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2009年7月 6日 (月)

積極的に誤読する

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積極的に誤読する

ぼくなりの「バカのための読書術」を解説したすぐに忘れる読書術イキナリ応用しながら読むの続き。

読書をする場合「何のために読書するか」と言う動機が重要であり、それによって読書法は変わるだろう。
小谷野敦さんの『バカのための読書術』では、「自分がバカなのはわかっているが、しかし自分なりに知識や教養を身に付けたい」というような動機を持つ人を対象に書かれている。
確かにぼくにもそのような動機があるが、しかしぼくの主な動機は別なところにある。

ぼくが本を読む一番の目的は、「非人称芸術」やその上位概念の「鑑賞主義(仮)」とは何か?を知るためである。
しかし「非人称芸術」も「鑑賞主義(仮)」も、ぼくが適当に思いついた概念なので、それについて書かれた本はこの世に存在するはずもない。
ところが、いろいろな本を読んでいると「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について、断片的に書かれていることが「発見」出来るのである。
一見、そういうこととは無関係な記述のようでいて、しかし解釈の仕方によると、それは確かに「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について書かれている。
そういう記述を探しながら、ぼくは読書をするのである。

ぼくが関係のない文章をそのように読めてしまうのは、ありていに言えば「勘違い」であり「誤読」である。
しかしそのように積極的に、あるいは意図的に「誤読」することで、自分なりのコンセプトを構築するのが、アーティストとしてのぼくの方法論なのである。

例えば、ぼくの作品集『フォトモの物件』の巻末テキストは、高田明典さんの『ポストモダン再入門』がベースになっている。
ぼくはこの『ポストモダン再入門』を、「非人称芸術とその可能性」について書かれた本であると、意図的に誤解しながら読み、そして自分が「分かった」つもりのことを「自分の考え」として書いたのである。
もちろん、『ポストモダン再入門』だけでなく、『今日の芸術』(岡本太郎)や『はじめての構造主義』(橋爪大三郎)や『現代思想の冒険』(竹田青嗣)など、これまでさまざまな本を「誤読して得られた知識」がこのテキストには盛り込まれている。

また、『フォトモの物件』の出版後に読んだ中島義道さんや、宮台真治さんや、内山節さんや、日高敏隆さんの本にも、「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」についての非常に重要な記述が発見できる(気がする)。
そのように、自分のコンセプトに役立つ部分を拾い読みしながら、いろいろな分野の読書をするのである。
このような読書法もまた、「器用な素人」ならではの「ブリコラージュ」だと言えるだろう。

ただし前途したように、このような「ブリコラージュ」は「トンデモ理論」と紙一重の危険性がある。
方法論としての「積極的誤読」は、「ノストラダムスの大予言」や、雑誌「ムー」や、「オウム真理教」などの「トンデモ理論」の常套手段でもあるのだ。
しかし「ブリコラージュ」は必ずしも「トンデモ理論」になるわけではない。
両者の違いは、ブリコラージュが「機能する」のに対し、トンデモ理論が「機能しない」点にあり、これはかなり大きい相違点だ。

「ブリコラージュ」という言葉の本来の意味は、「既製品の断片を組み合わせ、新たな機能を持つ道具を作ること」というようなことである。
つまりどんなに凝った工作をしたところで、実際に「機能」しなければそれは単なるガラクタであり、「ブリコラージュ」とは言えない。
そして現代思想の分野では「ブリコラージュ」という言葉が拡大解釈され、「既成概念の断片を組み合わせ、新たな有用性を持つ概念を生み出すこと」という意味で使われている。
有用性=機能であるから、何の有用性も機能もない概念はガラクタであり「トンデモ理論」である。
例えば、1999年7月になっても世界は滅亡することはなく、だから「ノストラダムスの大予言」は「トンデモ理論」なのである。
または「水だけを燃料に走る自動車」や、「スピリチアル」なども、実際の機能がないから「トンデモ理論」である。

しかし逆に考えれば、いかに粗雑に組み立てられた理論であっても、それが何らかの機能をもたらすのであれば、それは「トンデモ理論」とは異なる「ブリコラージュ」だということになる。
そして事実、ぼくの提唱する「非人称芸術」は、「フォトモ」や「ツギラマ」などの作品を生み出す「機能」に結び付いている。
また、ぼくは普通の人が退屈でつまらないと思っている日常世界を、「新鮮で驚異に満ちた世界」として楽しむワザを身に付けているのだが、これも「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」である。

しかし厳密に考えると、「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」は、どれもぼく自身の主観的経験でしかなく、従って客観的な証明ができない。
ぼく自身は、フォトモやツギラマなどの作品を「非人称芸術」のコンセプトと不可分に結び付いていると捉えている。
しかし実際は、「非人称芸術」のコンセプトを理解していないワークショップの生徒でも、フォトモやツギラマの「なかなか良い作品」を作ることが出来るのだ。
だから方法論的に自分にイジワルく考えると、「非人称芸術」は実は何の機能もない「トンデモ理論」であり、フォトモやツギラマ作品が良い理由はまったく別のところにある、という可能性もある。

しかし闇雲に自分を疑ってばかりいても、何も前には進まない。
自分に対する疑いを頭の隅に置きながら、当面は「非人称芸術」の有効性を信じ、さらに「鑑賞主義(仮)」としての可能性を追求して行くしかないだろう。
もし、「非人称芸術」のコンセプトに「本当の有効性」があるのなら、ぼくよりもっと頭の良い専門化がそれを証明してくれるかもしれない。
その反対に「非人称芸術」が「トンデモ理論」だとすれば、やはりそれも誰か頭のいい人が指摘してくれるに違いない。
それまでぼくは勝手な方法で読書して、勝手なことを書き散らすのみである。

(写真は本文と関係ありません RICOH GR DIGITAL Ⅲ)

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