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2009年7月13日 (月)

造花・園芸品種・野生植物

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実は前回の記事で書き忘れたのだが、レヴィ=ストロースは『野生の思考』で、芸術について以下のように書いている。(P.262)

>(前略)野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的良く保護されている領域がある。それが芸術の領域であって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、(後略)

つまり、そもそも「芸術」というもの自体が「野生の思考」の産物なのであり、工業製品のような「栽培種化された思考」の産物とは区別されるのだ。
しかし芸術を「非人称芸術」と対比させると、「芸術」という言葉の意味も、「野生の思考」という言葉の意味も、微妙に変わってくる。
それが、前回の記事でぼくが主張した「非人称芸術=野性の芸術」「普通の芸術=飼い慣らされた芸術」という対比のさせ方である。
簡単に言うと、工業製品に比べると芸術は「野性」なのであるが、芸術と比べると非人称芸術のほうがさらに「野生」なのである。

例え話で言うと、「工業製品=造花」、「芸術作品=園芸品種」、「非人称芸術=野生植物」、ということになる。
「造花」は人間の理性のみの産物なので、「工業製品」に例えられる(例えであって、同じという意味ではない。以下同じ)
「園芸品種」は自然物に対し人間の理性による手が加えられたもので、「芸術作品」に例えられる。
「野生植物」は人間の理性が一切関与せず、「非人称芸術」に例えられる。

精巧に作られた「造花」に対する賛美は、人間の「理性」に対する賛美であり、「工業製品」もまた同じである。
色鮮やかな「園芸植物」に対する賛美は、人間の「理性」に対する賛美と、「自然」への賛美が入り混じったものである。
神秘的な「野生植物」に対する賛美は、純粋な「自然」への賛美である。

以上のように考えると、「芸術」に対する賛美とは、「理性」に対する賛美と、「自然」に対する賛美とが入り混じったものだと言える。
その作品が、もし「理性」のみに対する賛美しか得られないとすれば、それはデザインやイラストであって「芸術」ではない。
「芸術」とは、人間の精神に潜む「自然」を「理性」によってコントロールした結果に生じるのだと言える。
だから「自然」のみで「理性」のコントロールの無い、知的障害者などが描いた作品は「アール・ブリュ(生の芸術)」と言われ、「芸術」とは区別される。
同じ理由で子供が描いた絵も、「芸術」には含まれない。
もちろん「野生植物」も、それがどれだけ芸術的な色彩や造形をしていても、「芸術」とは厳然と区別される。

「宗教」が力を失った近代では、「神への信仰」は「理性への信仰」と「自然への信仰」に解体されたが、近代以降の「芸術」はそのどちらをも含んでいる。
つまり近代的な「芸術至上主義」には、近代的な「人間至上主義」の概念が含まれている。

これに対し「非人称芸術」は、「芸術至上主義」を継承しながら、「人間至上主義」を否定する立場にある。
つまり「芸術至上主義」から「人間至上主義」を差し引くことで、文字通り「芸術至上主義」として純化しようとする立場である。
これは「野生の思考」としての芸術を、さらに「野生化」させる試みだとも言える。
もしくは、レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」を「園芸品種」に見立て、その外部に存在する「さらなる野生の思考」に目を向ける試みでもある。

芸術や工業製品との比較で、「非人称芸術」は「野生植物」に例えられるが、これはあくまで例えであり、実際には概念が異なっている。
「非人称芸術」は「理性」の関与しない「自然」の産物ではあるが、これはもちろん「野生植物」の「自然」とは意味が異なっている。
「非人称芸術」に見られる「自然」は、「人間至上主義」を否定する理性によって、人間活動のうちに見出される「自然」である。

果たしてそうした「自然観」、もしくは「芸術観」は成立し得るのか?
と言うことを、このブログでは追求してゆこうと思う。

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