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2009年7月 4日 (土)

難解な本を読む技術

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つい最近、高田明典さんの『難解な本を読む技術』(光文社新書)を読んだ。
この本で取り上げられる「難解な本」とは、ラカン、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ、ジシェク・・・のような、哲学や現代思想の専門書を指している。
しかしぼくは、このような「難解な本」を読めるようになるために、この『難解な本を読む技術』を買ったわけではない。
「難解な本」を読むにはまずそれ相応の「頭のよさ」が必要で、ぼくのような「バカ」はたとえ読み方の技術を教わったところで、どうにかなるはずもない。

ではどうしてこの本を読もうと思ったのかというと、それは「頭のいい人」とはどういう人なのか?を知りたいと思ったからである。
頭はよくならない」というブログ記事に書いたとおり、「バカな自分」と「頭がいい人」とはどれだけの差があるのか?をより具体的に知ることは、限られた能力を最大限に生かすために必要なことだといえる。
別な言い方をすれば、自分には「何ができないか」を把握すれば、自分にとっての「できること」や「すべきこと」がより明確になるのである。
また、この本はぼくのような「バカ」が、やさしく書かれた「入門書」を読むための技術としても、応用可能だろう(もとよりこの本自体が入門書である)。

■「同化読み」

さて、この『難解な本を読む技術』では、本の読み方を「同化読み」と「批判読み」の二通りに分けている。
「同化読み」とは、その著者の頭になって、その著者が考えるように「読む」という方法である。
哲学や現代思想の本には、世間の常識や人々の持つ先入観とは、「かけ離れた」概念が提示されている。
だからそういう本を理解するには、自分の持つ常識や感性を「カッコに入れる」、もしくは「棚に上げる」ようにしながら読む必要がある。
もちろん、著者と自分の頭が完全に「同化」することはありえないが、「同化」するつもりでそれを目指すのが「同化読み」である

しかしそう考えると、ぼくは「同化読み」がほとんどできないことに思い当たる。
難解な専門書は言うに及ばず、やさしく書かれた「入門書」でさえ、ぼくは「同化読み」はほとんどできないのではないかと思う。
具体的にどういうことなのかというと、ぼくは自分が「分からない」本は全然読めないのである。
「分からない」とは、自分には当面役に立ちそうに無い、自分とは無関係な概念ということである。
ぼくはこうした概念についていくら親切に判りやすく説明されても「読めない」し「分からない」のだ。

自分に無関係の概念であっても、「自分の常識」をカッコに入れながら読めば、書かれた内容を「知識」として理解することはできるだろう。
しかしぼくにはどうしてもそれが出来なくて、例えば中島義道さんの本は好きでも「時間論」についての記述はどうしても分からないし、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』は多くの人が「入門書に最適」と勧めてるにもかかわらず、どうしても読み進めることが出来ない。
ぼくはどうしても自分の「常識」に沿ってしか読むことが出来ず、それだけ「異なる世界」に触れる可能性に閉じられてしまっている。
入門書からの「雑学」レベルであっても、「同化読み」ができる人は広い分野にわたって知識を蓄えることができ、いわゆる「博学」タイプなのだろうと思う。
逆にぼくは、どうしても自分の興味に偏った「オタク」タイプになってしまうのかもしれない。

もちろん、ぼくは自分の常識に固執するわけではなく、むしろ積極的にそれを変えたいと思っている。
しかし「まるっきり異なる常識」を、丸ごと理解することだけはどうしてもできない。
だから自分の常識の延長で書かれていながら、その常識の「部分変更」を促すような本を求めているわけで、それが「入門書」なのだ。
「入門書」とは「天井知らずの頭のいい人」が地上(常識)世界に下りてきて、地上に何らかの変革をもたらすためのものだと解釈できる。
なぜならいかに「天井知らずの頭のいい人」であっても、結局は地上(常識)世界に根ざして生活している限り、やはり「普通の人」と同じように「地上世界のよりよい変革」を望んでいるのだ。

■「批判読み」

「同化読み」に対する「批判読み」は、その本の「間違い」や「不足」などを批判しながら読むということである。
しかし学問の初心者がイキナリ「批判読み」をしようとしても、その「批判」が妥当なものなのか、それとも「初心者ならではの認識不足」なのかの判断が付きにくい。
だからまず「同化読み」をある程度マスターしてから、「批判読み」を始める事を薦めている。
そもそも、思想や哲学上の新しい知見は、既成の書物の「批判」から始まるわけで、その意味でも「批判読み」は相当に高度な読書法だといえる。
もちろんぼくは、先に述べたように「同化読み」のレベルに達することはできないから、本当の意味での「批判読み」も不可能である。

しかし「入門書」レベルの場合、「バカ」である自分にとっても批判的に読める本というのはあり、そういう「批判読み」は一概に否定されないだろうとは思う。
ただその場合に避けたいのは、「自分の常識」に固執した立場で、本の内容を批判することで、これはいかにも安直である。
例え「入門書」であっても、哲学や思想の本を読むのは「自分の常識」を少しでも変えることが目的なのだとすれば、単に意固地なだけの批判をしても意味がない。
だからバカのための「批判読み」とは、「自分のバカな常識を批判しながら読む」ことだといえるかもしれない。
いや、それだと「批判読み」の意味からズレるかもしれないが・・・(笑)

■「読書ノート」をとりながらの「詳細読み」

「難解な本」は「頭のいい人」にとっても1回読んだだけでその内容を把握するのは困難で、場合によっては難解も繰り返し読む必要がある。
そのための効率の良い読書法として「通読」と「詳細読み」の2段階に分ける方法が紹介されている。
まずはじめに、本の構成や趣旨を把握する目的で「通読」をし、二度目から部分的にきっちり理解するための「詳細読み」をする。
また「通読」の場合も、「詳細読み」の場合も、「読書ノート」をとりながら読む。
まず「通読」しながら「読書ノート」を大雑把な項目に分け、次に「詳細読み」する際にさらに詳しい理解を書き加えてゆく。
そのように、いかに「頭のいい人」であっても「難解な本」ともなれば実に丁寧に取り組まなければ理解不可能であり、そのこと自体に恐れ入ってしまう。

実は、ぼくもノートをとりながら本を読んでいたこともあり、抽象的な概念を図に置き換えながら理解しようとしたこともあった。
学校の勉強がそうであったように、何事かをきちんと勉強して理解するにはノートをとるのは当たり前だと言える。
しかし、ぼくの場合はただでさえ本を読むのが遅く、その上何度も読んだりノートをとったりすればさらに時間がかかるだろう。
ノートをとることは確かに有効だが、それができない場合は「それができない自分」のバカさ加減を自覚しなければならない。

■本の「棚見」

この本では、「本を読む準備」として、自分が読むべき本を選ぶための「棚見」を勧めている。
「棚見」とは書店で本の並んでいる棚を見ることである。
書店の棚に並ぶ本のタイトルだけをぼうっと眺めてるだけでも、世の中にはどんな学問があって、その学問がどのような分野に分かれているのかが分かってくる。
そうした「棚見」を習慣化して繰り返せば、やがて学問全体の構成が把握できるようになり、そうなると自分が読むべき本もだんだん分かってくる。
この本では「読書は本選びから始まる」と書かれており、その出発点が「棚見」なのだ。

実のところ、ぼくはこれまで本選びのために「棚見」を積極的にしてこなかった。
ぼくの本選びは、自分の気に入った著者の本を続けて買うか(高田明典さんもその一人)、入門書の巻末に記された「お勧めの本」を参考にしている。
この方法はそれなりに有効なのだろうが、しかし本選びの方法としては偏っている。
「棚見」の利点は何よりも「全体が見渡せる」点だろうと思う。
例え自分の興味のある分野でなくとも、本や全体にどんな本が並んでいるかを「棚見」をすることは、「本の並びを通して、世の中を知る」事になり、自分の「立ち位置」の把握にも役立つかもしれない。
などともっともらしいことを言いながら、ぼく自身は「棚見」をぜんぜんマスターしてないのだが・・・

『難解な本を読む技術』には、他にもいろいろな読書テクニックが書かれており、それは「バカのための読書術」にも応用可能だと思う。
ともかく、ぼくは自分に「出来ないこと」を自覚しつつ、そろそろ自分ならではの「読書に臨む姿勢」を決めなくてはならない。

(写真と本文は関係ありません RICOH CX1)

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