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2009年7月

2009年7月26日 (日)

ようやく「鑑賞主義」について

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(*「ツギラマ」は、「鑑賞主義」という新たな「神話」のための挿絵である)

■前提としての神話論

文化人類学者のレヴィ=ストロースは、いわゆる「未開部族」と言われていたさまざまな部族の「神話」を比較研究するうち、人間にとっては「すべては神話である」という結論を見出し、思想や哲学の世界に決定的な影響を与えた。
なぜなら、古い歴史を持つ「ヨーロッパ的知」が、未開部族の神話と「同じものだ」などと、それまで誰も考えなかったからである。
しかし、「ヨーロッパ的知」をマスターした人があらためて考えると、なるほどレヴィ=ストロースの言うことはもっともなのである。
なぜなら、人間は「五感」を使ってしか世界を認識することができず、「言葉」を使ってしかものを考えることができず、そういう「制限」のため原理的に「真理」に到達できないからである。
「ヨーロッパ的知」は長い歴史の中で「真理」を追求してきたが、それは決して「真理」ではなく、多くの未開部族の「神話」と同じく荒唐無稽でデタラメな「物語」に過ぎないのだ。

そして「現代思想」はそのような前提のもと、「真理の追究」をあきらめ、「機能主義」に進路変更したのだ。
例えば、「人間にとって幸福とは何か?」という問いを立てると、それは「真理の追究」になる。
しかし「人間が幸福になるにはいかなる方法があるのか?」という問いの立て方をすると、それは方法論の模索であり、「機能主義」である。
「現代思想」の分野では社会学も、経済学も、法学も、それぞれのやり方で「真実」ではなく、より有効に働く「機能」を追求しているのだ。

「現代思想」がなぜこのような態度を取るのかと言うと、それはあらゆる「神話」は荒唐無稽でデタラメな内容でありながら、人々にとって役に立つ「機能」を備えているからである。
例えば、人々が荒唐無稽な「神」を信じ、それが人々の幸福に結び付くのなら、「機能主義」的にはOKである。
もちろん、現代においては素朴に「神」を信じることが人類の幸福に結び付くとは考えにくい。
だから「現代思想」は社会学や、経済学や、法学などの分野に分かれ、それぞれのやり方で「人類を幸福にする方法」を模索しているのだ。
人間はその内容がいかに荒唐無稽であっても、何らかの「物語」を信じなければ生きてゆくことが出来ず、これが「神話」の「機能主義」としてのあり方なのだ。

ところで「機能主義」と言えば、その最たるものは「科学」である。
そして、「全ては神話である」からには、「科学」もまた「神話」なのは当然である。
実のところ、「科学」が生み出す「機能」は、その効果を「信じる者」にとってのみにしか存在し得ず、だから「科学」も「神話」のひとつに過ぎないのだ。
例えばぼくは「携帯電話」を持っていないが、それはぼくが「携帯電話は便利だ」と言う「神話」を丸ごと信じていないからである。
もちろん、ぼくはこうしてパソコンを使ってブログも書いているし、「科学」の持つ「機能」そのものは否定しているわけではない。
しかし、いくら他人から「便利だよ」と言われても、その使い方はおろか利便性そのものがまるで理解できない機械というものは、誰にとっても少なからず存在するはずだ。
つまり「科学」も諸伝は「神話」のひとつであり、「科学」を絶対視する視点もまた「神話」なのだ。

ひとつの例外も無く、人間にとっては全てが「神話」なのである。
そして「神話」と「神話」とを比較する限りにおいて、どれがより「正しいか」と言う判断をすることはできない。
「神話」であるからにはどの内容も荒唐無稽であり、「真理」からは程遠いのだ。

しかし「神話」と「神話」は、その「機能の有効性」を比較することはできる。
ぼくは以前、このブログで「科学は呪術に過ぎない」と書いたが、「科学」はあらゆる「呪術」と機能が比較され、もっとも有効性の高い「呪術」だと判断されているに過ぎない。
だから時には「現代医学」と比較した結果、「漢方医学」の方が有効性が高いと判断されることもあるのだ。

レヴィ=ストロースも、未開部族の「神話」と、「ヨーロッパ的知」とを同じ「神話」とみなした上で、その「機能」を比較する研究を行なったのである。
この流れを受けた「現代思想」の分野では、何もかもが「神話」とみなされ、その「機能」の比較研究が行われているのだと言える。
これはかなり乱暴なまとめ方だが、自分なりにシンプルで分かりやすい「神話」としてまとめると、このようになるのである。

■「鑑賞主義」とは

以上の事を踏まえ、「神話」に対して「機能主義」以外の比較基準を考えてみたのが、「鑑賞主義」なのである。
「神話」と「神話」は「正しさ」の比較ができず、「機能」の比較だけができるのだと先に述べた。
しかしそれ以外に「神話」どうしは「面白さ」の比較もできるのではないか?とぼくは考えるのだ。

実際、レヴィ=ストロースの『野生の思考』に示された未開部族の「神話」のサンプルは、どれもがあまりに荒唐無稽な内容で、目の覚めるような面白さなのである。
そして、それらの「神話」はどれもフィクションではなく「事実」として語られているとことに凄みがある。
荒唐無稽な面白さを持ち、なおかつ凄みのあるものは、すなわち「芸術」である。
だからぼくは、人間にとって全ては「神話」であり、そして「神話」と「神話」は「芸術的な価値判断」が可能なのだと、直感したのである。
未開部族の「神話」も、「現代思想」も、「哲学」も、「科学」も、そして「芸術」も、全ては「神話」であり「芸術的価値判断」という同じ「土俵」に並べることができるのだ。
この様な価値判断の仕方を、なんと名付けようかと思い、仮に「鑑賞主義」としたのである。

ぼくは、現代思想や哲学や科学の入門書を好んで読むが、それらは「鑑賞主義」として楽しんでいるのである。
このような本を「鑑賞主義」として読むから「面白い」と感じるのだ。

また、路上のさまざまなものを「鑑賞主義」として解釈すると、それは「非人称芸術」となる。
だから「鑑賞主義」は「非人称芸術」の「上位概念」なのである。

昆虫や植物などもぼくは「鑑賞主義」として解釈して楽しんでいる。
だから「路上ネイチャー」と「非人称芸術」は、「鑑賞主義」のコンセプトでつながっているのである。

このブログに投稿したテキストも、芸術論のほか生物学や現代思想などいろいろなことをテーマにしているが、全ては「鑑賞主義」の立場で書いている。
つまり、何か小難しいことを書いているようでいて、実は「面白がってもらう」事を前提に書いているのだ(それが成功しているとは限らないが)。
と言うか、ぼくは「非人称芸術」やこの「鑑賞主義」のコンセプトも含め、全ては新たな「神話」を創造するつもりで書いている。
そして、レヴィ=ストロースが「神話」の創造にブリコラージュ的方法が使われる例を示したことに倣い、ぼくも「ブリコラージュ」の手法で考えて書くのである。

ところで、「鑑賞主義」と「機能主義」は相反するのではなく、むしろ相関関係にあると言える。
ある「神話」が「機能主義」的に見事に機能する場合、そのこと自体が「鑑賞主義」的に面白いのである。
例えば宮台真司さんや内田樹さんなどの頭の切れる人の本は、見事に機能してるがゆえに面白いと感じられる。
いや、本質的に芸術とは「機能しないもの」なのであるが、理不尽な「神話」の体系内での「機能」はやはり理不尽であり、だから「芸術的に面白い」のかもしれない。
まぁしかし、この辺のとことはまだちょっと考え中で、まだ未整理である。

だた、少なくとも「鑑賞主義」には「芸術としての機能」があり、その意味で「機能主義」なのだと言える。
そして、全てを「芸術」として鑑賞できれば、それが「人々の幸福」に結び付くかも知れず、これは「機能主義」としての「現代思想」の目標とも合致しないとも限らないのだ。

■「鑑賞主義」の今後

以上、ようやくこのブログで肝心の「鑑賞主義」のコンセプトについて語ることができた。
まだ言い足りなかったり、分かりにくかったりする要素も多いと思うが、ともかくこれからは「鑑賞主義」と言うことでやっていこうと思う。
ただ、この名前は決定稿ではなく、あくまで「鑑賞主義(仮)」でしかない。
名付けと言うのは肝心で、しかも知識が無いと言い名付けもできないから、なかなか難しいのだ。

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2009年7月25日 (土)

「非ユークリッド写真」とそれ以外

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(*『東京昆虫デジワイド』に収録された写真は「非ユークリッド写真」ではない。しかし「人間以外の視点」を比較対象に置くことで「アンチヒューマニズム」が表現されている。)

「非ユークリッド写真」はまず「ツギラマ」から始まり、「ツギラマ」は立体的な「フォトモ」へと発展した。
一方では、「非ユークリッド写真」のもっともミニマルな形態として、「2コマ写真」の技法が見出された。
最近、「ブログ2・2コマ写真」の更新がすっかり途絶えてしまったが、「2コマ写真」の新作は「デジカメWatch」連載の「切り貼りデジカメ実験室」に掲載しているので、こちらをご覧いただければと思う。

「デジカメWatch」はデジカメのニュースサイトだから、デジカメで撮影した「作例」を掲載するのが基本である。
そこにぼくが「2コマ写真」を掲載するのは、基本的に公共のメディアには自分のコンセプトから外れた「普通の写真」を載せたくないからである。
「2コマ写真」は一見普通の写真でありながら、実は「非ユークリッド写真」の最小形態なのである。
「非ユークリッド写真」とは「多点透視」であり、その最少数は「2」なのだ。
いや難しい理屈抜きでも、同じ被写体を2枚の写真で撮影すれば、それは一般には真面目な「写真作品」とは受け取られないだろう。
「写真作品」として不真面目なのであれば、それは「非人称芸術の記録再現」としては真面目なのだ。

しかし実はぼくは同じ「切り貼りデジカメ実験室」の連載で、普通の「1コマ写真」も掲載してるのである。
それが「路上ネイチャー」と名付けたシリーズであり、ブログ「路上ネイチャー協会」にもたくさん掲載している。
また、ぼくの写真集『東京昆虫デジワイド』も基本的に「1コマ写真」だし、このページに掲載した『60倍の惑星』シリーズも「1コマ写真」である。
普通の「1コマ写真」である限り、これらは当然「非ユークリッド写真」ではないのである。

ところがぼくの中では、これらの写真は「非人称芸術の記録再現」だという確信があるのだ。
だから「非ユークリッド写真」とは、ユークリッド数学的世界観を否定した写真ではなく、ユークリッド数学的世界観に「こだわらない」写真なのだと、あとで定義し直したのだ。
普通の写真では「非人称芸術」は表現できない、というのは「実体」ではなく「概念」に過ぎないから、この事にこだわり過ぎても意味がない。
また、「非人称芸術」自体も「実体」ではなく「概念」の産物だから、本人が「非人称芸術」を写したつもりの写真には、「非人称芸術」が写っているのである。
ただ、「非人称芸術」を普通の「1コマ写真」で撮ると、それがヒューマニズムに基づく「写真作品」だと誤解される可能性が大いに高く、それをして「非人称芸術が表現されにくい」と言ってるのである。

だが、「路上ネイチャー」や「東京昆虫デジワイド」や「60倍の惑星」は、「1コマ写真」でありながらヒューマニズム的視点と誤解される余地が格段に少ないように思う。
あらためて考えると、これらのシリーズには人間世界の他に、それ以外の「比較対象」が写っている。
それは「路上ネイチャー」や「東京昆虫デジワイド」の場合は「虫」であり、「60倍の惑星」では「1/60フィギュア」であり、これらは共に「人間以外の視点」を表している。
さらにこれらの視点は、人間のスケールとは異なる小さな視点であり、「人間以外の視点」であることがより強調されている。
「人間以外の視点」とはすなわち「アンチヒューマニズム」の視点であり、これらの写真にはそれがハッキリ現れているため、誤解の余地が少ないのだ。

しかし近代の延長である現代社会は「ヒューマニズム」が基本であり、ぼくが提示しようとする概念はなかなか理解されず、誤解されるしかないのかも知れない。
ただぼくは、「ヒューマニズム」を全面否定してるわけではなく、認識の一領域としての「アンチヒューマニズム」を提示しているだけなので、どこかで折り合いが付きそうな気がしているのだ。

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2009年7月24日 (金)

「非ユークリッド写真」の新解釈

Sneko
(*「ツギラマ」は「多点透視」の描写を特徴とする「非ユークリッド写真」の原型であり、「アンチヒューマニズム」の視点が表現されている)

ぼくはその昔、「非ユークリッド写真連盟」という組織を名乗って活動していた。
ところが途中から「非人称芸術連盟」と改名し、しばらく活動したところで現在は事実上解散している。

はじめに名付けた「非ユークリッド写真連盟」を改名しようとした理由は、自分の活動を表す言葉として「非ユークリッド写真」よりも「非人称芸術」の方がより重要だったからだ。
「非ユークリッド写真」というのは、「フォトモ」や「ツギラマ」などの技法についての概念に過ぎず、それに対し「非人称芸術」は創作活動の前提となる概念だから、格段に重要度が高いのだ。

ところが「非ユークリッド写真連盟」を名乗ったしばらく後に、「非人称芸術」という概念を思い付いたため、はじめからそれを組織名にできなかったのだ。
しかし、「非ユークリッド写真連盟」の肩書きで自分の活動内容を語ると、まず「非ユークリッド写真」の説明をした後でないと、肝心の「非人称芸術」の説明ができず、いつももどかし気分でいたのだ。

それで、作品集『フォトモの街角』を出すのに合わせて「非人称芸術連盟」に改名することにしたのだ。
それに伴い「非ユークリッド写真」という概念も、説明上では使わなくなってしまった。
「非ユークリッド写真」という言葉を使わなくても「フォトモ」や「ツギラマ」の説明はできるし、そもそもぼくが伝えたいのは「技法」ではなく「ものの見方」や「概念」であり、そこを強調したかったのだ。

だが、言葉としては「非人称芸術連盟」はどうも印象が薄く、「非ユークリッド写真連盟」の方がキャッチーで人々に覚えられやすい。
それでぼくは改名に躊躇していたのだが、しかし最終的には「印象」よりも「意味」を重視して改名したのだ。
案の定、改名後に「糸崎公朗(非人称芸術連盟)」と名乗っても、以前ほど人々のリアクションは得られず、最近は単に「糸崎公朗」と名乗るようになったのだ。

ところがつい先日、「非ユークリッド写真」という言葉に新たな解釈を与えられることに、ふと気がついたのだ。
ポイントは、以前の記事に書いた「アンチヒューマニズム」という概念である。
ぼくの芸術家としての活動は「アンチヒューマニズム」に根ざしており、それを表す言葉が「非人称芸術」なのである。
そして同じように、「非ユークリッド写真」という言葉も、「アンチヒューマニズム」の意味を表すことに気付いたのだ。

「非ユークリッド写真」の反対は「ユークリッド写真」で、これはいわゆる普通の写真のことである。
普通の写真は、ユークリッド数学(普通の数学)に基づく「一点透視」により描写されている。
「一点透視」の理論はルネッサンス時代に完成した、近代的な<私>による視点であり、つまり「ヒューマニズム」に基づく視点なのである。
それに対し、複数の写真で構成された「フォトモ」や「ツギラマ」は非ユークリッド数学的な「多点透視」で描かれ、それは<私>の視点が判然としない「アンチヒューマニズム」の視点なのである。

「多点透視」で描写された「非ユークリッド写真」は、それだけで「アンチヒューマニズム」を表現する。
だから、同じく「アンチヒューマニズム」に根ざした「非人称芸術」と、必然的に結び付くのだ。
ぼくは過去に「非ユークリッド写真」は「非人称芸術」の記録表現に「適している」と説明していたが、実際のところもっと根源的なところで、必然的に結び付いていたのである。

そしてその逆に、いわゆる普通の写真は「非人称芸術」の記録再現にあまり適さないということになる。
写真の基礎を成す「一点透視」の理論は、近代的な<私>の概念とともに発展し、だから「写真」と「ヒューマニズム」とは実に深い関係がある。
言ってみれば「写真」は「ヒューマニズム」を表現するためのメディアなのである。
だから「非人称芸術」を普通の写真で撮影しても、「非人称芸術の記録再現」にはならずに、どうしても「写真作品」に見えてしまうのだ。

別の言い方をすれば「写真」が、「ヒューマニズム」の視点をあらわす「記号」として、広く認知されているのだ。
だから普通の写真技法で「非人称芸術」撮影しても、そこに「アンチヒューマニズム」としての視点が、どうしても表れにくいのだ。
つまり、「非人称芸術」にはそれを「記号」として表現する専用のメディアが必要で、それが「非ユークリッド写真」なのである。

ここで、7月19日の記事『「写真」と「非人称芸術」』で示された疑問の答えにつながる。
それは写真家のFさんによって投げかけられたものだが、あらためて採録してみる。

>糸崎さんの「非人称芸術」という言葉に表された概念は、現代の写真家の多くが共通して意識している、自明的概念である。
>特にアメリカの写真家たちには、それが強く意識されている。
>そもそも「非人称芸術」的な概念は、古くはベンヤミンの著作に記されている。
>糸崎さんはそういう状況を知らずに、「非人称芸術」のコンセプトを自分のオリジナルのように提唱しているが、自明的なことをわざわざ主張するのは無意味だ。
>糸崎さん自信も自分の「無知」を自覚しているのなら、それを正したほうがいい。

まぁ、ぼくはベンヤミンを読んでないし(ぼくの頭で読めるかどうかも分からないし)、アメリカの写真界や美術界のこともよく知らないので、それについてはまだ何も言うことはできない。
しかし「非ユークリッド写真」のあらなた意味づけと照らし合わせると、少なくとも普通の「写真」の形式にこだわっている限り、「ヒューマニズム」の概念から抜け出すことは難しいのではないかと思うのだ。

確かに、ぼくが「非人称芸術」の言葉を口にした時、Fさん以外の人からも「写真って一般的にそういうもんですよね」とか、「ぼくもそれに近い気分で写真を撮ってます」などと言われることがある。
「写真」には自分の意図しないものが写りこんでしまうことが多いから、その意味では「非人称」的だといえるかもしれない。

しかし「写真」を「自分の作品」として解釈する限り、それは真の意味で「非人称芸術」にはなりえないのではないかと思う。
人が創った「作品」という概念は、当然のことながら「ヒューマニズム」に根差している。
だからぼくは「フォトモ」や「ツギラマ」を「自分の作品」ではなく「非人称芸術の記録再現」として位置付けている。
「フォトモ」や「ツギラマ」が作品としてどんなに素晴らしくとも、それは「実物」としての「非人称芸術」の劣化コピーでしかない。
真に素晴らしいのは「非人称芸術」の実物であり、「フォトモ」や「ツギラマ」はそのオマージュとして、製作してると言えるかもしれない。
ぼくにとっては「フォトモ」や「ツギラマ」よりも「現実」のほうが圧倒的に価値が高い。
「作品」よりも「現実」に高い価値を見出すから、ぼくの立場は「アンチヒューマニズム」なのである。

ところが、たいていの写真家は「現実」よりも「写真」の方が好きであり、だからそういう人達とは「非人称芸術」の概念は共有し得ないのではないかと思うのだ。
多くの写真家は、「非人称芸術」とはまた違う価値観で「写真」を撮っており、ぼくはそれが何なのかを知るために「普通の写真」を撮る実験をしてるのだ。

これとは別に、「写真」よりも「現実」を重視する写真家もいて、それは例えば昆虫写真家のようなネイチャー系に多い。
虫が好きで昆虫写真家を始めた人にとっては、「写真」よりも「現実の虫」の方が重要なのは当たり前で、そういう人達のほうがぼくと感覚が近い。
もちろん、昆虫は「非人称芸術」ではないが、「科学的に判断する以前に鑑賞してしまう」という「鑑賞主義(仮)」の感覚は、共有しているように思うのだ。

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2009年7月20日 (月)

7月26日(日)「ツギラマ」ワークショップ開催します

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募集人員に若干余裕があるとのことなので、あらためて告知します。
7月26日(日)、鎌倉にある神奈川県立近代美術館で、ツギラマのワークショップを開催します。
デジカメの貸し出し(RICOH R10)もありますので、手ブラでの参加OKです。
もちろん、完成作品は各自お持ち帰りなので、帰りは手ぶらではないですが・・・
それと、プリント代は自己負担となります。
詳細と申し込みはこちらから。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallNewsDetail.do?no=1247566882484&hl=k

(*写真は高松市美術館での「ツギラマ」ワークショップの様子)

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2009年7月19日 (日)

「写真」と「非人称芸術」

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(*「非人称芸術」の記録写真と明確な差異化を図るため、意図的に「ヒューマニズム」の観点を導入して撮影した「普通の写真」。)

先日とある飲み会の席で、写真家のFさんからかなり核心をついた、辛辣な意見をいただいた。
以下、彼の言葉そのままではないが、記憶を頼りに意見をまとめてみよう。

>糸崎さんの「非人称芸術」という言葉に表された概念は、現代の写真家の多くが共通して意識している、自明的概念である。
>特にアメリカの写真家たちには、それが強く意識されている。
>そもそも「非人称芸術」的な概念は、古くはベンヤミンの著作に記されている。
>糸崎さんはそういう状況を知らずに、「非人称芸術」のコンセプトを自分のオリジナルのように提唱しているが、自明的なことをわざわざ主張するのは無意味だ。
>糸崎さん自信も自分の「無知」を自覚しているのなら、それを正したほうがいい。

こうして書き出してみると、ぼくの立場の全否定とも取れる内容ではあるが、こういうことを面と向かって言ってくれる友人というのは、実にありがたい存在である。
もちろん、相手が何の実績も無い口だけの人間だったら、ぼくはその意見に動じることはないだろう。
しかしFさんは日本の現代美術界でも屈指のギャラリーの契約作家であり、国内はもとより海外での展覧会も豊富で、しかもぼくよりもインテリそうだし、その意見には説得力があるのだ。
そして事実、ぼくはFさんに対する明確な反論が出来ないでいる。
つまり、「非人称芸術」と「写真」(いわゆる普通の写真作家の写真)との区別が、上手く説明できていないのだ。

これが「非人称芸術」と「芸術」(一人称の作者による芸術)の違いであれば、いくらでも説明できるし今までさんざんしてきた。
ところが改めて考えると「非人称芸術」と「写真」の違いの説明が判然としないままおろそかになっており、Fさんはその「痛いところ」を見事に突いてきたのだ。
いやぼく自身、「非人称芸術」と「写真」の違いが判然としない問題は以前から意識していた。
だから最近になって積極的に「写真」を知ろうとしており、他の写真家を真似て「普通の写真」を撮ってみたり、Fさんをはじめとするいろんな写真家に話を聞くもの、その一環なのだ。

ぼくが「分からない」とする「写真」とは、例えば雑然とした日本の街並みを撮ったいわゆる「路上スナップ写真」である。
こうした「写真」撮る写真家は実に多く、Fさん自身もその一人である。
具体的な例を挙げると、内原恭彦さんが「デジカメWatch」に連載していた「Web写真界隈」に登場する多くの写真家がそうである。
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/2006.html
いや内原さん自身が、デジタル時代の「路上スナップ写真」の筆頭のような存在で、毎日大量の写真を撮り、ホームページに大きなサイズの画像を、キャプションなしに淡々とアップするスタイルが非常にカッコ良かった(現在サイトは閉鎖されている)。
http://uchihara.info/

ぼくはもちろん、内原さんのカッコ良さとは全然別の方向を目指しているのだが、しかし内原さんの写真を見ているうちに、「これも非人称芸術だと言えるのではないか?」ということに気付いたのである。
内原さんでなくとも、「Web写真界隈」に取り上げられた多くのサイトの写真のように、雑然とした街並みをストレートに写した写真には、必然的に「非人称芸術」が写り込むのだ。
実のところ「非人称芸術」のコンセプトの上では、「雑然とした街み」の何もかもが「非人称芸術」の「可能態」なのである。
「雑然とした街並み=非人称芸術」ではないが、街並みの何もかもが「非人称芸術」だと解釈できる可能性を持っている。
だから全ての「路上スナップ写真」には、「非人称芸術」として解釈できる「可能態」が写されている。

そう思って「路上スナップ写真」をアップしたサイトを見てみると、全てが「非人称芸術」を写したものとして鑑賞可能なことに気付くのだ。
「非人称芸術」はその鑑賞者が創造するのであり、主観に基づく「解釈」が全てである。
そしてぼくの「主観」では、「路上スナップ写真」の全てに「非人称芸術」が必然的に(あるいは不可避的に)写り込むのだと、そういう「解釈」をしても構わないと思えるのである。

だからぼくは、このブログに「単なる飾り」としてアップしている「普通の写真」には、なるべく「非人称芸術」が写らないようにして、自分が本来撮るべき写真とは区別している。
いや、街中でスナップすれば必然的に「非人称芸術」は写り込んでしまうのだが、それとは異なる「観点」を導入することで、「差異」を付けているのだ。
これは最初から意識していたことではないが、ぼくは「普通の写真」として「人物」を中心に撮るようになった。
「人物スナップ」の観点を導入すれば、「非人称芸術」のコンセプトとの「差異」を付けることができることに、途中から気付いたのだ。

どういうことかというと、「人物スナップ」の視点は「ヒューマニズム」に基づくものであり、それに対し「非人称芸術」は「アンチ・ヒューマニズム」に基づいているのである。
「非人称芸術」が「アンチ・ヒューマニズム」なのは、まさに「非人称」という言葉に表れている。
一人称・二人称・三人称の「ヒューマン」を否定したところに、「アンチヒューマニズム」としての「非人称」という概念があるのだ。

そもそも近代的な「芸術」とは「ヒューマニズム」の一側面である。
「神」無き時代(近代)の「芸術」とは、「芸術至上主義」であると同時に「人間至上主義(ヒューマニズム)」を体現している。
しかし「非人称芸術」は、「芸術至上主義」の理念をより純粋化するため、「芸術」から「ヒューマニズム」を差し引いた概念なのである。

「ヒューマニズム」を否定することは、人間が作ったあらゆるものの「意味」を否定することである。
「雑然とした街並み」が「街並み」であることの「意味」を否定する視点によって、「非人称芸術」は見出されるのである。
ぼくが撮影したフォトモをはじめとする「普通でない写真」には、理念的には「人間が与えた全ての意味が剥奪されたもの」が写し取られている。

また「ヒューマニズム」の否定は、「人間が主観的に表現すること」全般に対する否定でもある。
だから当然「写真表現」も否定するのであり,だからぼくは「記録写真」に徹しているのだ。
ぼくが撮影するのは「非人称芸術」の「記録写真」であり、それは実物の「レプリカ」でしかなく、「実物」よりずっと価値が下がるものだ。
ぼくは自分の写真を、そのように位置付けている。

もちろん、ぼくは「ヒューマニズム」という概念を、実生活に渡ってまで完全否定しているわけではない。
ぼくが「ヒューマニズム」を否定するのは、あくまで「非人称芸術」というコンセプトの中だけでしかない。
だから実生活では「ヒューマニズム」に基づいて考えて行動するし、他人の「芸術」を鑑賞するときも「芸術至上主義」と「人間至上主義」の両方意識している。

果たして、このような「非人称芸術」のセンスや価値観を、他の「路上スナップ写真」の写真家たちと共有しているのだろうか?
非常に疑問ではあるが、実際のところは不明である。
何しろぼくは「写真」について分からないことが多いし、「非人称芸術」についても他人に十分に説明できているとは限らない。
これについては、さらにいろいろ調べて考えてみようと思う。

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2009年7月15日 (水)

「グループ<位>」と「非人称芸術」

以前、美術家の大先輩である彦坂尚嘉さんから「糸崎さん以前にも、非人称芸術を提唱していた人達がいた」というお話を伺っていた。
それで改めてネットで検索すると、確かに「非人称」をコンセプトにした「グループ<位>」という前衛美術集団が存在することが判明した。

まずは以下のサイトのから写真と紹介文の一部を引用。
http://www.artm.pref.hyogo.jp/2002-2008old/exhibition/j_0411/right.html

>■グループ〈位〉とは?
>「グループ〈位〉」は、1965(昭和40)年、神戸在住の若い美術家9名(井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博州、豊原康雄、中田誠、向井孟、村上雅美、良田務)で結成されたグループです。その後、メンバーは変動し、現在は河口龍夫、豊原康雄、中田誠、向井孟の4名です。

>■グループ〈位〉の特徴
>グループ〈位〉は、私たちがいま存在するこの世界とは何かという哲学的なテーマに強い関心を持ったグループです。グループ〈位〉は、個人の感覚では複雑で多様な現代の一面しか認識することができないという自覚のもとに、世界とは何かを、個人ではなく集団で思考し、それを作品としてあらわしました。
>1965(昭和40)年8月に岐阜市内各所で開かれた「アンデパンダン・アートフェスティバル」での《穴》(会期中、メンバー全員で長良川河畔に巨大な穴を堀る作品。ひとつの目的のために全員の意志と力を結集する試み)や、同年11月に開催した「非人称展」(メンバー全員で全く同じ絵画を描き、作者を入れ替えて発表。個人を無化する試み)、1967(昭和42)年11月に京都で開かれた「フィルムユ67」で発表した映像作品《観測の時間(15秒)》(風景や物体を15秒間ずつ撮影した計60分の作品。「15秒」という客観的な基準からすべての存在を平等に置き直し、世界の成り立ちを問い直す試み)などには、彼らの思想がよくあらわれています。

また、以下のサイトには「グループ<位>」のさらに具体的な記述があり、非常に興味深くて面白いのだが、そこから一文だけ引用しよう。
http://www.arttowermito.or.jp/atm-info/400/437.html

>「非人称絵画展」の会場に画家と名のる人が来て「非人称絵画のようなことをやっていては絵画が死んでしまう」と言って大喧嘩になったというエピソードは、オリジナリティという神話に素朴な信仰をもつその画家の生真面目な反応を見てとれるが、オリジナルの概念そのものに疑問を持ち始めた河口たちと会話が成立しなかっただろうことは想像に難くない。

「グループ<位>」が結成された1965年というのは、日本の「モダニズム芸術」が盛んだった時代であり、赤瀬川原平さんらの「ハイ・レッド・センター」もそうなのだが、さまざまなグループが独自のコンセプトを掲げ、「既成美術の解体」を目指していた。
そのような時代の中、「グループ<位>」のメンバーは、芸術の作者が「個人である」ことに疑問を持ち、それを無化するために「非人称」という概念を導入したようだ。
芸術の作者を「集団化」し「匿名化」することで、創造における「個人」の限界を突破しようと試みたのかもしれない。
「非人称絵画のようなことをやっていては絵画が死んでしまう」といった画家がいたそうだが、むしろ「絵画を生かすために画家を殺した」のが非人称絵画のコンセプトではないだろうか。

しかしその後、実際に世の中がどうなったのかというと、芸術の世界は相変わらず「一人称としての作者の作品」が主流で、画家も絵画も死んではいないように思える。
だが、ぼくの見たところでは「非人称としての作者」という概念は、近代以前の日本の伝統でもあるのだ。
例えば「連歌」というものがあるが、これは集団で開く「歌会」の中で、先に他の人が詠んだ歌の下の句を、自分の歌の上の句に取り入れて詠い、そうやって次々に詩作をつなげてゆく「ゲーム」である。
この「連歌」の中では、例え自分が詠んだ歌であっても、作者は自分のようで自分ではなく、まさに集団的な「非人称」の効果なのである。
「連歌」とは、創造における「個人」の限界を突破するため、集団の中から「作者としての非人称」の効果を引き出すためのシステムだと言える。

また、「2ちゃんねる」をはじめとする匿名掲示板の世界では、かつての連歌のような集団による非人称的創造が、実に自然なかたちで立ち現れている。
例えば「AA」はまさにその好例である。
2ちゃんの書き込みによく登場するAAはオリジナルの作者が不詳であり、しかもオリジナルに対しさらにさまざまな人により手が加えられて変化し続けるから、その作者は「非人称」なのである。
匿名掲示板の世界では「オリジナリティ神話」は完全に否定されている。
現代のAAは、「グループ<位>」の「非人称絵画」に極めて近く、しかもより大集団で「生き生き」と展開しているように思える。

では、「グループ<位>」の活動と、ぼくが提唱する「非人称芸術」の関係はどうなのかというと、少なくともぼくとしては「だいぶ違うもの」のように思える。
同じく「非人称」という言葉と使ってはいても、その「配置の仕方」がずいぶん異なっているように感じる。
「言葉」というものは、文脈での配置の仕方によって「意味内容」がまったく異なるという性質があるが、「グループ<位>」とぼくが提唱する「非人称芸術」は、まさにそのような関係にあるように思う。

「グループ<位>」の「非人称」は、連歌やAAの「非人称」と同じであり、それは「作者としての非人称」である。
「作者としての非人称」には、当然のことながら「創造の意図」が存在する。
そこが、ぼくが提唱する「非人称芸術」と決定的に異なっている点である。

「非人称芸術」における「非人称」には、「創造の意図がない」ということが、最大のポイントなのである。
ぼくは「意図がない人間の行為」を「非人称」という言葉で表現したのである。
そのように「意図がない人間の行為」に対し、ぼくは自分の「意思」でそれを「芸術」として解釈し、その結果目の前に現れるのが「非人称芸術」なのである。

無理やり短くまとめると、「グループ<位>」が「集団で非人称的に意図する」のに対し、ぼくは「意図のない非人称を自分の意図で解釈する」のであり、両者は全く概念が違うのだ。
もしかすると、「グループ<位>」の「非人称」の捉え方は、「個人所有」を否定したマルクス主義の影響を受けたのかもしれない。
いや、マルクスについてあまり知らないでテキトーなことしか言えないが、少なくともぼく自身は70年代半ば以後に日本で知られるようになった「構造主義」の影響を強く受けている。
だから、「グループ<位>」の活動とは「時代が違う」のであって、言葉が同じでも意味内容が全く違うのも当然だと言えるのだ。

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(*非人称的な作者の「創造の意図」により生じたアスキーアート。グループ<位>の「非人称絵画」と通じるところがあるだろうか? Wikipediaより引用)

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(*「創造の意図」のないところに生じた「非人称芸術」としての絵画は、グループ<位>の「非人称絵画」とは決定的に異なっているように思う。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その2。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その3。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その4。岐阜市 GX200)

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2009年7月14日 (火)

「野生の思考」と「野放しの思考」

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(*元あった階段が撤去された結果に出現した「高所ドア」)

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(*元あった出入り口が塞がれた結果に出現した「純粋階段」)

前々回の記事で、「非人称芸術」は「野生の芸術」と言えるようなものだと書いた。
しかし「非人称芸術」はレヴィ=ストロースの言うところの「野生の思考」の産物とは微妙に違うのだ、と書いたのが前回の記事である。
今回はこれについて、もうちょっと書いてみようと思う。

レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」とは、分かりやすく言えば「ブリコラージュ」的思考を指しているのだが、少なくとも「工作の側面」で考えると「非人称芸術」はブリコラージュの産物ではない。
工作としての「ブリコラージュ」は、その製作者の「意図」の産物である。
ぼくが100円ショップのタッパーを改造して、デジカメのストロボ拡散板を作る工作は、ぼくの「意図」に基づいて行なわれる。

それに対し、「非人称芸術」はあらゆる人々の「意図」を外れて生じるものであるから、その意味での「ブリコラージュ」とは決定的に異なる。
いや実際は、「非人称芸術」の多くが「街の住人」のブリコラージュによって生じるのであるが、そのブリコラージュが「芸術を意図して工作されたものではない」以上、概念としての「非人称芸術」の発生にブリコラージュは関与していないのだと言える。
例えば、「非人称芸術」としての「高所ドア」や「無用階段」の発生原因を、「工作としてのブリコラージュ」に求めるのは明らかに「間違い」である。

しかし、芸術の意図の無いところに生じた「高所ドア」や「純粋階段」を、「非人称芸術」だとみなす視点そのものは、ブリコラージュ的思考の産物だといえる。

「芸術」を既成の「芸術の文脈」に沿って飲み考えることは、まさに「栽培種化された思考」である。
これに対し、、「芸術で無いもの」を「芸術的視点」で結び付けること自体がブリコラージュであり、これはレヴィ=ストロース的な意味での「野生の思考」と言えそうである。
「栽培種化された思考」とは既成の分野をより高次なものへと進化させるための思考だといえる。
しかし「既成の分野」が行き詰ったときは、分野を横断して次なる飛躍をもたらすための「野生の思考」が有効である。
ぼくは「既成の芸術」を「行き詰っている」と捉える立場から、「芸術」と「芸術ではないもの」を結び付けるための「野生の思考」を試みているのだ。

しかし、ぼくは「野生の思考」に対して、まったく別の解釈もしている。
それはレヴィ=ストロースが示した「野生の思考」の意味から、逸脱した概念かもしれない。

そもそも「思考」というもの自体、野生動物と人間とを区別する指標となっている。
野生動物は「思考」しないし、だから「ブリコラージュ」もしない。
ブリコラージュとは人間ならではの行為であり、それはあくまで「思考」の一種なのである。
このような「文脈」で考える限り、「野生の思考」という概念は成り立たないように思える。

ところが、「非人称芸術」が「野生の芸術」だとすれば、それが生じる原因の「非人称の作用」こそが、「野生の思考」だと解釈できるのではないだろうか?
「野生の思考」を文字通り解釈すれば、それは人間の「思考」のコントロールから完全に離れた「野放しの思考」である。
「野放しの思考」は、実は「コントロールされた思考」の裏側に「不可避的に」発生する。
なぜなら、人間の「思考」は人間の行動の全てをコントロールすることはできないからである。

例えば、建物を改築して階段を撤去すると、結果として「非人称芸術」としての「高所ドア」が生じる。
この場合、階段を撤去したのが「思考」であり、「高所ドア」を生じさせたのが「野放しの思考」である。
階段を撤去した「思考」は、「高所ドア」を生じさせる「思考」をコントロール出来ず、そこに「野放しの思考」が生じている。

「野放しの思考」は、人が「思考」するところであれば、どこにでも発生しうるだろう。
例えば、「家」というのは「思考」の産物であるが、家と家との間の「空間の形」は、「思考」のコントロールの及ばない「野放しの思考」の産物だといえる。
実際に住宅がひしめく狭い路地というのは、実に味わい深い「空間の形」をしており、「非人称芸術」の一形態と解釈できる。
このように、「思考」と「野放しの思考」は表裏一体であり、「野生の芸術」としての「非人称芸術はどこにでも発生しうるのである。

というわけで、「非人称芸術」の工作面での生成原因を、「野生の思考」と区別して「野放しの思考」というふうに表現してみようというのが、今回の提案である。

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2009年7月13日 (月)

造花・園芸品種・野生植物

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実は前回の記事で書き忘れたのだが、レヴィ=ストロースは『野生の思考』で、芸術について以下のように書いている。(P.262)

>(前略)野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的良く保護されている領域がある。それが芸術の領域であって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、(後略)

つまり、そもそも「芸術」というもの自体が「野生の思考」の産物なのであり、工業製品のような「栽培種化された思考」の産物とは区別されるのだ。
しかし芸術を「非人称芸術」と対比させると、「芸術」という言葉の意味も、「野生の思考」という言葉の意味も、微妙に変わってくる。
それが、前回の記事でぼくが主張した「非人称芸術=野性の芸術」「普通の芸術=飼い慣らされた芸術」という対比のさせ方である。
簡単に言うと、工業製品に比べると芸術は「野性」なのであるが、芸術と比べると非人称芸術のほうがさらに「野生」なのである。

例え話で言うと、「工業製品=造花」、「芸術作品=園芸品種」、「非人称芸術=野生植物」、ということになる。
「造花」は人間の理性のみの産物なので、「工業製品」に例えられる(例えであって、同じという意味ではない。以下同じ)
「園芸品種」は自然物に対し人間の理性による手が加えられたもので、「芸術作品」に例えられる。
「野生植物」は人間の理性が一切関与せず、「非人称芸術」に例えられる。

精巧に作られた「造花」に対する賛美は、人間の「理性」に対する賛美であり、「工業製品」もまた同じである。
色鮮やかな「園芸植物」に対する賛美は、人間の「理性」に対する賛美と、「自然」への賛美が入り混じったものである。
神秘的な「野生植物」に対する賛美は、純粋な「自然」への賛美である。

以上のように考えると、「芸術」に対する賛美とは、「理性」に対する賛美と、「自然」に対する賛美とが入り混じったものだと言える。
その作品が、もし「理性」のみに対する賛美しか得られないとすれば、それはデザインやイラストであって「芸術」ではない。
「芸術」とは、人間の精神に潜む「自然」を「理性」によってコントロールした結果に生じるのだと言える。
だから「自然」のみで「理性」のコントロールの無い、知的障害者などが描いた作品は「アール・ブリュ(生の芸術)」と言われ、「芸術」とは区別される。
同じ理由で子供が描いた絵も、「芸術」には含まれない。
もちろん「野生植物」も、それがどれだけ芸術的な色彩や造形をしていても、「芸術」とは厳然と区別される。

「宗教」が力を失った近代では、「神への信仰」は「理性への信仰」と「自然への信仰」に解体されたが、近代以降の「芸術」はそのどちらをも含んでいる。
つまり近代的な「芸術至上主義」には、近代的な「人間至上主義」の概念が含まれている。

これに対し「非人称芸術」は、「芸術至上主義」を継承しながら、「人間至上主義」を否定する立場にある。
つまり「芸術至上主義」から「人間至上主義」を差し引くことで、文字通り「芸術至上主義」として純化しようとする立場である。
これは「野生の思考」としての芸術を、さらに「野生化」させる試みだとも言える。
もしくは、レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」を「園芸品種」に見立て、その外部に存在する「さらなる野生の思考」に目を向ける試みでもある。

芸術や工業製品との比較で、「非人称芸術」は「野生植物」に例えられるが、これはあくまで例えであり、実際には概念が異なっている。
「非人称芸術」は「理性」の関与しない「自然」の産物ではあるが、これはもちろん「野生植物」の「自然」とは意味が異なっている。
「非人称芸術」に見られる「自然」は、「人間至上主義」を否定する理性によって、人間活動のうちに見出される「自然」である。

果たしてそうした「自然観」、もしくは「芸術観」は成立し得るのか?
と言うことを、このブログでは追求してゆこうと思う。

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2009年7月12日 (日)

「野生の芸術」と「飼い慣らされた芸術」

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1:「野生の芸術」として街中に生じた「非人称芸術」は、実物を美術館に展示することは不可能である。

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2:そこで「非人称芸術」をフォトモに置き換ると、「飼いならされた芸術」として展示可能な形態となる。

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3:「飼いならされた芸術」としての作品が、「動物園の動物」のように並ぶ「金沢21世紀美術館」での個展会場。

レヴィ・ストロースは『野生の思考』(大橋保夫訳・みすず書房)で、

>私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昴めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。(p. 262)

と書いているが、ぼくの提唱する「非人称芸術」はまさに「野生の芸術」と言えるものである。
それに対する「栽培種化されたり家畜化された芸術」とは、美術館やギャラリーに展示されている、いわゆる普通の「芸術作品」である。
ここではさらに言いやすくするため「飼い慣らされた芸術」と表現しようと思う。

ぼくは昨年、「金沢21世紀美術館」で個展を行なったのだが、その際自分の展示会場を見て「まるで動物園のようだ」と思ってしまった。
それに対して、美術館の外の「金沢の街」には、まさしく「野生の芸術」としての「非人称芸術」がひしめいている。
「野生の芸術」とは「金沢の街」そのものであるから、それは原理的に美術館内に展示することはできない。
そこでぼくは「野生の芸術」を、フォトモやツギラマなどの「作品」の形態に置き換えることで、それらを美術館に展示できるよう「飼い慣らした」のである。

そう思うと、「金沢21世紀美術館全体」が、さらに巨大な「動物園」のようなものであることに、気付くのだった。
ぼくの個展の会期中は、ロン・ミュエク展と、美術館のコレクション展が開催中であったが、その展示作品はまるで動物園のゾウやキリンやライオンのように、大人しく人工的に仕切られた空間内に収まっている。
動物園というものは、ゾウやキリンやライオンなどの「野生動物」を、大人しく飼い慣らしたうえで、飼育展示されている。
美術館も同じようなもので、本来は「野生」として存在している芸術を、飼い慣らした上で展示しているのである。

ただ、動物と芸術が異なるのは、世間の常識では「野生の芸術」などという存在が、一切認められていない点である。
「ゾウやキリンやライオンは動物園にいるもの」と信じている子供のように、世間の常識では「芸術は美術館やギャラリーに展示してあるもの」と信じられている。
もしくは「芸術は芸術家が創るもの」と信じられている。
しかしぼくが見るところでは「本来の芸術」は。美術館やギャラリーはもちろん、芸術家の存在からも遠く離れた「野生の芸術」として広く存在する。
野生のゾウやキリンやライオンがアフリカのサバンナに生息しているように、「野生の芸術」は金沢の街にも、どこの街にも、普通に生息しているのである。

ぼくはどうも常識がねじくれてしまったので、「芸術」といえば「野生の芸術」であることが当たり前だと認識してしまっている。
そういう感覚で美術館や、ギャラリーや、アートフェアで作品を見ると、まるで「動物園で動物を見る」ような物足りなさを感じてしてしまう。
ぼくはアマチュア・ナチュラリストでもあるから、動物園で動物を見るより、自宅近所で野生の昆虫や植物を観察をしているほうが、よっぽど「本当の自然」が分かって楽しいと思う。
それと同じような感覚で、ぼくは「芸術」が見たいと思うときは、美術館やギャラリーには行かず、路上に「野生の芸術」の観察に行くのである。

いや、ぼくは美術館やギャラリーにまったく行かないわけではなく、そもそもぼく自身がそういう場所で何度も個展をしているのだから、その存在を否定しているわけではない。
ぼくにとっては、美術館も、ギャラリーも、マーケットも、芸術家も、それが何なのか分からないことだらけであって、分からないものは否定することもできない。
だからそのように「分からないもの」を知るためのコミュニケーション・ツールとして、美術館やギャラリーは自分にとって必要なのだ。

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2009年7月 6日 (月)

積極的に誤読する

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積極的に誤読する

ぼくなりの「バカのための読書術」を解説したすぐに忘れる読書術イキナリ応用しながら読むの続き。

読書をする場合「何のために読書するか」と言う動機が重要であり、それによって読書法は変わるだろう。
小谷野敦さんの『バカのための読書術』では、「自分がバカなのはわかっているが、しかし自分なりに知識や教養を身に付けたい」というような動機を持つ人を対象に書かれている。
確かにぼくにもそのような動機があるが、しかしぼくの主な動機は別なところにある。

ぼくが本を読む一番の目的は、「非人称芸術」やその上位概念の「鑑賞主義(仮)」とは何か?を知るためである。
しかし「非人称芸術」も「鑑賞主義(仮)」も、ぼくが適当に思いついた概念なので、それについて書かれた本はこの世に存在するはずもない。
ところが、いろいろな本を読んでいると「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について、断片的に書かれていることが「発見」出来るのである。
一見、そういうこととは無関係な記述のようでいて、しかし解釈の仕方によると、それは確かに「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」について書かれている。
そういう記述を探しながら、ぼくは読書をするのである。

ぼくが関係のない文章をそのように読めてしまうのは、ありていに言えば「勘違い」であり「誤読」である。
しかしそのように積極的に、あるいは意図的に「誤読」することで、自分なりのコンセプトを構築するのが、アーティストとしてのぼくの方法論なのである。

例えば、ぼくの作品集『フォトモの物件』の巻末テキストは、高田明典さんの『ポストモダン再入門』がベースになっている。
ぼくはこの『ポストモダン再入門』を、「非人称芸術とその可能性」について書かれた本であると、意図的に誤解しながら読み、そして自分が「分かった」つもりのことを「自分の考え」として書いたのである。
もちろん、『ポストモダン再入門』だけでなく、『今日の芸術』(岡本太郎)や『はじめての構造主義』(橋爪大三郎)や『現代思想の冒険』(竹田青嗣)など、これまでさまざまな本を「誤読して得られた知識」がこのテキストには盛り込まれている。

また、『フォトモの物件』の出版後に読んだ中島義道さんや、宮台真治さんや、内山節さんや、日高敏隆さんの本にも、「非人称芸術」や「鑑賞主義(仮)」についての非常に重要な記述が発見できる(気がする)。
そのように、自分のコンセプトに役立つ部分を拾い読みしながら、いろいろな分野の読書をするのである。
このような読書法もまた、「器用な素人」ならではの「ブリコラージュ」だと言えるだろう。

ただし前途したように、このような「ブリコラージュ」は「トンデモ理論」と紙一重の危険性がある。
方法論としての「積極的誤読」は、「ノストラダムスの大予言」や、雑誌「ムー」や、「オウム真理教」などの「トンデモ理論」の常套手段でもあるのだ。
しかし「ブリコラージュ」は必ずしも「トンデモ理論」になるわけではない。
両者の違いは、ブリコラージュが「機能する」のに対し、トンデモ理論が「機能しない」点にあり、これはかなり大きい相違点だ。

「ブリコラージュ」という言葉の本来の意味は、「既製品の断片を組み合わせ、新たな機能を持つ道具を作ること」というようなことである。
つまりどんなに凝った工作をしたところで、実際に「機能」しなければそれは単なるガラクタであり、「ブリコラージュ」とは言えない。
そして現代思想の分野では「ブリコラージュ」という言葉が拡大解釈され、「既成概念の断片を組み合わせ、新たな有用性を持つ概念を生み出すこと」という意味で使われている。
有用性=機能であるから、何の有用性も機能もない概念はガラクタであり「トンデモ理論」である。
例えば、1999年7月になっても世界は滅亡することはなく、だから「ノストラダムスの大予言」は「トンデモ理論」なのである。
または「水だけを燃料に走る自動車」や、「スピリチアル」なども、実際の機能がないから「トンデモ理論」である。

しかし逆に考えれば、いかに粗雑に組み立てられた理論であっても、それが何らかの機能をもたらすのであれば、それは「トンデモ理論」とは異なる「ブリコラージュ」だということになる。
そして事実、ぼくの提唱する「非人称芸術」は、「フォトモ」や「ツギラマ」などの作品を生み出す「機能」に結び付いている。
また、ぼくは普通の人が退屈でつまらないと思っている日常世界を、「新鮮で驚異に満ちた世界」として楽しむワザを身に付けているのだが、これも「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」である。

しかし厳密に考えると、「非人称芸術」の概念がもたらした「機能」は、どれもぼく自身の主観的経験でしかなく、従って客観的な証明ができない。
ぼく自身は、フォトモやツギラマなどの作品を「非人称芸術」のコンセプトと不可分に結び付いていると捉えている。
しかし実際は、「非人称芸術」のコンセプトを理解していないワークショップの生徒でも、フォトモやツギラマの「なかなか良い作品」を作ることが出来るのだ。
だから方法論的に自分にイジワルく考えると、「非人称芸術」は実は何の機能もない「トンデモ理論」であり、フォトモやツギラマ作品が良い理由はまったく別のところにある、という可能性もある。

しかし闇雲に自分を疑ってばかりいても、何も前には進まない。
自分に対する疑いを頭の隅に置きながら、当面は「非人称芸術」の有効性を信じ、さらに「鑑賞主義(仮)」としての可能性を追求して行くしかないだろう。
もし、「非人称芸術」のコンセプトに「本当の有効性」があるのなら、ぼくよりもっと頭の良い専門化がそれを証明してくれるかもしれない。
その反対に「非人称芸術」が「トンデモ理論」だとすれば、やはりそれも誰か頭のいい人が指摘してくれるに違いない。
それまでぼくは勝手な方法で読書して、勝手なことを書き散らすのみである。

(写真は本文と関係ありません RICOH GR DIGITAL Ⅲ)

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イキナリ応用しながら読む

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すぐに忘れる読書術」の続き。

ぼくはとにかく「単純記憶」が苦手で、そういう意味での「知識」を身に付ける事がなかなかできない。
そのかわり、自分が心底「分かった」と思えることを中心に覚えようと努力している。
ぼくの場合「分かる」ことは、ある概念を知識として記憶することではなく、その概念を「応用して使える」ということである。
つまり本に書かれていた概念を、自分の身の回りの具体的事例に当てはめて考えることが出来たり、本の説明とは異なる自分なりの言葉に置き換えて説明できれば、それが「分かった」ことになる。

以前の記事にも書いたことがあるのだが、ぼくはこのブログに本の感想を書く場合、書かれていた文をそのまま書き写すのではなく、なるべく自分の言葉や事例に置き換えながら書くことにしている。
だからぼくのブログの本の要約を書いているような箇所でも、実は本に書かれていない、まるっきり違うこと書かれていることが多い。

例えば、以前の記事で『バカのための読書術』(小谷野敦/洋泉社新書)を紹介した際に、

>「歴史」というものは、地域、文化、分野、文脈が異なるさまざまな出来事を「時間」という「同じ基準」で一括整理する働きを持つ。
>つまり「歴史」には、さまざまな学問分野に対して「知識の整理箱」としての機能があるのだ。

と言う文を書いたが、実はこの表現はもとの『バカのための読書術』に書かれていない、ぼくが適当にデッチ上げた「例え話」である。
実際には小谷野敦さんは「歴史は諸学問の中核である」と書いていたのだが、この教えをそのままの言葉として記憶することは難しい。
そこで自分なりに「歴史は知識の整理箱である」と言う例え話に置き換えてやっと「分かった」のである。
ちなみに「知識の整理箱」と言う概念は、もとは高田明典さんの『難解な本を読む技術』に書いてあった、

>棚見では、自分の頭の中に「知識の容器」を作ることを目的としています。知識の容器とは、たとえるなら弁当箱のようです。(P.38)

と言うことの応用だったりする。
ぼくはそのようにさまざまな概念を応用しながら理解し、そのように理解したことだけは何とか覚えられる。

また、「難解な本を読む技術」の記事で、ぼくが「同化読み」について解説した以下の文、

>「入門書」とは「天井知らずの頭のいい人」が地上(常識)世界に下りてきて、地上に何らかの変革をもたらすためのものだと解釈できる。
>なぜならいかに「天井知らずの頭のいい人」であっても、結局は地上(常識)世界に根ざして生活している限り、やはり「普通の人」と同じように「地上世界のよりよい変革」を望んでいるのだ。

これも元の本に書かれた言葉ではなく、同じく高田明典さんの『世界をよくする現代思想』などに書かれていることを、自分なりの言葉に置き換えて書いたものである。
元の文はほとんど覚えてないが、自分の言葉で適用に書くことが出来れば、その概念を「覚えている」と言えるのではないか。

実は、このような「応用」は読書法として「高等テクニック」なのだと高田明典さんの本には書かれている。
しかしぼくの場合は、基礎(正確な記憶と理解)が圧倒的に不足しているから、学問的な「高等テクニック」には程遠い。
本来は、基礎の上に応用があるのであり、しかしぼくは基礎を飛ばして「イキナリ応用」しながらの読書なのである。
これはつまり、専門家とは異なる「器用な素人」ならではの「ブリコラージュ(断片の切り貼り)」なのだ。

ブリコラージュについてはこのブログに何度か書いたのだが、自分はどう考えても専門家になれるはずがなく、だから「やっぱりブリコラージュで行こう!」とあらためて誓った次第である。
ブリコラージュの欠点は、一歩間違えると「トンデモ理論」になることだが、これについては次回に述べてみようと思う。

(*写真は本文と関係ありません OLYMPUS E-3 KIRON 105mm F2.8 Macro)

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2009年7月 5日 (日)

すぐに忘れる読書術

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ぼくはこれまでずっと、自己流のデタラメな読書をしていたように思う。
しかしいろんな本を読んでいるうち、ちゃんとしたことを書くには、ちゃんとした読書法(勉強方)を身に付ける必要があることが分かってきた。
ところが、ぼくはもともとそれほど頭がよいわけではなく、しかもすっかり頭の固いオヤジになってしまったので、今更ちゃんとしたかたちで学問に取り組むことは不可能だ。
だからやっぱり腹を据えて、これまでの「我流」をやり通すしかない。
バカにはそれぞれの「バカ」に見合った読書法が必要で、それは自分なりに開発するしかない。
と言うわけで、誰かの参考になればと言うより、自分の考えの整理のために自分の読書法について書いてみようと思うのだが、長くなってしまったので3回に分けて投稿することにする。

「記憶力がないので何度でも楽しめる」とは土岐小百合さんの「TOKIのことば」のひとつだのだが、ぼくはとにかく物覚えが悪く、自分でも驚くほどだ。
例えば最近、ブログ記事を書くために部屋の本棚にあった小谷野敦さんの『バカのための読書術』を再読してみたのだが、まるで初めて読む本のように楽しく読めてしまった。
この本は数年前に自分で買って読んだはずなのだが、あきれたことに内容の記憶がほぼゼロだったのである。
これに続いて読んだ小浜逸郎さんの『頭はよくならない』も、数年前に買ったものの再読なのだが、こちらはけっこう影響を受けただけあって、大筋は覚えていた。
しかし細かい箇所ではいろいろな「発見」があり、それだけ記憶を失っていたのだ。

忘れっぽい人はノートをとりながら読めばいい、と言うことでそれを実行したこともあった。
しかしあとで自分のノートを読み返しても、何がどういうつもりで書かれたのかが分からなかったりしてしまう。
ぼくは自分で書いたブログの文章も、書いた端から忘れてしまう。
たまに読み返すと、「自分は案外いいこと言ってるな」と思ったりするが、実のところそれを書いた記憶自そのものがないのだ。
また、自分がこれからブログに書こうと思ってたことが、もうすでに自分のブログに書かれていることもある。

何が言いたいのかと言うと、記憶力のない人は、そのこと自体を楽しめばいいということである。
「発見」とは、あくまで「現在の自分」にとっての発見なのだから、発見をその都度忘れてしまえば何度でも「発見」が楽しめる。
いや少なくとも、自分に記憶力がないことを自覚していれば、それを他人に指摘されて意固地になって「バカをこじらせる」ことは防ぐことは出来るだろう。

まぁしかし、これだけでは「読書法」としてはあまりにオチャラケてるので、次回はもうちょっとマシなことを書いてみようと思う。

(*写真と本文は関係ありません RICOH CX1)

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2009年7月 4日 (土)

難解な本を読む技術

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つい最近、高田明典さんの『難解な本を読む技術』(光文社新書)を読んだ。
この本で取り上げられる「難解な本」とは、ラカン、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ、ジシェク・・・のような、哲学や現代思想の専門書を指している。
しかしぼくは、このような「難解な本」を読めるようになるために、この『難解な本を読む技術』を買ったわけではない。
「難解な本」を読むにはまずそれ相応の「頭のよさ」が必要で、ぼくのような「バカ」はたとえ読み方の技術を教わったところで、どうにかなるはずもない。

ではどうしてこの本を読もうと思ったのかというと、それは「頭のいい人」とはどういう人なのか?を知りたいと思ったからである。
頭はよくならない」というブログ記事に書いたとおり、「バカな自分」と「頭がいい人」とはどれだけの差があるのか?をより具体的に知ることは、限られた能力を最大限に生かすために必要なことだといえる。
別な言い方をすれば、自分には「何ができないか」を把握すれば、自分にとっての「できること」や「すべきこと」がより明確になるのである。
また、この本はぼくのような「バカ」が、やさしく書かれた「入門書」を読むための技術としても、応用可能だろう(もとよりこの本自体が入門書である)。

■「同化読み」

さて、この『難解な本を読む技術』では、本の読み方を「同化読み」と「批判読み」の二通りに分けている。
「同化読み」とは、その著者の頭になって、その著者が考えるように「読む」という方法である。
哲学や現代思想の本には、世間の常識や人々の持つ先入観とは、「かけ離れた」概念が提示されている。
だからそういう本を理解するには、自分の持つ常識や感性を「カッコに入れる」、もしくは「棚に上げる」ようにしながら読む必要がある。
もちろん、著者と自分の頭が完全に「同化」することはありえないが、「同化」するつもりでそれを目指すのが「同化読み」である

しかしそう考えると、ぼくは「同化読み」がほとんどできないことに思い当たる。
難解な専門書は言うに及ばず、やさしく書かれた「入門書」でさえ、ぼくは「同化読み」はほとんどできないのではないかと思う。
具体的にどういうことなのかというと、ぼくは自分が「分からない」本は全然読めないのである。
「分からない」とは、自分には当面役に立ちそうに無い、自分とは無関係な概念ということである。
ぼくはこうした概念についていくら親切に判りやすく説明されても「読めない」し「分からない」のだ。

自分に無関係の概念であっても、「自分の常識」をカッコに入れながら読めば、書かれた内容を「知識」として理解することはできるだろう。
しかしぼくにはどうしてもそれが出来なくて、例えば中島義道さんの本は好きでも「時間論」についての記述はどうしても分からないし、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』は多くの人が「入門書に最適」と勧めてるにもかかわらず、どうしても読み進めることが出来ない。
ぼくはどうしても自分の「常識」に沿ってしか読むことが出来ず、それだけ「異なる世界」に触れる可能性に閉じられてしまっている。
入門書からの「雑学」レベルであっても、「同化読み」ができる人は広い分野にわたって知識を蓄えることができ、いわゆる「博学」タイプなのだろうと思う。
逆にぼくは、どうしても自分の興味に偏った「オタク」タイプになってしまうのかもしれない。

もちろん、ぼくは自分の常識に固執するわけではなく、むしろ積極的にそれを変えたいと思っている。
しかし「まるっきり異なる常識」を、丸ごと理解することだけはどうしてもできない。
だから自分の常識の延長で書かれていながら、その常識の「部分変更」を促すような本を求めているわけで、それが「入門書」なのだ。
「入門書」とは「天井知らずの頭のいい人」が地上(常識)世界に下りてきて、地上に何らかの変革をもたらすためのものだと解釈できる。
なぜならいかに「天井知らずの頭のいい人」であっても、結局は地上(常識)世界に根ざして生活している限り、やはり「普通の人」と同じように「地上世界のよりよい変革」を望んでいるのだ。

■「批判読み」

「同化読み」に対する「批判読み」は、その本の「間違い」や「不足」などを批判しながら読むということである。
しかし学問の初心者がイキナリ「批判読み」をしようとしても、その「批判」が妥当なものなのか、それとも「初心者ならではの認識不足」なのかの判断が付きにくい。
だからまず「同化読み」をある程度マスターしてから、「批判読み」を始める事を薦めている。
そもそも、思想や哲学上の新しい知見は、既成の書物の「批判」から始まるわけで、その意味でも「批判読み」は相当に高度な読書法だといえる。
もちろんぼくは、先に述べたように「同化読み」のレベルに達することはできないから、本当の意味での「批判読み」も不可能である。

しかし「入門書」レベルの場合、「バカ」である自分にとっても批判的に読める本というのはあり、そういう「批判読み」は一概に否定されないだろうとは思う。
ただその場合に避けたいのは、「自分の常識」に固執した立場で、本の内容を批判することで、これはいかにも安直である。
例え「入門書」であっても、哲学や思想の本を読むのは「自分の常識」を少しでも変えることが目的なのだとすれば、単に意固地なだけの批判をしても意味がない。
だからバカのための「批判読み」とは、「自分のバカな常識を批判しながら読む」ことだといえるかもしれない。
いや、それだと「批判読み」の意味からズレるかもしれないが・・・(笑)

■「読書ノート」をとりながらの「詳細読み」

「難解な本」は「頭のいい人」にとっても1回読んだだけでその内容を把握するのは困難で、場合によっては難解も繰り返し読む必要がある。
そのための効率の良い読書法として「通読」と「詳細読み」の2段階に分ける方法が紹介されている。
まずはじめに、本の構成や趣旨を把握する目的で「通読」をし、二度目から部分的にきっちり理解するための「詳細読み」をする。
また「通読」の場合も、「詳細読み」の場合も、「読書ノート」をとりながら読む。
まず「通読」しながら「読書ノート」を大雑把な項目に分け、次に「詳細読み」する際にさらに詳しい理解を書き加えてゆく。
そのように、いかに「頭のいい人」であっても「難解な本」ともなれば実に丁寧に取り組まなければ理解不可能であり、そのこと自体に恐れ入ってしまう。

実は、ぼくもノートをとりながら本を読んでいたこともあり、抽象的な概念を図に置き換えながら理解しようとしたこともあった。
学校の勉強がそうであったように、何事かをきちんと勉強して理解するにはノートをとるのは当たり前だと言える。
しかし、ぼくの場合はただでさえ本を読むのが遅く、その上何度も読んだりノートをとったりすればさらに時間がかかるだろう。
ノートをとることは確かに有効だが、それができない場合は「それができない自分」のバカさ加減を自覚しなければならない。

■本の「棚見」

この本では、「本を読む準備」として、自分が読むべき本を選ぶための「棚見」を勧めている。
「棚見」とは書店で本の並んでいる棚を見ることである。
書店の棚に並ぶ本のタイトルだけをぼうっと眺めてるだけでも、世の中にはどんな学問があって、その学問がどのような分野に分かれているのかが分かってくる。
そうした「棚見」を習慣化して繰り返せば、やがて学問全体の構成が把握できるようになり、そうなると自分が読むべき本もだんだん分かってくる。
この本では「読書は本選びから始まる」と書かれており、その出発点が「棚見」なのだ。

実のところ、ぼくはこれまで本選びのために「棚見」を積極的にしてこなかった。
ぼくの本選びは、自分の気に入った著者の本を続けて買うか(高田明典さんもその一人)、入門書の巻末に記された「お勧めの本」を参考にしている。
この方法はそれなりに有効なのだろうが、しかし本選びの方法としては偏っている。
「棚見」の利点は何よりも「全体が見渡せる」点だろうと思う。
例え自分の興味のある分野でなくとも、本や全体にどんな本が並んでいるかを「棚見」をすることは、「本の並びを通して、世の中を知る」事になり、自分の「立ち位置」の把握にも役立つかもしれない。
などともっともらしいことを言いながら、ぼく自身は「棚見」をぜんぜんマスターしてないのだが・・・

『難解な本を読む技術』には、他にもいろいろな読書テクニックが書かれており、それは「バカのための読書術」にも応用可能だと思う。
ともかく、ぼくは自分に「出来ないこと」を自覚しつつ、そろそろ自分ならではの「読書に臨む姿勢」を決めなくてはならない。

(写真と本文は関係ありません RICOH CX1)

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2009年7月 2日 (木)

バカのための読書術

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前回の記事「頭はよくならない」では、「ちゃんと勉強したかったら、まずは自分の頭の程度を把握したほうがいい」というようなことを書いた。
とすると、ぼくのような「頭のよくない」人間は、いったいどういう勉強をすればいいのか?
などと思っていたら、『バカのための読書術』(小谷野敦/洋泉社新書)というおあつらえの本を見つけた。

この本でいう「バカ」とは、「哲学とか数学などの抽象的なことを理解するのが苦手」というようなごく一般的な人を指している。
そして「自分がバカなのは分かっているけど、しかし何か本を読んで勉強をしたい」と思っているような(この意味では単なる「バカ」ではない)読者を想定している。
そういう人に対し小谷野さんは、まずは「歴史」の本を読むのがいいと勧めている。
抽象的なことが苦手な人でも、歴史を「おもしろい物語」として理解し学ぶことは可能であり、それはその人の「知的バックボーン」として非常に有力な武器になる、というのだ。

実をいうとぼく自身は、小学校時代は五科目のうち「社会」がもっとも苦手で「歴史」にも興味が持てず、中学高校と進学した際にも「日本史」と「世界史」ともきちんと学び損ねてしまった。
そうすると、自分が大人になってから興味を持って勉強した「哲学」や「思想」などについても、必然的に覚えが悪くなってしまう。
なぜなら哲学や思想は「哲学史」や「思想史」としての流れで把握する必要があり、基本的な「歴史」の知識が欠如していると、知識がどうしても断片化してしまうのだ。
「美術史」だって、その他の歴史の流れをきちんと抑えているのといないのとでは、理解の程度が違ってくるだろう。

「歴史」というものは、地域、文化、分野、文脈が異なるさまざまな出来事を「時間」という「同じ基準」で一括整理する働きを持つ。
つまり「歴史」には、さまざまな学問分野に対して「知識の整理箱」としての機能があるのだ。
それをして小谷野さんは「歴史は諸学問の中核だ」と表現している。

しかも「歴史」はそのような重要性を持つにもかかわらず、諸学問の中では最も「敷居が低い」のが特徴だ。
哲学や数学は、日常的な感覚を改変したり破壊したり、妙な頭のひねり方をしなければ理解できず、これは一種の特殊能力である。
しかし、「歴史」というのは「おもしろい物語」というかたちの「日常感覚の延長」で理解可能であり、特に頭をひねったりする必要がない。
また、歴史的知識は積み重ねで覚えればいいだけだから、その気になればいつからでも(年をとってからでも)はじめることができる。

小谷野さんは、歴史はまずは「概略」を知ればいいのであって、そのためには難しい専門書や、つまらなくて興味の持てない本は読む必要はなく、歴史小説や歴史マンガから始めれば十分だ、というように書いている。
特に現代の「若い世代」は、教育の弊害その他のせいで、「歴史」についての基礎知識を驚くほど欠いている者が多い。
だから「歴史」をほんのちょっと勉強するだけでも、それは自分にとってかなり大きな武器になるはずなのだ。
例えば、テレビに出てるような「文化人」が歴史についてウソや間違いを言っているのが分かれば、その人の「インチキ度合い」を見抜くこともできるかもしれない。

ぼくはこの『バカのための読書術』を数年前に読み、さっそく「歴史年表」を買ったのだが、A4サイズで持ち歩きがいまひとつ不便で、そういえば本棚で眠ったままだ。
そういう具合にぼくはまだ「歴史」の勉強をちゃんと始めてないから、そろそろどうにかしなくてはいけない。

もちろんこの本には「歴史」以外のさまざまな分野についての読書術(勉強法)も、なかなかユニークな切り口で分かりやすく解説されている。
とは言え、この本の「読書術」が全てそのまま自分の勉強法に使えるとは限らない。
一口で「バカ」と言ってもいろんな種類のバカがいるだろうし、バカなりに勉強する目的も人それぞれのはずだから、いろいろな読書術を参考にしながらも、結局は自分に適した「バカのための読書術」を開発しなければならないだろう。

(*写真は本文と関係ありません)

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2009年7月 1日 (水)

頭はよくならない

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『頭はよくならない』(ちくま新書)は、小浜逸郎さんの著書だが、ぼくはこの本を数年前に読み結構衝撃を受けてしまった。
ぼくはこの本を読むまでは、「学校の勉強ができる人は、かえって頭が悪いのだ」という、今から考えると勝手なトンデモ理論を信じていた。
そういうぼくは当然のことながら学校の勉強ができない子供で、高校は今で言うDQN校クラスであり、だから勉強ができないことが問題視されない「美大」に進学した。

ところが美大卒業後に生物をはじめとする自然科学や、構造主義をはじめとする現代思想に興味が出てきて、入門書を何冊か読んで勉強すると、これが面白い。
「勉強はつまらないもの」と思い込んでいたぼくは、これはヘンだな?と思い、あるとき高校の「生物」の教科書の内容を確認してみた。
するとそこには、覚えても何の役にも立ちそうのない、つまらないことばかりが書いてあり、驚いてしまったのだ。

勉強が面白いのは、それが何らかの意味で自分に役立つことが実感できるから「面白い」と感じるのである。
逆につまらない勉強は、何の役にも立たないものであり、だから「学校の勉強」とは「学問の死体」だと思った。
そうしたつまらない勉強に、子供時代のぼくが興味がもてなかったのは、むしろ自然で健全なことである。
そして「学校の勉強のできる子」というのは、つまらなくて無駄な勉強に「何の疑問も無く」取り組んでいるのであって、そういうのはかえって「頭が悪い」のだ。
「本当に頭のいい子」というのは「本当の勉強」によって力が発揮されるのであり、「学問の死体」であるところの「学校の成績」は頭のよさを計る基準にはなり得ない。

地下鉄サリン事件を起こす直前の「オウム真理教」は、「学校の教科書にはウソしか書いていない」と言っていたが、これだけは本当だと思っていた。
そして「ウソの教科書」の内容を信じて良い成績を取るような「頭の悪い人」だからこそ、オウム真理教が撒き散らす「ウソ」にもまた騙されてしまうのだ、と思っていた。
いや、オウム信者のエリートに限らず、むしろオウムを攻撃する世間の人々に対して、ぼくはそのように思っていた。

まぁしかし、そのように自称「頭のいい人」のぼく自身は、一時期入門書を中心に何冊か本を読んで勉強したものの、その後数年間ほとんど読書をしてなかったりして、客観的にはとてもじゃないが「頭がいい」でも「勉強熱心」でもなかったのだが・・・

しかし、この『頭がよくならない』という本には、「学校の成績が良い子は、結局は普通の意味でも頭が良いのだ」というふうに書いてある。
これは言われてみれば当たり前のことで、本当に頭のいい子は、勉強の内容がつまらなかろうが、役に立たなかろうか、「頭の良さ」の余力で難なくこなしてしまうのだ。
そして自分は「頭が悪い」からこそ、学校の勉強の「つまらない」「意味が無い」ということに、簡単に躓いてしまったのだ。

それと小浜さんが言うには、「学校の勉強をこなす能力」と「大人になって社会を渡ってゆく能力」とは、同一とはいえないまでもかなりの程度の相関関係があるそうだ。
これは小浜さん自身が高学歴で、同じ高学歴出身者の哲学者や思想家などと交流があり、塾講師の経験もあったりするので説得力がある。
ぼくは普通の意味で「頭が悪い」から、学校卒業後に自主的に勉強を始めても「それなり」にしかなっていないのだ。

またこの本には、人の頭には生まれながらの良し悪しがあって、「頭の悪い子」は努力や訓練や特殊な医療?で「頭の良い子」にはなったりしない、というようにも書いてある。
これも小浜さんの塾講師の経験など引き合いに出して説明されているから、説得力がある。
そして必要なことは、まずは自分の「頭の程度」を自覚し、自分に見合ったレベルに即し、最大限に能力を伸ばすことである。
それなのに、「どんな子もやればできる」とか、「頭のよさは学校の勉強では計れない」とか、などといってごまかすと、「バカ」はますます「バカ」をこじらせてしまいかねない。

つまり「健全なあきらめの精神」を持つことは、どの分野であれ、自分の能力を伸ばすためには必要なことなのである。
例えば、自分がイケメンではなく、それが努力や整形で解決できない問題だと健全にあきらめられれば、「顔」にこだわらずに「総合的な人格形成」を目指すことができるだろう。
ところが「顔がいい」とか「頭がいい」という価値観をルサンチマン的に否定してしまうと、結局は本来伸びるはずの自分の能力を殺してしまうことになる。
結局のところ「勉強の成績の良い子は、かえって頭が悪い」というのはぼくのルサンチマンが生み出した誤解でしかなく、そのせいでぼくは自分の能力を見誤り、世間での自分の「立ち位置」を見失っていたのだ。

ということの反省が、前回の記事「トンデモ理論のイタイ人」なのである。
ただしもちろん、なんにでも例外というものがあり、高学歴者やインテリにも「頭の良くない人」はいる。
事実、ぼくがこれまでに最も腹を立てた「バカ」の一人は、東大出身者の某美術館スタあqwせdrftgyふじこ

(*写真は記事内容と無関係です。)

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