴史もカメラの歴史もだいたい分かってしまうし、現在における自分の「立ち位置」もだいたい分かる。
これに対し自分の「考え」がどのレベルにあるのか?というのは、実のとこと「考え」が不得意な人ほど分かりづらい、という構造になっている。
「考え」が不得意な人というのは、つまり「読書」が苦手な人であって、だから自分の立ち位置がなかなか把握できずに、どうも自信喪失で不安定になってしまう。

それで「なんかどうでもいい」という気分になって、しばらくこのブログも放置することになってしまっていた。
こういうのは単に「気分」というか「モード」の問題で、ここのところ自分の中で「ものを考える人」のモードのスイッチがかっきりとオフになってしまっていた。
しかしこういう状態が長く続きすぎるのもなんだと思い、ちょっと意識してモードを戻してみたわけで、久々にこちらのブログも更新したわけである。

(*写真と本文は関係ありません。RICOH CX1)

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